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Story 04
しおりを挟む「うっそ。家に泊まったって、いつよ!」
「土曜日」
おまたせ、と料理が運ばれてきた。とりあえず食べようか、と由香は彩の言葉を飲み込むように一人頷いて、フォークに巻きつけたそんなに辛くないペペロンチーノを頬張った。
「驚かせて、ごめん」
「そりゃ驚くよ。もう恋愛で傷つきたくなくて、彼の求愛を突っぱねたんじゃなかったっけ?」
「まぁ、うん……。いろいろあって、おしに負けちゃったというか」
「確かに彼、ブレずに我が道をいくタイプだもん。あの精神力は強烈。いかにも温厚そうな見た目をしているから、余計にガツンとくるよね」
「それもあるけど……、完全にわたしが悪かった」
「へぇ、そう」
由香が、意味ありげに笑う。
土曜日はいつものようにお昼一時過ぎにタイムカードを打刻して、病院から少し離れた職員専用駐車場に向かった。途中でメッセージの受信音が鳴って、バッグからスマートフォンを取り出してみたら母親からだった。
『元気にしてるの
たまには帰っておいで』
改行をはさんで、二つ並んだ短文。車で片道一時間ちょっとの距離なのに、気づけば一年近く実家に帰っていない。お父さんが心配で東京から帰って来たのに、忙しさにかまけて逆に心配をかけている。
ごめんねと心の中で言いながら、車に乗って返事を打ち込む。それに夢中になっていると、突然、助手席のドアが開いて藤崎先生が乗り込んできた。
「ふーっ、間に合った」
彼が、息を整えながらドアを閉める。驚きのあまり声が出なかった。そして、どうにか声を絞り出した時には、彼はシートベルトを締めて、いつでも出発してオーケーだよ! と言わんばかりの状態になっていた。
「……あの、藤崎先生。失礼ですけど、おりてくださいませんか?」
「一緒に帰ろうよ」
「いえ、すみません。予定があるんです」
「予定って?」
……はい?
いきなり乗り込んできてなに言ってるの?
どうしてプライベートな事情をあなたに教えなきゃいけないの?
喉の奥でわだかまる言葉をぐっと飲み下す。眠れない夜の、嫌な動悸がし始めた。強烈な眠気を感じるのに、目を閉じれば地獄のような拷問が待っている。
この恐怖から逃れる方法は一つ。絶対に、由香以外には知られたくない。知られてはいけない。
「彩さん?」
顔を覗き込まれて、どこに視線を向ければいいのか分からなくなった。
貴重な時間がつぶれていく。家に帰ってシャワーを浴びて、バーに行って、早く不眠から解放されたい。それに、二人きりのところを誰かに見られたら。圧倒的に女性が多い職場で、一度変な噂が立つととても厄介なのに……。
「ちょっと気晴らしに行きたくて」
「僕も行っていい?」
「だめです」
「ひどいなぁ、即答しないでよ。そんなに僕が嫌い?」
柔らかな笑顔が、ちくりと心に刺さる。彼は、人当たりがよくて優しくて、欠点を見つけるほうが難しい人だ。交際は断ったけれど、嫌いなわけではない。
けれど、先生は睡眠導入剤を服用するように男と寝る女とは違う。彼にふさわしい、素敵な女性と楽しい恋愛をするべきじゃないだろうか。
だから、きっぱりあきらめてもらうために決心した。軽蔑されたらそれも本望。彼の未練を断ち切るために、言ってしまおうって。
「先生がどうのじゃなくて……。困るんです、先生が一緒だと」
「困る?」
「はい。相手を探しに行くので」
「相手って、なんの?」
「セックスの相手です」
先生は、期待どおり目をぱちくりさせて、とても驚いているような顔をした。しかしそれは一瞬で、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。そして、探さなくてもここにいるじゃない。にこやかに、さらりと、そんなことを言われたような気がする。
「で、ちゃんとつき合うの?」
由香が胸まである巻き髪を耳にかけて、彩の目を覗き込むように見る。彩は、その視線から逃れるように、グラスに残ったハイボールを一気に飲み干した。
本当に、わたしが悪かった。
おいしいはずのハイボールが、ただシュワシュワと炭酸の刺激だけを残して喉を落ちていく。医局秘書として、大切な初期研修の二年間をしっかりサポートしなきゃいけないのに、わたしは一体なにをやっているのだろう。
カラン、と空になったグラスの中で、小さくなった丸氷が鈍い音を立てる。
「つき合わない」
「なんで?」
「先生には、研修に集中してもらわないといけないから」
「仕事熱心な医局秘書さんだ。じゃあ、藤崎君のこと、嫌いってわけじゃないんだね?」
「嫌いじゃないよ。だけどわたし……、藤崎先生をそういう対象として見てない」
「藤崎君は、彩をそういう対象にしか見てないよ」
「よく分からない。わたしなんかよりいい人がたくさんいるはずなのに、なんでだろうね」
「でた、わたしなんか論。彩ってさ、なんでそんなに自己肯定感が低いわけ? あれだけ仕事もてきぱきこなして、見た目も性格もなんら問題ないのに」
「それは由香が親友の目で見てくれてるからだよ」
「あのね、彩。最近は、不眠だけじゃなくて病気でもいっぱい悩んで泣いたでしょう? だから私、彩にはたくさん笑ってほしいって思ってるんだよ」
「ありがとう。由香の優しさがしみて、涙が出そう」
「こんなことで泣かないで。涙がもったいないじゃないの」
照れるように笑って、由香がカクテルを注文する。オーナーが、カクテルとハイボールをカウンターに置いた。オーナーは、彩がハイボールしか飲まないのを知っているのだ。
二人が「ありがとう!」と元気な声を揃えると、オーナーは「ゆっくりしていきなね」と言い残して厨房に入っていった。
「藤崎君に病気のことは話したの?」
「ううん。不眠については成り行きで話したけど、そこまで重たい話はさすがに……」
「話してみたらいいのに。彼、全力で受け止めるんじゃない?」
「そう……、かな。でも、迷惑にしかならないと思う」
「頑固だなぁ、彩は。五年も片想いするって、彼の精神力を考慮しても並大抵じゃないよ。なにはともあれ、一線をこえたら一瀉千里。これから覚悟しておいたほうがいいわね」
「ど、どういう意味よ」
彩が、動揺をごまかすように髪を触る。その時、スマートフォンの着信音が鳴った。画面に「藤崎先生」と表示されている。それに気づいた由香が、早く出なよと肘で彩を小突く。
「病院でなにかあったのかな。ちょっとごめんね」
「いいよ、気にしないで。ほら」
覚悟なんて物騒な言葉を聞いたからか、さっき飲んだハイボールが喉に引っかかってごろごろいう。彩は咳払いをして画面をタップすると、「はい、廣崎です」と仕事用の声で電話に出た。
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