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七『水底の底にあるもの』

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 この館での生活はおかげさまで不便はないが、することもなかった。
 朝餉を終えるなり龍神はさっさと姿を消してしまうし、菊里きくりに話し相手になってもらおうとすれば、『花嫁修業』という名目で、礼儀作法やら身だしなみやらについて、がみがみ言われるだけなので面白くない。

「鍛錬でもするかぁ」
 暇を持て余した清高きよたかは、一人呟いて庭に下りた。

 とは言っても、できるのはせいぜい体術の型をさらうくらいだ。
 いつも鍛錬に使っていた木刀は領主の館に置いてきた。あれはどう見ても嫁入り道具にはふさわしくない代物だったので、仕方がない。
 唯一の得物である懐剣かいけんも、今朝、とうとう龍神に取り上げられてしまった。
 今は退屈しのぎに体を動かすのが目的だから構わないが、後のことを考えると、丸腰というのはいささか心許ない。
 この際、ただの棒でもいい。何かないかと、きょろきょろと辺りを見回してみる。

 そんな風に庭を散策していると、少し離れた所の楓の木の向こうで、縹色はなだいろが翻るのが見えた。
「龍神?」
(どこかに出かけるのか?)

 怪我の具合に関しては甲斐甲斐しい龍神だが、それ以外は清高にほとんど干渉してこない。手当てと食事の時間以外、姿さえ見せないことがほとんどだ。
 庭いじりをしている姿は何度か見かけたが、それ以外は謎。

  ふと、悪戯心が芽生えた。
(後でもつけてみるか)
 神様と呼ばれる存在が、普段はどう過ごしているのかには興味がある。

 楓の木の陰を覗くと、既に龍神の姿はない。
 が、まだそれほど遠くへは行っていないだろう。
 とりあえずの方向へ検討をつけて、清高は歩き出した。

 あまり手入れが為されていないのか、庭の草木は好き放題に生い茂っており、落ちた木の葉も小石に生した苔もそのままにされている。
「これじゃぁ、自然の野山と変わらないな」
 拾った木の枝から枯れ葉を払って適当に振りながら、小さな花や珍しい形の木の実を見つけては突いてみる。

 木々の隙間をくぐるようにして歩いていると、なんだか幼い頃を思い出す。
「懐かしいな」
 昔はよく家臣たちの目を盗んで、こっそり屋敷を抜け出しては、明高あきたかやあさぎと、裏の林を駆けずり回ったものだ。

 三人一緒に。
 そう。昔は。

「……」
 少し力を入れて石を叩いただけで、手の中の枝は、ぱきり、とあっさりと折れてしまった。

 そうして、龍神を見つけられないままいくらか歩いた頃。
 鼻先が何かに触れた気がした。

「うわっ! なんだ?」
 慌てて手で振り払うと、極細い糸のようなものが指に絡む。

「……蜘蛛の巣?」

 まじまじと見つめると、それは清高の手の中で、淡雪あわゆきのようにすっと溶けて消えてしまった。
「何……?」

 顔を上げた清高は、突如一変した辺りの景色に愕然とする。
 緑深く茂った草木は失せ、目の前にはただ大小の石が転がるだけの、荒涼とした地面が延々と広がっていた。

 嫌な感じがする。
 清高は足を止めた。

 空には相変わらず水の膜が張られたままで、ここがまだ結界の内側の、水底の世界なのだということはかろうじてわかる。
 しかし、急に立ち込めてきた霧のせいで、辺りの景色が見えにくい。
 たった今通って来たはずの方向さえあっという間に見失い、これがただならぬ事態であるということに気がついた。

 道に迷った、と言えるほど道らしい道を来たわけではないが、どうやら帰り道がわからなくなってしまったことはたしからしい。
「参ったなぁ。この歳で迷子か」
 呟いて、頭をがしがしと掻く。
 尾行相手どころか、帰り道まで見失ってしまうとは。なんとも情けない。

(多分、これ、結界とかいうやつのせいだ)
 龍神が言っていた結界とやらは、外の物を内に入れない効果があるだけでなく、内から外へ出て行こうとするものにも影響を及ぼす類のものだったのだろう。
 いつのまにかそれに絡め捕られてしまったらしい。

 山で遭難した場合の対処法は心得ているが、この場合には役に立ちそうもない。
 太陽も星も見えないのでは方角さえ読めなかった。

「さて、どうしたものかね?」
 腕組みをして考えていると、

『人間だ』

 木の葉のさざめきほどの、小さな声が聞こえた。

『本当だ。人間だ』
『生きた人間がいる』
 無数の囁き声。
 それが、地を這うようにして、清高の周りに集まってくるのがわかった。

(まずい)

 これは、良くないものだ。
 そう直感する。

 清高は帯に手を伸ばし、そこに懐剣がないことを思い出した。
 一段温度の下がった空気に肌が泡立つ。

『どうしてここに人間がいるんだ?』

 ここは逃げた方がいい。
 本能的な危機感がそう訴えている。
 しかし、どちらへ向かえばいいのかもわからない。

 視線だけを左右に走らせ、どんどん濃くなっていく霧の向こうに活路を探す。
 いつでも走り出せるよう、踵を浮かせた。

 その時、何かに袴の裾を掴まれた!

「――!」

 咄嗟に振り払おうとするが、強い力に引っ張られ、足が持ち上がらない。

 裾を掴んだ『何か』は、そのままするりと袴の中へ入ってきたかと思うと、清高の足を掴んだ。

『何故、おまえは生きている?』

 ひどく冷たいものに、ぎゅっ、と掴まれた。

「……あ」

 口を薄く開いたまま、息が吸えなくなる。
 掴まれた足首から注入された悪寒が背筋を駆け、体中の血を凍らせていく。
 ぞわぞわと頬を撫で上げる手に絞り出されるようにして、両目に涙が滲んだ。

 心の臓を掴まれて。
 喉を絞められて。
 声になりきらない声が溢れる。

「ご、め……な……い、」

 生きていて。

 ごめんなさい。

「清高!」

 名前を呼ばれた瞬間。
 堰を切ったように、止まっていた息と呼吸が流れ出した。

 涙の幕が張った目に、縹色が舞う。
 綺麗な孤を描く軌道で抜き払われた太刀たちが、冴え冴えとした銀色の光を放った。

「すまないが、退いてくれ。『これ』はまだ生きている者だ。君たちの所へはやれない」

 龍神が太刀を振るった途端、辺り一面の霧が晴れる。
 同時に、清高を取り囲み、足を掴んでいた邪悪な気配も一瞬にして消え失せた。

 膝の力が抜け、その場に崩れ落ちる。
「大事ないか?」
 見上げた先の表情のない顔に、どうしようもないほど安堵する。

 見通しが良くなった景色はまた元の場所とは変わっており、二人は清水しみずの流れる川辺にいた。
 両岸を囲む背の高い木々とごつごつとした岩場で、渓谷の、大分上流の方であることがわかる。
 梢の向こうに相変わらず揺らめく水面が望める限り、ここがまだ水底の世界であることは確かだ。
 うっかり結界を抜けてしまった末、意図せず地上に出てしまったわけではないらしい。

「……って、おかしいだろ? なんで川の底にまた川が流れてるんだ?」
「この水底の情景は、上の世界と呼応する。言わば、映し鏡のようなものだ。
 あの水面を上がった先の景色がこうだから、ここもこうなのだ」
「ふぅん……?」

 龍神は館の場所を「竜臥淵りゅうがふちの底」だと言っていた。
 そこから歩いた距離を考えれば、なるほど、地上にはこのような山深い景色が広がっていることだろう。
 仕組みはわからないが、とりあえず状況は理解した。

「ん? でも、それじゃぁ、さっきのあれはなんだったんだ?」

 あの一寸先も見えないような霧。
 そこで蠢いていたものたち。
 あれは、どう見えても、地上のものではありえない。

 夜闇の淵より暗くて。
 真冬の水より冷たかった。

「水底のさらに底は、幽世かくりよと繋がっている。君はそこに足を踏み入れかけていた。
 君を捕らえようとしていたのは、そこに沈み溜まった、亡者もうじゃたちだ」
「亡者……死人の魂ってことか?」
「それもある。が、人に限らない。この瑞千川に流されたありとあらゆる穢れや怨念が、おりとなって積み重なると、生者に害をなすものとなる」

 まだ体に力が戻らない清高は、がっくりとうなだれた。
「そんな危険なものがいるなら教えとけ……」
 龍神が心なし不満そうな面持ちになる。

「庭には結界が張ってあっただろう? どうやって通り抜けた?」
「知らない。庭を歩いてたらなんか糸みたいなものに触れて、気づいたら変な所にいた」
「何?」
 龍神の声色が険しくなった。

「君は……君の存在は、今、ひどく不安定な状態にあるのかもしれない。
 結界が君を認識できないほどに」
「……俺ってそんなに影薄い?」
「いや……」
 伸びてきた手が清高の顔に触れ、布の上から例の痕を撫でた。

「これの影響かもしれない」

 これ。
 龍神の血を浴びた痕。

「え? 嘘だろ。龍の血にはそんな効果があるのか?」
 そうだとして、それは毒という範疇を越えている気がする。
 あるものの存在を消し去ってしまうなど、そんなものはもう奇術だ。
 もっとも、彼であれば――龍、神であるならば、奇術の一つや二つ使えても、なんら不思議ではないのか。

「ともかく、一旦、屋敷に戻ろう」
「ん」
 差し出された手を掴んで、足に力を――入れられなかった。

「……立てない」
 深い深い溜息を吐いた後、龍神は清高の体を抱き上げた。
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