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十五『嵐』②
しおりを挟む暗い、黒い、水の中。
沈んでいくそれを必死に追いかけて、深く潜っていく。
なんとか追いついて掴んだ手は、清高より二回りほど小さかった。
(女の子? なんでこんなところに……)
年の頃はあさぎよりまだ幼い。四、五歳といったところか。
すっかり気を失っていた小ぶりな体を抱き寄せる。
その感触は間違いなく生身の人間の物で、菊里のような人形ではないことは確かだった。
この水底の世界で清高以外の人間を見るのは初めてだ。
が、清高という例があるのだから、同じことがあってもおかしくはない。
この雨で弱まった結界の、繕いきれなかった隙間を越えて、落ちてきてしまった人間。
女の子は清高がやや乱暴に腕を掴んでも、一切の抵抗を示さなかった。
暴れないでいてくれるのは助かるが、それは暴れる気力もないということに他ならない。危険な状態だ。
一刻も早く、上に戻らなければ。
女の子を引っ張り上げようとして、その体に『何か』が絡んでいることに気がついた。
『来た。また来たぞ』
『まだ生きていた。でも、』
『今度こそ』
水の中でも聞こえる、頭の中に直接響いてくる、呪いの声。
冬の水より冷たくて、夜の闇より黒いもの。
水底のさらに底。幽世の亡者たち。
(来たか)
清高は女の子を抱えたまま、背負った太刀に手を伸ばす。
水の中で何倍も重く感じるそれを下ろし、鈍い動きで、右手で柄を、左手で鞘を掴んで。
重い水を切り裂くように。
渾身の力を振り絞って、刃を抜いた。
深淵の中でも失われない銀色の輝きに亡者たちが怯んだ。
その隙に、水を蹴る。
上も下もわからないような、激流とこの世ならざる気配で、混沌とした闇の。
その出口を探し、必死にもがく。
息が苦しい。
意識が朦朧としてくる。
その時。
龍が、現れた。
鱗に覆われた、蛇のように長い胴。
鋭い鉤爪を持った二つの足。
長い髭。
それはそれは、美しい龍だった。
呆然とする清高の目の前で、人間の一人や二人、一飲みにできそうな大きな口が開かれる。
半円状に並んだ牙は一本一本が鏃のように鋭く、触れるだけで肉を裂かれ骨を砕かれそうに尖っていた。
――喰われる。
そう思った。
(怖い)
そう思った。
それでも体が動かなかったのは。
清高を見据える両の目が。
彼の人の色をしていたから。
龍は思いがけず繊細な動きで清高の後ろ襟を咥えると、抱えた少女ごと、清高の体を一気に持ち上げる。
その勢いに、肺に残った最後の息が、ごぼっ、と溢れ出た。
もみくちゃにされ、何が何やらわからないでいるうちに――
「――っは、」
顔が空気に触れ、大きく息を吸い込んだ。
(水の上に出たのか?)
はっとして、女の子の首から上が水面の上に出るよう抱き上げ、背中から脇の下に腕を通して支えてやる。
状況はよくわからないが、今は考えるより安全の確保が最優先だ。
幾分かましになったような気がする川の流れに逆らって、なんとか川岸から垂れる蔓草を掴む。
それを綱の代わりにして辿っていき、とうとう岸辺の岩に上半身を乗り上げた。
ぜいぜい言いながら女の子を押し上げ、最後の力を振り絞って自分も川から出る。
振り返ると、そこには未だ荒れたままの川の流れがあり。
龍の姿は、どこにもなかった。
「龍神、」
辺りを見回しても、龍の形をした彼も、人の形をした彼も、見当たらない。
雨は、止んでいた。
見上げた空は暗いが、雨雲の残りの間から、ほんの微かな暁光が覗いている。
どれだけ時間が立ったのか、一晩が過ぎ、まもなく朝を迎えようという頃らしい。
「……え?」
雨雲? 暁光?
「空?」
空だ。もう何日も拝むことのなかった、空。
「ここって……」
(戻って、来たのか?)
水面の上に。
「おい、誰かいるぞ!」
人が叫ぶ声がした。
「大丈夫か!? 生きているか!?」
意識のない女の子を腕に抱いて、その場に座りこんだまま、動けなくなってしまう。
(なんで……)
やがて、松明を持った何人かの男たちが駆け寄って来ても、清高は呆然とし続けていた。
「良かった、生きてるぞ!」
「そっちの女の子も無事か?」
「無事だ! 息をしてる!」
彼らは人の好さそうな顔に一様に安堵を浮かべ、女の子をおぶり、清高を助け起こす。
唐突に、我に返る。
清高が突然ふらふらとおぼつかない足を川の方へ向けようとしたので、仰天した男の一人が慌てて腕を掴んだ。
「馬鹿! 増水した川に近づいちゃいかん!」
「でも……だって、戻らないと……」
「戻るって、どこに?」
「……あれ?」
――どこに?
言われて初めて、自分がどうすればいいのか、どこへ向かえばいいのか、何もわからないことに気づく。
「あんな川に落ちたら、今度こそ死んじまうぞ」
(知ってる。そんなこと)
あの日、清高は、死ぬ覚悟で、自ら飛び込んだのだから。
思ったが、男の手を振り解く力も、もう残ってはいなかった。
清高が結界を越え、あの水底の館の庭まで辿り着けたのは、たまたまだ。
『竜臥淵』という特別な場所だったから。雨で結界が緩んでいたから。
いずれにしても、今、ここで川に飛び込んだところで、あの場所に辿り着くことはできないだろう。
龍神の元には。
「これ、兄ちゃんのか? 随分立派な太刀だな」
別の男が、川原に打ち上げられていた抜身の『狭霧』を拾い上げる。
その銀色を見た途端。
様々なものが込み上げて、どっと涙が溢れ出した。
頭からつま先まで濡れきっていたので、きっと男たちはわからなかっただろう。
しかし、清高は泣いていた。
戻って来たのだ。
元の世界に。あの水底の庭から。
戻って来た。
戻って来てしまった。
龍神のいない場所に。
いつのまにか、彼が側にいることが、あたりまえになっていて。
いつからか、彼の側にいることが、清高の安らぎになっていた。
(嘘だろ、そんなの……)
望んで『龍神の花嫁』になったわけではない。
殺してやろうと、本気で思っていた。
それなのに。
今さら『好き』だなんて、そんなの、どうすればいいかわからない。
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