月闇の扉

瑞原チヒロ

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第二章 誰がための罪。

19 傭兵の町

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 ざあざあと降る雨が、個性的な石造りの家々を濡らし、その表情に陰をもたらす。
 少し見渡しただけで道は多い。しかしどの道もゆるやかに湾曲し、その先が見えない。
 まして家と家の間にある空間には、未知としか言いようがない圧迫感があって、その奥を覗く気になれない。
 ――細い糸のような目をした青年は、そんな未知なる道のひとつからのそりと姿を現した。
 シグリィがラナーニャをかばうようにして立つ。警戒心を態度に出したシグリィたちを気にした様子もなく、糸目――もしくは狐目?――はじっくりラナーニャとシグリィを眺める。
 不愉快そうにも、愉快そうにも見える、不思議な表情をしていた。
「まあ、大人しくしていそうな客人じゃないとは聞いていたけどね。あっさり宿を出たんだねえ」
「……本気で宿に留まらせたいのなら、もっとやる気のある人間を雇うことをおすすめします」
 シグリィが真顔でそう告げると、狐目の青年は声を上げて笑った。嘲笑ではない、心から楽しそうな笑い声だ。
「――いや失礼。そうだね、ごもっともだ。でも仕方なかったんだよねえ、今回はそもそも引き受けてくれる人があの宿しかなかった」
「それは要するに」
 雨の音が強くなる。けれどシグリィの声も相手の声も、雨に負ける様子はない。
「ちゃんとした人物を雇うだけの資金がなかった、という話ですか」
「おや。これはずいぶんと察しのよいお客人だ」
「サモラでは何事もお金で決まると聞いていますから。ついでに言えば、我々のためにそこまでの金をかけていられない――という話でもあるんでしょうね」
 淡々とシグリィの言葉は続いていく。狐目の青年がにやにやと続きを待っている。肯定も否定もない、そのことがラナーニャにはひどく居心地が悪い。
「ちょっとした時間稼ぎになれば良かった、程度ですか? とりあえず、私たち二人に関しては」
「……」
「セレンだけは別だ。彼女のことは、何としても足止めしたかったんでしょう。それでこの騒ぎですか」
「騒ぎになっちゃったのは、君らの連れの女性のせいだよ。俺たちじゃない」
 青年は大仰に肩をすくめる。「俺たちは温厚なんだよ。大人しくしていてくれれば、紳士的にお相手させていただいたのに」
「紳士的に、ですか。――武装したこの傭兵の町で?」
 雨に濡れていた空気が、ひやりと一段階冷たくなる。
 よく通る二人の声は、闇の底にたまるこの町の不穏な部分を抉り出そうとしている。
 青年がその口元に、ふ、と小さく笑みを刻む。
「……この町のことを、ずいぶんよく知っているお客人だねえ」
 爆発音が再び聞こえた。今度は、近い。
 ガラガラと何かが崩れる音が、はっきりと分かる。おやまあ、と狐目の青年が身を縮める。
「そこら辺の家を破壊してまで抵抗するか。困ったお客人だなあ」
「人が住んでいる家は壊していないはずです。彼女はそんなに愚かじゃない」
「立派な町の破壊だよ。町を壊されちゃ俺らも困る。それなりに」
「サモラは近々町を作り直すという噂を聞いたことがありますよ」
 ちょうどいいじゃないですか、とシグリィが悪びれなく言うと、青年も面白そうに笑みを深くした。
「――君みたいな子は大好きだよ。どうしようもなく自分勝手で、自由だ」
「あなたは――」
「ユードはクルッカの森へ行った。後を追うなら好きにしなよ。追う方法があるのなら、だけど」
 言いながら青年は雨の中、ゆっくりこちらに近づいてくる。
 シグリィの背中で、ラナーニャは緊張に身を固くした。敵意はない――分かるからこそ、青年の顔に張りついた笑みがあまりにも不気味だった。
 けれど、間近に来るより前に、青年は足を止めた。
「まあ、君らはちゃんと後を追えるんだろう? セレンって言ったか、あの女の能力はユードも危険視していたし、君ら自身も俺たちが思っていたより強そうだ」
 青年の片手が動く。何かを放り投げたようだ。
 空中できらりときらめいたそれは、シグリィの手元に狂いなく落ちた。
「本当は君らをとめろと言われていたけれど、やめにした。好きにするといい、責任を負わない自由な旅人風情が何をできるのか証明してみせろ」
 その瞬間の、青年の目は――
 ぞっとするほど深く暗い瞳を、薄く覗かせて。
 手元に届いた何かを見つめていたシグリィは、やがて顔を上げた。少し距離の近くなった青年を見つめ、雨音の隙間におどけたような声をくぐらす。
「……あいにくですけど、あなたの期待を背負う余裕はないですね。自分勝手な人間というのは、常に自分のことで手がいっぱいなんです」
 青年はケタケタ笑った。馬鹿にしているような声だったけれど、何故か今までで一番正直な顔に見えた。
 ――俺の名はゴーシュ、と青年は心底満足そうに。
「お困りのときにはいつでもどうぞ。必要なものさえ出してもらえれば、花を白くも黒くも咲かせてみせましょう――ま、俺がその気になればね」

*****

 セレンの魔術の中心点は無人の住宅街で、すでにがれきが積み上がりつつあった。
 そこにたどり着いたとき、ラナーニャの呼吸はすでに上がりかけていた。走ってきたから、ではない。町を包む異様な緊張感が、彼女の精神を確実に煽り立てていたのだ。
 ――戦いの気配。
 雨が音を立てて降る。視界が曇り、家屋であった石を叩いて滴をさらに跳ね飛ばす。
 その滴が目にまで届き、思わず目を閉じかけたそのとき、
「ラナ!」
 斜め前にいたシグリィが身をひねり右手をふるった。
 その手から鋼糸が閃き、ぐあ、とラナーニャの背後からうめき声が聞こえた。ラナーニャは慌てて体ごと振り返った。剣を高く振りかざしていた屈強の男ががくがくと震え、獲物を取り落とした。
 ガランガランと剣が鈍い音を立てる。男は利き腕を押さえて悶絶する。しかしその姿に構っている余裕はなかった。息つく間もなくラナーニャの両側から人影が躍り出る。どちらも剣――かと思えば、いまだ悶絶している男の向こうから今度は槍が突き出てくる。
 その全てをラナーニャは背後に飛んで避けた。シグリィと体が重なる――
「崇高なる雷よ!」
 どこからか詠唱が走った。シグリィがラナーニャを抱き込んでさらに後方へと飛んだ。たった今二人がいた場所に雷撃が落ちるのを見ながら、同時に彼は反撃の詠唱を編み上げる。
「躍れ燎原の火!」
 この雨の中、威力が削がれる火術を使ったのは、多分相手が人間だったからだろう――一斉に襲ってきた剣士と槍使いを薄まった炎が襲い、その視界を焼く。ひるませるには十分だ。
 再度魔術師の詠唱が聞こえ、落ちた雷撃ががれきを粉砕した。がれきが飛び散ったことで足場がいっそう悪くなる。二人一緒に動くには不利だ。ラナーニャは一度シグリィから大きく離れた。
 己の剣を構える。彼女の腕でほどよく震える重量の、量産型の剣だった。左手には小刀。シレジアにいた頃と同じ二刀流。
 常に感じていた敵の視線が、そのときわずかに戸惑うような反応を見せた。けれどそれも一瞬、拍を置いて再び数人の男たちが躍りかかってくる――
「――ッ!」
 中央の男に向かって、ラナーニャは大きくひとつ踏み込んだ。
 肉薄する。まさか前に来るとは考えていなかった男たちの武器が次々と空振りする。位置が低くなった彼らの手首を、ラナーニャは左手のナイフで次々と打ち据えていく。そして真向かいの男のすねを思い切り踏み抜き、その反動で後方へと下がった。
 男たちの数人は、ラナーニャが打ったぐらいでは獲物を取り落とさなかった。憤激に瞳をぎらつかせ、ラナーニャに剣や槍を向ける。
 しかし彼らが体勢を整える間に、
「閃け!」
 ラナーニャの背後からシグリィの詠唱が飛び、瞬間辺りを目を焼くような光が覆う。それはラナーニャの背後から出た光で、ちょうどラナーニャを見ていた男たちはそれをまともに見ることになった。
「ラナ、こっちだ!」
 シグリィが彼女を促しながら走り出す。ラナーニャは迷わずそちらへ身を翻した。がれきを越え、雨の中をずぶ濡れになりながら、ひたすら走った。転んだらそれが大きな隙になってしまう――その思いがラナーニャの体をさらなる緊張で縛りつけ、こめかみが痛みを訴える。
 敵は誰だ? 何人いる?
 シグリィは全部分かっているのだろうか――?
 サモラの町の入り組んだ道は、この夜闇の中では文字通りの迷路だ。まして初めて来た町。何度も何度も角を折れ、おまけに道が湾曲しているから、今自分がどこにいるのかまったくの不明だったが、ラナーニャはただひたすらにシグリィを信じた。そして、セレンの軌跡――破壊跡――を信じた。
 ややあって、シグリィは立ち止まった。破壊跡のない、けれど人気も全くない裏路地のようなところで。
 雨の音が鳴り止まない以外には、何一つ音のない場所だ。不安にかられて絶えず周囲を見ていたラナーニャを横に引き寄せ、軒下に入りながら、
「もう大丈夫。追っ手はいないよ」
 とシグリィは言った。「だいぶ回り道をしたからな」
「回り道……?」
「ああ。とは言っても」
 ラナーニャを連れて近くの軒先まで歩きながら、彼は苦笑する。「単にあっちに深追いする気がなかっただけだろうが」
「……? それって」
「傭兵とはそういうものなんだ。お金のために何でもするが、命は決して賭けない。死んでは元も子もないから」
「……」
「そしてこのサモラは、傭兵の町だ」
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