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 目が覚めて、自分が眠っていたことに気付くまで一秒。見慣れないこの部屋がどこであるのか把握するまでには五秒。もぞもぞと体を起こすと、妙に可愛らしい柄のタオルケットが体から落ちた。
 ゆっくりと自分の置かれている状況を整理する。そうだ。あの後、退院の手続きを済ませ、城ヶ崎の車で病院から藤浦家に送ってもらったのだ。
 リビングで何やらいい香りのするお茶をふるまわれ、青嶋の寝る部屋を用意するから、と藤浦ネネが退室すると、緊張の糸がふっつりと切れてしまい、いつのまにか寝こけてしまったようだ。
 初めて上がらせてもらった他人の家でこれだけ熟睡できるとは、自分は自分で思う以上に図太い神経をしているのか、もしくは怒濤の展開に相当参ってしまっていたのだろう。
 病院でも普段と比べれば十分過ぎるくらいに休息を摂っていたはずなのに、気持ちの方は安らげていなかった。それが他人の家に来て初めて安堵するなんて。
 広い窓から差し込んでくる日差しは燃えるような茜色で。もうすっかり夕方だ。二、三時間は眠ってしまっていたのだろう。
 半分ほど開かれた窓から流れ込む風は、真夏のねっとりとした空気ではなく、涼やかですらあった。肌を撫でていく感触が心地良い。
 青嶋はタオルケットを畳んで立ち上がり、大きなガラス窓の向こうの庭を見る。庭の草木には玉のような水滴が散りばめられていて、今日は雨など振らなかったはずだから、それが丁寧な水遣りのお陰だとわかった。濃い緑色が並ぶ中に所々目の覚めるような鮮やかな色彩が散りばめられている。ほとんどは青嶋には名前のわからない花だったが、一角に見付けた溢れんばかりの黄色はさすがに見知ったものだった。
 ふと思い出して、貰ってすぐ持ち帰ることになってしまった、藤浦ネネからの見舞いの紙袋を開く。このひまわりは、この庭で咲いたものだったらしい。
 ふいに涙が滲みそうになった。ひまわりが眩し過ぎたせいだろうか。
 病院からの道のりは一時間ほど。家々が密集する住宅地から少し離れた、小高い山がすぐ裏手に迫る場所に建った一軒家。藤浦ネネの言うとおり静かな所で、都内とは思えない長閑さだった。
「あら。おはようございます」
 藤浦ネネが、取り込んだばかりらしい洗濯物を、両腕いっぱいに抱えて入ってくる。
「ソファで背中痛くなりませんでしたか?」
「すみません、すっかり寝入ってしまって……」
「お疲れだったんですね」
 優しく気遣われ、赤面する。
「あおしまさん!」
 藤浦ネネの後ろからこころがひょっこりと顔を出す。青嶋が眠っている間に、お友達の家とやらから帰っていたようだ。珍しい来客にはしゃいでいるらしく、目をきらきらさせて青嶋に駆け寄ってくる。
「ねぇ、あおしまさんはカレーすきですか?」
「え?」
「今日の夕ごはん、カレーだって」
「お聞きしないで作り始めてしまったのですけれど、大丈夫ですか?」
 藤浦ネネがてきぱきと洗濯物を片付けながら言う。
「あ……はい、大丈夫です……」
「もうすぐ出来上がるので、少し待っていて下さいね」
「はい……」
 エプロン姿の藤浦ネネは主婦というより保育園の先生のように見えた。
 面談の時とも、病院で会った時ともまた違う彼女のはきはきとした姿に、青嶋は言われるがままソファに座っているしかできなかった。
 あれよあれよと夕食の準備が整った。
 テーブルにはカレーとサラダと、作り置きらしいこまごまとした副菜が二、三品。極普通の家庭料理だが、綺麗に並んでいる。
「どうぞ、召し上がって下さい」
「いただきます……」
 こころに合わせているのだろうカレーは青嶋には物足りない甘口だったけれど。昔、おまけの人気アニメのカード欲しさによく母にねだった、レトルトカレーの味が思い出されて懐かしく、嫌でない。
 久しぶりの病院食以外の食事で、もっと久しぶりの手料理。さらに言えば、店以外で誰に作って貰った食事を食べるのは、いつぶりのことかもわからないくらいだ。
 小さな手に持つとまるでしゃもじのように見えるスプーンで、一生懸命カレーを口へ運ぶこころと、そんなこころの口元を時々拭ってやりながら、静かに食事をする藤浦ネネ。
 二人を見ていると自分がここにいることの違和感が拭えない。なぜ自分は、今ここでこんなに和やかに食事などしているのだろう。
「ネネのごはん、おいしくない?」
 こころに言われ、青嶋はすっかり自分の手が止まってしまっていたことに気が付いた。
「そんなことないよ。おいしいよ」
「すみません。お口に合わないようなら……」
「いえ、本当に! ちょっと考え事をしてしまっただけで……」
 藤浦ネネまでが申し訳なさそうに眉根を下げるので、慌てて頭を振り、冷めかけたカレーをわざとらしく掻き込んだ。
「美味しいですよ、本当に」
 あまり言うとかえって嘘っぽくなるような気もしたが、取り繕うように言葉を重ねてしまう。藤浦ネネは曖昧に微笑むだけだったが、こころはそれで嬉しそうだった。
「ネネのカレーはおかあさんとおんなじ味なんだよ」
「そうなんだ」
 市販のルーを使ったカレーなんて、誰が作っても大差ない。とは、言わない。
 こころに気を遣ったわけではない。
 誰が作ったものかによって、それが例え簡単な料理でも、レトルトやインスタントだって、案外違いは出る。だからこのカレーも、青嶋が子供の頃好きだったレトルトカレーとは、似て非なる物だ。
 その時、藤浦ネネがこころを見詰め、スプーンを持つ手を止めているのを見た。
 優しいが、遠い眼差しだった。
 青嶋の視線に気が付くと、彼女はすぐ、取り繕うように食事を再開する。青嶋には、藤浦ネネがここにはいない人の姿を探しているように思えてならなかった。

「片付け、お手伝いします」
 食後、そう申し出るとやんわりと断られた。
「大丈夫です。ゆっくりしていて下さい」
「でも」
「よそのおうちの台所は覗かない、というのも優しさですよ?」
 何から何まで甘えっぱなしというのも気が引けて食い下がる青嶋に、冗談めかして藤浦ネネが言う。そういう言い方はずるい。返す言葉がなくなってしまう。
 二人のやり取りを見ていたこころが青嶋の服を引っ張った。
「じゃぁ、あおしまさん、いっしょにあそんで!」
「え?」
「そうしてあげてくれますか?」
 こんな小さな、しかも女の子と何をすればいいのか、と青嶋は内心焦るが、これはとても断りづらい状況だ。仕方がない。
「いいよ」
 と言う他なく、嬉々として腕を引くこころに連れられ、再びソファに腰を落ち着けることになってしまった。
 テレビの下のローボードからスケッチブックとクレヨンを取り出してきて、こころはつい先程まで食卓だったテーブルをあっという間にお絵描きの場に変貌させた。
 スケッチブックもクレヨンの箱も、随分と使い込まれたものだと見て取れた。箱の中のクレヨンは相当ちびてしまっているのもあれば、妙に長くて綺麗な物もある。なくなってしまった色だけ後から買い足したのだろう。
「あおしまさんはおえかきじょうず?」
「え? うーん……あんまり上手じゃなかったな」
 ふと脳裏をよぎった光景があった。
 昔通っていた絵画教室。がたつくイーゼルと古い椅子。鉛筆や木炭で黒ずんだ床。油絵の具の鼻を突く匂い。真っ白いキャンバス。
 十年も前の思い出と、つい先日の夢。切なくなるのは懐かしさのためだけではなく。
「……好きだったけど」
 付け足した言葉に、ひどく罪悪感を覚えた。
「こころちゃんはお絵描き好きなの?」
「うん」
 こころはスケッチブックを開きながら言う。屈託のない肯定が眩しかった。
「ネネはおえかきしないからね、おえかきはいつも一人でしてるの。ご本よんだり、パズルはいっしょにするんだけど」
「ネネさんは絵を描くのが嫌いなの?」
「うーん……かかないからきらいなんだよね?」
 こころもいまいちわかっていない様子で首を傾げる。
 その言葉は青嶋の心に深く深く、突き刺さった。思い当たる節があったのだ。
 こころはそんな青嶋の様子には構わず、スケッチブックを示して見せる。
「見て。これがネネでね、これがおかあさん」
 なかなか突拍子のない色使いだ。青いクレヨンで顔の輪郭を描くという発想は、青嶋にはない。
「似てるね」
 本人に似ている、という意味もあるが、絵の中の二人同士が似ているという意味だ。似ているどころか見分けがつかない。
「これはね、おにわのひまわり!」
「おお。上手だね」
 これには昔とはいえ、曲がりなりにも絵の勉強をしたことがある青嶋も、お世辞だけではなく賞賛できた。幼い子供ならではの行き過ぎた個性だけではない、しっかりモチーフを見詰めて描いたとわかる、リアリティのようなものが感じられる。
「こっちはびょういんのひまわりで……こっちはほいくえんのひまわり!」
「……ひまわり好きなの?」
「うん!」
 差し出されたスケッチブックを捲り、一面を埋め尽くす黄色を眺めながら青嶋が問うと、元気のいい肯定が返ってきた。
「あのね」
 こころはスケッチブックがしまってあったローボードに取って返すと、今度はなんだか大判の本を重たそうに運んでくる。
「これ」
「これって……」
「おとうさんのだったんだって。この人もひまわりすきなんだよ」
 画集、だった。
 表紙を飾る一枚は当然のように代表作の『ひまわり』。タイトルに冠された彼の名前は、絵画に興味のない人でも聞いたことくらいはあるだろう。
「お父さんも絵が好きな人だったんだね」
「おかあさんがそういってた」
 捲ってみると見慣れた絵がいくつも続いていた。
 そう。青嶋の部屋の冷蔵庫に貼ってあるあのポストカードは、この画家の絵だ。
 堪らなくなって画集を閉じる。
「あおしまさんもかこうよ」
 こころがスケッチブックを一枚破いてよこした。
「うん……」
 受け取りはしたもののあまり乗り気になれない。高校の時通っていた絵画教室を止めて以来、全く絵を描いていない。
「何色使う?」
 箱の中に整列されたクレヨンの色を見ても、あの頃のように心躍りはしない。
 あの頃。絵画教室に通うくらい絵を描くのが好きだった頃は、画集を見ても、画材を見ても、わくわくと気持ちが弾んだものだ。
 教室を止めてすぐの頃は、それらと見るとじくりと胸が痛んで、意図的に避けていた。今はもう、その痛みすら遠ざかってしまった。
 こころが迷いなくクレヨンを動かしていく間、何を描こうか考えているふりを装って、スケッチブックの一枚を弄んで誤摩化した。

 幸い入院中の荷物をそのまま持って来ていたので、シャワーを借りた後の着替えには困らなかった。いくらなんでも着る物までは借りられない。
 寝場所として、藤浦ネネはこころの母親が使っていたという寝室を提案してくれたのだが、青嶋はそれを辞退して、書斎だったという部屋を借りることになった。もう長いこと不在だとしても、本人の許可なく女性の部屋に寝るのは抵抗がある。
 重々しい本棚と広い机が置かれた床に何とかスペースを作り、藤浦ネネが布団を敷いてくれていた。
 こころがくれた、青嶋の似顔絵だという絵を、枕元に広げてみる。似ているかどうかはわからない。
 昼間変な時間に眠ってしまったせいか、慣れない布団のせいか。今度はなかなか寝付く事ができず、一旦は横になったものの、すぐに起き上がった。
 カーテンの隙間から柔らかい光が差し込んでくる。電気を消した室内より、屋外の方が明るいのだ。不思議に思って窓の外を覗いてみて、ほぅ、と感嘆の息をついた。
 満天、とまではいかないが、都内にしては驚くほどに星の数が多い。これだけよく晴れているのに月がないと言うことは、今夜は新月なのかもしれない。星が月のように明るい夜のことを「星月夜」というのだと、青嶋は昔名画のタイトルから教わった。それもまた例の画家の絵だ。
 余計に目が覚めてしまい、青嶋は足音を忍ばせて外へ出た。
 草木も眠る、の例えがまさにといった様子で、昼間は太陽の光と水滴を浴びて爛々と輝いていたひまわりたちも、今はひっそりと頭を垂れている。おどろおどろしいのではない、穏やかで、静かな眠りだった。
 そんな中にぽつりと立って空を見上げていると、まるでまだ起きているのが世界中で自分一人だけのような気さえしてくる。
 もちろん、そんなはずはなく。
「青嶋さん?」
 振り返ると、庭に面したリビングの窓から藤浦ネネが顔を出していた。夕方、青嶋が外を見た窓だ。
「眠れませんか?」
 夜空の下、星明かりが照らす彼女の頬が白く浮かび上がって見えて、幻想的で。それはまるで窓枠を額縁にした一枚の絵画のようで。
「ちょっと、いつも寝る時間より大分早いので……」
 見惚れたのを悟られないように顔を背ける。
「お茶をお入れしましょうか」
 お構いなく、と言う前に、藤浦ネネの姿は窓から引っ込んでいた。
 リビングには間接照明だけが灯されていて、そこからでも星がよく見えた。
 テーブルに着くと、すぐにグラスが運ばれてくる。
「どうぞ」
「すみません……」
 藤浦ネネは青嶋にアイスティーを勧め、自分もグラスを手にして向かいの椅子に腰かけた。
 こうして二人きりで正面から向き合うと面談の事を思い出す。だが今の彼女は研究所で見る時と大分雰囲気が違う。ここにこうしている時の方が、ずっと人間に見える。
「……藤浦さんは、聞かないんですね」
 藤浦ネネの唇がグラスから離れる。
「何を、ですか?」
「僕のこと……あの雑誌の記事のこと、です」
 そうだ。病院で、確かにあの雑誌を目にしているのに、それについて藤浦ネネは何も尋ねてこない。城ヶ崎が何も言ってこなかったのは、事態の慌ただしさと、もしかしたら騒動の以前からその事実を知っていたのかもしれないからだ、と納得できる。だが、普通なら問うてくる。
 脳の一部が人工知能って本当?
 いつ、なぜそうなったの?
 頭の中に機械があるってどんな感じ?
 今まで出会い、青嶋が人工知能を搭載していることを知った人たちは、あるいは興味津々で、あるいは遠慮がちに、そう尋ねてきた。
 逆の立場であったら自分も知りたいと思うだろうから、嫌悪を感じるとまではいかないものの、繰り返され過ぎたやりとりが面倒になりつつはある。ひた隠しにするつもりもないが、できればおおっぴらにしたくなかった理由は、そういったところにあった。
 しかし藤浦ネネは何も尋ねてこない。
 気を遣ってくれているのか。だとすればありがたいが、後ろめたい。
「あの雑誌に書かれていたこと、本当で。僕の脳は、ほんの一部ですけれど、人工知能が移植されているんです。実は僕、高校生の時に交通事故に遭って……その時に頭を打って、脳に障害が残ってしまったんです。それが、脳の損傷した部分を人工知能と取り替えれば、完全に回復すると言われて。僕は、移植手術を受けることにしました」
 捲し立ててみればこんな短い説明で終わってしまう話だ。
 それをあんなに飾り立てて、大ニュースのように仕立て上げたあの雑誌は、よほどネタに困っているに違いない。そう嘲笑ってやろうとして、頬が引き攣った。
 藤浦ネネは目を丸くして、青嶋の話を聞いていた。
 自分を偉そうに査定などしてきた相手が、自分と同じ人工知能を持つ人間だと知って、どう思っただろう? 嫌悪をされても仕方がない。と思う。
 視線を落とすと、膝の上で握りしめた自分の拳が震えているのが見えた。
「青嶋さんがご自身のお話をして下さったのは、初めてですね」
 はっと顔を上げた。
 藤浦ネネがはにかむように笑う。
「面談では私が私の話をするばかりでしたから。嬉しいです。青嶋さんのこと、教えてもらえて」
 思いがけない反応に、どうしたらいいかわからなかった。多分、相当間の抜けた顔をしていたと思う。
 ゆっくりと、理解する。そうだ。藤浦ネネというアンドロイドは、そういうアンドロイドなのだ。
 と、彼女は笑みを潜め、真剣な表情になった。
「もう一つ、聞かせて頂いてもいいですか?」
「なんでしょう?」
 つられて青嶋も身構える。
「青嶋さんは、昔は絵が好きだったとおっしゃっていましたよね?」
「あ、はい」
「今はお好きではないんですか?」
 ぎくり、と胸が痛んだ。
「……どうなんでしょうね?」
 答えがはっきりしないのは、ごまかそうとしたからではなく、自分自身でもよくわからないからだ。
「嫌いではないと思います。見るのは今でも好きです。でも、描くのは……もうずっと、描いていませんから」
「どうして描かなくなってしまわれたんですか?」
 それは。その質問は、ある意味この頭の中の機械について尋ねられるより、答えに詰まるものだった。
「その、頭を打った交通事故の時、手の方も結構ひどく痛めてしまって、しばらく絵を描くどころじゃなくて……リハビリの間絵から遠ざかっていたら、そのうちなんとなく描かなくなってしまったんです」
 筋道のとおった説明をしてみせてから、こちらをじっと見詰める藤浦ネネの視線に、観念した。
「……いえ。実は……怖くて」
「怖い?」
「昔、聞いた事があるんです。『ロボットは絵を描けない』という話」
 プログラムで動くロボットには、自分で考え、想像し、創造する能力がない。
 模写のように、元々絵であるものを正確に写し取る事ならできる。しかし、見た景色を絵に描くことはできない。なぜならロボットにとって見える「景色」は三次元で、「絵」は二次元で、違うものだから。
 ロボットは見たもの、感じたもの、考えたことを絵という形に置き換え、表すことはできないのだと。多分、絵画教室の先輩か誰かに聞いた。
「人工知能の移植の話が出た時、その話を思い出して、考えたんです。なら、アンドロイドはどうなんだろう? って。いくら自主的に思考できる人工知能だって、人間の作った物である以上プログラムであることは変わりなくて、ロボットと同じなんじゃないかって
 言ってしまってから、はっとする。
「すみません……」
 こんな風に向かい合って話していると、藤浦ネネはあまりにも人間のようで、つい、忘れてしまう。ゆるゆると首を振るこの人もまた、アンドロイドであるのだと。
 実際には、現在この世界に生きるアンドロイドに搭載されている人口知能は、そんなに陳腐なものではない。
 自ら学習する彼らの脳は「人工的に作られたもの」であること以外にはほとんど人間と変わりなく、出来ることも出来ないことも、人間と同等なのだ。
 だからこそ、彼らには人権が与えられた。だからこそ、REH法が制定された。
 それは、日々それと向き合っている青嶋にはよくわかっている。
 しかし、子供の頃に植え付けられた幻想は、嘘だとわかっていても、脳ではない場所に刻み込まれて拭えない。
「いいえ。私たちに搭載されている人工知能がプログラムでしか動かないことは、事実ですから。その点についてはロボットと変わりないのかもしれません」
「……もし、そうだとして」
 もしも、それが本当にそうで。アンドロイドも絵を描けないのだとしたら。
 人工知能を移植したら、自分も絵を描けなくなるのではないかと。
 実際には、青嶋の脳の破損部分は運動野のごく一部の神経だけで、仮に障害が残ったままにしたところで、絵を描くのには関係のない箇所だった。当然、そこに人工知能を移植したところで絵を描くことになんら影響はないはずだったのだが。
 アンドロイドである藤浦ネネに語るべきではないと理解しつつ、一方で、じっと青嶋の話に耳を傾けてくれる彼女の前だからこそ、すんなりと言葉が出てくるのだともわかっていた。
「思い込みというか、イメージというか……そういうものに取り憑かれて」
 怪我のせいで上手く動かない手で鉛筆を握り、その時もし絵が描けなかったら。そう思うと。
「怖くて、試せなかったんです」
 怖じ気づいているうちにどんどんと時間が経ち、あんなに情熱を傾けていたはずの世界は遠くなっていった。
「まぁ、それもただの言い訳で、その頃には自分の才能のなさに気付いてがっかりしていましたから、絵を描くことに前ほど一生懸命になれていなくて……そっちが本当の理由かもしれないです」
 移植手術の話が出て、もしかしたら絵を描けなくなるかもしれないと不安が過った時、それでも手術を受けたのは、もう描けなくなっても構わないと心のどこかで思っていたからだ。
 そうして、自分の絵に対する思いなんてそんなものか、と思い知ってしまったら、もうキャンバスに向き合う気力もなくなった。
「藤浦さんも、絵はお描きにならないんですよね? さっき、こころちゃんが」
「ええ」
 他の遊びは一緒にするけれど、お絵かきだけはしないと言っていた。それは。
「私、すごく絵が下手なんです」
 藤浦ネネはそう言うと、立ち上がり、こころがローボードにしまったスケッチブックを持って来て、あるページを開いて見せた。黄色いクレヨンで何かが描かれている。
「……ひまわり?」
「ライオンさんです」
「すみません」
「いえ」
 藤浦ネネは恥ずかしそうにしながら「ね?」と言ってスケッチブックを閉じた。
「でも、これは私だからで、アンドロイドだからではありませんよ」
 彼女の言わんとしていることはわかる。だから青嶋も頷いた。
 思い出すのは、どうしたって彼のこと。
「永崎ハヤトくんが絵画の賞を受賞したと聞いた時」
 永崎ハヤトの名前がすんなりと口から出たことは、自分でも意外だった。
「僕は、嬉しかった。アンドロイドにだって絵は描けるんだって、彼が証明してくれのが、嬉しかったんです。それは嘘じゃない、多分。でも、半面では嫉妬していました。人工知能の僕にはできない。だから、諦めた。それなのに、アンドロイドである永崎くんにはできた。それじゃぁ、僕はなんなんだ? って」
 永崎ハヤトに対する時、拭いきれなかったぎこちなさは、そのせいだった。
 情けない、自分勝手な、悔しさ。
 彼は気付いていただろうか。自分が「先生」と慕う相手の、そんな感情に。気付いたから、あの夜研究室に現れたのだろうか。
 今まで誰に打ち明けたこともない胸の内は、語れば滔々と溢れ出して、最後まで止まらなかった。藤浦ネネにしたら迷惑だったに違いない。しかし、彼女は最後まで何も言わずに聞いてくれた。
 僕は、僕は、と語りきり、今更になって激しい後悔に襲われる。打ち明けてしまった内容も、押さえきれずに打ち明けてしまったという事実も、情けない限りだった。
「最低なんです。僕は」
 自己嫌悪のままに呟く。
「そんなこと、言わないで下さい」
 まっすぐ僕を見つめて、藤浦ネネが言った。今にも泣き出しそうに眉を下げて。こちらが居たたまれなくなるほど、悲しそうに。
「青嶋さんは、優しい方です」
 やめてほしい。
 これ以上もなくありふれて喜ばしい評価なのに、お世辞でも慰めでも彼女がそう言ってくれているのはわかるのに、だからこそみじめさは増す。
 ひまわりのように眩しい彼女を見ていられなくて、思わず席を立った。

 翌朝。
 なかなか寝付けなかったせいか、いつもより少し目が覚めるのが遅くなった。元々規則正しい生活とは縁遠い青嶋だが、なんだかここに来てからさらに調子が狂っている気がする。
 生活リズムだけではない、色々なところで。
 身支度を整えてリビングに向かうと、藤浦ネネが朝食の用意をしているところだった。
「おはようございます」
 昨夜の青嶋が語ったことなどなんでもなかった、とでもいうような気兼ねのない挨拶に、喋り過ぎたことを悔やんで沈んでいた気持ちが少し軽くなる。
 今日の予定を確認し合うと、藤浦ネネはパートタイムの仕事の日で、こころは保育園に行くと言う。
「すみません、せっかく来て頂いたのに……」
「とんでもない! ご迷惑をかけているのはこちらなんですから」
 申し訳なさそうに言われ、慌てて首を振った。
 ほとぼりが冷めるまでは研究所に出勤することもできない青嶋だけが手持ち無沙汰で、他人の家の留守番を任されるというなんだか奇妙な状況になってしまったが、こればかりはどうしようもない。
「あおしまさんとあそびたかった……」
 と少々むくれていたこころだが、
「帰って来たらね」
 と青嶋と藤浦ネネが取り成したお陰か、出かける頃にはしっかり機嫌を直していた。
「では、すみませんが、いってきます」
「あおしまさん、またね」
 手を繋いで出て行く二人を見送ると、いよいよ途方に暮れてしまう。さて、どうやって時間を潰したものか。
 持ってきたノートパソコンを開いてみた。
 本当ならば時間があるこの機に滞っている書類制作や資料整理を行いたいところだが、何せ職務内容柄、扱っているのがほとんど個人情報なので、流出対策のために資料の一切が研究所外への持ち出しを禁止されている。このパソコンの中に入っているデータも、仕事に関するのは微々たるものだ。
 一応、外からでも研究所の職員用のページにアクセスすることはできるが、閲覧可能なのはメールと掲示板くらいで、重要事項はない。面倒がって読むのを後回しにしていた「REH法制定二十周年記念式典」の概要をまとめた文書が保存してあったが、今更目を通したところで何の意味もない。
 と言って、時間があるのだからと、本を読んだり映画を見たりしたい気分でもない。
 何がしたいかと言われれば、仕事がしたい。自分がそこまで仕事人間だとは思っていなかった。いや、単に仕事以外にすることがない人間だというだけか。
 そんな風に暇を持て余していた時、丁度よく携帯電話に着信があった。第六研究室からの直通だ。
『お疲れ様です。宮園です』
「室長! お疲れ様です」
『少しは落ち着いたかな?』
 室長の声はたった一言でも労りが滲むような、温かい響きだった。こんな状況での聞き慣れた声は、自分がまだ自分にとっての日常から完全には切り離されていないという証のようで、嬉しかった。
「はい……あの、すみません。連絡が遅くなって」
『ううん。事情は聞いているよ。あの城ヶ崎さんって刑事さんからね』
「そうですか」
 城ヶ崎もあれで結構気は利くし、仕事はできる人なのだ。
『こっちから連絡しようかとも思ったけど、まだばたついてるかと思って……どう? 大丈夫?』
「藤浦さんのご厚意に甘えさせてもらってます」
 ふっ、と息を吐くように笑う声がする。
『良い人に出逢えたね』
「……はい」
 室長の言い方に、いつものようなからかう調子がなかったから、つい素直に肯定してしまった。
 本当に、彼女は良い人なのだ。それは間違いない。
「そういうわけで、まだしばらく仕事には……」
『いいよいいよ。気兼ねなくゆっくり休んでおいで。式典が終わればこっちも通常業務に戻るし、少しは落ち着くから大丈夫だよ』
 言われ、例の式典がまさに今日の夜に迫っていたことを思い出す。自分が出席しなくてもいいとなってからはすっかり存在すら忘れていた。もちろん、それどころの騒ぎではなかったからだが。
「すみません、皆さんが大変な時に」
『そんなことより自分の心配をしないと』
 軽く叱る口調の優しさに、敵わないなぁ、と苦笑する。
「すみません……」
『体は? 痛まない?』
「それはもう、全然」
『そう。……気持ちは?』
 とっくにお見通しなのだろう静かな問いに、言葉が詰まった。
「……室長、あの雑誌、見ましたか?」
『うん』
 大きく息を吸って、吐いて、何度も言い淀む間、電話の向こうで、室長は何も言わずに待っていてくれる。
「僕は、間違っていますか?」
 やっとのことで絞り出した言葉は曖昧な、何に対してなのかもわからない問いだった。
 永崎ハヤトのことか。それとも、青嶋自身のこと?
 ただ否定して欲しいだけの甘えなのだと、青嶋自身わかっている。不安で不安で仕方のない今は、この優しい人に縋りたいだけ。
 息を止めて相手の言葉を待つ。
『青嶋くん。初めてこの研究所に来た時のこと、覚えてる?』
 唐突に変えられた話題に肩すかしを食らった。
「えっと……四年前の、入所の時……」
『その前』
「その前?」
 その前などあっただろうか?
 研究所へは、所長と知り合いだった大学の教授の紹介で入所した。
 それ以前から当然その存在は知っていたけれども、機密事項の多い所内は基本的に関係者以外立ち入り禁止で、一般人が見学できるはずもないし、青嶋も訪れたことはない。
 だが室長の口調には断言する響きがある。
『君が正しいか、間違っているかはわからない。でも、あの日、私たちが出した答えは間違っていなかったと、少なくとも私は思っているよ』
 くれぐれも体を労るようにと重ねられて、通話は終わった。
 室長の言う、あの日、が青嶋には全く思い当たらないままで。
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愛妻家で有名な夫ノアが、夫婦の寝室で妻の親友カミラと交わっているのを目の当たりにした妻ルビー。 実家に戻ったルビーはノアに離縁を迫る。 離縁をどうにか回避したいノアは、ある誓約書にサインすることに。 妻を誰よりも愛している夫ノアと愛を教えてほしいという妻ルビー。 二人の行きつく先はーーーー。

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