水底に華の燭を~祟りの龍神と生贄の若君~

相原罫

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 水の音がした。

 御簾みすを持ち上げて外を見ると、雨が降っている。結界が緩んでしまったらしい。
 下駄をつっかけて濡れ縁から下り、ぬかるんだ土を踏んで庭へ出る。今年最後の菖蒲しょうぶの花が、終焉の美を飾るように咲いていた。
 雨粒が肌を叩くのを感じながら顔を上げれば、天を覆う水面が轟々と鈍色の渦を巻いている。
 外の世界は嵐のようだ。

 手を伸ばし、宙を探る。すぐに目には見えない糸のようなものに触れた。
 指先で辿りながら、そこに神力を流していく。
 その途中。
 庭を覆う結界である透明な糸が、びぃぃぃん、と大きく震えた。

 再び視線を空に上げる。曇天を突き抜けて、何かが落ちてきた。

 どぼんっ。

 ひときわ大きな水音をたてて降ってきたそれは、初め、鳥に見えた。
 白い両羽を広げた、大きな鳥。
 しかし、すぐに違うと気づく。思わず両手を差し伸べた。
 それは、まるで導かれるように、そこに在るべくしてやって来たかのように、この腕の中に収まった。

 人。人間、だった。
 羽に見えたのは衣の袖で、見るからに上等な絹地に細かな文様が織り込まれた、純白の打掛うちかけ――花嫁衣装。

 一瞬詰まらせた息を深々と吐き出す。
 よもやあの悪しき習慣が未だ続いていようとは。

 人間は意識がないようで、体は力を失いぐったりとしている。だが、片腕で抱え直し、空いた方の手を口鼻に翳すと、まだしっかりと息をしていた。
「……」
 生きている人間に出会うのは、随分と久しぶりのことだ。
 感慨深い気持ちで顔を覗き込む。

 落ちてくる途中に脱げてしまったのか、花嫁衣裳に必須であるはずの角隠しはなく、髷も半ば解け、乱れた黒髪が顔に貼りついている。
 指先でそっと払うと、白い頬が現れた。
 閉ざされた瞼を縁取る睫毛が震え、白珠のような水滴が転がり落ちる。ぱちり、と目を開けた花嫁の目に、色のない顔をした自分が映るのを見た。
 薄く開かれた唇がわななき、動きだけで問う。

 ――りゅうじんさま?

「そう呼ばれている者だ」
 答えた、次の瞬間。

 腕の中で花嫁が跳ね起きた。

 帯に差された懐剣かいけんを引き抜き、まっすぐ切りかかってくるその動きはあまりにも素早く、反応が遅れてしまった。
 首を狙って繰り出された一撃をかわしきれず、切っ先が浅く皮膚を裂く。ぱっと飛び散った鮮血が花嫁の顔にかかり、赤い斑を作った。
「っ!」
 愕然とするあまり、体が凍りついたように動きを止めてしまう。
 あきらかな殺意の込もった刃が浅手に終わってしまったことで、相手はちっと舌打ちした。
 立ち尽くすこちらの胸を蹴って、距離を取る。手慣れた動きだ。
 懐剣を構え直した花嫁は、今度は腹を狙って二撃目を打ち込んでくる。
 我に返り、その攻撃を受け止めた。今度は刃が体に触れるより前に、相手の手を掴む。

 わずかに違和感を覚えた。

 が、構わずそのまま腕を捻り上げて背を向けさせ、凶器を取り上げようとした時。
 突然、掴んだ手から力が抜けた。懐剣が地面に落ちて水飛沫が舞う。
 ぐらりと傾ぐ体。咄嗟に腕を回してそれを掬い上げる。抜け出そうともがく手足からも、すぐにへたりと力が抜けた。
 どうやらなけなしの気力を使って襲いかかってきただけで、体の方はすっかり限界だったらしい。

 やれやれ、と首を振りながら、頬に付いた返り血を指先で拭おうとすると、意志の強そうな瞳が、せめてもの抵抗とばかりにきっと睨み上げてくる。
 真正面から顔を見て、ようやく先程の違和感の正体がわかった。

「……君、は」
 突き刺すように向けられていた視線がふっと外され、気まずそうに目が伏せられる。
 綺麗に化粧を施されたその顔は、一見すると美しい少女に見えた。花嫁衣装で厳重に包まれているせいで骨格も目立たない。
 しかし、よくよく見れば。
「……男か」
「……悪かったな、男で」
 衣装や化粧で偽ることのできない声が、言葉より雄弁に花嫁の正体を物語っていた。

 さて、この事態はどう判断したものだろう?
 数百年も間、龍神と呼ばれる存在として人々から恐れ崇め奉られてきたが、男の花嫁を受け取ったのは初めてのことだった。
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