水底に華の燭を~祟りの龍神と生贄の若君~

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三『龍神の花嫁』③

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 しゃなり、しゃなり、と花嫁行列が山道を登って行く。

 護衛の兵に囲まれた輿の中で、屋根を打ちつける雨の音を聞いていた。出発する時は小糠雨こぬかあめだったのが、かなり雨脚が強まってきている。

 ――達者で。
 兄からかけられた見送りの言葉はこの上なく簡素で、いっそのこと清々した。

 帯に差した懐剣かいけんを確かめる。
 房の飾りで外身こそ派手に仕上げてあるが、中はきちんと研がれた切れ味の良い刃だ。
 暴れ龍を退治するには少々心許ないかもしれが、いざという時に自分の喉を突くのには充分。

 そんなことを考えていると、輿が止まった。
「到着致しました」
 御簾みすが上げられる。

 行列は瑞千川みずちの上流、『龍臥淵りゅうがふち』と呼ばれる滝壺で歩みを止めていた。

 外は視界がけぶるほどの雨が降っている。空は厚い雲に覆われ、まだ真昼だというのに薄暗い。
 護衛の青年の一人が差し出してくれた傘の下に降りる。
代々、瀬良家に仕える家の者で、名前は藤生ふじうという。
 清高きよたかとは子供の頃からの付き合いで、互いに立場の違いを意識するようになるまでは、良い友達だった。

「若様、」
 悲痛な声で清高を呼ぶ藤生に、しっ、と指を立てて見せる。
「今は『花嫁様』だ」
「……失礼、致しました」
「笑えよ。冗談だ」
 とてもそんな気分ではない、と藤生は力なく首を振った。

 反面、どうしてだか、清高本人は妙に清々しい気分だった。
(不思議だな)
 花嫁衣裳を着付けてくれた侍女や、あさぎや、藤生が、わずかでも清高を惜しんでくれた。その事実だけで、兄からの冷たい言葉など吹き飛ばしてしまえる気がする。

 十年に一度、雨の日を選び、花嫁は山に登る。
 そして、この『龍臥淵』と呼ばれる滝壺で龍神からの迎えを待つのが習わしだ。
 その際、花嫁は必ず一人でいなければならず、共に山に登った護衛の者たちは先に下山するのが決まりとなっていた。
 後日、雨が上がってから遣わされる見届け人が、そこに花嫁の姿が残っていないことを確かめることで、嫁入りが為されたことになるというわけだ。

 だから、実際に龍神が迎えに現れ、花嫁を連れ去るところを目撃した人間はいない。
 姿を消した花嫁が、骨も残さず龍に食われてしまったとしても、あるいは、水嵩の増した淵に呑まれるか、逃げ出そうとしてぬかるんだ山道に足を取られ崖から落ちたのだとしても。
 真相は誰にもわからないのだ。

 そもそも、瑞千川で暴れ狂う龍の姿さえ、目撃されたのは、実はもう何十年も前の話である。
 その目撃談でさえ、本当は、信心深い昔の人間の思い込みによる見間違だったのでは? と疑う声も少なくない。

 それでも、月夜野国は、龍神に生贄を捧げ続けてきた。
 そんな狂気じみた信仰に縋らなければ安心を得られない。
 その事実が、瑞千川の氾濫がどれほど月夜野つきよのの人々を苦しめてきたかを物語っている。

 どうあれ、女子おなごが一人悪天の山中に取り残されて無事でいられるはずはない。
 龍神が迎えに来ても来なくても、花嫁は姿を消す。重要なのはその一点。
 所詮、生贄など、捧げる側の人間たちの気休めのためのものでしかないのだから。
 報われない話だ。

「皆、ご苦労だった。これ以上雨がひどくなる前に戻りなさい。
 山道は下りの方が危険だから、くれぐれも気を付けて」
 清高の言葉に、護衛の兵たちが顔を伏せた。
 確実な死を前にした相手を置き去りにすることに対し、それぞれ多少なりとも後ろめたさがあるのだろう。
 彼らは悪くない。せめて、少しでもその罪悪感を和らげてやれるように、できるかぎり明るく笑って見せる。
「今まで世話になったね。ありがとう」
「そんな、滅相もない」
 感極まったのか、藤生が涙ぐむ。
 最後に彼の肩を叩いてやってから、一行にくるりと背を向けた。

 湿っぽいのは性に合わない。
 せめて潔く自分の運命に立ち向かいたかった。
 滝壺に向かって大きく一歩踏み出し――

 耳元で風を切る音がしたかと思うと、次の瞬間、肩を強く押されるような衝撃に襲われた。

 遅れて、熱い痛みがやってくる。
 首を捻ると、右肩に、背中側から矢が突き刺さっているのが見えた。

「――若様!」

 はっ、と振り返る。
 顔を蒼褪めさせた藤生の向こうで、兵の一人が弓を構えていた。
 続けて、一人、二人と、花嫁行列の面々が、次々に弓や刀を構え始める。

 その切っ先は全て、清高に向けられていて。

(――ああ、そういうことか)

 はっきりと異母兄の意志を悟った清高は思わず笑ってしまった。
(まぁ、いいさ)
 悲しみも怒りもない。まして、誰かに対する憎しみなど、まるで湧いてきはしない。
 ただ、してやられたという少しばかりの悔しさだけは、残っていた。
「おまえたち、何をしている!」
 一人、この企てを知らされていなかったらしい藤生が、仲間だったはずの者たちを止めようと立ちはだかる。
「いいんだ。余計なことをしないでくれ」
「若様、」
 戸惑う藤生の腕を引いて、脇に押しやった。
「兄上からの指示だ。おまえもやつらに倣え」
「何を……」
 兵たちは武器を構えたまま、険しい表情で清高の動向を窺っている。

 彼らからは、まだわずかに躊躇いのようなものが感じ取れた。
 主の命令とはいえ、仕える家の若君を手にかけるとなれば、少なからず抵抗があるものだ。
 肩に刺さった矢を左手で無造作に掴み、そのまま引き抜いた。
 大仰な花嫁衣裳が意図せず防具の役割を果たしてくれたのか、傷は深くないようで、それほど血も流れない。

 兵たちがまだ動こうとしないのを確認して、一歩、後ろに下がった。

「兄上に伝えてくれ」

 二歩、三歩。
 左足の踵が地面を踏み外すのを感じて立ち止まる。

「『そんなに恐れずとも、清高はちゃんと貴方の前から姿を消しますよ』ってね」

 言う同時に、滝壺に向かって、背中から飛び込んだ。

「若――」
 藤生の叫びは、ざばんっ、という水の音で掻き消された。

 激しい飛瀑を受け止める淵の中は轟々と渦を巻いており、凄まじい濁流は一瞬で清高の体を絡め捕る。
 川の側で生まれ育った者として、泳ぎが得意という自負はあるつもりだったが、些細な抵抗など無意味だとばかりに、水底へと引きずり込まれていった。
 水を吸った花嫁衣裳が重い。

(あーあ)
 視界も呼吸もあっというまに奪われて、薄れゆく意識の中、ぼんやりと考える。
(明高のやつ、そこまでして俺を葬り去りたかったんだなぁ)
 ここまで念には念を重ねてきたとなると、彼の本来の目的は最早、国のため龍神に生贄を捧げることより、清高を亡き者にすることの方に重きが置かれていたのかもしれない。

 あさぎを守るためにこの命を使えるならば本望と思っていたが、それすら掌の上だった。
 いや、薄々勘づいてはいたのだ。
 それでも、妹の生涯を天秤にかけられたら、清高にはこの道を選ぶことしかできない。
 だから、異母兄を恨むつもりはない。ただ、してやられた、と苦笑するだけだ。

(でも、なぁ……)

 どうせ死ぬのであれば、噂に聞く龍神様とやらを一目見てから死にたかった。
 それだけが未練と言えるだろう。

 望んだ有終の美とはかけ離れた最期を前に、懐剣を握り締める。
たとえ一太刀も浴びせることができなかったとしても、頭から丸呑みにされ、神様の腹の足しにでもなれたなら、この死に少しは意味を見出せたのに。

 ――ああ。龍神様に、会いたいな。
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