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第一章 その日、青い光が飛んだ。
39 昏迷の双子
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「失礼いたします」
軽いノックののち、オーディは軽くきしむその扉を開けた。
シレジア城内、忘れられたような隅にぽつんとあるその扉は、〝城〟に慣れすぎた迂闊な者なら見過ごしてしまうほどに質素で小さい。この部屋の主が二十年も前にそうしつらえさせてから、一度も作り直されたことがないらしい。
部屋は薄暗かった。
完全な闇ではないが、薄墨を流したかのように、目に入るものすべてに影が落ちている。まだ午前中だというのに。
だが、オーディは驚かなかった――この部屋がこうなっていることは、特別珍しいことではなかったからだ。
「お呼びですか。叔父上」
再度呼ぶと、室内の奥の方、書棚の前にあった影がわずかに動いた。
「……昨夜、カッコウが鳴いていた」
低く響く声が、そんなことを言った。
オーディは目を細めた。
「特別珍しいことではないと思いますが」
さえずりがそのまま名になった鳥、カッコウ。
シレジアで越冬するカッコウはとても多い。春ももう少し深まった時期になるとようやく大陸へと飛び立つ。繁殖自体は大陸でするため大陸の鳥として扱われているが、ここシレジアでも馴染み深い鳥だった。
ヴァディシスは喉の奥で笑ったようだ。
「カッコウは托卵をするだろう」
「……そうらしいですね」
「仮親に育てられた雛はそれでもカッコウの習性をまったく失わない。時が経てば必ずカッコウとしてまた托卵する。それが自然の摂理だが」
書棚の前にたたずんでいた叔父が、影の中から姿を現した。
薄墨の中にぼんやりと浮かぶ細身の男。先ごろ逝去した前国王の、歳の離れた弟。
眼鏡をかけているところからすると、どうやら今まで本を読んでいたらしい。
オーディ、とヴァディシスは愉快そうに甥を呼んだ。
「もしもカッコウの雛がその摂理から逸脱したら、はたして彼らはどうなるのだろうな?」
「は……?」
疑問に曇らせたオーディの反応に、答える言葉はない。代わりに続いたのは。
「クローディアは今、ラナーニャと対峙している」
唐突に告げる。
それはオーディの背筋に緊張をみなぎらせるに十分な事柄。
眼鏡をはずした叔父の瞳は昏い。自分やクローディアはこの叔父によく似ているのだということをオーディは思い出した。髪も瞳も真っ黒という色彩は、このシレジア王家では滅多にないことだ。
しかし今のオーディには、そのことはどうでもよかった。
「生きていらしたのですね、姉上は」
「私は最初からそう言っていただろう。生体反応が消えていないと」
「ええ。ですが信じられませんでしたので」
リーディナの術でこの国から弾き出された姉の体。どこへ向けて飛ばされたのかは知らないが、西の方角だということは分かっていた。シレジアより西は延々と海が続く。それだけの長距離を、朱雀の術中で人ひとり命を保っていられるとは、到底思えなかったのだ。
――否。
「違うな。お前はそう予想しておくことで、本当にそうだったときの精神的なダメージを抑えたかったのだろう?」
オーディの心を先回りした叔父が、唇の端に笑みを刻む。「お前はそういう子だ……己の傷を最小限にするために、期待することを止める。小心者の極みだな」
オーディは沸き立つものをひっそりと押し殺した。顔面から表情をはがし、ただ暗がりの中の叔父を見つめる。
「それがどうしていけないのかが分かりません。クローディアとともにこの国の頂点にいるために、私に課された役割はいついかなるときも冷静でいることです。私はそれを遂行するために、最善をとっている」
そうだなと叔父は言った。意外なほど静かな声音で。
「それは間違ってはいない。私が言いたいのは、オーディ、お前がどれほどあの姉に依存しているかということだ」
「―――」
「ラナーニャには死んでもらう。前から何度も言っているはずだ。お前はそれに耐えられるか?」
それは今までにも、幾度となくこの叔父から問われてきた問いだ――
すう、と細く深く息を吸い込んだ。
この部屋の空気は重い。新たに肺に送り込むことが、なおさら自分への試練を澱んだ重さに変える。それでも。
胸の中にわだかまった澱を押し出すように。
「いつまでも子供ではいられません。だからこそ私は、この手で姉上を仕留めたかった」
ふ、とヴァディシスが笑った気配がした。
オーディの視線は、ヴァディシスを通り越していた。さらに奥の――一見書棚しか並んでいないように見える壁に、意識は貼り付いている。
そこには扉があるはずだった。ヴァディシスが許したごく一部の人間しか知らない、隠された部屋。オーディも一度だけ入ったことがある。あの部屋は――
「クローディアが無事にラナーニャを仕留めてくるかは五分五分だな」
ふいに叔父が呟いた言葉に、オーディは眉をひそめた。
「五分五分? なぜですか。クローディアは分体なのでしょうが……負ける要素が見当たりません。しかも姉上は西の、エルヴァー島に墜ちたのでしょう? あの島に障害となる存在がいるはずは……」
「いた、ようだ。詳細は分からんがな」
ゆっくりと窓に歩み寄り、ヴァディシスは引かれたカーテンの端を指で持ち上げた。
隙間から外を眺めている――叔父の顔をわずかに照らす太陽の光が不自然に鈍い。光を水で薄めることができたなら、こんな感じかもしれない。
叔父はやはり、笑みを浮かべていた。
「その〝何か〟がどう作用するかは不明だ。だがラナーニャが今クローディアの分体から逃れて生き延びるというなら……生かしておくのもまた面白い。場合によってはあれはこの国に帰ってくるのかもしれんな」
オーディの魂が弾かれたように跳ねた。
それを抑え込むために、反射的に口から言葉が飛び出した。
「それは簡単なことじゃないでしょう。私もクローディアも、姉上を狙うことはやめません」
「その上で、だ。……忘れるなオーディ。何度も言うが――ラナーニャは、お前たちとは違う。特別な人間だということを念頭に置け」
「―――」
胃が鉛を呑んだように重くなる。耳が、狂ったようにそのフレーズを繰り返す。特別。特別。違う人間。
姉上と自分たちは、違う人間。
カーテンを元に戻して影に没した叔父の顔が、優しげに笑ったような気が、した。
「クローディアの報告を待つ。お前は仕事に戻れ、オーディ」
「……はい」
失礼致します、と頭を下げる。背筋を伸ばし、質素すぎる扉から出た。
その扉は――その部屋はあまりに城に似つかわしくなく、出てしまうとまるで夢から醒めたような気分になる。
午前の城の明るさ、眩しさに目を細め、オーディは知らず息を吐いた。
(姉上……)
瞼で視界を覆えば、代わりに目の前に現れるのはあの人の姿。
一緒に育てられた覚えはない。だから、初めてその姿を見たのも物心ついてからだった。あの人は城の片隅で一心不乱に剣を振っていた。子供の目から見ても不格好な構えと、それの副産物に違いない泥に汚れた体。
とても美しい人だと気づいたのは、そのすぐあと。
オーディはそのときの衝撃を甘く苦く思い出す。実の姉だと知ったのはそれよりさらにあとのこと。
そして、あの存在は忘れていいと言われたそのときから――オーディはずっと腹の底に澱みを抱えている。
それは彼の中に生まれたというよりも、むしろ外から呑み込まされたものに違いなく。
……何年も経ち、己の内から生まれたものと混ざり合って、ますます澱んでいく。
オーディは唇を噛んだ。今あの人は妹と対峙しているという――
「姉上……助けにゆけずすみません。私の朱雀の力では……」
妹から守るどころか、そもそもエルヴァー島まで力を飛ばすのも不可能だ。オーディは朱雀の能力で言えば、妹の足元にも及ばない。
近場の壁を拳で殴りつけ、無言でたたずむ。
ぐるぐると、胸の内側で思念が渦巻く。
やがてオーディは、薄く唇を開き吐息のような言葉をこぼした。
――せめて、抵抗せずに死んでください。クローディアになぶり殺しにされるくらいなら。
視線を上げる。目の前には長い長い廊下。差し込む陽光が世界をまだらな明るさに染め、磨き抜かれた壁も天井も眩しいほどに輝いている。
別世界のようだ、と彼は思った。それが現実の光景だという実感が湧いてこない。見慣れた城内も、今は何もかもが違う。原因は分かっている。人の気配がないのだ――今は、まだ。
この静かな眩しい世界は、自分の居場所じゃない。ふとそんな考えが忍び寄った。
同時に、オーディは思った。美しいあの人ならば、この厳かな世界になじむこともできるのだろうか……
*
――あの人には暗がりがよく似合う。
(だってお姉様はいつだって、暗いところにいたもの)
ひらり、ひらりと。空中で蝶のように舞いながら、クローディアは無造作に腕を振るい続ける。
彼女がひとたび空を薙ぐたびに、風が起き刃が走り、雷光が閃く。詠唱は必要なかった。どんな形の力を生み出そうか、彼女自身考えていないからだ。
ただ――心に任せて〝力〟を解放するのみ。
そうすれば目の前の数人の人間が逃げ惑うのが愉快で仕方なかったのだ。彼らには集中して術を放つまでもない。一番強力なあの奇妙な少年は、そこにいないのだから。
(別に構わないわ。わたくしは戦う必要はない――ただお姉様と遊ぶことができれば、それで)
姉は地上で、何度もクローディアを睨み上げる。
今クローディアがいる位置からでは、あまりにもちっぽけなその姿。
それがゴミに思えるほど遠く離れた場所から術を放ってもよかったのだけれど、クローディアはそうはしなかった。
もっとよく見ていたかったのだ。姉がぼろぼろになっていくさまを。
お姉様。おねえさま。
まるで詠唱の代わりにするかのように、クローディアは何度も唇をそう動かした。唄うように。笑うように。
あなたは暗い場所にいた。採光設計を駆使してむやみに明るい城内にありながら、わざわざ陰になるような場所ばかりを選んで。そしてそんな場所でいつもぼろぼろになるまで剣を振っていた。その姿を、二人の弟妹がこっそり眺めていることも知らずに。
お姉様、私はあなたが好きよ――
『――お姉様がぼろぼろに傷ついていくさまが、何より好きよ』
愛を囁くようなとろける声で、漆黒の少女はささめいた。
ひらりと細い腕を躍らせる。邪魔な空気を跳ね除けるように。
幾重にもなった白刃がまっすぐ姉のいる場に叩き込まれた。自力では避け切れなかった姉の体を、長身の男が横からさらって射程外へと逃す。だがクローディアは時間差でさらに刃の追撃を放った。姉と男の二人、足を取られて転倒する。
特に姉は無様なものだ。なまじ姿かたちが美しいとそういう動きがいっそう際立つ。
クローディアの唇はなお嬉しげに、艶めかしく笑んだ。姉はまだ立ち上がろうとしている。それでこそお姉様。まだ終わらない、終わらせないわ。さあ――
『――だからもっと、もっと傷ついてちょうだい。もっとよ、お姉様!』
軽いノックののち、オーディは軽くきしむその扉を開けた。
シレジア城内、忘れられたような隅にぽつんとあるその扉は、〝城〟に慣れすぎた迂闊な者なら見過ごしてしまうほどに質素で小さい。この部屋の主が二十年も前にそうしつらえさせてから、一度も作り直されたことがないらしい。
部屋は薄暗かった。
完全な闇ではないが、薄墨を流したかのように、目に入るものすべてに影が落ちている。まだ午前中だというのに。
だが、オーディは驚かなかった――この部屋がこうなっていることは、特別珍しいことではなかったからだ。
「お呼びですか。叔父上」
再度呼ぶと、室内の奥の方、書棚の前にあった影がわずかに動いた。
「……昨夜、カッコウが鳴いていた」
低く響く声が、そんなことを言った。
オーディは目を細めた。
「特別珍しいことではないと思いますが」
さえずりがそのまま名になった鳥、カッコウ。
シレジアで越冬するカッコウはとても多い。春ももう少し深まった時期になるとようやく大陸へと飛び立つ。繁殖自体は大陸でするため大陸の鳥として扱われているが、ここシレジアでも馴染み深い鳥だった。
ヴァディシスは喉の奥で笑ったようだ。
「カッコウは托卵をするだろう」
「……そうらしいですね」
「仮親に育てられた雛はそれでもカッコウの習性をまったく失わない。時が経てば必ずカッコウとしてまた托卵する。それが自然の摂理だが」
書棚の前にたたずんでいた叔父が、影の中から姿を現した。
薄墨の中にぼんやりと浮かぶ細身の男。先ごろ逝去した前国王の、歳の離れた弟。
眼鏡をかけているところからすると、どうやら今まで本を読んでいたらしい。
オーディ、とヴァディシスは愉快そうに甥を呼んだ。
「もしもカッコウの雛がその摂理から逸脱したら、はたして彼らはどうなるのだろうな?」
「は……?」
疑問に曇らせたオーディの反応に、答える言葉はない。代わりに続いたのは。
「クローディアは今、ラナーニャと対峙している」
唐突に告げる。
それはオーディの背筋に緊張をみなぎらせるに十分な事柄。
眼鏡をはずした叔父の瞳は昏い。自分やクローディアはこの叔父によく似ているのだということをオーディは思い出した。髪も瞳も真っ黒という色彩は、このシレジア王家では滅多にないことだ。
しかし今のオーディには、そのことはどうでもよかった。
「生きていらしたのですね、姉上は」
「私は最初からそう言っていただろう。生体反応が消えていないと」
「ええ。ですが信じられませんでしたので」
リーディナの術でこの国から弾き出された姉の体。どこへ向けて飛ばされたのかは知らないが、西の方角だということは分かっていた。シレジアより西は延々と海が続く。それだけの長距離を、朱雀の術中で人ひとり命を保っていられるとは、到底思えなかったのだ。
――否。
「違うな。お前はそう予想しておくことで、本当にそうだったときの精神的なダメージを抑えたかったのだろう?」
オーディの心を先回りした叔父が、唇の端に笑みを刻む。「お前はそういう子だ……己の傷を最小限にするために、期待することを止める。小心者の極みだな」
オーディは沸き立つものをひっそりと押し殺した。顔面から表情をはがし、ただ暗がりの中の叔父を見つめる。
「それがどうしていけないのかが分かりません。クローディアとともにこの国の頂点にいるために、私に課された役割はいついかなるときも冷静でいることです。私はそれを遂行するために、最善をとっている」
そうだなと叔父は言った。意外なほど静かな声音で。
「それは間違ってはいない。私が言いたいのは、オーディ、お前がどれほどあの姉に依存しているかということだ」
「―――」
「ラナーニャには死んでもらう。前から何度も言っているはずだ。お前はそれに耐えられるか?」
それは今までにも、幾度となくこの叔父から問われてきた問いだ――
すう、と細く深く息を吸い込んだ。
この部屋の空気は重い。新たに肺に送り込むことが、なおさら自分への試練を澱んだ重さに変える。それでも。
胸の中にわだかまった澱を押し出すように。
「いつまでも子供ではいられません。だからこそ私は、この手で姉上を仕留めたかった」
ふ、とヴァディシスが笑った気配がした。
オーディの視線は、ヴァディシスを通り越していた。さらに奥の――一見書棚しか並んでいないように見える壁に、意識は貼り付いている。
そこには扉があるはずだった。ヴァディシスが許したごく一部の人間しか知らない、隠された部屋。オーディも一度だけ入ったことがある。あの部屋は――
「クローディアが無事にラナーニャを仕留めてくるかは五分五分だな」
ふいに叔父が呟いた言葉に、オーディは眉をひそめた。
「五分五分? なぜですか。クローディアは分体なのでしょうが……負ける要素が見当たりません。しかも姉上は西の、エルヴァー島に墜ちたのでしょう? あの島に障害となる存在がいるはずは……」
「いた、ようだ。詳細は分からんがな」
ゆっくりと窓に歩み寄り、ヴァディシスは引かれたカーテンの端を指で持ち上げた。
隙間から外を眺めている――叔父の顔をわずかに照らす太陽の光が不自然に鈍い。光を水で薄めることができたなら、こんな感じかもしれない。
叔父はやはり、笑みを浮かべていた。
「その〝何か〟がどう作用するかは不明だ。だがラナーニャが今クローディアの分体から逃れて生き延びるというなら……生かしておくのもまた面白い。場合によってはあれはこの国に帰ってくるのかもしれんな」
オーディの魂が弾かれたように跳ねた。
それを抑え込むために、反射的に口から言葉が飛び出した。
「それは簡単なことじゃないでしょう。私もクローディアも、姉上を狙うことはやめません」
「その上で、だ。……忘れるなオーディ。何度も言うが――ラナーニャは、お前たちとは違う。特別な人間だということを念頭に置け」
「―――」
胃が鉛を呑んだように重くなる。耳が、狂ったようにそのフレーズを繰り返す。特別。特別。違う人間。
姉上と自分たちは、違う人間。
カーテンを元に戻して影に没した叔父の顔が、優しげに笑ったような気が、した。
「クローディアの報告を待つ。お前は仕事に戻れ、オーディ」
「……はい」
失礼致します、と頭を下げる。背筋を伸ばし、質素すぎる扉から出た。
その扉は――その部屋はあまりに城に似つかわしくなく、出てしまうとまるで夢から醒めたような気分になる。
午前の城の明るさ、眩しさに目を細め、オーディは知らず息を吐いた。
(姉上……)
瞼で視界を覆えば、代わりに目の前に現れるのはあの人の姿。
一緒に育てられた覚えはない。だから、初めてその姿を見たのも物心ついてからだった。あの人は城の片隅で一心不乱に剣を振っていた。子供の目から見ても不格好な構えと、それの副産物に違いない泥に汚れた体。
とても美しい人だと気づいたのは、そのすぐあと。
オーディはそのときの衝撃を甘く苦く思い出す。実の姉だと知ったのはそれよりさらにあとのこと。
そして、あの存在は忘れていいと言われたそのときから――オーディはずっと腹の底に澱みを抱えている。
それは彼の中に生まれたというよりも、むしろ外から呑み込まされたものに違いなく。
……何年も経ち、己の内から生まれたものと混ざり合って、ますます澱んでいく。
オーディは唇を噛んだ。今あの人は妹と対峙しているという――
「姉上……助けにゆけずすみません。私の朱雀の力では……」
妹から守るどころか、そもそもエルヴァー島まで力を飛ばすのも不可能だ。オーディは朱雀の能力で言えば、妹の足元にも及ばない。
近場の壁を拳で殴りつけ、無言でたたずむ。
ぐるぐると、胸の内側で思念が渦巻く。
やがてオーディは、薄く唇を開き吐息のような言葉をこぼした。
――せめて、抵抗せずに死んでください。クローディアになぶり殺しにされるくらいなら。
視線を上げる。目の前には長い長い廊下。差し込む陽光が世界をまだらな明るさに染め、磨き抜かれた壁も天井も眩しいほどに輝いている。
別世界のようだ、と彼は思った。それが現実の光景だという実感が湧いてこない。見慣れた城内も、今は何もかもが違う。原因は分かっている。人の気配がないのだ――今は、まだ。
この静かな眩しい世界は、自分の居場所じゃない。ふとそんな考えが忍び寄った。
同時に、オーディは思った。美しいあの人ならば、この厳かな世界になじむこともできるのだろうか……
*
――あの人には暗がりがよく似合う。
(だってお姉様はいつだって、暗いところにいたもの)
ひらり、ひらりと。空中で蝶のように舞いながら、クローディアは無造作に腕を振るい続ける。
彼女がひとたび空を薙ぐたびに、風が起き刃が走り、雷光が閃く。詠唱は必要なかった。どんな形の力を生み出そうか、彼女自身考えていないからだ。
ただ――心に任せて〝力〟を解放するのみ。
そうすれば目の前の数人の人間が逃げ惑うのが愉快で仕方なかったのだ。彼らには集中して術を放つまでもない。一番強力なあの奇妙な少年は、そこにいないのだから。
(別に構わないわ。わたくしは戦う必要はない――ただお姉様と遊ぶことができれば、それで)
姉は地上で、何度もクローディアを睨み上げる。
今クローディアがいる位置からでは、あまりにもちっぽけなその姿。
それがゴミに思えるほど遠く離れた場所から術を放ってもよかったのだけれど、クローディアはそうはしなかった。
もっとよく見ていたかったのだ。姉がぼろぼろになっていくさまを。
お姉様。おねえさま。
まるで詠唱の代わりにするかのように、クローディアは何度も唇をそう動かした。唄うように。笑うように。
あなたは暗い場所にいた。採光設計を駆使してむやみに明るい城内にありながら、わざわざ陰になるような場所ばかりを選んで。そしてそんな場所でいつもぼろぼろになるまで剣を振っていた。その姿を、二人の弟妹がこっそり眺めていることも知らずに。
お姉様、私はあなたが好きよ――
『――お姉様がぼろぼろに傷ついていくさまが、何より好きよ』
愛を囁くようなとろける声で、漆黒の少女はささめいた。
ひらりと細い腕を躍らせる。邪魔な空気を跳ね除けるように。
幾重にもなった白刃がまっすぐ姉のいる場に叩き込まれた。自力では避け切れなかった姉の体を、長身の男が横からさらって射程外へと逃す。だがクローディアは時間差でさらに刃の追撃を放った。姉と男の二人、足を取られて転倒する。
特に姉は無様なものだ。なまじ姿かたちが美しいとそういう動きがいっそう際立つ。
クローディアの唇はなお嬉しげに、艶めかしく笑んだ。姉はまだ立ち上がろうとしている。それでこそお姉様。まだ終わらない、終わらせないわ。さあ――
『――だからもっと、もっと傷ついてちょうだい。もっとよ、お姉様!』
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