水底に華の燭を~祟りの龍神と生贄の若君~

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二十八『心の底の澱』②

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「お邪魔するよ」

 前触れもなく開けられた戸の外に、雫の滴る赤い傘を下げた雨月うづきがいた。
「みずちはいるかい?」
 最早彼の唐突な登場にも慣れてしまった。
 大して驚きもせず、清高きよたかは答える。
「見回りに出かけてる」
「……そうか」

 常に飄々とした笑みを浮かべている雨月の、いつになく真剣な面持ちに、清高の中で、嫌な予感が募っていく。

「急ぎの用か?」
「いや。『今度の嵐は大きくなるぞ』と忠告をしにきただけだ」
「そんなにひどいのか?」
「おそらくは」
「天の神様だろ? そのうまいこと調節できないのかよ?」
 人ごとのような雨月の言い方がじれったくて、もどかしくて、いらいらした。
「私はただ神に仕えるだけの者であって、神そのものではないからね。そんな権限はないんだよ」
 雨月がそう苦笑する。
「じゃあ、おまえのご主人様の、天津神とやらにお願いしてくれよ」
「天には天の都合がある。ごく一部の地や人間のためだけに、季節や天気を変わるわけにはいかない」
「神様ってやつは、本当に融通が利かないな!」
 頭が固いのは龍神だけで十分だ。

「本来、そのために、その土地土地に根づく地祇がいるのだけれどね。
 あれはまだ未熟な上に、不器用だから」

 だからこそ、せめて備えのための時間を設けられるよう、事前に雨の訪れを告げに、雨月はやって来る。
 文句を言うどころか、感謝するべきなのだ。
 わかってはいても、龍神の方に肩入れする清高としては、愚痴の一つ二つ、零したくなってしまう。

「まぁ、ここ二百年以上、なんとかなってきたんだ。今回もそれなりに乗りきれるだろう」
 ついつい棘のある態度をとってしまう清高に、それが不安故だとわかっているからだろう、雨月はあえて楽観的な言葉を選ぶ。
「そう、だよな……」
 清高も無理やり納得して、心を落ち着けようと息を吸って、吐いたところに、

「みずちはいる!?」

 着物を裾を乱した松姫まつひめが飛びこんできた。
 今日は千客万来の日であるらしい。

「どうしたんだい? 取り乱して、あなたらしくもない」
「あら、貴方も来ていたの。と、いうことは、やっぱり異常事態なのね」
 知った顔と鉢合わせて少し冷静になったのか、松姫は着物を正し、髪を撫でつけて身だしなみを整える。
「何かあったのか?」
 清高が尋ねると、
「何かも何も」
 松姫の表情が険しくなった。

「外の世界の瑞千川みずちがわ、大変なことになっているわよ」

 急いで部屋を飛び出そうとする清高の腕を掴んだのは、松姫だった。
「ちょっと、どこへ行くつもり?」

 どこへ?
 問われて初めて、清高は何も考えていなかったことに気づかされた。
 ただ、行かなければ、という気持ちだけが急いている。

「みずちが見回りに出ているのでしょう? なら、あれに任せておきなさい」
 松姫が聞き分けの悪い子供を宥めるように言う。
「だから心配なんだよ!」

 今の龍神は不安定だ。瑞千川が荒れていることと無関係とは思えない。
 川の流れを守り切れないほどに憔悴しているか、あるいは――
 彼自身が、彼の中の『暴君』を押さえることを止めている。
 そうだとすれば、それは、清高のせいだ。

「そうだとして、」
 今まで黙っていた雨月が口を開く。
「曲がりなりにも、あれは神だ。それが、自らの預かる川をどう扱おうと、横から口を出していいものではない。松姫も、私も――天津神あまつかみでさえも」
 あれ、という単語を雨月はあえて強調した。

「それが、神様の世界での決まり事か?」
「まぁ、そうだね」
「なら、俺には関係ない!」

 なぜなら、清高は神ではない。
 融通の利かない神様たちの都合など、知ったことではない。

「やめなさい!」
 とうとう松姫が声を荒げた。
「貴方に何ができるの!? 今、自分でも言ったでしょう?
 貴方は神でも何でもない。『龍神の花嫁』というだけで、結局は只人ただひとなのよ!」
 松姫の言葉で、冷や水を浴びせられたように、頭に上った熱が冷める。
「力の無い者の迂闊な行動は、被害を大きくするだけよ」
 松姫の言うことはあまりにも正論で――清高には、強烈な刃だった。

 かつて、つまらない見栄で格好をつけて、その結果失われてしまった、尊いもの。
 こんなに弱い自分など、何もしない方が良かった。何もしなければ良かった。
 何もしない方がいいのだ。今も。

 何もできない。
 あさぎが泣いているのに。月夜野が、真庭が、危ないかもしれないのに。
 龍神が苦しんでいるかもしれないのに。

「けれど……あなたは強くなったでしょう?」

 神と、神の御遣いと、人間。
 三者の間の、張り詰めた空気を解くように、誰より落ち着き払って――
 人形が、言った。

「まったく、あなたはいつもいつも、自分勝手に無茶なことばかりして……
 それが必ず他の誰かのためなのだから、困ってしまうわね」
「……菊里きくり?」

 雨月と松姫の間を割って進み出た菊里が、清高の前に立つ。

「行けばいいわ。それがあなただものね」
「おまえ、」
「たしかに、あなたが行くことで面倒を被る人もいるのだろうけど……
 あなたが動かなければ救われなかったものだって、いくつもあったでしょう?」

 見下げるほどの小さな体に、慈愛に満ちた眼差しをのせて。

「龍神様と――できることなら、明高あきたかと、あさぎのことも、お願いするわ」

 二人の子供の名前を呼ぶその響きは、ひどく懐かしかった。

 菊里は、『龍神の花嫁』の代わりに川に流された人形に、魂が宿ったもので。
 彼女は、自らを「ただ溺れて死んだ愚かな女」と称した。

 ――あれは『龍神様の花嫁』になったのだ。
 昔、父が言い放った、明高を絶望させた言葉は――十年の時を経て、今、清高にとって救いになる。

「いってらっしゃい、清高。遅くならずに帰ってくるのよ」
 清高が聞いた、義母の最後の言葉と同じで、菊里は清高の背中を押した。
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