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 今から八年ほど前、藤浦徹が永崎研究所に入所してきた。
 大学を卒業したばかりという若さでありながら群を抜く優秀さで、研究者にありがちな性格面での大きな欠陥もなく、まもなく研究所になくてはならない存在となった。
 永崎英典としては目をかけると同時に、少なからず嫉妬の感情もあったのだろう。
 藤浦と娘の関係を認められなかったのは、だから、可愛い娘の恋人を受け入れられなかったというより、研究者としての意地からくるものだった。
 元より英典と真麻はあまり良好な関係ではない。父と娘との間にありがちな衝突に加え、アンドロイドの研究者としての意見の食い違いが二人の溝を深めていた。アンドロイドをあくまで「自分の作品」として扱う英典に対し、再三再四に留まらず、真麻は彼らの権利を主張したという。
 自分に反抗してばかりの娘が、自分の下で働く若く優秀な研究員を選んだ。娘から父としてばかりでなく、研究者としても否定されたように感じられたのだろう。
 激しい口論の末、真麻は家を飛び出した。
「正確には、それは駆け落ちとは言わないかもしれません。出て行ったのは真麻さんだけで……藤浦徹は永崎研究所に残りましたから」
「恋人をおいて、ですか」
「端から見ればそう見えたでしょう」
 真麻と英典の論争の際、藤浦徹は恋人ではなく、上司の肩を持ったのだそうだ。
 ――お父さんの言うことが正しいよ。
 と真麻を諌めるのを見た他の研究員たちは驚いたらしい。
 結果、真麻と藤浦の関係は抉じれ、破綻し、真麻は飛び出し、藤浦は残った。
「いえ、そう見せたんです」
「実際は違ったということですね」
「はい」
 全ては二人の演技だった。
 藤浦とて英典のやり方には思うところがあり、真麻の意見に賛同していた。しかし、藤浦にはどうしても研究所に残らなければならない理由があったのだ。
「開発途中のアンドロイドがあったんです。今までで一番手をかけた、最高傑作になるであろうアンドロイドでした」
 真麻も制作に関わり、特に思い入れの強い一体だった。今それを放り出すわけにはいかない。
 藤浦の意見をことごとく拒否し、彼の研究開発の妨害さえ行っていた英典だったが、藤浦が制作していたそのアンドロイドが、自分の研究所きっての傑作になるであろうことは理解していた。そして、理解した途端、掌を返すようにしてそのアンドロイドの制作に手出しを始めたのだ。
 もし二人揃って研究所を出て行ってしまったら、そのアンドロイドは英典のものになってしまう。我が子のように思いを込めて作ったアンドロイドを、ただの彼の「制作物」にしたくない。二人の気持は共通だった。
 かと言って、外部に持ち出したところで、そのアンドロイドを完成させるために必要な設備を二人は持たない。藤浦は研究所を離れるわけにはいかなかった。
「真麻さんはそのアンドロイドの完成まで家を出るのを我慢できなかったんですか? そうすれば完成後、二人で……」
「理由があったんです」
「理由?」
「その時にはもう、こころちゃんが、おなかに」
「ああ……」
 ――このアンドロイドが完成したら、すぐに追いかけるから。
 ――そうしたら、二人で。違うか。三人で、だね。
 ――三人と二体……いや、五人で、か。いいね。
 ――一緒に。
「そう、約束をして」
 叶わなかった。
 待望のアンドロイドの完成に前後するように、藤浦徹は他界した。
「僕が『記憶』として知っているのはそこまでです」
 永崎ハヤトの言い回しは妙だった。
「……待って下さい。つまり、その開発途中だったアンドロイドがあなたというわけですよね?」
「僕と、ネネです」
 青嶋は「あっ」と声を漏らした。
 三人と二体。いや、五人。
 開発中のアンドロイドは、二人あったのだ。
「でも、そうですね。正確に言えば『開発中』であったのは僕だけです。真麻さんが研究所を出た時点で、ネネはほとんど完成し、後は目覚めさせるだけの状態でしたから。真麻さんはおなかの中のこころちゃんと、先に完成していたネネだけを連れて、出て行ったんです」
 木崎が気にしていた「藤浦ネネがどうやって制作されたのか」の謎はここにあったというわけだ。
 永崎ハヤト以来の人工知能、と言っていた。それも当然。永崎ハヤトと藤浦ネネは同じ場所で、同じ人たちに作られたのだから。しかし、順序は逆だった。
「あれ? でも……」
 だとすれば、おかしいではないか。
「どうして永崎くんは、そんなに詳しく事の次第を知っているんですか?」
 彼が完成する前の話だ。それも当人たちしか知らないであろう胸の内までを、永崎ハヤトはまるで自分のことのように語る。
 本人が見聞きしていない物事の記憶を持つ。それは、まるで。
 ようやく青嶋にも話が繋がって見えてきた。
「もしかして、永崎さんの……」
「僕の人工知能の中には、藤浦徹の記億の一部が保存されています」
 ネネと同じように、と永崎ハヤトは囁くように言い足した。
「記憶といっても実際に彼の見聞きしたものではありません。いくつかの画像データと、藤浦徹が文章に起こした、手記のようなものです。僕はそれを読み上げているだけで」
 当然だ。藤浦ネネの件でもわかっていることで、人間の脳に刻まれた記憶を、データとしてコピー&ペーストすることなど、現代の最先端技術をもってしてもできはしない。
 藤浦ネネのことを思い出し、青嶋はさらに気が付いた。
「査定の時、ハヤトくんの中に過剰な記憶データはなかったはず……」
 そう。永崎ハヤトの査定の折、人工知能の検査では何の異常も見付からなかった。査定を担当したのは青嶋だ。間違いない。
 もしも今彼が語った諸々、彼自身が見聞き、体験したのではない物事が『記憶』として保存されていたのならば、人工知能の検査の段階で判明していたはずだ。藤浦ネネの時にそうだったように。
「そう……だから藤浦徹は、僕の人工知能が起動してからの時間と、保存されている記憶データの量が矛盾しないように、僕が実際に完成したアンドロイドとして目覚める前に、僕の人工知能を起動させておいたんです。だから、僕には目覚める前の記憶があるようでない、という感じですね」
「そんな……」
 永崎ハヤトはなんでもないことのように言うが、それは記憶の改竄だ。彼が本来持つべき記憶と、別のデータを入れ替えるなど。
 過剰なデータを記録させるより質が悪い。人道的に問題だ。
 藤浦徹という人物も、アンドロイドの扱い方に関して、永崎英典のことをとやかく言えないではないか。
「そこまでしてでも彼は残したかったんです。自分の記憶を」
 永崎ハヤトはそう言って藤浦をかばう。自分の生みの、ならぬ、作りの親を非難されるのは確かに気分が良くないだろう。
 しかし、やはり青嶋には得心できなかった。
「そんなの、自分だけの、勝手な都合じゃないですか……」
 永崎ハヤトのことを慮っていない。永崎ハヤトはそっと微笑む。
「青嶋先生は優しいですね」
 ちくり、と体のどこかが痛む。藤浦ネネにも言われたが、青嶋はそう言われるのが得意ではないのだ。
「僕は構わないんです。むしろ、彼が僕に大切なものを託してくれたことが嬉しくて、誇らしい」
 どうして? と思う。
 永崎ハヤトも、藤浦ネネも、どうしてそう胸を張って笑えるのか。
「続きをお話ししてもいいでしょうか?」
 言われ、我に返った。
 そうだ。ここまでの話ではまだ核心に触れていない。
 なぜ、永崎ハヤトが事件を起こしたのか。
「ここからは間違いなく、僕自身の『記憶』に基づく話です」

 あの日。廊下で出逢った青嶋が取り落としたファイルの中。偶然見えてしまった書類。次に査定を受ける予定だというアンドロイドの顔写真。
 英典の娘にそっくりだった。藤浦、という苗字から考えても、無関係とは思えない。
 そのことを、すぐには英典に告げられなかった。
 彼が真麻のことを快く思っておらず、二人が絶縁状態であることは、永崎夫人や研究所の他の研究員たちからそれとなく聞いている。
永崎ハヤトが永崎真麻、いや、藤浦真麻のことを特別視しているのは、彼女が英典の娘だからではない。
 生まれたときから自分の頭の中にある記憶。藤浦徹という人の記憶。その中に沢山、沢山刻まれた真麻の姿。それが思わせる。
 ――彼女に会ってみたい。
 「藤浦ネネ」なるアンドロイドはきっと真麻に繋がっている。なんとかして連絡を取れないだろうか。
 そう思い色々と調べてみたが、藤浦ネネの連絡先も、どこに住んでいるのかも、永崎ハヤトでは見付け出すことができなかった。
 青嶋に尋ねようか。
 だが「なぜ藤浦ネネの連絡先が知りたいのか?」と問われたら答えることができない。
 自分の中に藤浦の記憶があることを、永崎ハヤトは誰にも言っていない。青嶋にも、英典にさえも。
 打ち明けることでREHの認定を取り下げられることを恐れているわけではない。
 ただ、この記憶はひっそりと、自分だけで持っているべきもののような気がする。この記憶を永崎ハヤトに託した藤浦も、そう望んでいるようだった。
 査定研究所の前で待ち伏せていたら、いつか藤浦ネネに遭えるだろうか。それでは時間がかかり過ぎるし、危険過ぎる。
 考え抜いた末、永崎ハヤトは永崎夫人に相談することにした。
 彼女は英典と違い、一人娘を愛していたし、わからないままの行方を心配もしているようだったからだ。
「あらあら、ハヤトくん。久し振りねぇ」
「お久し振りです」
 一人暮らしを初めてから、永崎の家を尋ねるのはまだ数度目で。
 絵画コンクールでの受賞にまつわる各種の取材や、式典出席に関わるあれこれ、査定研究所での定期検診などで、英典と顔を合わせることは何度も合ったが、夫人の顔を見るのは本当に久方ぶりだった。
「主人は工場の方だけど……」
「いえ、今日は奥さんにお話があって」
「そうなの? それは嬉しいわね。ほら、上がって」
 気さくで優しいこの人は、永崎ハヤトのことを我が子のように可愛がってくれている。
 この時も居間に通すと、人から貰ったのだという高級そうな菓子を山のように皿に盛って、嬉しそうに勧めてくれた。
「それで、お話って何?」
「あの……真麻さんについてなんです」
 夫人は、子供のように目を大きく、丸くした。
 どこまで話すべきか、と迷いながら、永崎ハヤトは査定研究所でのこと――偶然見てしまった資料のアンドロイドが、真麻にそっくりだったということだけを夫人に告げた。
「それで、もしかしたらその人、真麻さんと関係があるんじゃないかって……ネネというアンドロイドのこと、何かご存知じゃないですか?」
「いいえ……あの子が出て行ってしまってからのことは何も。それに、主人やあの子の研究に関して、私は無知だから……」
 思いがけないところから出た娘の名前に、夫人は動揺しているようだった。
「でも、そうね。藤浦、というのね、その子。ならきっと、それは真麻が付けた名前だわ」
「藤浦、さん? 藤浦徹さん、という人のことは……」
 夫人の表情に痛みが走った。
「真麻の恋人だった人よ。真麻が出て行った後もうちの研究所で働いていたのだけれど、少しして……聞いたことがあるでしょう?」
「あ……はい……」
 聞いたことがある、どころではない。彼のことは彼の目線で知っている。だがそうとも言えず、永崎ハヤトは曖昧に頷いた。
 愉快そうではないものの、夫人は藤浦について語ることを、そこまで嫌がっている様子ではなく。
 それを感じた永崎ハヤトは、思い切って尋ねた。
「あの……藤浦さんは、どうして亡くなられたんですか?」
「私もあまり詳しくは知らないのだけれど……元々、体の弱い人だったらしいの。それなのに随分無理をして仕事をがんばっていたらしいから。とくに、真麻が出て行ってからは」
「そう、ですか……」
 藤浦は悟っていたのかもしれない。自分の先があまり長くないことを。気付いていたのかもしれない。真麻との約束を果たせないかもしれないことに。
 だから永崎ハヤトに記憶を託したのだろうか。
 しかし、そうだとして、この託された記憶をどうしたらいいものか。
「僕は、どうしたらいいのでしょうか?」
「そうね……もし真麻に会えるのなら、やっぱり会いたいわ。でもそのためにあなたが無理をすることはないのよ」
「でも」
「手がかりが見付かっただけでも嬉しいじゃない。きっと、何か良い方法も思い付くはずだから、焦らず、ゆっくり考えましょう」
 誰より真麻のことを気にかけていたはずの夫人が気丈にふるまう姿を見て、永崎ハヤトも冷静になった。
「あの、このこと、英典さんには……」
「しばらくは内緒にしておきましょうか。あの人意地っ張りだから、今聞いてもきっと素直になれないと思うの。そのうち、本当に真麻が見付かったら、その時いきなり引き合わせてびっくりさせちゃいましょう」
「……そうですね」
 その後互いの近況など雑談を交わし、
「どうせ主人は戻らないから。工場に引きこもるといつもそうなのよ。一人じゃ淋しいでしょ?」
 と言う夫人の勧めを断りきれずに夕食を共にし、すっかり夜も遅くなってから、そろそろ、と永崎ハヤトは立ち上がった。
 邪魔をするなと怒られそうな気もしたが、挨拶もなく帰るのもどうかと思い、声だけかけて行こうと工場を覗いてみる。
「英典さん」
「ハヤトか」
 声はすれど、堆く積まれた物に隠れて英典の姿が見付からない。それらにぶつかって倒さないように気を付けながら、声のする方へ向かう。
 英典は部屋の一番奥、いくつものパソコンや、その他の機械が組み合わされた一角で、熱心に作業をしていた。
「英典さん」
 もう一度声をかける。
 と、英典は手を止め、顔を上げた。これは実に珍しいことだ。普段なら英典が自分の作業を中断してまで他人に対応することはない。
「ここへ座りなさい」
 言われるがまま、永崎ハヤトは英典の隣の椅子に腰かける。
「英典さん、あの……」
「ハヤト。おまえはどこまで知っている?」
「え?」
「お前の頭の中を見せなさい」
 英典が取り出したのは、機械から伸びるケーブルが繋がれたヘッドギアのような装置。人工知能の点検や調整の際に使うもので、永崎ハヤトには馴染み深い物だ。そのはずなのに、今ばかりは、それが異様に不穏な空気を放って見えた。
「何を……」
「おまえを作ったのは私だ。藤浦という男は関係ない。あいつは病弱な上の無理が祟って死んだ。それだけだ」
 不穏な空気を放っているのは――英典の方だった。
 立ち上がり、後ずさる。
「もしもおまえが余計な、間違ったことを記憶してしまっているのなら、それは正さなくてはいけない。わかるな、ハヤト?」
 その時、永崎ハヤトははっとした。
 英典は永崎ハヤトと妻の会話を聞いていたのだ。そして、気が付いてしまった。藤浦が永崎ハヤトの仕掛けた物に。
 背中に機械がぶつかる。これ以上は下がれない。
 腕を掴まれた。初老の、研究ばかりで力仕事などには縁のない男とは思えない力で。ぎりぎりと締め付けるように。細い指が食い込むほどに。
「っ!」
「おまえのその記憶は間違いだ! 忘れるんだ!」
 腕を振り払った拍子にバランスを崩し、永崎ハヤトは英典もろとも床に倒れた。
 縺れ合う中、英典の手が伸びてくる。その指が眼球に突き刺さりそうになり、とっさに身を引いた。今度は髪を鷲掴みにされる。
 爪が立てられたのか、こめかみに鋭く痛みが走る。逃れようとして拳を振るうと、狙ったわけではないが重い感触があり、どこかに当たったことがわかった。
 英典が一層躍起になって掴みかかってくる。
 指先に触れた何かを掴む。それを、自分に襲いかかってくるものに向かって振り下ろす。
 二度、三度。
 明らかに今までとは違う英典の声が聞こえて、永崎ハヤトは手を止めた。
 床の上に丸まった英典の体は、動かなくなっていた。
 自分の手に握られているのが機械の調整をするためのドライバーだと気付く。尖った先端には血が付いていた。
 息を呑む。恐る恐る英典に手を伸ばすと、右目から、血が。嫌な汗が噴き出す。
「……!」
 駆け出した足が縺れ、途中何度も机や棚にぶつかり、その度に物を倒し、落としながら、体当たりするようにしてドアを開ける。
 工場を跳び出すと、永崎夫人がびっくりした様子で立っていた。
「遅いから様子を見に来たのだけれど……」
 肺が痛くなるほど呼吸が荒かった。
「ハヤト? どうしたの?」
 永崎ハヤトの様子に、夫人が心配そうな顔になる。
「僕は……」
 震える手はまだドライバーが握られたままだった。夫人もそれに気付き、小さく悲鳴を上げた。
「僕は、英典さんを殺してしまいました」

 語り終えると、永崎ハヤトは肩の荷が下りたかのように、ほぅっと息を吐いた。
 全てを聞いた青嶋としては。
「どうして……ありのままを警察に話さなかったんですか」
 そう言わざるを得ない。
「それは、正当防衛です。事情を話せば警察だって……」
「僕はアンドロイドで、英典さんは人間です。どちらに非があると判断されるかは、明白でしょう」
「ハヤトくんはREH認定されたアンドロイドです! 人間と平等だ!」
「でも、僕はアンドロイドです」
「そんな……」
 それでは、REH法とはなんなのか。
 青嶋がしてきた査定は一体なんのためだったというのか。
 肩を落とした青嶋を、まるで慰めるかのように、永崎ハヤトは言う。
「僕も法律や警察を疑っているわけじゃありません。それに、どういう裁きが下されるにせよ、従うつもりではいます」
 おかしなもので、永崎ハヤトの表情は憑き物が落ちたようにすっきりとしていた。
「奥さんはわけを聞いて、僕を匿ってくれました。警察の人と一緒に青嶋先生が来た時には驚きましたけど」
「全く気が付きませんでした」
「それから、なんとかして真麻さんの居場所を掴もうと、もう一度あの書類を見るために青嶋先生の研究室に忍び込んで……」
 青嶋に姿を見られたと思い、動揺し、突き飛ばしてしまった。
「その節は、本当に申し訳ありませんでした」
 青嶋は首を振る。もう何度も、十分すぎるほどの謝罪をされている。今更、いや、もしかしたら最初から、憤りなどない。
「それじゃぁ、永崎さんは真麻さんと会うという目的を果たして……」
 未練がなくなり、隠れるのを止めた。
 はた、と気が付く。
「永崎くんは、まだ真麻さんに会えていないんじゃ……?」 
 永崎夫人が真麻の入院先をこころから聞き出したのはつい数時間前で、それから永崎ハヤトに連絡をしたという話だったはずだ。そして夫人から連絡を受けた永崎ハヤトがさらに藤浦宅に電話を入れ、青嶋が藤浦ネネと共に病院に駆け付けたのがつい先程。その間、ずっとここにいたのなら。
 そもそも、真麻の病室での永崎夫人の反応は、永崎ハヤトを待っていた、つまりまだ会えていないという態度だった。
 青嶋が見ると、永崎ハヤトは寂しげに微笑んだ。
「真麻さんには会えません」
「どうして……?」
 ここまでしたのに。
 結果的にとは言え、永崎英典を殺害し、研究所に忍び込んで青嶋の資料を盗み見て、永崎夫人はこころを誘拐までしたというのに。
「僕は……人殺しですから」
 人殺し。 
 その言葉の強さに青嶋は怯んでしまう。
「真麻さんはきっと、自分や徹さんが作ったアンドロイドが人を……よりにもよって自分の父親を殺してしまったと知ったら、悲しむから」
 いくら仲の悪い親子だったとはいえ。
 当然のことを言い聞かせるような、落ち着いた口調で永崎ハヤトは言う。
 永崎ハヤトは誰よりも、自らが犯した罪の重さを受け止めている。
 正当防衛だった。英典にも非があった。青嶋が、他の誰かがそう言い聞かせたところで、彼自身が納得できないだろう。
「こころちゃんにも会いたかったけど……真麻さんと徹さんの子供に、殺人犯を引き合わせるわけにはいかないでしょう……?」
 それほどまでに、永崎ハヤトにとっては藤浦真麻とこころは尊い存在なのだ。一点の汚れもなく。
 会ったこともない、自分の記憶でもないデータの中でしか知らない人たちであるというのに。
 あたかもそれが永崎ハヤト自身の意志でもあるというような口振りに、青嶋は堪らなくなる。
 たった一つの願いのために起きてしまった、事故とも言うべき事件。そのために、その願い自体が叶わなくなってしまった。そんなどこまでもいたたまれない矛盾を、それでも永崎ハヤトは受け止めてしまう。
「話は、これで終わりです。聞いて頂いてありがとうございました」
 やるせない気分で青嶋は首を振る。
 永崎ハヤトが立ち上がり、再びフェンスの方へ向かう。その足取りはどこか危なげで、思わず青嶋は彼の後を追いかけた。
「でもまさか、青嶋先生が藤浦ネネたちと一緒にいるとは思ってもいませんでした。知ってたら、こんな所で待っていなくてもよかったんですけれどね」
 言いながら、彼はフェンスに凭れて式場の屋根を眺めた。
 あの時。永崎ハヤトが定期検診で研究所を訪ねて来た時、青嶋は式典に参加することを
彼らに話した。それを覚えていた永崎ハヤトは、だから、ここで待っていたのだ。
 青嶋を。
「どうして、そこまでして?」
「誰かには話しておかないといけないって、思ったから」
「でも、何も僕じゃなくたって」
「ごめんなさい。迷惑なのはわかっています。でも、他にいなかったんです。信頼できる人が」
 買い被り過ぎだ。
 永崎ハヤトにしろ、藤浦ネネにしろ、なぜか青嶋のことを妙に信頼してくれる。自分の査定を担当した人間には愛着が湧くものなのだろうか。
「僕は、そんな大した人間じゃないよ」
 そう言っても、首を振られるばかりで。
 本当に、そんなことはない。誰より青嶋自身がそれをわかっているから、言われるほど苦しくなる。
「ねぇ、青嶋先生」
 永崎ハヤトはくるりと振り返ると、少し、悲しそうに笑う。そしてズボンのポケットから何かを取り出した。
 永崎ハヤトの手の中で、それは、夕日を反射して煌めいた。
「いろいろと、お世話になりました」
「……っ!」
 青嶋は永崎ハヤトを突き飛ばした。丁度、あの日研究室で彼が青嶋にしたのと同じように。勢い余って永崎ハヤトと共に地面に転がり込んだ。その拍子に、永崎ハヤトの手からドライバーが転げ落ちる。
 永崎ハヤトのこめかみから、つぅ、と一筋、赤いものが流れる。彼はほとんどためらいなく、鋭いその先端を自分の頭に突き立てようとしたのだ。
 その鮮烈な色にぞっとした。
「……どうして?」
 永崎ハヤトが心底不思議そうに青嶋を見上げる。なぜ青嶋が自分を止めたのかわからないといった様子だった。
 答えず、上着を脱ぎ、それで永崎ハヤトのこめかみを押さえる。わずかに顔が顰められた。
 おそるおそる確かめてみると、幸い傷は浅く、これなら縛ったりしなくても血はすぐ止まりそうだった。ついでに、と永崎は他とを引っ張り起こし、地面にぶつけてしまったであろう後頭部や背中も確認する。
 問題なさそうだとわかると、ほっと息が漏れた。
「青嶋先生?」
「頭に刺激を与えることが人工知能にとってどれほど危ないか、知らないはずはないだろう!」
 自分でも驚くくらいの、大きな声が出た。
 永崎ハヤトは見開いた目を、しかし、すぐに伏せ、青嶋から顔を背けた。
「でも、僕は、生きていない方がいいでしょう?」
「そんなわけない」
 ほとんど反射的に言葉が出ていた。考える間もなく口から飛び出した言葉は、でも、だからこそ、青嶋の本心だった。
 そんな当たり前のことなのに、永崎ハヤトはまるで思いかけないことでも言われたかのように青嶋を見詰めている。
「だって、僕は英典さんを……人を殺しました」
「それを罪だと思うなら、きちんと自首して、正当な裁きを受けるべきだ。それが人間社会のルールだろう?」
 そのルールの善し悪しは、青嶋には判断できない。個人で判断できないことを法律で定め、人々はそれを守ることで社会を成り立たせてきた。
 人間は、たった一度の過ちで全てを失ってしまうようには出来ていない。
 それが、人間に与えられた権利だ。
「僕は、人間じゃありませんから」
 思わず、彼の頬を引っ叩いていた。
 頭に刺激を云々、と言いながら、思いきり、容赦なく。
 自分が、そんなことをできる人間だとは思ってもみなかった。
「ふざけるなよ……」
 怒りと悲しみが一気に押し寄せる。冷静な判断なんてできるはずもない。
 腹立たしくて、悲しくて、悔しくて。
「君に、君たちにそれを否定されたら、僕は、一体なんのためにこの仕事をしているっていうんだ?」
 アンドロイドに人権を。そんなスローガンの元に制定されたREH法。
 その制定二十周年記念の日に、アンドロイドで初めて絵画のコンクールで最優秀賞を受賞した永崎ハヤトともあろうものが。
「君は人間じゃない。でも、人間と同じ権利を持っている。罪を犯したら裁かれて、やり直す権利も、だ。それを認めたのは僕だ。その僕の前で」
 どうして、永崎ハヤトも、藤浦ネネも。
 そんなに簡単に、人間としての尊厳と権利を投げ出せるのだ。まるでそれが価値のないものみたいに。
 それでは、それを守るため必死になっている青嶋たち人間が、アンドロイドたちにそれを与えようと躍起になっている青嶋たち研究員が。
 惨め、ではないか。
「お願いだから、自分は人間じゃないなんて言わないでよ……」
 嘘だろう? と思った。涙がぱたぱたと落ちる。青嶋の涙だった。
 誰かのためにこんなに怒るのも、誰かのために泣くのも、記憶にないくらい昔にあったきりのことだ。
「青嶋先生……」
 永崎ハヤトが自分のこめかみに伝う血を拭い、手に付いたそれを見た。
 それは彼が永崎英典を殺した時に流れたのと同じ色の。青嶋の中に脈打つのと同じ熱の。
 人間と、同じもの。
 どこかで携帯電話の電子音が鳴った。
 見回すと、少し離れた所に青嶋の携帯電話が転がり、着信を告げている。永崎ハヤトを突き飛ばした時に落としてしまったらしい。
 城ヶ崎からの電話だった。
「……はい」
『あ、あおしまさん?』
 電話の向こうに聞こえた幼い声に意表を突かれる。
「こころちゃん? どうして?」
 その名前に、うなだれていた永崎ハヤトが体を震わせた。
『けいじさんがね、あおしまさんにお電話してって』
 溜め息とも、苦笑ともつかない声が漏れた。
 まったく、本当に、怖いくらいに見透かした人だ。
「あのね、こころちゃん。今から電話を代わるから、その人とお話してくれる?」
『? わかりました』
 幼くとも人の感情に敏感なこころは、青嶋の言うことをわからないなりにわかったようだった。
 青嶋は未だ座り込んだままの永崎ハヤトに携帯電話を渡す。
「……僕は」
「いいから」
 強引に握らせると、永崎ハヤトは震える手でそれを自分の耳に当てた。
 だが、浅く息を吸って、吐いてを繰り返すだけで、言葉が出てこない。
『……もしもし?』
 隣に立つ青嶋にも、困ったような幼い声が微かに漏れ聞こえる。
『こんにちは。ふじうらこころです』
 その途端。永崎ハヤトの表情が緩んだ。
 笑顔とも涙ともつかないくしゃくしゃの表情で、彼は何かを必死に堪えるように、震える指に力を込めて、携帯電話を落とすまいとする。
「……こんにちは」
『こんにちは!』
 応答があったとこに安堵したのか、嬉しそうに弾んだ声が戻ってくる。
 永崎ハヤトはその声を噛み締めるように、きつく目を閉じた。
「こころちゃん」
『はい』
「君と、君のお母さんに、伝言があるんだ」
『はい……ちょっとまってください。おかあさんにもきこえるようにするね』
 また、永崎ハヤトの体が震えた。
『どうぞ』
 ゆっくりと開かれた彼の目は、とても悲しげで。
 慈しみに満ちていた。
「こころ、真麻。愛してる」
 永崎ハヤトは彼の声で、彼のものではない言葉を吐く。
 そこに乗せられた心は、果たして永崎ハヤトと、藤浦徹、どちらのものだっただろう?
 永崎ハヤトは返事を待たずに通話を切ると、ようやく立ち上がり、真っ直ぐ青嶋と向かい合った。
「青嶋先生……ごめんなさい」
 青嶋は小さく頷いた。
 みっともなく泣いてしまった青嶋を前に、永崎ハヤトは今にも壊れそうなほど儚げに微笑んで、最後まで涙を見せなかった。
 彼はもう一度こめかみの血を拭い、片手で頭を押さえたまま、深く深呼吸して、それから言った。
「一つ、お願いをしてもいいですか?」
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