15 / 34
十四『嵐』①
しおりを挟む
ごろごろと地響きのような音が響いて、清高は身を竦ませた。
「雷か」
天の水面よりさらに上の空。そこで轟く音。
ずっと遠いはずのそれが、水底の館を震わせる。
昨夜遅く、清高が作った粥を食べた後に再び出て行った龍神は、夜が明けて朝になっても、昼を過ぎても、夕刻になっても帰ってこなかった。
数刻前からいよいよ勢いを増してきた雨は、風を伴い、暴力的な激しさで地面を叩き続けている。
雨月の予言どおり、嵐がやってきたのだ。
天の水面の上に穴が開いたかのような、瑞千川の水を全て降らしてしまおうとでもしているかのような、雨。
もっとも、本当のところは、この雨はあの水面よりずっと高い空の雨雲が降らせているわけであって、それはつまり、遥か頭上の世界でも雨が降り続けているということで。
(何も起こらなきゃいいけど)
今のところ何の役目も果たせていない『龍神の花嫁』の身代りとして、水底から地上の無事を願うことしかできないのが歯がゆかった。
また一つ、雷が轟いた。
「雷が鳴ると梅雨が明ける」と聞いたことがあるが、この様子を見かぎり、あまりあてにはならなそうだ。
(嫌だなぁ……)
清高は雷の音があまり得意ではない。
低く唸るような音も、空を割るような甲高い音も。
もう子供ではないのに、雷ごときに動揺してしまう。
そんな自分が嫌で、人には決して言わないが、嫌なものは嫌なのだ。
怖いわけではない。断じて。
清高はそろそろと膝で這って行き、少しだけ雨戸を開けた。
雷は嫌い。しかし、その正体をこの目で確信しないままだと、それはそれで落ち着かない。
怖いもの見たさ、というやつだ。いや、決して怖いわけではないけれども。
細い隙間から怖々と外を覗き、暗くて何も見えない中、目を凝らす。
かっ、と天が輝いた。
いくつか枝分かれした稲妻がくっきり見えたかと思うと、少し間をおいて、
がらがら、ぴしゃん!
と、清高が一番苦手な、乾いた雷鳴が鳴り渡る。
ぱっと耳を塞いで首を縮めながら――その反面、思わず身を乗り出していた。
一瞬、明るくなった時、庭で一番背の高い木よりずっと上、ずっと遠くに、何かの姿が見えたからだ。
鳥。ではなかった。
蛇のように長い胴体をくねらせて、雨の中を泳ぐように飛んでいた。
あれは――
「――龍、」
――館の戸を全て閉じて、決して外に出ないように。
きつく言い置かれた言葉を無視し、部屋の隅に置かれた『狭霧』を手に取ると、清高は部屋を跳び出した。
人の姿をした彼に見慣れてしまっていたために、すっかり忘れていた。
そもそも、龍神はその名の示す通り、本来は龍であるはずなのだ。
ならば、あれは。
傘も持たずに出て来てしまった清高は、昼間より勢いを増した雨を浴でたちまち濡れ鼠になるが、気にせず走り続ける。
これほどの大雨では、どうせ傘も大して役には立ちはしない。
稲光が瞬いた。
先程からずっと、明るくなるたびに天を探しているのだが、あの大きな影はあれきり見当たらない。
(どこにいるんだ?)
こんな雨の夜の中、一人で。
髪から伝う雫を拭う袖もすっかり水び出しで、目を開けているだけでもつらくなってくる。
泥に足を取られ、枝葉に肌を引っ掻かれながら、庭を抜けて、河原へ出た。
川はいつもより水嵩を増し、今にも溢れ出さんばかりにのた打ち回っていた。
(まずいな)
これが水面の上の映し鏡であるならば、本当の瑞千川もこれだけ荒れ狂っているということだ。
このまま氾濫すれば、また里が襲われ、月夜野の民が苦しむことになるだろう。
(あいつ、何やってるんだ?)
嵐のたびに瑞千川が荒れるのは、川に棲まう龍神が暴れるからだ。
月夜野ではそう言い伝えられている。
このところ、たしかに龍神は機嫌が悪かった。
しかし、どこか解せないものが残る。
あの龍神が。
喧騒を嫌い、いつも静かな佇まいを崩さない彼が。
毎日せっせと清高の傷の手当てをしてくれたあの人が。
この雨の夜、水面の世界の綻びを繕うために奔走し続けている神様が。
そんな横暴な真似をするだろうか?
信じたい。
でも、何を?
どちらを?
清高が信じたいのは、どんな真実だろう?
花嫁に成り変わってまで殺そうとしていた相手は、やはり人に仇なす暴君であり、倒すべき敵であったという現実か。
清高の粥を平らげて、「力を貰った」と、「ありがとう」と言った、その言葉に偽りはなかったという事実か。
自分は、どちらであってほしいのだろう?
だから、確かめなければならない。
「ふざけんなよっ……」
もしも今日まで清高が見てきた方が偽りで、彼の本当の姿が、古来から語られてきた通りの単なる暴君であるなら、その時は。
「そんな奴、今度こそ本当に、俺がぶっ倒してやるからなっ!!」
頬を伝って口の中まで流れ込んでくる雨と一緒に、吐き出した。
また一つ、閃光が走る。
放たれた稲妻に貫かれるように、真昼より白く輝いた空から、人影が落ちた。
「龍神っ、」
(……じゃ、ない?)
ほんの一瞬だけ照らされたその姿は、龍神よりずっと小さくて。
それは一直線に川に落ちたかと思うと、濁流に呑まれてたちまち見えなくなる。
「!!」
嵐の中、まして夜更け。増水した川に近付いてはいけないのが鉄則だ。それは水面の上でも下でも同じこと。
が、躊躇しなかった。無意識のうちの行動だったとすら言えるだろう。
清高は激しい流れに飛びこんだ。
「雷か」
天の水面よりさらに上の空。そこで轟く音。
ずっと遠いはずのそれが、水底の館を震わせる。
昨夜遅く、清高が作った粥を食べた後に再び出て行った龍神は、夜が明けて朝になっても、昼を過ぎても、夕刻になっても帰ってこなかった。
数刻前からいよいよ勢いを増してきた雨は、風を伴い、暴力的な激しさで地面を叩き続けている。
雨月の予言どおり、嵐がやってきたのだ。
天の水面の上に穴が開いたかのような、瑞千川の水を全て降らしてしまおうとでもしているかのような、雨。
もっとも、本当のところは、この雨はあの水面よりずっと高い空の雨雲が降らせているわけであって、それはつまり、遥か頭上の世界でも雨が降り続けているということで。
(何も起こらなきゃいいけど)
今のところ何の役目も果たせていない『龍神の花嫁』の身代りとして、水底から地上の無事を願うことしかできないのが歯がゆかった。
また一つ、雷が轟いた。
「雷が鳴ると梅雨が明ける」と聞いたことがあるが、この様子を見かぎり、あまりあてにはならなそうだ。
(嫌だなぁ……)
清高は雷の音があまり得意ではない。
低く唸るような音も、空を割るような甲高い音も。
もう子供ではないのに、雷ごときに動揺してしまう。
そんな自分が嫌で、人には決して言わないが、嫌なものは嫌なのだ。
怖いわけではない。断じて。
清高はそろそろと膝で這って行き、少しだけ雨戸を開けた。
雷は嫌い。しかし、その正体をこの目で確信しないままだと、それはそれで落ち着かない。
怖いもの見たさ、というやつだ。いや、決して怖いわけではないけれども。
細い隙間から怖々と外を覗き、暗くて何も見えない中、目を凝らす。
かっ、と天が輝いた。
いくつか枝分かれした稲妻がくっきり見えたかと思うと、少し間をおいて、
がらがら、ぴしゃん!
と、清高が一番苦手な、乾いた雷鳴が鳴り渡る。
ぱっと耳を塞いで首を縮めながら――その反面、思わず身を乗り出していた。
一瞬、明るくなった時、庭で一番背の高い木よりずっと上、ずっと遠くに、何かの姿が見えたからだ。
鳥。ではなかった。
蛇のように長い胴体をくねらせて、雨の中を泳ぐように飛んでいた。
あれは――
「――龍、」
――館の戸を全て閉じて、決して外に出ないように。
きつく言い置かれた言葉を無視し、部屋の隅に置かれた『狭霧』を手に取ると、清高は部屋を跳び出した。
人の姿をした彼に見慣れてしまっていたために、すっかり忘れていた。
そもそも、龍神はその名の示す通り、本来は龍であるはずなのだ。
ならば、あれは。
傘も持たずに出て来てしまった清高は、昼間より勢いを増した雨を浴でたちまち濡れ鼠になるが、気にせず走り続ける。
これほどの大雨では、どうせ傘も大して役には立ちはしない。
稲光が瞬いた。
先程からずっと、明るくなるたびに天を探しているのだが、あの大きな影はあれきり見当たらない。
(どこにいるんだ?)
こんな雨の夜の中、一人で。
髪から伝う雫を拭う袖もすっかり水び出しで、目を開けているだけでもつらくなってくる。
泥に足を取られ、枝葉に肌を引っ掻かれながら、庭を抜けて、河原へ出た。
川はいつもより水嵩を増し、今にも溢れ出さんばかりにのた打ち回っていた。
(まずいな)
これが水面の上の映し鏡であるならば、本当の瑞千川もこれだけ荒れ狂っているということだ。
このまま氾濫すれば、また里が襲われ、月夜野の民が苦しむことになるだろう。
(あいつ、何やってるんだ?)
嵐のたびに瑞千川が荒れるのは、川に棲まう龍神が暴れるからだ。
月夜野ではそう言い伝えられている。
このところ、たしかに龍神は機嫌が悪かった。
しかし、どこか解せないものが残る。
あの龍神が。
喧騒を嫌い、いつも静かな佇まいを崩さない彼が。
毎日せっせと清高の傷の手当てをしてくれたあの人が。
この雨の夜、水面の世界の綻びを繕うために奔走し続けている神様が。
そんな横暴な真似をするだろうか?
信じたい。
でも、何を?
どちらを?
清高が信じたいのは、どんな真実だろう?
花嫁に成り変わってまで殺そうとしていた相手は、やはり人に仇なす暴君であり、倒すべき敵であったという現実か。
清高の粥を平らげて、「力を貰った」と、「ありがとう」と言った、その言葉に偽りはなかったという事実か。
自分は、どちらであってほしいのだろう?
だから、確かめなければならない。
「ふざけんなよっ……」
もしも今日まで清高が見てきた方が偽りで、彼の本当の姿が、古来から語られてきた通りの単なる暴君であるなら、その時は。
「そんな奴、今度こそ本当に、俺がぶっ倒してやるからなっ!!」
頬を伝って口の中まで流れ込んでくる雨と一緒に、吐き出した。
また一つ、閃光が走る。
放たれた稲妻に貫かれるように、真昼より白く輝いた空から、人影が落ちた。
「龍神っ、」
(……じゃ、ない?)
ほんの一瞬だけ照らされたその姿は、龍神よりずっと小さくて。
それは一直線に川に落ちたかと思うと、濁流に呑まれてたちまち見えなくなる。
「!!」
嵐の中、まして夜更け。増水した川に近付いてはいけないのが鉄則だ。それは水面の上でも下でも同じこと。
が、躊躇しなかった。無意識のうちの行動だったとすら言えるだろう。
清高は激しい流れに飛びこんだ。
0
お気に入りに追加
43
あなたにおすすめの小説
【短編】乙女ゲームの攻略対象者に転生した俺の、意外な結末。
桜月夜
BL
前世で妹がハマってた乙女ゲームに転生したイリウスは、自分が前世の記憶を思い出したことを幼馴染みで専属騎士のディールに打ち明けた。そこから、なぜか婚約者に対する恋愛感情の有無を聞かれ……。
思い付いた話を一気に書いたので、不自然な箇所があるかもしれませんが、広い心でお読みください。


侯爵令息セドリックの憂鬱な日
めちゅう
BL
第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける———
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。

婚約者に会いに行ったらば
龍の御寮さん
BL
王都で暮らす婚約者レオンのもとへと会いに行ったミシェル。
そこで見たのは、レオンをお父さんと呼ぶ子供と仲良さそうに並ぶ女性の姿。
ショックでその場を逃げ出したミシェルは――
何とか弁解しようするレオンとなぜか記憶を失ったミシェル。
そこには何やら事件も絡んできて?
傷つけられたミシェルが幸せになるまでのお話です。
龍の寵愛を受けし者達
樹木緑
BL
サンクホルム国の王子のジェイドは、
父王の護衛騎士であるダリルに憧れていたけど、
ある日偶然に自分の護衛にと推す父王に反する声を聞いてしまう。
それ以来ずっと嫌われていると思っていた王子だったが少しずつ打ち解けて
いつかはそれが愛に変わっていることに気付いた。
それと同時に何故父王が最強の自身の護衛を自分につけたのか理解す時が来る。
王家はある者に裏切りにより、
無惨にもその策に敗れてしまう。
剣が苦手でずっと魔法の研究をしていた王子は、
責めて騎士だけは助けようと、
刃にかかる寸前の所でとうの昔に失ったとされる
時戻しの術をかけるが…


例え何度戻ろうとも僕は悪役だ…
東間
BL
ゲームの世界に転生した留木原 夜は悪役の役目を全うした…愛した者の手によって殺害される事で……
だが、次目が覚めて鏡を見るとそこには悪役の幼い姿が…?!
ゲームの世界で再び悪役を演じる夜は最後に何を手に?
攻略者したいNO1の悪魔系王子と無自覚天使系悪役公爵のすれ違い小説!

完結·助けた犬は騎士団長でした
禅
BL
母を亡くしたクレムは王都を見下ろす丘の森に一人で暮らしていた。
ある日、森の中で傷を負った犬を見つけて介抱する。犬との生活は穏やかで温かく、クレムの孤独を癒していった。
しかし、犬は突然いなくなり、ふたたび孤独な日々に寂しさを覚えていると、城から迎えが現れた。
強引に連れて行かれた王城でクレムの出生の秘密が明かされ……
※完結まで毎日投稿します
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる