月闇の扉

瑞原チヒロ

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第一章 その日、青い光が飛んだ。

15 歓迎されざる来客

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 開いた窓の外、空気がほんのわずかに動いた。
 時を同じくして空を通りすぎて行った鳥に、どこか慌てて飛び立ったような気配がある。

(……誰か来たな)

 シグリィは階下に意識を傾けた。

(ハヤナたちが帰ってきたのか……それとも、来客か)

 ハヤナやジオが戻ってきただけなら問題はないが。もしも他の村の人間がやってきたのだとしたら。

 ここは村長の家だから、村人が来るのも珍しいことではない。
 それでも、今このタイミングでの来訪となると、が気にかかる。

(私たちのことか。それとも彼女のことか)

 視線を目の前のベッドに移す。
 記憶を失くした少女は、窓から見える空をずっと見つめている。
 
 ――《印》を四つ全て持っている。特殊な存在なんだ――
 
 それを告げたとき、彼女は目に見えて動揺した。それはただ“驚いた”だけではない反応のように、彼には思えた。

 この世界の一般常識を知っている人間なら、彼の告白に驚いて当たり前だ。

 けれど何か――そういった驚きとは違うものがあったような気がする。

 彼女が次に何を言うのか、彼は強く興味を引かれた。
 だが彼女は長い沈黙のあとに「そうか」とつぶやいたきり、それ以上何もいてはこなかった。

「………」

 そのときの彼女の様子を思い出しながら、シグリィは目の前の少女を見つめた。

 ――何を思っているのだろう?

 口に出して問いかけてしまえば楽なような気もする。
 だが、訊いてしまってはいけないような気もする。

 決断できない自分に気づいて、彼は微苦笑した。――旅をして数年、他人と関わるための機微を少しは学んできたつもりだったけれど、まだまだ足りないようだ。

(……後でカミルとセレンに相談するか)

 視線を動かして、少女と同じ空を見る。
 快晴の青の中には雲が泳いでいる。≪月闇の扉≫の惨劇が嘘のような澄んだ空。

『空が全ての澱を地上に吐き出したのだ』

 ふと、そんな一文が胸に浮かんだ。

 シグリィは軽く眉根を寄せた。
 今の言葉は――たしか本で見たものだ。発言者は誰だったろう――?

「――あの、シグ、リィ」

 少女が肩ごしに振り向いて、ためらいがちに名を呼んだ。
 シグリィはすぐに思考を切り替えて、「どうした?」と彼女を見た。

「あっちが」

 と彼女は天空を指さす。

「あっちが、さっきの海岸のある方向か?」
「ああ。君はこの窓から飛び降りてまっすぐ行っただろう?」

 シグリィがそう答えると、少女は頬を赤らめた。空を指さしていた手を引いて肩をすぼめ、

「……体が勝手に動いたんだ……お、落ちつかなくて」

 目一杯恐縮したように身を縮める。
 別に恥ずかしいことではないよ、とシグリィは微笑んだ。

「何も考えずに体が動くということは、君は元々活発なんだろうな。覚えがある?」
「――いや――」

 失われた記憶を探るように視線を泳がせた顔が、ふいに行き止まりに突き当たったかのような表情を浮かべる。

「違う……気がする」
「違う?」
「その、“活発”と言われると……違う、気がする」

 広げた両手を見下ろす。知らないものでも見る目でじっくり掌を観察したあと、今度は視線を窓の外に向けて。

 それから再び、途方に暮れたような声で。

「夢中で走っていた……でも、何かに追われているような、……違う、うまく説明できないけれど、とにかく『その場にいてはいけない』と」

 ぽつ、ぽつ、と形のないものを言葉に紡ごうとする。

「――だから、動くのが好きとか、動いていると楽とか……そういう風には、思えなかった。さっきは」

 開いていた掌を軽く握り、ため息をつく。
 そして顔をシグリィに向け、ぎこちなく笑った。

「今も、落ちつかないんだ。じっとしているのが不安――なんだ」
「そうか」

 シグリィは少し考え、おもむろに立ち上がった。
 少女が怪訝そうな顔をする。そんな彼女に手を差し出して。

「少し外へ出て歩こう。大丈夫、私と一緒なら誰も反対しない」

 彼女はほんの少し戸惑いを見せたあと、そっと視線を緩めて彼の手を取った。


*****


 チェッタはダッドレイという男が心底嫌いだ。その顔を見れば背筋に悪寒が走るほどの嫌悪感を覚える。

 いつも灰色の瞳で自分を見下ろすように見る、この男が自分の“仲間”だということが、いまだに受け入れられないのだ。

 帰れよとわめくチェッタを無視して、場は進んでいった。マーサは丁寧にダッドレイを部屋に導き入れ、彼を座らせるとお茶を出そうとした。

「いらない。座れ、マーサ」

 すげなく断り、ダッドレイは腕を組む。
 この男はマーサよりひとつ年下らしいのに、常にこういう態度を取る。それがチェッタには気に入らない。

 マーサは大人しく、彼と同じテーブルについた。

「一体どうしたの、レイ」
「その呼び方はやめろ」

 こいつの眉間のしわはきっと一生消えることがないに違いない。そんな険悪な顔のまま、彼はマーサではない別の方向を一瞥する。

 その視線が何を確認したのかに気づいて、チェッタは吠えた。

「あいつらのことは文句いうんじゃねえよ! マーサがきめたんだからな!」
「黙れよバカガキ。マーサの立場はなんだ? 腐っても長だろうが? 長ってのは村を護るためにいるんだ。だが」

 唇の端が引きつったように上がる。

「――今回のことは到底容認しがたい。村に入れた《印》持ちはあれで全員なのか?」

 顎で示す先に、気配を消すようにして立っていた男女がいる。

 ジオが連れてきた《印》持ち。黒髪の女は困ったように肩をすくめ、その隣で淡い茶髪の男は表情をぴくりとも動かさずにマーサに声をかける。

「我々は席をはずしたほうが?」

 しかしマーサが返事をするより早く、ダッドレイの刃のような声が返る。

「いろよ。自分たちの立場を思い知れ。あんたら歓迎されてないんだよ」
「違うわダッドレイ。それはあなただけよ」

 マーサが落ちついた声音で、しかしきっぱりとそう告げる。
 ダッドレイは片眉を跳ね上げた。

「じゃあ言い替えてやるよ。“村の連中は心のどこかで《印》持ちを怖がり、嫌悪してる。できることなら一緒にはいたくない”――否定できるか?」
「てめえ、ダッドレイ!」

 とっさにチェッタが声を荒らげたのは――

 胸のどこかに、突き刺さる言葉だったからだ。

 痛みを拒絶して生まれた衝動のまま、チェッタはダッドレイに掴みかかった。しかしダッドレイはまともに取り合うことなく、ただ軽く手を動かす。

 それだけの動作だったのに、殴りかかった力は軽く受け流されてしまった。

「………!?」

 何が起こったのか分からずにチェッタはダッドレイの前で立ちすくむ。灰色の瞳は、氷のような視線で。

「どけ。今俺が話しているのはマーサだ」
「………っ」
「チェッタ、ごめんなさいね。今は大人しくしていて」

 長姉の穏やかな声が、熱していた弟の心をほんの少し慰めた。

 チェッタは黙って、姉と客の間からどいた。けれど一人で立っている気にもなれず、どこに落ち着こうかと頭を巡らせて――

 そして、見つけた場所に軽く走り寄る。

「チェッタ君?」

 目の前に来た子供に、長い黒髪の旅人がきょとんとする。まだ幼いチェッタよりずっと背の高いその女を背にするように立ち、チェッタは両腕を広げた。

 ソファのダッドレイは、旅人の女を護るかのように立った少年を一瞥した。その視線が何か言いたげな光を宿す――しかしそれも一瞬。

「……言いたいことはもう一つある。マーサ」

 改めてマーサと向き直り、彼は静かに口を開いた。

「昨夜、流れ星が落ちたのを知っているか? 青い星だ」
「……それがどうしたの? レイ」
「俺は家の窓からあれを見た。お前らも見たんだろう? あれを見たとき、俺は体がすくむような恐怖を覚えたよ。生まれてこの方、青い流れ星なんか見たことも聞いたこともない。つまり」

 つまり。

「――あれはまさしく、“天の異変”だ。天に異変あるとき、世界に異変が起こる」

 それは≪月闇の扉≫のように。

 大陸で生きる者たちが、無意識にでも知っていることだ。天が動くとき、地も同時に動くことを。

 天にいつもと違う異変があるとき、それは必ず地の異変につながる。『流れ星は人となって地上に下りる』という言い伝えも、あるいは天の異変が地に何かをもたらすという考えから生まれたのかもしれない。

 ――ダッドレイは天の異変を見たと言う。
 そして、この男は。

「昨夜……誰かを、この屋敷に連れこんだな? マーサ」

 灰色の瞳がマーサを鋭く貫く。
 だが、マーサはぴくりとも表情を動かさなかった。

「気づいていたのね」

 落ち着き払った姉の声。ダッドレイはふんと鼻を鳴らす。

「俺も外にいたからな。あのときは――空をもっとよく見る必要があった。地上もな」
「あら。それで、異変はあった?」
「しらばっくれるな。それはお前がよく知っているだろう」
「私が決めたことです」

 マーサはほんの少しも身動きしないまま、そう言った。

「この村の長は私です。ハヤナもユドクリフも、そしてみんなもそれを認めてくれました。私に従いなさい、ダッドレイ」

 ――。優しい色の瞳を細めて、マーサは一句一句を丁寧に紡いでいく。

「昨夜見つかったあの子は、ひとまずこの村に置きます。そして本人にその意思があるのなら、そのままこの村にいさせます。あの子がどこの誰であっても――ダッドレイ、それがこの村のルールです」



 ――居間から聞こえてきたのは、とても優しく、とても凛々しい言葉。

「………」

 マーサの声だ。階段の下から、伸びやかに聞こえてくる。その姿は見えないのに、脳裏には凛とした女性のたたずまいが像を結ぶ。

 ――これが、この村の長。

「どうした?」

 隣にいたシグリィに声をかけられて、彼女ははっと顔を上げた。

「苦しいのか?」

 そう言われて気づいた。自分はなぜ、胸元をかきむしっているのだろう。なぜその手が震えているのだろう――。
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