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第二章 誰がための罪。
2 アルメイアへ
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春の息吹が地表を撫で、草花がその生命をおずおずと目覚めさせる四の月もそろそろ終わり――
大陸は、一年の中でももっとも豊潤な色彩と匂いに包まれる。
人々が“迷い子”に怯え、壁を作って小さく生きる、その一方で、
人里離れれば、世界は平和そのものだ。
見渡す限りの平原の先に、脈絡もなく現れた林の入口。
「ラナ。今夜はここで野宿だ」
体は大丈夫かとシグリィに尋ねられ、ラナーニャはうんとうなずいた。
「大丈夫。もう少し速度を上げてくれても、平気だと思う」
「それじゃあ明日はもう少し早く行こうか。まあ」
それほど急ぐ旅でもない――と、シグリィは暮れかかる空を見上げる。
「当分天気もよさそうだから、焦らず行こう」
ラナーニャは彼にならって頭上を仰いだ。
生命の源たる陽光はその輝きを少しずつ溶かし、夕焼けへと変わりつつある。
その色が胸の片隅を揺らして、ラナーニャはほんの少し、表情を暗くした。
*****
大陸を四分割する、クロスラインと呼ばれる土地がある。端的に言えば、四神の力の境界線だ。
南西に位置する、南部神と西部神の土地を分かつクロスライン、通称<情愛>の境界は、現在グランウォルグ国領となっている。そこを南に越え、さらに行くと、ようやくグランウォルグ南端に行きつくことになる。
ただし、それはあくまで地図上と外交上の便宜でしかなかった。
実質的に<情愛>境界を越える直前まででグランウォルグの影響力はほぼ潰えており、そこを越えた先にある地域は自治地区と言ってよい。そんなわけで、この地域に住む人々は自分たちのことを「西部の人間」と言うことはあっても、「グランウォルグの人間」とは言わない。
「でも、不思議なのは」
シグリィと二人で地図を眺めながら、ラナーニャは熱心に質問をしていた。
「クロスラインは四神の力の境界のはずだ。ということは、クロスラインを南に越えた時点で、もうイリス様の土地――南部と言えるはずだろう? なのに彼らは自分たちを西部と言うんだ。それに、実際に持っている《印》も白虎だった」
位置的には<情愛>境界の南にある、港町ガナシュの人々しかり。
それはどうしてだろう――と首をひねるラナーニャに、シグリィは穏やかにうなずき返す。
「その通りだよ。実際クロスラインは明確な境界線では決してない。そもそも生まれた土地で《印》が決まるのは原則でしかないからな。現実には東で白虎が生まれることも、北で朱雀が生まれることもある――」
語りながら、彼は視線でラナーニャの注意を促す。
導いた先には、彼らの旅の同行者たる年長の男女がいた。セレンが焚火の用意をし、カミルはその横で食材を調理している。
「ねえねえカミル、夕陽がすごくきれいだわ。明日は晴れるわねえ」
「そうですね。それはいいから早く用意してください、肉が焼けない」
「もーあなたってどうしてそう情緒に欠けるのかしらー? ほらほら見なさいよ、夕陽を浴びた美女! 画になると思わない?」
「………………美女とやらがどこにいるのかさっぱり」
「ああああ! そこはお世辞でもいいからうなずくべきでしょ!? ああもう、ほんっとあなたって私を褒めないわね! さては私を褒めたら死ぬ病気なのねそうでしょそうなんでしょ!?」
「あなたを調子づかせるとろくなことがないことをよく理解しているだけです。いいから黙って準備しなさい」
「もー!!」
相変わらずの言い合いをしながらもてきぱきと作業をしている彼ら。笑いをこらえるシグリィの横で、ラナーニャは眉尻を下げて小さく呟く。
「……セレンは本当にきれいだし、それを認めるくらいは許される気がするんだけど……」
「まあ、人には事情というものがあるよ、ラナ」
シグリィは笑う代わりにそう言って、「それで、話を戻すけど――セレンはどこからどう見てもイリス神の加護を受けているだろう。でも、彼女は北部で生まれたそうだ」
「ああ」
納得して、ラナーニャはうなずいた。セレンの生まれのことなら彼女もすでに知っていた。旅に同行することになった日の夜に、セレンが聞かれもしないのにぺらぺらと喋ったからである。勿論それは、彼女流のラナーニャに対する親愛表現だったのだろう。
シグリィは地面に広げた地図を指でたどった。
大陸地図の四か所――東西南北の端を、ひとつひとつ。
「四神の力の源はこの四か所にある。だから、それぞれの力は当然、その場所に近いところの方が強いことになる。けれどその一方でここは大陸、陸続きだ――四神の力はこの大陸と切っても切れない縁がある。大陸全体を通して四神の力を浸透させている以上……四神の力は、大陸のどこにでもある。境界線なんかないんだ」
「大陸……」
ラナーニャは怪訝で眉を寄せた。
――大陸、というのは、どこからどこまでを指すのだろう――
意味もなくさまよった視線が、彼らの座る敷布を越えて、むき出しの地面へとたどり着く。
この辺りの土壌は柔らかく、よく肥えていた。地表を覆い尽くす薄緑の草々は夕陽を浴びて、眠りの準備をするかのように静まり返っている。
日中は絶えず吹く春の小風が、あちこちから花の匂いを運んで来ていた。時が経つにつれ、それがだんだんと夜気の香りへと変じていく。
(シレジアにいたときと、香りが違う)
ふと、そんなことを思った。
視線を地図に引き戻す。つい三日前まで自分たちがいた町に目を留める。――小さな港町ガナシュ。
あの町を経ってからの数日間はおおむね天候もよかった。町周辺ではやはり“迷い子”との遭遇に備える緊張感があったものの、ガナシュを離れてしばらく経った今、それもなくなりつつある。
「……次の町へは、あと二日、だっけ?」
ラナーニャが小さく問うと、シグリィは「ああ」とうなずいた。
「ここから北へ向かえば一日でサモラという町に着くんだが。私たちの目的は東のアルメイアだから――もう少し歩くことになる」
「アルメイア。西部?」
「難しいな。あそこの住人は白虎と朱雀が入り混じってる……まあ大陸を四分割すれば明らかに南部にある自治領なんだが、影響はグランウォルグの方が強い」
言いながら、シグリィは彼自身の荷物をまさぐり何かを取り出した。
「――ほら」
目の前に差し出された物を、ラナーニャはしげしげと見る。
それは、持ち運べるほどに小さく薄い本だった。年季が入っているのか、すっかり色褪せよれよれになっている。表紙の文字はところどころ掠れているものの、かろうじて読み取れた。
『魔術具目録』
「これはアルメイアで出回っている魔術具の一般向け簡易目録だ。アルメイアは魔術具商売で成り立ってる。でもこの通り」
シグリィは目録を裏返した。
裏には銀の装飾文字が入っていた。――『アティスティポラ』。
「アティスティポラというのはグランウォルグ出身の商人の名だ。この一族が、アルメイア産の魔術具を取り仕切っている。つまりそういう意味では、アルメイアは実質グランウォルグ人に動かされているのに近い」
「アティス……」
ラナーニャは眉根を曇らせる。その名なら、ラナーニャも知っている。
(リーディナがよく口にしていたんだ)
魔術具は当然のことながらシレジアにも輸入されていた。数多ある魔術具専門商家のひとつが、そのアティスティポラだ。
ただし、リーディナはその銘柄をあまり好んでいなかった。と言っても、特別悪く言っていたわけではない。単純にリーディナ個人にとっては相性の悪い魔術具だったのだろう。魔術具も道具である以上、使う人間によって使い心地に違いがある。
アティスティポラは安価で量産しているのが特徴なんだ――と、シグリィは言い添えた。
「一般人にも気軽に魔術具を――というのが旗印なんだそうだ。こんな小さな簡易目録を作るのも、この業界では珍しい。彼らは魔術具商売のために一族でアルメイアに移り住んだそうだから、相当力が入ってる」
「そんなに安価なのか?」
首をかしげて、ラナーニャは問うた。リーディナはそんな話はしていなかった気がするが。
シグリィは苦笑気味に答えた。
「――魔術具にしてはね。まだまだ思うほどに広く普及はしていない。それでも、需要があるから事業は拡大する一方というわけだ」
「………」
パチリ、と焚火の爆ぜる音がした。
セレンによる準備は着実に進んでいる。そちらを振り返ったシグリィは、「あっちへ行こう」とラナーニャを誘う。
二人で腰を浮かしながらも、ラナーニャの疑問は止まらなかった。
「……ガナシュの町長が仰っていた『霧のカーテン』というのは、魔術具なんだろう? その……値段、は?」
「『霧のカーテン』はアルメイア産看板商品のひとつで、よく売買されるもののひとつだよ。値段は――そうだな、カミル」
はいと作業を中断して、忠実な青年がこちらに顔を向ける。
「『霧のカーテン』、お前は安いと思うか?」
「は……」
この一行の経済問題を一手に担う財布係は、わずかに渋い顔をする。
「……まあ、性能と需要を考えれば妥当かと思いますが。あれひとつで我々四人の食料一週間分に相当します」
「だ、そうだよラナ」
「そ、そうなんだな」
ラナーニャは何とも言えない顔でうなずいた。
まがりなりにも王族であった彼女にしてみれば、一般家庭の経済感覚は正直正しく認識できていない。一応魔術具が、市井にやすやすと出回るものではないことは知っていても、実感があるはずもない。
だが――それでもこのひと月ほどで。
エルヴァー島“福音の島”やガナシュでの人々の生活の一端を目にして、分かったものも少なからずある。
少なくとも――
「……今のガナシュが、どこからそのお金を出すつもりなのだろう……? 『手に入るだけ欲しい』とまで仰っていたけれど」
一週間ほど前に、彼らはガナシュの町長から依頼をされたのだ。アルメイアに渡り、『霧のカーテン』を入手してきてほしい、と。
細かい依頼内容はシグリィとカミルしか知らない。だがシグリィは二つ返事で引き受けたようだ。《扉》の被害に遭ったガナシュが必要としているもののうち、旅人である自分らにできるもっとも大きな仕事なのは間違いないから、そういう意味ではシグリィの即断にも納得できた。
ただ、今の話を聞いてしまえばどうしても不安なことがある。
――シグリィたちが町長からそんなお金を預かった様子が、全くないのだ。
その疑問をこめて、ラナーニャは熱心にシグリィを見つめる。
焚火の傍らで座り直しながら、シグリィは笑った。
「まあ、そこは君が気にしなくても大丈夫だよ。それにアルメイアにはどの道行くつもりだった」
「アルメイアに何か用があったのか……?」
「用というか。君も興味深いと思うよ、あの町は――」
彼の視線が東の空へと向いた。
薄暮のかかる空を、鳥影が行き過ぎる。彼らと同じく、東に向かって。
「――あの町には、大きな図書館がある。一般人が自由に入館できる図書館としては大陸最大規模の」
「………!」
「それに商人が多くて人の出入りの激しい町だから、人探しにはうってつけという面もある。一石二鳥どころか一石三鳥だな」
「ああ――」
吐息が漏れた。最後の件は、彼女もずっと気にしていたこと。
(島のみんながずっと口にしてた――ユドクリフという人を、探さないと……)
結局、島で予想されていた時期に、件の青年は帰ってはこなかったのだ。当然島の子供たちはとても心配した。そして島を出ることになった彼ら四人と、ジオに頼んだのである――ユードの消息が分かったら知らせてほしいと。
元々シグリィは別件でユドクリフを捜すつもりだったようだから、当然のごとく引き受けた。だが、最初に彼らが着いたガナシュでは、全く青年の影を見つけることができなかった。ジオもしきりに不審がった。“やつが島をほったらかすわけがない”と。
今の時代でも大陸間を比較的頻繁に行き来する人間といえば、それは商魂たくましい商人および、その護衛につく傭兵に他ならない。
アルメイアが商人の町だというのなら、情報も入りやすいはずだ。
――ガナシュ町長の依頼と、人探し。そして図書館……
(アルメイアに着いたら、忙しくなりそうだ)
ラナーニャは視線を落とす。
目の前を、炎がゆらゆらと照らしている。
カミルが棒に突き刺した肉を焚火にかざした。その隣で、セレンがふわあと欠伸をする。
「……寝ないでくださいよ。今夜の見張りは貴女なんですから」
「分かってるわよう。んーでも春って気持ちよくて眠くって。ふあ」
「人前では口を隠しなさい」
「はーいお母さん。ふああ」
「言ってる傍から貴女は……」
最近ではすっかり耳に馴染んでしまったしょうもない年長組の会話を聞きながら、ラナーニャはふと微笑を浮かべた。
――平和な空間というものは、独りぼっちでは感じられない。
大陸は、一年の中でももっとも豊潤な色彩と匂いに包まれる。
人々が“迷い子”に怯え、壁を作って小さく生きる、その一方で、
人里離れれば、世界は平和そのものだ。
見渡す限りの平原の先に、脈絡もなく現れた林の入口。
「ラナ。今夜はここで野宿だ」
体は大丈夫かとシグリィに尋ねられ、ラナーニャはうんとうなずいた。
「大丈夫。もう少し速度を上げてくれても、平気だと思う」
「それじゃあ明日はもう少し早く行こうか。まあ」
それほど急ぐ旅でもない――と、シグリィは暮れかかる空を見上げる。
「当分天気もよさそうだから、焦らず行こう」
ラナーニャは彼にならって頭上を仰いだ。
生命の源たる陽光はその輝きを少しずつ溶かし、夕焼けへと変わりつつある。
その色が胸の片隅を揺らして、ラナーニャはほんの少し、表情を暗くした。
*****
大陸を四分割する、クロスラインと呼ばれる土地がある。端的に言えば、四神の力の境界線だ。
南西に位置する、南部神と西部神の土地を分かつクロスライン、通称<情愛>の境界は、現在グランウォルグ国領となっている。そこを南に越え、さらに行くと、ようやくグランウォルグ南端に行きつくことになる。
ただし、それはあくまで地図上と外交上の便宜でしかなかった。
実質的に<情愛>境界を越える直前まででグランウォルグの影響力はほぼ潰えており、そこを越えた先にある地域は自治地区と言ってよい。そんなわけで、この地域に住む人々は自分たちのことを「西部の人間」と言うことはあっても、「グランウォルグの人間」とは言わない。
「でも、不思議なのは」
シグリィと二人で地図を眺めながら、ラナーニャは熱心に質問をしていた。
「クロスラインは四神の力の境界のはずだ。ということは、クロスラインを南に越えた時点で、もうイリス様の土地――南部と言えるはずだろう? なのに彼らは自分たちを西部と言うんだ。それに、実際に持っている《印》も白虎だった」
位置的には<情愛>境界の南にある、港町ガナシュの人々しかり。
それはどうしてだろう――と首をひねるラナーニャに、シグリィは穏やかにうなずき返す。
「その通りだよ。実際クロスラインは明確な境界線では決してない。そもそも生まれた土地で《印》が決まるのは原則でしかないからな。現実には東で白虎が生まれることも、北で朱雀が生まれることもある――」
語りながら、彼は視線でラナーニャの注意を促す。
導いた先には、彼らの旅の同行者たる年長の男女がいた。セレンが焚火の用意をし、カミルはその横で食材を調理している。
「ねえねえカミル、夕陽がすごくきれいだわ。明日は晴れるわねえ」
「そうですね。それはいいから早く用意してください、肉が焼けない」
「もーあなたってどうしてそう情緒に欠けるのかしらー? ほらほら見なさいよ、夕陽を浴びた美女! 画になると思わない?」
「………………美女とやらがどこにいるのかさっぱり」
「ああああ! そこはお世辞でもいいからうなずくべきでしょ!? ああもう、ほんっとあなたって私を褒めないわね! さては私を褒めたら死ぬ病気なのねそうでしょそうなんでしょ!?」
「あなたを調子づかせるとろくなことがないことをよく理解しているだけです。いいから黙って準備しなさい」
「もー!!」
相変わらずの言い合いをしながらもてきぱきと作業をしている彼ら。笑いをこらえるシグリィの横で、ラナーニャは眉尻を下げて小さく呟く。
「……セレンは本当にきれいだし、それを認めるくらいは許される気がするんだけど……」
「まあ、人には事情というものがあるよ、ラナ」
シグリィは笑う代わりにそう言って、「それで、話を戻すけど――セレンはどこからどう見てもイリス神の加護を受けているだろう。でも、彼女は北部で生まれたそうだ」
「ああ」
納得して、ラナーニャはうなずいた。セレンの生まれのことなら彼女もすでに知っていた。旅に同行することになった日の夜に、セレンが聞かれもしないのにぺらぺらと喋ったからである。勿論それは、彼女流のラナーニャに対する親愛表現だったのだろう。
シグリィは地面に広げた地図を指でたどった。
大陸地図の四か所――東西南北の端を、ひとつひとつ。
「四神の力の源はこの四か所にある。だから、それぞれの力は当然、その場所に近いところの方が強いことになる。けれどその一方でここは大陸、陸続きだ――四神の力はこの大陸と切っても切れない縁がある。大陸全体を通して四神の力を浸透させている以上……四神の力は、大陸のどこにでもある。境界線なんかないんだ」
「大陸……」
ラナーニャは怪訝で眉を寄せた。
――大陸、というのは、どこからどこまでを指すのだろう――
意味もなくさまよった視線が、彼らの座る敷布を越えて、むき出しの地面へとたどり着く。
この辺りの土壌は柔らかく、よく肥えていた。地表を覆い尽くす薄緑の草々は夕陽を浴びて、眠りの準備をするかのように静まり返っている。
日中は絶えず吹く春の小風が、あちこちから花の匂いを運んで来ていた。時が経つにつれ、それがだんだんと夜気の香りへと変じていく。
(シレジアにいたときと、香りが違う)
ふと、そんなことを思った。
視線を地図に引き戻す。つい三日前まで自分たちがいた町に目を留める。――小さな港町ガナシュ。
あの町を経ってからの数日間はおおむね天候もよかった。町周辺ではやはり“迷い子”との遭遇に備える緊張感があったものの、ガナシュを離れてしばらく経った今、それもなくなりつつある。
「……次の町へは、あと二日、だっけ?」
ラナーニャが小さく問うと、シグリィは「ああ」とうなずいた。
「ここから北へ向かえば一日でサモラという町に着くんだが。私たちの目的は東のアルメイアだから――もう少し歩くことになる」
「アルメイア。西部?」
「難しいな。あそこの住人は白虎と朱雀が入り混じってる……まあ大陸を四分割すれば明らかに南部にある自治領なんだが、影響はグランウォルグの方が強い」
言いながら、シグリィは彼自身の荷物をまさぐり何かを取り出した。
「――ほら」
目の前に差し出された物を、ラナーニャはしげしげと見る。
それは、持ち運べるほどに小さく薄い本だった。年季が入っているのか、すっかり色褪せよれよれになっている。表紙の文字はところどころ掠れているものの、かろうじて読み取れた。
『魔術具目録』
「これはアルメイアで出回っている魔術具の一般向け簡易目録だ。アルメイアは魔術具商売で成り立ってる。でもこの通り」
シグリィは目録を裏返した。
裏には銀の装飾文字が入っていた。――『アティスティポラ』。
「アティスティポラというのはグランウォルグ出身の商人の名だ。この一族が、アルメイア産の魔術具を取り仕切っている。つまりそういう意味では、アルメイアは実質グランウォルグ人に動かされているのに近い」
「アティス……」
ラナーニャは眉根を曇らせる。その名なら、ラナーニャも知っている。
(リーディナがよく口にしていたんだ)
魔術具は当然のことながらシレジアにも輸入されていた。数多ある魔術具専門商家のひとつが、そのアティスティポラだ。
ただし、リーディナはその銘柄をあまり好んでいなかった。と言っても、特別悪く言っていたわけではない。単純にリーディナ個人にとっては相性の悪い魔術具だったのだろう。魔術具も道具である以上、使う人間によって使い心地に違いがある。
アティスティポラは安価で量産しているのが特徴なんだ――と、シグリィは言い添えた。
「一般人にも気軽に魔術具を――というのが旗印なんだそうだ。こんな小さな簡易目録を作るのも、この業界では珍しい。彼らは魔術具商売のために一族でアルメイアに移り住んだそうだから、相当力が入ってる」
「そんなに安価なのか?」
首をかしげて、ラナーニャは問うた。リーディナはそんな話はしていなかった気がするが。
シグリィは苦笑気味に答えた。
「――魔術具にしてはね。まだまだ思うほどに広く普及はしていない。それでも、需要があるから事業は拡大する一方というわけだ」
「………」
パチリ、と焚火の爆ぜる音がした。
セレンによる準備は着実に進んでいる。そちらを振り返ったシグリィは、「あっちへ行こう」とラナーニャを誘う。
二人で腰を浮かしながらも、ラナーニャの疑問は止まらなかった。
「……ガナシュの町長が仰っていた『霧のカーテン』というのは、魔術具なんだろう? その……値段、は?」
「『霧のカーテン』はアルメイア産看板商品のひとつで、よく売買されるもののひとつだよ。値段は――そうだな、カミル」
はいと作業を中断して、忠実な青年がこちらに顔を向ける。
「『霧のカーテン』、お前は安いと思うか?」
「は……」
この一行の経済問題を一手に担う財布係は、わずかに渋い顔をする。
「……まあ、性能と需要を考えれば妥当かと思いますが。あれひとつで我々四人の食料一週間分に相当します」
「だ、そうだよラナ」
「そ、そうなんだな」
ラナーニャは何とも言えない顔でうなずいた。
まがりなりにも王族であった彼女にしてみれば、一般家庭の経済感覚は正直正しく認識できていない。一応魔術具が、市井にやすやすと出回るものではないことは知っていても、実感があるはずもない。
だが――それでもこのひと月ほどで。
エルヴァー島“福音の島”やガナシュでの人々の生活の一端を目にして、分かったものも少なからずある。
少なくとも――
「……今のガナシュが、どこからそのお金を出すつもりなのだろう……? 『手に入るだけ欲しい』とまで仰っていたけれど」
一週間ほど前に、彼らはガナシュの町長から依頼をされたのだ。アルメイアに渡り、『霧のカーテン』を入手してきてほしい、と。
細かい依頼内容はシグリィとカミルしか知らない。だがシグリィは二つ返事で引き受けたようだ。《扉》の被害に遭ったガナシュが必要としているもののうち、旅人である自分らにできるもっとも大きな仕事なのは間違いないから、そういう意味ではシグリィの即断にも納得できた。
ただ、今の話を聞いてしまえばどうしても不安なことがある。
――シグリィたちが町長からそんなお金を預かった様子が、全くないのだ。
その疑問をこめて、ラナーニャは熱心にシグリィを見つめる。
焚火の傍らで座り直しながら、シグリィは笑った。
「まあ、そこは君が気にしなくても大丈夫だよ。それにアルメイアにはどの道行くつもりだった」
「アルメイアに何か用があったのか……?」
「用というか。君も興味深いと思うよ、あの町は――」
彼の視線が東の空へと向いた。
薄暮のかかる空を、鳥影が行き過ぎる。彼らと同じく、東に向かって。
「――あの町には、大きな図書館がある。一般人が自由に入館できる図書館としては大陸最大規模の」
「………!」
「それに商人が多くて人の出入りの激しい町だから、人探しにはうってつけという面もある。一石二鳥どころか一石三鳥だな」
「ああ――」
吐息が漏れた。最後の件は、彼女もずっと気にしていたこと。
(島のみんながずっと口にしてた――ユドクリフという人を、探さないと……)
結局、島で予想されていた時期に、件の青年は帰ってはこなかったのだ。当然島の子供たちはとても心配した。そして島を出ることになった彼ら四人と、ジオに頼んだのである――ユードの消息が分かったら知らせてほしいと。
元々シグリィは別件でユドクリフを捜すつもりだったようだから、当然のごとく引き受けた。だが、最初に彼らが着いたガナシュでは、全く青年の影を見つけることができなかった。ジオもしきりに不審がった。“やつが島をほったらかすわけがない”と。
今の時代でも大陸間を比較的頻繁に行き来する人間といえば、それは商魂たくましい商人および、その護衛につく傭兵に他ならない。
アルメイアが商人の町だというのなら、情報も入りやすいはずだ。
――ガナシュ町長の依頼と、人探し。そして図書館……
(アルメイアに着いたら、忙しくなりそうだ)
ラナーニャは視線を落とす。
目の前を、炎がゆらゆらと照らしている。
カミルが棒に突き刺した肉を焚火にかざした。その隣で、セレンがふわあと欠伸をする。
「……寝ないでくださいよ。今夜の見張りは貴女なんですから」
「分かってるわよう。んーでも春って気持ちよくて眠くって。ふあ」
「人前では口を隠しなさい」
「はーいお母さん。ふああ」
「言ってる傍から貴女は……」
最近ではすっかり耳に馴染んでしまったしょうもない年長組の会話を聞きながら、ラナーニャはふと微笑を浮かべた。
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