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Story 29
しおりを挟むグラスを軽く回して果実の香りをたっぷり味わい、少し口に含む。それだけで、口の中に独特の甘さが広がって涙が出るほどおいしい。
「先生の誕生日なのに、なんだかすみません。プレゼントも用意せずに、かえってわたしのほうがいい思いをしているようで……」
「そんなことないよ。僕は今、人生で一番幸せな誕生日を過ごしているから」
彩は、左の頬に視線を感じながら、恥ずかしげにシャンパンを飲んだ。映画を鑑賞するように花火を眺め、二人の間にしばらくの沈黙が流れる。
日常を、ここが出張先だということすら忘れてしまうような、ゆったりとした時間が過ぎていく。気まずさのない、まるでぬるま湯に浸かったように穏やかな静けさがとても心地いい。
「彩さん」
仁寿が、空になったシャンパングラスをテーブルに置いて沈黙を破る。ネクタイの結び目をゆるめる仕草が妙に色っぽくて、彩は目のやり場に困ってしまった。
「唐突な質問をするけど、僕がどうして彩さんを好きなのか知りたい?」
危うく、高級なシャンパンを喉に引っ掛けそうになる。本当に唐突な質問だ。唐突過ぎる。彩は、とんでもなく恥ずかしい独り言を思い出して赤面した。
顔の熱さから、耳まで真っ赤になっているのが想像できる。部屋の明かりが、間接照明の薄い光だけでよかったと心から思う。
「しっかり聞いていたんですね。わたしの独り言」
彩が声のトーンと肩を落とすと、隣で仁寿が朗らかに笑った。
「それで、どうしてわたしを好きなんですか?」
「最初はね、完全な一目惚れ」
「一目惚れ?」
「うん、きれいなお姉さんだなって。でも本当に好感を持ったのは、僕が彩さんの名前を読み間違えた時。失礼なことをしたのに、よく間違われるってやんわり僕のミスを真っ先にカバーしてくれたでしょ? 人を傷つけないように間違いを指摘できる、思慮深くて優しい人だと思ったんだ。そして、マカロンを渡した時の嬉しそうな顔で完全におちた」
「……は、はぁ」
今まで言われたことのない言葉をずらりと並べられて、彩はなんて返していいのか分からず目を点にする。首から上が異常に熱くて、頭のてっぺんから湯気が出ているような気がしてきた。
左胸が騒がしくて、これ以上なにか言われたら心臓がパーンと弾けて死んでしまうかもしれない。
「先生、もう結構です」
「え、どうして? まだ馴れ初めに触れただけで、彩さんの魅力について話してないよ?これからが本番なんだけどな」
「先生のお気持ちは、よ……よく分かりましたから。わたし、こういうのに慣れていないんです。心臓が爆発しそう」
「そういうところが、かわいい」
「かっ……、からかわないでください」
「からかってないよ」
仁寿が、楽しそうに笑う。
彩は、乾いた喉をシャンパンで潤して、鼓動が落ち着くのを待った。しかし、一度暴れ出したリズムは乱れる一方で、少しも落ち着く気配がない。
「ねぇ、彩さん」
仁寿が、彩の手から飲みかけのシャンパンが入ったグラスを取ってテーブルに置く。
彩は、仁寿を見て息をのんだ。その表情があまりにも真剣だったからだ。ただならぬ雰囲気を感じて、背筋がぴんと伸びる。
「誕生日にほしいもの、実は彩さんがメッセージをくれた瞬間に決まってたんだ」
「そうだったんですか?」
「うん。言ってもいい?」
「もちろんです。教えてください、先生がほしいもの」
「なんでもいいって彩さん言ってくれたけど、二言はない?」
「ないですよ。誕生日ですから、お好きなものをプレゼントいたします」
「そっか。じゃあ、言うね」
仁寿が、ほっとしたように少し表情をゆるめて彩の左手を握る。そして、その手をゆっくり口元に近づけて、薬指にキスをした。
「あ、あの……。先生?」
「僕がほしいのは、彩さん」
「……わ、わたしですか?」
「そう、彩さん。これから先ずっと、僕は彩さんと一緒にいたい」
あ、と口を開いたまま、彩は二度、三度大きくまばたきする。
ずっと一緒にいたい。
恋愛経験は積んで来なかったが、その意味が分からないほど彩は鈍感じゃない。
さらに加速していく胸の鼓動。なんでもいい、好きなものをプレゼントするとは言ったけれど、まさか自分を望まれるなんて。信じられなくて、びっくりして、言葉が出てこない。
「初めて会った時から好きでした。彩さん、僕と結婚してくれませんか?」
黙ってしまった彩に、仁寿が今度はストレートな言葉を口にする。
「わたしで……、いいんですか?」
嬉しい、すごく幸せ。心にはあたたかな気持ちが溢れているのに、素直にそれを言えず声が震えてしまう。
だって、わたしは――。
これから先生は、数えきれないくらいたくさんの出会いを繰り返していく。いつか、先生にふさわしい素敵な人に出会うかもしれない。その時、今日のことを後悔しないだろうか。
仁寿の未来に思いを巡らし、同時に過去の傷におびえる自分がいる。
彩が不安げに返事を待っていると、仁寿がふっと表情をゆるめた。
「僕は、彩さんがいい。彩さんは? 僕じゃ、だめ?」
花火の閃光に浮かぶ、真摯で優しい仁寿のまなざし。彩は、吸い込まれるように仁寿の目を見つめた。
――先生は、存在そのものが太陽みたい。
優しくておおらかで、どんなわたしでも受け止めてくれる。それに、一時的な感情で軽々しく結婚なんて口にしない人だと思うから。
――先生がいいと言うのなら、卑屈に考えるのはやめよう。
彩は、仁寿を見つめたまま小さく首を横に振った。
「だ……、だめじゃないです」
「本当?」
「はい。わたしも……、わたしも先生がいいです」
恥ずかしくて、顔が焼けるように熱い。
仁寿が目を見開いて「ほっぺたをつまんで」と言ったので、彩は遠慮なく右手の親指と人差し指でぎゅっとつまむ。
「痛い。夢じゃないんだね?」
「先生、それはわたしのセリフですよ」
彩は、つまんだ仁寿の頬をいたわるように指先でなでながらはにかんだ。
「彩さん、大好きだよ」
「はい、知ってます」
「一生、大事にする」
「お願いします」
深々と頭をさげる彩の薬指に、仁寿がもう一度キスをする。唇が触れたところから、沸騰したように熱い血液が全身に広がっていく。
「ここで欲望をねじ伏せて、不屈の精神力を見せたら最高にかっこいいんだろうけど、僕には無理だ。もう限界」
仁寿の瞳がきらりと光って、彩の耳からすべての音が消えた。ドーンと響く花火のとどろきも、どういうわけか自分の心音さえも聞こえない。
「彩さん、キスしていい? その先も」
余裕のない声が鼓膜をくすぐる。彩がこくりと頷くと、顔が近づき、あたたかい手が頬に触れて優しく唇を奪われた。
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