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第一章 その日、青い光が飛んだ。
37 優しさではないもの
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――わたしを、力に変えてほしい。
ユキナの言葉の意味を理解するのにかかった時間は、ほんの一瞬だった。しかし。
「本気で言っているんですか?」
シグリィは真顔でユキナを見上げ、問うた。「それをすればあなたは本当に消えますよ。終わりだ」
ユキナはにっこりと微笑んで、即答した。
『それは意外な言葉だね、シグ。君なら理解できるだろう?』
「―――」
なんのこったと首をひねったのはジオだ。その隣では、カミルが冷静を装って黙り込んでいるものの、緊張を隠しきれていない。
シグリィは口をつぐんだ。
外からは、何度も爆発音が聞こえていた。詠唱なしで無造作に放たれている術の連発を、シグリィの結界がかろうじて防いでいる状態だ。
岩山が何度も揺れ動き、あちこちからぱらぱらと石が落ちてくる。崩れる前に次の手を打たなくては。
ため息がこぼれた。
セレンが戻ってきてくれたなら、また別の方法があっただろうが。残念ながらそれをあてにする余裕はなさそうだ。あの闇色の少女は空を飛べる。となれば、カミルやジオが相手をするのも難しい――そもそも彼らは今、並の武器しか持ち合わせていないのだ。玄武の術を使えるらしいあの少女には、ほぼ通用しないだろう。
シグリィ自身は怪我人だ。長時間戦うのはつらい。
一発逆転を狙えるとすれば、確かにユキナの存在だけだった。
「……たしかに、そうですね」
『だろう? 遠慮なくそうしてくれればいいんだ』
シグリィの独り言のような呟きに、ユキナは軽快な言葉を返す。
「ちょ――待て、待てよユキナ」
慌てた声を上げたのはジオだった。先ほどから唯一動揺を全く隠せていない海の男は、柄にもない弱気な顔で、「ユキナ」と古い友人を呼ぶ。
「俺にはよく分からねェがよ、そんな簡単に決めていいのかよ。村の他の連中が聞いたらどう思うと思ってんだ? 親の術に利用されてるってのもアレだが、なんでまた犠牲になって消えるみたいなこと言ってんだよ――」
シグリィはそんなジオを感慨深く見つめる。――故郷のガナシュではとても頑なな、下手をすれば情がないようにも見えた男が。
(いや……違うな)
情がない、わけがなかった。シグリィは軽く首を振って思い直した。
たった一人でこの島を心配していた人物なのだ。ただ、その愛情の表現方法がとてもひねくれていただけで。
だとすれば――こうやって正直に心配を口にできる相手、自然にそう言える相手とは、ジオにとってどれほど偉大な存在なのだろうか。
『確かにみんなは止めるだろうね。だからみんなと顔を合わせないうちに済ませてしまいたいんだよ』
ユキナはジオに顔を向け、困った顔をする。『このまま戦いを長引かせると、あの女の子は確実に村に手を伸ばすよ。そうなったら手遅れだ。今のうちに手を打つしかない』
「だ――だが、連中はお前に会いたいだろうよ!」
『会ってどうする?』
ひたとジオの目を見つめる。
男は完全に、言葉を失った。
『死んだ人間は、生き返ってはいけないんだよ』
ゆっくりと視線をジオから自分の両手に下ろして、ユキナは呟いた。
『……ダメなんだ』
洞穴の中を沈黙が満たした。
その空気の中央で、細い指を握ったり開いたりしたユキナは、
『さあ、シグ』
顔を上げて、シグリィを呼んだ。『頼んだよ。怪我をしているところ申し訳ないけど、これは君にしかできないだろうから』
シグリィがそれに応えようと口を開きかけた、そのとき。
「ま……って」
か細い声が、彼らの動きを止めた。
全員が一斉に、声を主を見下ろした。
「ラナーニャ?」
カミルの腕の中に力なくおさまったまま。ラナーニャの片手はシグリィの手を離れ、ユキナのスカートの裾を掴もうとしていた。
「まって……リーディナ、いやだ――私を、置いて、いかない……で」
乾きかけていた涙が再び溢れ出す。まるで力の全てを涙に変えているかのように。
ユキナはラナーニャの傍らにかがみこんだ。
指で涙をすくって、優しく語りかける。
『ごめんね、ラナーニャ。わたしはリーディナじゃないんだ。最初見たときに分かったんだろう? 君はわたしに、だれ、と言った』
「―――」
『君にこの姿を見せるのは、きっと残酷だったんだね。でもね、ラナーニャ。わたしはリーディナの半身だから、これだけは分かるよ』
両手でラナーニャの頬を包みこむ。
ユキナはそのまま顔を近づけ、額同士をこつんと当てた。
目を閉じ、囁くように。
『――君が無事にこの術でここまで来られて良かった。リーディナのやりたかったことは確かに遂げられたはずだ。リーディナは――それに満足してる』
「――……」
『そしてわたしももうじき消える』
顔を離し、ラナーニャの髪を撫でて、ユキナは悪戯っぽく笑った。
『でもそれは君のためじゃない。安心していい。わたしは、わたしの村を護るためにそうするだけだ』
言い聞かせるように、一字一句をゆっくりと。
まるで言葉を形にして、そっとラナーニャの前に置こうとしているかのようだった。少女が受け取ろうとするまで、それが消えてしまわないように。
涙にぼやけていたラナーニャの黒い瞳が、色を深くした、気がした。
ユキナはすっと彼女から離れ、体を起こした。
『さてと。シグ、具体的にどうするかは君に任せるよ』
活発そうに輝くユキナの夕焼けの瞳に、シグリィは苦笑を返す。切り替えの早さは一級品だ。自分が消えることなど、本当に恐れていないに違いない。
けれど。そう。その気持ちなら。
――ユキナの言う通り、シグリィにも理解できる。
洞穴が大きく揺れた。落ちてくる岩石がどんどん大きさを増している。
内部を照らしていた魔力の灯火も、そろそろ限界だ。
「分かりました」
シグリィはそう言った。ユキナに手当てをしてもらった右手の指を動かし、痛みはあれど思うように動くことを確かめる。
「ただ――少し時間がかかる。時間稼ぎがいります」
『君は術を組むとき、洞穴の中にいる? 外に出る?』
「中にいなければ、あなたのご両親の力を使うことができません。とは言えこのままこの中にいるのは危険です。結界を張り直している場合ではありませんから」
『そうだね。ということは、君以外は外に出た方がいいかもしれない。ここへの攻撃を減らす意味でも――』
さすがにユキナが眉間にしわを寄せて、腕を組んだ。『でも外に出ても、戦えるとは言いがたいよね、みんな』
「俺らは西の人間だぞ」
『あの子は空を飛んでるんだよ』
唸るジオにあっさり言い返し、ユキナはため息をついて虚空を見やる。
『まあ、ぎりぎりまで中に留まって、準備できたら必要な人間だけ外に出る――なんてことをやると、入口辺りを狙い撃ちされるだけだし。やりようによっては外で走り回る方がいいのかも。ジオたちは体力に自信あるよね?』
「あ、当たり前だ」
『じゃあジオとそっちのお兄さんに囮になってもらおうか。まあうまくあの子を挑発できないと意味がないけど、あの子けっこう乗せやすい子だし――』
「待って」
ユキナの言葉を遮ったのは、ラナーニャだった。
シグリィは驚いた。ついさっきまで意気阻喪としていた少女が完全に正気づいていた。やつれきった顔のまま、それでも自力でカミルの腕から体を起こす――意外なほどスムーズな動作だ。
しかしそれも当然かもしれなかった。彼女はユキナの存在によって精神的な刺激を受けただけで、それ以外は何もダメージを負っていないのだ。
――気持ちが快復したというのなら。
ラナーニャは顔を上げ、必死の表情を見せた。
「私も、外に出る。囮になれる」
シグリィは即座に否定した。
「無理だ。危険すぎる」
「平気だ。第一私だけ洞穴に残っていても、シグリィの邪魔になるだけだろう? それくらいなら外で走り回る方がいい。――それに」
弱々しい笑みを浮かべて、ラナーニャは呟いた。
「……私の追手なら、私が一番囮に相応しいよ」
追手。
それだ。シグリィの心にずっと引っかかっていたもの。
あの闇色の少女は――ラナーニャの追手。十中八九シレジア人なのだ。
『あの黒い女の子は、君の知り合いなのかな』
ユキナがラナーニャを窺うように見る。『顔を見れば、分かるかもしれない?』
ラナーニャは目を閉じた。
「――知ってる相手だと思う。声、聞き覚えがあるんだ。直接会えば、分かると……思う」
「ラナーニャ、それは」
記憶が戻りそうなのか。そう言いかけて、シグリィは口をつぐんだ。
すぐに瞼を上げた少女の横顔に、弱気を押し殺したような、壊れそうな気迫が満ちていた。
「外に出たい。足手まといになることは分かってる。でも、そもそも私の追手なんだ。何も知らずにいるのはつらいんだ。お願いだから」
ラナーニャはカミルを見て、ジオを見て、ユキナを見て、そして――シグリィを見た。
訴えかけるように。真心を、伝えようとするかのように。
――駄目だというのはとても簡単なことだ。けれど。
「分かった」
うなずいた。「君を時間稼ぎの中心にする。カミルとジオさんに護ってもらう。倒すことじゃなく撹乱することが目的なら、不可能じゃないだろう。それでいいな?」
ラナーニャが顔を輝かせた。
一度は気の進まない様子をしたジオも、そんな少女を見て肚をくくったようだ。
「しょうがねえ。俺も加えてくれンだな? いっちょ暴れてやらあ」
力こぶを作る男にユキナが笑った。『頼もしいね』と。
カミルとジオに指示を与えながら、シグリィは頭の片隅で別のことを考えていた。
――リーディナ、と、今ここにいない人を呼んでいたラナーニャ。
そして、ユキナにリーディナという人を重ねて、混乱した発言をしたこと。
彼女の記憶は、確かに蘇りつつあるのだ。
ほんの一日前まで、名を呼ばれることさえ拒絶していた。その彼女が、自ら〝追手〟に会おうとしている――
「カミル。最後の一手はお前に任せる」
そう言って指示を締めくくる。「そのとき鬱憤を晴らせ。心配しなくてもセレンなら大丈夫だから、今は気にするな」
年上の青年が虚を突かれたように硬直する。シグリィは軽く笑って、「だから、外ではラナーニャを頼む」と言い足した。
「……はい」
カミルが自嘲のため息とともに言ったのを皮切りに、彼らは各々立ち上がった。
どん、とまた一撃岩山を襲い、ぱらぱらと小石が降る。
魔力の灯火は消える直前だった。互いの表情が暗がりに覆われ、はっきりと視認できない。
最初に外に出るのはカミル、次にジオ、そしてラナーニャが出ることに決まった。ユキナはシグリィの隣にいた。相変わらず泰然と、これから起こるすべてが遊びかのような風情で。
「では」
カミルが剣を抜き、ジオが棍棒を持って、外に向かった。
その後ろにつこうとしたラナーニャを、シグリィは呼び止めた。
「ラナーニャ」
少女が足を止め、振り向く。
灯火が消え、その姿が完全に暗がりに没した。
カミルたちが外に飛び出す足音、奇声じみた高笑いが順に聞こえてくる。
「君の思うようにすればいい。君の都合のいいように。私たちはそれを尊重するよ。君が納得できるように戦えば、それでいい」
「――……」
どうして、とかすかな問いがあった。
どうして、そんなに優しいんだ。
優しさじゃない。シグリィは穏やかに答える。
「戦い慣れている自負と――それから、そうしなくては君と出会った甲斐がないからな。自分勝手とか自己中心的というものがあるのは、人それぞれに心があるからだ。私は君の心を殺すために君と知り合ったとは思いたくない」
「だったら」
ラナーニャは弾かれたように言い返してくる。
「だったら、シグリィの心はどうなるんだ。カミルもセレンも、ジオも――」
「彼らは大人だ。振り回されるだけで終わったりはしない。それから私は」
シグリィは、傍らにいるユキナのことを思った。
悪戯好きそうな年長の娘も今は黙って、彼らの会話を聞いているだけ。否、聞こえないふりを――している。
――生前のユキナのことを、シグリィは知らない。
だが今ここにいるユキナのことなら、分かる。
「……私は、そもそもこうでなくては意味がない」
「シ、」
「行くんだ。君が会わなくてはいけない人のところへ」
ラナーニャが言葉を詰まらせる気配がした。
暗いとは言え、シグリィには少女の輪郭が分かる。耳を澄ませば呼吸さえ聞こえるような気がした。緊張に張り詰め、ともすれば彼女は呼吸をすることを忘れてしまうかもしれない、そんな危うさを秘めた音。
それが、ひとつ大きく息を吸って。
「――行ってくる」
そして、ラナーニャは最後に言った。
「死な、ないように、立ち回る、から」
――だから。
それ以上の言葉はなかった。
くるりと身を翻し、少女は外からかすかに光が差し込む入口へと駆けていく。
『……死なないように、か』
ユキナが小さく呟いた。
『あれを言うのが一番、苦しいんだろうね』
「………」
『あの子にそう言わせた、その責任を取らないとね。必ず成功させないと』
語尾に茶化すような、悪戯な響きがある。
シグリィは苦笑した。
「成功させますよ」
――そうでなくては、〝私の〟意味がないから。
ユキナは何も言わなかった。軽やかに聞こえないふりをして、彼女は入口を見た。
ラナーニャが外へ出た瞬間、空気が変わった。
『勝負だね』
外にある混沌とした気配がいっそう膨らんだ。おそらくはラナーニャの姿に反応して。それが吉と出るか、凶と出るか――
洞穴の外は曇天に覆われている。
それでも、ずっと魔力の灯火に頼っていた目に、自然光はまぶしかった。
ラナーニャは思わず腕で顔をかばい、目を細めた。
先に出たカミルとジオがいる。二人の背中に動揺はなく、大きくて頼もしい。
先ほどから岩山を攻めたてていた攻撃は止んでいた。
――リーディナ。
その名を思い出したあの瞬間。心の奥底にあった白い空間から、ひとつの情景が湧いた。
とても愛しいあの人の命が奪われる光景。
顔の前から腕をどかし、空を見上げる。
思っていたよりもずっと低い位置に、その少女はいた。
――〝会ったら分かると思う〟
そうシグリィたちに説明したのは、半分くらい嘘だ。
ラナーニャは呟いた。
「……思い出したくなかった。私が愛おしく思っていたのは、リーディナだけじゃ……ない」
全て夢であったなら。幻であったなら。
虚構であったなら、どんなにか嬉しかっただろう――
「信じたくなかったんだ」
曇り空を背景にして、黒いドレスをまとった少女が、歓喜に打ち震えるのが見える。
本当にきれいだ。ラナーニャは心からそう思った。彼女の濡れ羽色の長い髪も、宝石のような瞳も、本当に大好きだったのだ。思えばまともに言葉を交わすことさえ滅多になかった、そんな不自然な関係であっても。
ラナーニャの知る彼女はいつも自信に満ち溢れ、とても誇らし気だった。それがどれほど魅力を増幅させていたことか――
女神のようと言われながら、ずっとうつむいて生きてきた自分よりよほど、
――美しかったのだ、彼女は。
黒いドレスの裾が揺れる。
しなやかな両腕を開いて、闇色の少女が笑った。とても無垢で、そしてとても歪んだその笑み。
『お姉様……! 探したのよ、やっと出てきてくださったのね!』
ラナーニャは唇を噛みしめた。血の味がするほどに。
『ああ、本当の体でお姉様にお会いできなかったのがとても残念! でも、オーディには自慢できてよ。オーディはこっちに力の欠片を飛ばすことさえできないのだから! うふふ、きっとのたうち回って悔しがるのだわ――愉快だこと!』
「……ひとつだけ、聞かせてくれ」
空から落ちてくる調子のいい語り言をすべて聞き流して、ラナーニャは低く声を出した。
闇色の少女が、興を殺がれたように口をとがらせた。
『なあに、せっかくいい気分なのに。でも仕方がないわね、お姉様のお望みなら。何をお聞きになりたいの?』
「――リーディナを」
腹に精一杯の力をこめた。そうしないと、声がかすれてとても外に出そうになかった。
震える。唇が。心が。
「リーディナを殺したのは、お前なんだな?」
脳裏の片隅で、あの光景が何度も瞬いている。
確かめるまでもなく、それは彼女自身が目にしたこと――
信じたくなくて、幾重にも封印をかけて、真っ白に変えて、心の奥底に沈めたもの。
風が吹いた。あるいは、風が喚ばれたのだろうか。
天と地。二人の少女の黒髪が、ふわりと広がる。
それとともに、ラナーニャのよく見知った顔が――否、見知っていたはずなのにまるで別人の非情な顔が。
満足そうに、笑った。
『その通りよ! お姉様がその目で見た通り! わたくしがこの手で殺したわ……!』
――夢であったならとすがる思いを残酷に打ち砕いて
ラナーニャは初めて――荒ぶる心のままに、叫びを上げた。何が言いたかったのか己にも分からない、ただただ痛みに突き動かされて、喉を割らんばかりの力で。
「クローディアーーーーーーッ!!!」
お姉様、と空の妹が嬉しげに応える。
風は海の冷たさをのせて、ひんやりとラナーニャの心の傍を通り過ぎた。
ユキナの言葉の意味を理解するのにかかった時間は、ほんの一瞬だった。しかし。
「本気で言っているんですか?」
シグリィは真顔でユキナを見上げ、問うた。「それをすればあなたは本当に消えますよ。終わりだ」
ユキナはにっこりと微笑んで、即答した。
『それは意外な言葉だね、シグ。君なら理解できるだろう?』
「―――」
なんのこったと首をひねったのはジオだ。その隣では、カミルが冷静を装って黙り込んでいるものの、緊張を隠しきれていない。
シグリィは口をつぐんだ。
外からは、何度も爆発音が聞こえていた。詠唱なしで無造作に放たれている術の連発を、シグリィの結界がかろうじて防いでいる状態だ。
岩山が何度も揺れ動き、あちこちからぱらぱらと石が落ちてくる。崩れる前に次の手を打たなくては。
ため息がこぼれた。
セレンが戻ってきてくれたなら、また別の方法があっただろうが。残念ながらそれをあてにする余裕はなさそうだ。あの闇色の少女は空を飛べる。となれば、カミルやジオが相手をするのも難しい――そもそも彼らは今、並の武器しか持ち合わせていないのだ。玄武の術を使えるらしいあの少女には、ほぼ通用しないだろう。
シグリィ自身は怪我人だ。長時間戦うのはつらい。
一発逆転を狙えるとすれば、確かにユキナの存在だけだった。
「……たしかに、そうですね」
『だろう? 遠慮なくそうしてくれればいいんだ』
シグリィの独り言のような呟きに、ユキナは軽快な言葉を返す。
「ちょ――待て、待てよユキナ」
慌てた声を上げたのはジオだった。先ほどから唯一動揺を全く隠せていない海の男は、柄にもない弱気な顔で、「ユキナ」と古い友人を呼ぶ。
「俺にはよく分からねェがよ、そんな簡単に決めていいのかよ。村の他の連中が聞いたらどう思うと思ってんだ? 親の術に利用されてるってのもアレだが、なんでまた犠牲になって消えるみたいなこと言ってんだよ――」
シグリィはそんなジオを感慨深く見つめる。――故郷のガナシュではとても頑なな、下手をすれば情がないようにも見えた男が。
(いや……違うな)
情がない、わけがなかった。シグリィは軽く首を振って思い直した。
たった一人でこの島を心配していた人物なのだ。ただ、その愛情の表現方法がとてもひねくれていただけで。
だとすれば――こうやって正直に心配を口にできる相手、自然にそう言える相手とは、ジオにとってどれほど偉大な存在なのだろうか。
『確かにみんなは止めるだろうね。だからみんなと顔を合わせないうちに済ませてしまいたいんだよ』
ユキナはジオに顔を向け、困った顔をする。『このまま戦いを長引かせると、あの女の子は確実に村に手を伸ばすよ。そうなったら手遅れだ。今のうちに手を打つしかない』
「だ――だが、連中はお前に会いたいだろうよ!」
『会ってどうする?』
ひたとジオの目を見つめる。
男は完全に、言葉を失った。
『死んだ人間は、生き返ってはいけないんだよ』
ゆっくりと視線をジオから自分の両手に下ろして、ユキナは呟いた。
『……ダメなんだ』
洞穴の中を沈黙が満たした。
その空気の中央で、細い指を握ったり開いたりしたユキナは、
『さあ、シグ』
顔を上げて、シグリィを呼んだ。『頼んだよ。怪我をしているところ申し訳ないけど、これは君にしかできないだろうから』
シグリィがそれに応えようと口を開きかけた、そのとき。
「ま……って」
か細い声が、彼らの動きを止めた。
全員が一斉に、声を主を見下ろした。
「ラナーニャ?」
カミルの腕の中に力なくおさまったまま。ラナーニャの片手はシグリィの手を離れ、ユキナのスカートの裾を掴もうとしていた。
「まって……リーディナ、いやだ――私を、置いて、いかない……で」
乾きかけていた涙が再び溢れ出す。まるで力の全てを涙に変えているかのように。
ユキナはラナーニャの傍らにかがみこんだ。
指で涙をすくって、優しく語りかける。
『ごめんね、ラナーニャ。わたしはリーディナじゃないんだ。最初見たときに分かったんだろう? 君はわたしに、だれ、と言った』
「―――」
『君にこの姿を見せるのは、きっと残酷だったんだね。でもね、ラナーニャ。わたしはリーディナの半身だから、これだけは分かるよ』
両手でラナーニャの頬を包みこむ。
ユキナはそのまま顔を近づけ、額同士をこつんと当てた。
目を閉じ、囁くように。
『――君が無事にこの術でここまで来られて良かった。リーディナのやりたかったことは確かに遂げられたはずだ。リーディナは――それに満足してる』
「――……」
『そしてわたしももうじき消える』
顔を離し、ラナーニャの髪を撫でて、ユキナは悪戯っぽく笑った。
『でもそれは君のためじゃない。安心していい。わたしは、わたしの村を護るためにそうするだけだ』
言い聞かせるように、一字一句をゆっくりと。
まるで言葉を形にして、そっとラナーニャの前に置こうとしているかのようだった。少女が受け取ろうとするまで、それが消えてしまわないように。
涙にぼやけていたラナーニャの黒い瞳が、色を深くした、気がした。
ユキナはすっと彼女から離れ、体を起こした。
『さてと。シグ、具体的にどうするかは君に任せるよ』
活発そうに輝くユキナの夕焼けの瞳に、シグリィは苦笑を返す。切り替えの早さは一級品だ。自分が消えることなど、本当に恐れていないに違いない。
けれど。そう。その気持ちなら。
――ユキナの言う通り、シグリィにも理解できる。
洞穴が大きく揺れた。落ちてくる岩石がどんどん大きさを増している。
内部を照らしていた魔力の灯火も、そろそろ限界だ。
「分かりました」
シグリィはそう言った。ユキナに手当てをしてもらった右手の指を動かし、痛みはあれど思うように動くことを確かめる。
「ただ――少し時間がかかる。時間稼ぎがいります」
『君は術を組むとき、洞穴の中にいる? 外に出る?』
「中にいなければ、あなたのご両親の力を使うことができません。とは言えこのままこの中にいるのは危険です。結界を張り直している場合ではありませんから」
『そうだね。ということは、君以外は外に出た方がいいかもしれない。ここへの攻撃を減らす意味でも――』
さすがにユキナが眉間にしわを寄せて、腕を組んだ。『でも外に出ても、戦えるとは言いがたいよね、みんな』
「俺らは西の人間だぞ」
『あの子は空を飛んでるんだよ』
唸るジオにあっさり言い返し、ユキナはため息をついて虚空を見やる。
『まあ、ぎりぎりまで中に留まって、準備できたら必要な人間だけ外に出る――なんてことをやると、入口辺りを狙い撃ちされるだけだし。やりようによっては外で走り回る方がいいのかも。ジオたちは体力に自信あるよね?』
「あ、当たり前だ」
『じゃあジオとそっちのお兄さんに囮になってもらおうか。まあうまくあの子を挑発できないと意味がないけど、あの子けっこう乗せやすい子だし――』
「待って」
ユキナの言葉を遮ったのは、ラナーニャだった。
シグリィは驚いた。ついさっきまで意気阻喪としていた少女が完全に正気づいていた。やつれきった顔のまま、それでも自力でカミルの腕から体を起こす――意外なほどスムーズな動作だ。
しかしそれも当然かもしれなかった。彼女はユキナの存在によって精神的な刺激を受けただけで、それ以外は何もダメージを負っていないのだ。
――気持ちが快復したというのなら。
ラナーニャは顔を上げ、必死の表情を見せた。
「私も、外に出る。囮になれる」
シグリィは即座に否定した。
「無理だ。危険すぎる」
「平気だ。第一私だけ洞穴に残っていても、シグリィの邪魔になるだけだろう? それくらいなら外で走り回る方がいい。――それに」
弱々しい笑みを浮かべて、ラナーニャは呟いた。
「……私の追手なら、私が一番囮に相応しいよ」
追手。
それだ。シグリィの心にずっと引っかかっていたもの。
あの闇色の少女は――ラナーニャの追手。十中八九シレジア人なのだ。
『あの黒い女の子は、君の知り合いなのかな』
ユキナがラナーニャを窺うように見る。『顔を見れば、分かるかもしれない?』
ラナーニャは目を閉じた。
「――知ってる相手だと思う。声、聞き覚えがあるんだ。直接会えば、分かると……思う」
「ラナーニャ、それは」
記憶が戻りそうなのか。そう言いかけて、シグリィは口をつぐんだ。
すぐに瞼を上げた少女の横顔に、弱気を押し殺したような、壊れそうな気迫が満ちていた。
「外に出たい。足手まといになることは分かってる。でも、そもそも私の追手なんだ。何も知らずにいるのはつらいんだ。お願いだから」
ラナーニャはカミルを見て、ジオを見て、ユキナを見て、そして――シグリィを見た。
訴えかけるように。真心を、伝えようとするかのように。
――駄目だというのはとても簡単なことだ。けれど。
「分かった」
うなずいた。「君を時間稼ぎの中心にする。カミルとジオさんに護ってもらう。倒すことじゃなく撹乱することが目的なら、不可能じゃないだろう。それでいいな?」
ラナーニャが顔を輝かせた。
一度は気の進まない様子をしたジオも、そんな少女を見て肚をくくったようだ。
「しょうがねえ。俺も加えてくれンだな? いっちょ暴れてやらあ」
力こぶを作る男にユキナが笑った。『頼もしいね』と。
カミルとジオに指示を与えながら、シグリィは頭の片隅で別のことを考えていた。
――リーディナ、と、今ここにいない人を呼んでいたラナーニャ。
そして、ユキナにリーディナという人を重ねて、混乱した発言をしたこと。
彼女の記憶は、確かに蘇りつつあるのだ。
ほんの一日前まで、名を呼ばれることさえ拒絶していた。その彼女が、自ら〝追手〟に会おうとしている――
「カミル。最後の一手はお前に任せる」
そう言って指示を締めくくる。「そのとき鬱憤を晴らせ。心配しなくてもセレンなら大丈夫だから、今は気にするな」
年上の青年が虚を突かれたように硬直する。シグリィは軽く笑って、「だから、外ではラナーニャを頼む」と言い足した。
「……はい」
カミルが自嘲のため息とともに言ったのを皮切りに、彼らは各々立ち上がった。
どん、とまた一撃岩山を襲い、ぱらぱらと小石が降る。
魔力の灯火は消える直前だった。互いの表情が暗がりに覆われ、はっきりと視認できない。
最初に外に出るのはカミル、次にジオ、そしてラナーニャが出ることに決まった。ユキナはシグリィの隣にいた。相変わらず泰然と、これから起こるすべてが遊びかのような風情で。
「では」
カミルが剣を抜き、ジオが棍棒を持って、外に向かった。
その後ろにつこうとしたラナーニャを、シグリィは呼び止めた。
「ラナーニャ」
少女が足を止め、振り向く。
灯火が消え、その姿が完全に暗がりに没した。
カミルたちが外に飛び出す足音、奇声じみた高笑いが順に聞こえてくる。
「君の思うようにすればいい。君の都合のいいように。私たちはそれを尊重するよ。君が納得できるように戦えば、それでいい」
「――……」
どうして、とかすかな問いがあった。
どうして、そんなに優しいんだ。
優しさじゃない。シグリィは穏やかに答える。
「戦い慣れている自負と――それから、そうしなくては君と出会った甲斐がないからな。自分勝手とか自己中心的というものがあるのは、人それぞれに心があるからだ。私は君の心を殺すために君と知り合ったとは思いたくない」
「だったら」
ラナーニャは弾かれたように言い返してくる。
「だったら、シグリィの心はどうなるんだ。カミルもセレンも、ジオも――」
「彼らは大人だ。振り回されるだけで終わったりはしない。それから私は」
シグリィは、傍らにいるユキナのことを思った。
悪戯好きそうな年長の娘も今は黙って、彼らの会話を聞いているだけ。否、聞こえないふりを――している。
――生前のユキナのことを、シグリィは知らない。
だが今ここにいるユキナのことなら、分かる。
「……私は、そもそもこうでなくては意味がない」
「シ、」
「行くんだ。君が会わなくてはいけない人のところへ」
ラナーニャが言葉を詰まらせる気配がした。
暗いとは言え、シグリィには少女の輪郭が分かる。耳を澄ませば呼吸さえ聞こえるような気がした。緊張に張り詰め、ともすれば彼女は呼吸をすることを忘れてしまうかもしれない、そんな危うさを秘めた音。
それが、ひとつ大きく息を吸って。
「――行ってくる」
そして、ラナーニャは最後に言った。
「死な、ないように、立ち回る、から」
――だから。
それ以上の言葉はなかった。
くるりと身を翻し、少女は外からかすかに光が差し込む入口へと駆けていく。
『……死なないように、か』
ユキナが小さく呟いた。
『あれを言うのが一番、苦しいんだろうね』
「………」
『あの子にそう言わせた、その責任を取らないとね。必ず成功させないと』
語尾に茶化すような、悪戯な響きがある。
シグリィは苦笑した。
「成功させますよ」
――そうでなくては、〝私の〟意味がないから。
ユキナは何も言わなかった。軽やかに聞こえないふりをして、彼女は入口を見た。
ラナーニャが外へ出た瞬間、空気が変わった。
『勝負だね』
外にある混沌とした気配がいっそう膨らんだ。おそらくはラナーニャの姿に反応して。それが吉と出るか、凶と出るか――
洞穴の外は曇天に覆われている。
それでも、ずっと魔力の灯火に頼っていた目に、自然光はまぶしかった。
ラナーニャは思わず腕で顔をかばい、目を細めた。
先に出たカミルとジオがいる。二人の背中に動揺はなく、大きくて頼もしい。
先ほどから岩山を攻めたてていた攻撃は止んでいた。
――リーディナ。
その名を思い出したあの瞬間。心の奥底にあった白い空間から、ひとつの情景が湧いた。
とても愛しいあの人の命が奪われる光景。
顔の前から腕をどかし、空を見上げる。
思っていたよりもずっと低い位置に、その少女はいた。
――〝会ったら分かると思う〟
そうシグリィたちに説明したのは、半分くらい嘘だ。
ラナーニャは呟いた。
「……思い出したくなかった。私が愛おしく思っていたのは、リーディナだけじゃ……ない」
全て夢であったなら。幻であったなら。
虚構であったなら、どんなにか嬉しかっただろう――
「信じたくなかったんだ」
曇り空を背景にして、黒いドレスをまとった少女が、歓喜に打ち震えるのが見える。
本当にきれいだ。ラナーニャは心からそう思った。彼女の濡れ羽色の長い髪も、宝石のような瞳も、本当に大好きだったのだ。思えばまともに言葉を交わすことさえ滅多になかった、そんな不自然な関係であっても。
ラナーニャの知る彼女はいつも自信に満ち溢れ、とても誇らし気だった。それがどれほど魅力を増幅させていたことか――
女神のようと言われながら、ずっとうつむいて生きてきた自分よりよほど、
――美しかったのだ、彼女は。
黒いドレスの裾が揺れる。
しなやかな両腕を開いて、闇色の少女が笑った。とても無垢で、そしてとても歪んだその笑み。
『お姉様……! 探したのよ、やっと出てきてくださったのね!』
ラナーニャは唇を噛みしめた。血の味がするほどに。
『ああ、本当の体でお姉様にお会いできなかったのがとても残念! でも、オーディには自慢できてよ。オーディはこっちに力の欠片を飛ばすことさえできないのだから! うふふ、きっとのたうち回って悔しがるのだわ――愉快だこと!』
「……ひとつだけ、聞かせてくれ」
空から落ちてくる調子のいい語り言をすべて聞き流して、ラナーニャは低く声を出した。
闇色の少女が、興を殺がれたように口をとがらせた。
『なあに、せっかくいい気分なのに。でも仕方がないわね、お姉様のお望みなら。何をお聞きになりたいの?』
「――リーディナを」
腹に精一杯の力をこめた。そうしないと、声がかすれてとても外に出そうになかった。
震える。唇が。心が。
「リーディナを殺したのは、お前なんだな?」
脳裏の片隅で、あの光景が何度も瞬いている。
確かめるまでもなく、それは彼女自身が目にしたこと――
信じたくなくて、幾重にも封印をかけて、真っ白に変えて、心の奥底に沈めたもの。
風が吹いた。あるいは、風が喚ばれたのだろうか。
天と地。二人の少女の黒髪が、ふわりと広がる。
それとともに、ラナーニャのよく見知った顔が――否、見知っていたはずなのにまるで別人の非情な顔が。
満足そうに、笑った。
『その通りよ! お姉様がその目で見た通り! わたくしがこの手で殺したわ……!』
――夢であったならとすがる思いを残酷に打ち砕いて
ラナーニャは初めて――荒ぶる心のままに、叫びを上げた。何が言いたかったのか己にも分からない、ただただ痛みに突き動かされて、喉を割らんばかりの力で。
「クローディアーーーーーーッ!!!」
お姉様、と空の妹が嬉しげに応える。
風は海の冷たさをのせて、ひんやりとラナーニャの心の傍を通り過ぎた。
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