5 / 43
Story 03
しおりを挟む時刻は午後六時半。
終日晴れの予報は大きくはずれて、昼過ぎから降りだした雨は、地面を叩きつけるような本降りになっていた。
彩は、職場の傘立てから貸出用の傘を拝借して職員通用口を出た。
男性用の黒い無地のそれを広げて、雨ににじんだ歩行者用の信号が赤から青に変わると同時に小走りで横断歩道を渡る。そこで、予約しておいたタクシーに乗った。
小柄な中年の運転手が、上半身をひねって制帽の下のくぼんだ目を彩に向ける。
「ヒロサキさん?」
「はい、そうです」
「どちらまで?」
「銀天街までお願いします」
「はいよ」
目的地までは、車で十分かからないくらい。駅前通りを過ぎたところでタクシーをおりて、銀天街のアーケードを歩く。水曜日の夜、足元の悪い繁華街のはずれは人通りもまばらだ。両脇の店舗はそのほとんどが、昼夜シャッターがおりたままになっている。
ポタ……ポタポタと頭に水が落ちてきて、閉じた傘を急いで開く。
さびれた商店街は雨漏りがひどくて、アーケードはその役割をまったく果たしていない。傘の下から天井をあおいで納得する。天井は穴だらけで鉄骨がむき出しだった。
――晴れた夜なら銀天街の名に恥じない美しい星空を拝めるのだろうけど。
センチメンタル味のため息をついて、傘をさしたまま前を向く。
向こうから、若い男女が寄り添いながら歩いてくる。制服ではないから断定はできないが、見た感じ高校生くらいの年齢だろうか。一本の傘の中で腕を組んで、お互いの顔を見ながら笑ってとても楽しそうだ。
「お好み焼きがいい」
「えーっ、俺はラーメン食いたい」
すれ違いざまに聞こえた二人の声に、思わず表情がゆるむ。
彩が足を止めて振り返ると、そのカップルはアーケードの端でひっそりと営業しているお好み焼き屋の前で立ち止まった。そして、ラーメン食いたいと言っていたはずの男子が、彼女と一緒にメニューを指さし始める。
――かわいいなぁ。
心の中でつぶやいて、彩は先を急いだ。
アーケードの途中で脇道に入って、親友と待ち合わせをしている飲食店を目指す。街灯がとぼしく、二人並んでは歩けない細い路地にその店はある。
営業中と書かれた小さな看板が目印なのだが、常連客でなければ、ここが飲食店だなんてまず気がつかないだろう。
「こんばんは」
「いらっしゃい」
彩が店に入ると、オーナーが調理場から顔を出した。ハスキーボイスがかっこいい、四十歳くらいの女性だ。
「彩、こっち!」
カウンター席から、待ち合わせ相手の北川由香が手をふる。彼女とは小学校からの同級生で、高校まで一緒だった。彼女は努力に努力を重ねて夢を叶え、内科の専攻医として彩が勤める病院で日々研鑽を積んでいる。
「早かったね、由香」
「うん。今日は彩とゆっくり話しするぞーって、六時前に脱走してきた」
「そうなの? 由香が医局を出たの、全然気がつかなかったよ。上級医の先生に見つからなかった?」
「大丈夫。茅場先生が、病棟の患者さんのI.Cやってる時間を狙っての犯行だから」
「さすがだね」
「でしょ。まぁ、明日ちくりと十言くらい言われるだろうけど」
「間違いない」
彩は笑いながら由香の隣に座って、カウンターの下のカゴにハンドバッグを入れた。職場からの連絡に備えて、スマートフォンだけは目につく所に置く。
店内に、客は彩と由香の二人だけ。まったりと眠気を誘発しそうなオレンジ色の照明と絶妙な音量で流れるジャズが耳に心地いい。
「今日は、なにを食べたい?」
オーナーが尋ねて、「そうねぇ」と由香が腕組みする。この店に決まったメニューはない。食べたいもの、食材、味、食感などを言えば、オーナーが勝手に作ってくれるシステムだ。オーナーが作ってくれるご飯は、どれもほっぺたが落ちるほどおいしい。
「鶏をカリッと焼いたのをお願いします。さっぱり味で」
「じゃあ、私はそんなに辛くないペペロンチーノにしようかな。あと、ピンク・レディを。彩はハイボールでいいよね?」
「うん!」
了解、と調理場からハスキーボイスが返ってくる。すぐにピンク・レディとハイボールが出てきた。二人は、グラスを軽く合わせて乾いた喉を潤す。
「うーん、生きかえる!」
「ほんとだね。ところで由香、最近ちょっと表情が暗い気がするけど、なにか困っていることがあるんじゃないの?」
「……ある。ちょっとだけ愚痴ってもいい?」
「いいよ。親友として真剣に聞くし、必要なら医局秘書として問題解決に努める」
「よし、頼んだ」
彩は、共感の相槌をうちながら由香の愚痴につき合う。
医局秘書というと雑用係だと思われがちだが、みんなの潤滑剤になるのが役割だったりする。人間関係とか働き方、時には人に話せないプライベートな内容まで、医者同士だからこそ、多岐にわたっていろいろとあるもので……。
勤務の組み方でそれが解消できるならそうできるように尽力するし、話を聞くだけでいいなら聞く。目に見えない綻びと摩擦の係数を小さくするために奔走する地味な役回り。神経が擦り切れるくらい気を遣うし、裏方に徹する華のない仕事だなってつくづく思う。
正直にいうと、明確な権威勾配が存在する医療業界で、ヒエラルキーの頂点にいる個性派ぞろいの集団を相手にしていると、頭がおかしくなるくらい本気で悩んで、胃がきりきりと痛む時がある。残業した帰りに、職員通用口を出たところで涙が出て、何度退職の二文字が頭をよぎっただろう。
しかし、建築士の資格を取ったあと転職のタイミングを逃しているうちに、父親が病気を理由に仕事を辞めて設計事務所を継ぐ必要がなくなってしまったのもあって、結局、勤続五年目を継続中だ。
とはいえ、四六時中嫌な気持ちで仕事をしているわけではない。なんだかんだいっても、先生たちは尊敬できる素晴らしい人ばかりで、普段は気さくで優しいから、悩みながらもこの仕事を続けていられるのだろう。
病院に休みなんてない。途切れのない二十四時間を限られた人数で診ていくのだから、医師の勤務はとてもハードだと思う。
出勤すると、毎日のように当直ではない先生の時間外勤務報告書が机に置いてある。救急か病棟か、とにかく当直医だけでは手がまわらずに呼び出されたのだろう。報告書に記入された時間を見ると、二十三時から翌朝四時までとか、夜間から深夜にかけて何度も病院に来たような記載まである。
夜中に呼び出されたからといって、翌日の勤務が免除されるわけではない。始業前のカンファレンスに参加して、午前の外来にも出る。もちろん、前日も一日仕事をした挙句、だ。
空いたスキマ時間に医局の机に突っ伏している姿を見るたび、先生たちはいつ人間らしい睡眠をとっているのだろうと不思議で仕方がない。働き方改革なんて、少なくともうちの先生たちにとっては宇宙の話なんじゃないかな。
今、目の前で話している由香だってそう。
彩は医師たちの勤務を間近に見てきて、少しでも快適に仕事をしてもらうにはどうしたらいいのか考えるようになっていた。
「聞いてくれてありがと、彩」
ひとしきり愚痴を言った由香が、すっきりとした顔をする。彼女はいつもこうだ。たまった鬱憤を吐きだして、そのあとは二度とネガティブな話はしないし引きずらない。
「どういたしまして」
「そういえば、藤崎君たちそろそろ院外研修に出るんだよね?」
「ああ……、うん」
彩は、壁の隅っこに掛けられたカレンダーに目を向けた。オーナーの予定だろうか。十月二十七日に大きな赤丸がついている。
「来月から竹内先生が総合病院の外科行って、亜弓先生が医師会の救急でしょ? それから、藤崎先生は精神科。他の科もローテートするから、みんな半年は帰って来ないね。でも、どうしたの? 急に研修医の話なんか持ち出して」
「懐かしくてさ。鍛えられて帰ってくるんだろうね」
「そうだね。特にうちは研修医に甘いから、よそでは苦労することも多いと思うよ」
「あのさ、彩。直球で聞くけど、彩は藤崎君のこと本当になんとも思ってないわけ?」
昔から、由香にはどんなことも包み隠さず話してきた。苦い初体験も不眠のことも、由香にだけは打ち明けている。彼女だけがこの世で唯一、信頼できる拠り所といっても過言ではない。それくらい彩は由香に信頼を寄せて、由香も同じように彩に心を許している。
由香は、彩が仁寿に告白されてそれを断ったのも知っている。もっとも、彼女は仁寿とも仲がよくて、いろいろと彼からの相談にも乗っているらしい。しかし、どんな相談を受けているのかは秘密だそうだ。肝心なところは口がかたい。
「あのね、由香。実はさ……」
ハイボールに浸かった丸氷が、カランと涼やかな音を立てる。彩が声をひそめると、由香が目を大きく見開いた。
10
お気に入りに追加
108
あなたにおすすめの小説
敏腕ドクターは孤独な事務員を溺愛で包み込む
華藤りえ
恋愛
塚森病院の事務員をする朱理は、心ない噂で心に傷を負って以来、メガネとマスクで顔を隠し、人目を避けるようにして一人、カルテ庫で書類整理をして過ごしていた。
ところがそんなある日、カルテ庫での昼寝を日課としていることから“眠り姫”と名付けた外科医・神野に眼鏡とマスクを奪われ、強引にキスをされてしまう。
それからも神野は頻繁にカルテ庫に来ては朱理とお茶をしたり、仕事のアドバイスをしてくれたりと関わりを深めだす……。
神野に惹かれることで、過去に受けた心の傷を徐々に忘れはじめていた朱理。
だが二人に思いもかけない事件が起きて――。
※大人ドクターと真面目事務員の恋愛です🌟
※R18シーン有
※全話投稿予約済
※2018.07.01 にLUNA文庫様より出版していた「眠りの森のドクターは堅物魔女を恋に堕とす」の改稿版です。
※現在の版権は華藤りえにあります。
💕💕💕神野視点と結婚式を追加してます💕💕💕
※イラスト:名残みちる(https://x.com/___NAGORI)様
デザイン:まお(https://x.com/MAO034626) 様 にお願いいたしました🌟
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
腹黒上司が実は激甘だった件について。
あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。
彼はヤバいです。
サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。
まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。
本当に厳しいんだから。
ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。
マジで?
意味不明なんだけど。
めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。
素直に甘えたいとさえ思った。
だけど、私はその想いに応えられないよ。
どうしたらいいかわからない…。
**********
この作品は、他のサイトにも掲載しています。
あまやかしても、いいですか?
藤川巴/智江千佳子
恋愛
結婚相手は会社の王子様。
「俺ね、ダメなんだ」
「あーもう、キスしたい」
「それこそだめです」
甘々(しすぎる)男子×冷静(に見えるだけ)女子の
契約結婚生活とはこれいかに。
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
冷徹上司の、甘い秘密。
青花美来
恋愛
うちの冷徹上司は、何故か私にだけ甘い。
「頼む。……この事は誰にも言わないでくれ」
「別に誰も気にしませんよ?」
「いや俺が気にする」
ひょんなことから、課長の秘密を知ってしまいました。
※同作品の全年齢対象のものを他サイト様にて公開、完結しております。
地味系秘書と氷の副社長は今日も仲良くバトルしてます!
めーぷる
恋愛
見た目はどこにでもいそうな地味系女子の小鳥風音(おどりかざね)が、ようやく就職した会社で何故か社長秘書に大抜擢されてしまう。
秘書検定も持っていない自分がどうしてそんなことに……。
呼び出された社長室では、明るいイケメンチャラ男な御曹司の社長と、ニコリともしない銀縁眼鏡の副社長が風音を待ち構えていた――
地味系女子が色々巻き込まれながら、イケメンと美形とぶつかって仲良くなっていく王道ラブコメなお話になっていく予定です。
ちょっとだけ三角関係もあるかも?
・表紙はかんたん表紙メーカーで作成しています。
・毎日11時に投稿予定です。
・勢いで書いてます。誤字脱字等チェックしてますが、不備があるかもしれません。
・公開済のお話も加筆訂正する場合があります。

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~
吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。
結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。
何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる