上 下
16 / 34

十五『嵐』②

しおりを挟む

 暗い、黒い、水の中。
 沈んでいくそれを必死に追いかけて、深く潜っていく。

 なんとか追いついて掴んだ手は、清高きよたかより二回りほど小さかった。
(女の子? なんでこんなところに……)
 年の頃はあさぎよりまだ幼い。四、五歳といったところか。
 すっかり気を失っていた小ぶりな体を抱き寄せる。
 その感触は間違いなく生身の人間の物で、菊里きくりのような人形ではないことは確かだった。
 この水底の世界で清高以外の人間を見るのは初めてだ。
 が、清高という例があるのだから、同じことがあってもおかしくはない。

 この雨で弱まった結界の、繕いきれなかった隙間を越えて、落ちてきてしまった人間。

 女の子は清高がやや乱暴に腕を掴んでも、一切の抵抗を示さなかった。
 暴れないでいてくれるのは助かるが、それは暴れる気力もないということに他ならない。危険な状態だ。
 一刻も早く、上に戻らなければ。

 女の子を引っ張り上げようとして、その体に『何か』が絡んでいることに気がついた。

『来た。また来たぞ』
『まだ生きていた。でも、』
『今度こそ』

 水の中でも聞こえる、頭の中に直接響いてくる、呪いの声。
 冬の水より冷たくて、夜の闇より黒いもの。
 水底のさらに底。幽世かくりよ亡者もうじゃたち。

(来たか)
 清高は女の子を抱えたまま、背負った太刀に手を伸ばす。
 水の中で何倍も重く感じるそれを下ろし、鈍い動きで、右手で柄を、左手で鞘を掴んで。
 重い水を切り裂くように。

 渾身の力を振り絞って、刃を抜いた。

 深淵の中でも失われない銀色の輝きに亡者たちが怯んだ。
 その隙に、水を蹴る。

 上も下もわからないような、激流とこの世ならざる気配で、混沌とした闇の。
 その出口を探し、必死にもがく。

 息が苦しい。
 意識が朦朧としてくる。

 その時。

 龍が、現れた。

 鱗に覆われた、蛇のように長い胴。
 鋭い鉤爪かぎづめを持った二つの足。
 長い髭。

 それはそれは、美しい龍だった。

 呆然とする清高の目の前で、人間の一人や二人、一飲みにできそうな大きな口が開かれる。
 半円状に並んだ牙は一本一本が鏃のように鋭く、触れるだけで肉を裂かれ骨を砕かれそうに尖っていた。

 ――喰われる。

 そう思った。

(怖い)

 そう思った。

 それでも体が動かなかったのは。

 清高を見据える両の目が。
 彼の人の色をしていたから。

 龍は思いがけず繊細な動きで清高の後ろ襟を咥えると、抱えた少女ごと、清高の体を一気に持ち上げる。
 その勢いに、肺に残った最後の息が、ごぼっ、と溢れ出た。
 もみくちゃにされ、何が何やらわからないでいるうちに――

「――っは、」

 顔が空気に触れ、大きく息を吸い込んだ。
(水の上に出たのか?)
 はっとして、女の子の首から上が水面の上に出るよう抱き上げ、背中から脇の下に腕を通して支えてやる。

 状況はよくわからないが、今は考えるより安全の確保が最優先だ。
 幾分かましになったような気がする川の流れに逆らって、なんとか川岸から垂れる蔓草を掴む。
 それを綱の代わりにして辿っていき、とうとう岸辺の岩に上半身を乗り上げた。
 ぜいぜい言いながら女の子を押し上げ、最後の力を振り絞って自分も川から出る。

 振り返ると、そこには未だ荒れたままの川の流れがあり。
 龍の姿は、どこにもなかった。

「龍神、」
 辺りを見回しても、龍の形をした彼も、人の形をした彼も、見当たらない。

 雨は、止んでいた。

 見上げた空は暗いが、雨雲の残りの間から、ほんの微かな暁光ぎょうこうが覗いている。
 どれだけ時間が立ったのか、一晩が過ぎ、まもなく朝を迎えようという頃らしい。

「……え?」

 雨雲? 暁光?

「空?」

 空だ。もう何日も拝むことのなかった、空。

「ここって……」
(戻って、来たのか?)
 水面の上に。

「おい、誰かいるぞ!」
 人が叫ぶ声がした。
「大丈夫か!? 生きているか!?」

 意識のない女の子を腕に抱いて、その場に座りこんだまま、動けなくなってしまう。

(なんで……)

 やがて、松明たいまつを持った何人かの男たちが駆け寄って来ても、清高は呆然とし続けていた。
「良かった、生きてるぞ!」
「そっちの女の子も無事か?」
「無事だ! 息をしてる!」
 彼らは人の好さそうな顔に一様に安堵を浮かべ、女の子をおぶり、清高を助け起こす。

 唐突に、我に返る。
 清高が突然ふらふらとおぼつかない足を川の方へ向けようとしたので、仰天した男の一人が慌てて腕を掴んだ。
「馬鹿! 増水した川に近づいちゃいかん!」
「でも……だって、戻らないと……」
「戻るって、どこに?」

「……あれ?」
 ――どこに?

 言われて初めて、自分がどうすればいいのか、どこへ向かえばいいのか、何もわからないことに気づく。

「あんな川に落ちたら、今度こそ死んじまうぞ」
(知ってる。そんなこと)
 あの日、清高は、死ぬ覚悟で、自ら飛び込んだのだから。
 思ったが、男の手を振り解く力も、もう残ってはいなかった。

 清高が結界を越え、あの水底の館の庭まで辿り着けたのは、たまたまだ。
 『竜臥淵りゅうがふち』という特別な場所だったから。雨で結界が緩んでいたから。
 いずれにしても、今、ここで川に飛び込んだところで、あの場所に辿り着くことはできないだろう。
 龍神の元には。

「これ、兄ちゃんのか? 随分立派な太刀だな」
 別の男が、川原に打ち上げられていた抜身の『狭霧さぎり』を拾い上げる。

 その銀色を見た途端。
 様々なものが込み上げて、どっと涙が溢れ出した。

 頭からつま先まで濡れきっていたので、きっと男たちはわからなかっただろう。
 しかし、清高は泣いていた。

 戻って来たのだ。
 元の世界に。あの水底の庭から。

 戻って来た。
 戻って来てしまった。
 龍神のいない場所に。

 いつのまにか、彼が側にいることが、あたりまえになっていて。
 いつからか、彼の側にいることが、清高の安らぎになっていた。

(嘘だろ、そんなの……)
 望んで『龍神の花嫁』になったわけではない。
 殺してやろうと、本気で思っていた。
 それなのに。

 今さら『好き』だなんて、そんなの、どうすればいいかわからない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

王道学園の冷徹生徒会長、裏の顔がバレて総受けルート突入しちゃいました!え?逃げ場無しですか?

名無しのナナ氏
BL
王道学園に入学して1ヶ月でトップに君臨した冷徹生徒会長、有栖川 誠(ありすがわ まこと)。常に冷静で無表情、そして無言の誠を生徒達からは尊敬の眼差しで見られていた。 そんな彼のもう1つの姿は… どの企業にも属さないにも関わらず、VTuber界で人気を博した個人VTuber〈〈 アイリス 〉〉!? 本性は寂しがり屋の泣き虫。色々あって周りから誤解されまくってしまった結果アイリスとして素を出していた。そんなある日、生徒会の仕事を1人で黙々とやっている内に疲れてしまい__________ ※ ・非王道気味 ・固定カプ予定は無い ・悲しい過去🐜 ・不定期

信じて送り出した養い子が、魔王の首を手柄に俺へ迫ってくるんだが……

鳥羽ミワ
BL
ミルはとある貴族の家で使用人として働いていた。そこの末息子・レオンは、不吉な赤目や強い黒魔力を持つことで忌み嫌われている。それを見かねたミルは、レオンを離れへ隔離するという名目で、彼の面倒を見ていた。 そんなある日、魔王復活の知らせが届く。レオンは勇者候補として戦地へ向かうこととなった。心配でたまらないミルだが、レオンはあっさり魔王を討ち取った。 これでレオンの将来は安泰だ! と喜んだのも束の間、レオンはミルに求婚する。 「俺はずっと、ミルのことが好きだった」 そんなこと聞いてないが!? だけどうるうるの瞳(※ミル視点)で迫るレオンを、ミルは拒み切れなくて……。 お人よしでほだされやすい鈍感使用人と、彼をずっと恋い慕い続けた令息。長年の執着の粘り勝ちを見届けろ! ※エブリスタ様、カクヨム様、pixiv様にも掲載しています

魔力なしの嫌われ者の俺が、なぜか冷徹王子に溺愛される

ぶんぐ
BL
社畜リーマンは、階段から落ちたと思ったら…なんと異世界に転移していた!みんな魔法が使える世界で、俺だけ全く魔法が使えず、おまけにみんなには避けられてしまう。それでも頑張るぞ!って思ってたら、なぜか冷徹王子から口説かれてるんだけど?── 嫌われ→愛され 不憫受け 美形×平凡 要素があります。 ※溺愛までが長いです。 ※総愛され気味の描写が出てきますが、CPは1つだけです。

ギルド職員は高ランク冒険者の執愛に気づかない

Ayari(橋本彩里)
BL
王都東支部の冒険者ギルド職員として働いているノアは、本部ギルドの嫌がらせに腹を立て飲みすぎ、酔った勢いで見知らぬ男性と夜をともにしてしまう。 かなり戸惑ったが、一夜限りだし相手もそう望んでいるだろうと挨拶もせずその場を後にした。 後日、一夜の相手が有名な高ランク冒険者パーティの一人、美貌の魔剣士ブラムウェルだと知る。 群れることを嫌い他者を寄せ付けないと噂されるブラムウェルだがノアには態度が違って…… 冷淡冒険者(ノア限定で世話焼き甘えた)とマイペースギルド職員、周囲の思惑や過去が交差する。 表紙は友人絵師kouma.作です♪

逃げる銀狐に追う白竜~いいなずけ竜のアレがあんなに大きいなんて聞いてません!~

結城星乃
BL
【執着年下攻め🐲×逃げる年上受け🦊】  愚者の森に住む銀狐の一族には、ある掟がある。 ──群れの長となる者は必ず真竜を娶って子を成し、真竜の加護を得ること──  長となる証である紋様を持って生まれてきた皓(こう)は、成竜となった番(つがい)の真竜と、婚儀の相談の為に顔合わせをすることになった。  番の真竜とは、幼竜の時に幾度か会っている。丸い目が綺羅綺羅していて、とても愛らしい白竜だった。この子が将来自分のお嫁さんになるんだと、胸が高鳴ったことを思い出す。  どんな美人になっているんだろう。  だが相談の場に現れたのは、冷たい灰銀の目した、自分よりも体格の良い雄竜で……。  ──あ、これ、俺が……抱かれる方だ。  ──あんな体格いいやつのあれ、挿入したら絶対壊れる!  ──ごめんみんな、俺逃げる!  逃げる銀狐の行く末は……。  そして逃げる銀狐に竜は……。  白竜×銀狐の和風系異世界ファンタジー。

完結・オメガバース・虐げられオメガ側妃が敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン王から溺愛されました

美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!

【完結】ここで会ったが、十年目。

N2O
BL
帝国の第二皇子×不思議な力を持つ一族の長の息子(治癒術特化) 我が道を突き進む攻めに、ぶん回される受けのはなし。 (追記5/14 : お互いぶん回してますね。) Special thanks illustration by おのつく 様 X(旧Twitter) @__oc_t ※ご都合主義です。あしからず。 ※素人作品です。ゆっくりと、温かな目でご覧ください。 ※◎は視点が変わります。

転生悪役令息、雌落ち回避で溺愛地獄!?義兄がラスボスです!

めがねあざらし
BL
人気BLゲーム『ノエル』の悪役令息リアムに転生した俺。 ゲームの中では「雌落ちエンド」しか用意されていない絶望的な未来が待っている。 兄の過剰な溺愛をかわしながらフラグを回避しようと奮闘する俺だが、いつしか兄の目に奇妙な影が──。 義兄の溺愛が執着へと変わり、ついには「ラスボス化」!? このままじゃゲームオーバー確定!?俺は義兄を救い、ハッピーエンドを迎えられるのか……。 ※タイトル変更(2024/11/27)

処理中です...