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Story 40
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新しい年を迎えて、慌ただしさが落ち着いた一月二十日。
日曜日だというのに、仁寿は仕事の日よりも早く起きて入念に顔を洗い、髪を整え、ワイシャツにネクタイをしめた。
今日は、いよいよ彩の両親に挨拶をしにいく日だ。昨夜ちゃんと寝たのかどうかも定かではないくらい緊張している。大学入試や医師国家試験の時ですら、こんな緊張感は味わったことがない。何度も挨拶の言葉を練習して、大丈夫と自分に暗示をかける。
――頑張れ、僕。彩さんとの未来のために!
そわそわと落ち着かない様子で約束の時間になるのを待つ。そして、午前九時半。
仁寿はスーツのジャケットを颯爽と羽織り、コートを腕に掛けて家を飛び出した。老舗の和菓子店で頼んでおいた手土産用の菓子を受け取って、彩のアパートへ急ぐ。
アパートに着くと、既に彩が駐車場の前で待っていた。彩も、普段より少しだけかしこまった服装をしている。上着のコートは、あの夜に仁寿がプレゼントした黒いチェスターコートだ。
路肩に車を停めると、彩が助手席のドアを開けた。
「おはようございます、仁寿さん」
「おはよう。もしかして、ずっと待ってた?」
「いいえ、さっき来たばかりです」
彩が助手席に乗り込んだ瞬間、ふわりとコーヒーのいい香りが漂う。
「今日も寒いですね。近くのカフェでコーヒーを買って来ました。はい、どうぞ」
淹れたてのコーヒーが入った蓋つきの紙コップを仁寿に手渡して、彩はシートベルトをしめた。
「ありがとう」
「熱いから気をつけてくださいね」
「彩さんの優しさが身にしみる」
「そんなに緊張しないでください。今日は、よろしくお願いします」
彩の敬語は相変わらずだが、気を遣っているわけではなさそうだから、仁寿はそれについて言及しないことにした。
彩の実家まで、車で片道一時間とちょっとかかる。道中で、彩といろいろな話をして緊張がほぐれたのだろう。
実家での仁寿は、いつもどおりの調子で彩の両親と楽しそうに話をしていた。彩の両親も、仁寿と会うのを楽しみにしていたようで、初めての顔合わせは終始穏やかな雰囲気だった。
しかし、あとで仁寿から聞いた話では、「彩さんと結婚を前提におつき合いさせていただいています」と口にする瞬間は、言葉にできないくらいの緊張感だったそうだ。
堅苦しい挨拶や話が済み、彩の母親が手作りしてくれた昼食をみんなでいただく。そのあと、彩の母親が食器を片づけた始めて、彩がそれを手伝おうとすると、仁寿が「僕がする」とワイシャツの袖をまくりあげた。
「いいですよ、そんな」
「僕とお母さんが片づけをしている間に、お父さんに仕事の相談をしてみたら? いいアドバイスを聞けるかもしれないよ」
仁寿がウィンクをして、彩の母親を追いかけてキッチンへ行く。
彩は、机をはさんで父親の向かいに座ると、近いうちに今の職場を退職して建築士として働こうと思っていることを打ち明けた。
「今さらかな……」
「そうだな。彩が大学を卒業してもうすぐ五年か……。きっと、一人前になるまで大変だろうが、今さらなんてことはない」
「できるかなぁ」
「彩は目標を立てて努力する子だから、父さんは心配してない。この話は、仁寿君にはしたのか?」
「うん。実はね、彼がやってみたらってすすめてくれたの」
「そうだったのか。彩は、いい人に出会ったんだな。だったら悩む必要はないだろう。頑張れ、彩」
「お父さんに背中を押されると、すっごくやる気出る。ありがとう、お父さん」
「仁寿君にもちゃんと感謝の気持ちを伝えるんだぞ」
「うん」
彩がキッチンへ行くと、母親と仁寿がアイドルの話で盛りあがっていた。本人は隠しきっているつもりだが、彩は知っている。母親が、アイドルの推し活をしていることを。
「こんな年で恥ずかしいのだけど、これが楽しくて」
「いいと思いますよ。生き甲斐を持つのは大事ですよね。僕の生き甲斐は、もちろん彩さんです」
仁寿が、にっこりと彩の母親に笑いかける。
――ああ、好きだな。仁寿さんの笑顔。
彩はしばらく、二人の楽しそうな様子を眺めていた。
それから二カ月ほどたった三月上旬。二人は週末の休みを利用して、飛行機での移動が必要な遠地にある仁寿の実家にいき、無事に挨拶を済ませた。
これを機に、仕事のスケジュールの合間に彩が仁寿のマンションに引っ越し、二人の新しい生活が始まる。二人で話し合って、一年後の五月に結婚式を挙げると決めた。しかし、仕事をするうえでの影響を考慮して、同棲していることは身内だけの秘密にしておく。
昼は医局秘書の仕事をこなしながら、彩は就職したころと同じように夜のわずかな時間を惜しむように建築の本を広げる。
父親が以前の仕事仲間に声をかけてくれて、来年の夏から市内の設計事務所に就職できそうだ。彩の心は、素晴らしい機会を与えてくれた仁寿への感謝でいっぱいだ。だから、自然と勉強にも身が入るのだろう。
仁寿のほうも初期研修後の進路を決めて、今まで以上に仕事を頑張っている。
彩は、年度が替わるタイミングを見計らって、上司の平良に退職を考えていると告げた。医局秘書の仕事の引継ぎは、そう簡単にできるものではない。
時間をかけて計画的に次の担当者へ仕事を教えていくほうが業務上の混乱がないと考えて、後任者を決めてもらおうと思ったのだ。
平良との面談で、一身上の都合では退職理由として納得してもらえなかったので、絶対に他言しないという約束で仁寿とのことを話す。結果、目玉が飛び出るくらい驚かれて、「辞める必要ないじゃないか」と泣きつかれた。
就職してから五年、様々な苦楽を共にしてきた上司だ。小さな目に涙が浮かんでいるのを見ると、後ろ髪を引かれて心が痛む。
しかし、彩がやりたい仕事があるのだと打ち明けると、最後には平良も「頑張れ」と応援してくれて、速やかに後任の人選に取りかかってくれたのだった。
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