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二年生三学期 編
12−5:今日、ちょっとだけ進んでみてもいい? 5
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トイレの個室から出て、いつもより念入りに手を洗う。気力がどっと抜け落ちて、腰の周りを気怠さが覆っていた。
鏡に映る自分の顔は酷いものだった。目元は泣き腫らして真っ赤だし、頬にはうっすらシーツの皺の跡がついている。
首にまで視線をずらすと、ふと詰め襟の上に違和感を感じた。
「あっ……!」
俺は鏡に顔を寄せた。薄い皮膚の一点が紫色に変色している。慌てて学ランとシャツの襟を開くと、同じような点がいくつも散らばっていた。
「うわ、なんだこれ。嘘だろ……」
首回りだけでこれなのだ。胸や腹、背中はどうなっているか分からない。確か明日は体育があったはず。一体、どうやって着替えろというのか。
俺は痛む頭を抱えながら、トイレを出た。暗い廊下を戻って、保健室に帰る。
ありったけの文句を言ってやろうと息巻いていた俺の耳に、御子柴の話し声が聞こえてきた。
「——うん、そう。校舎入ってすぐ左な。ああ……はい、はい。分かったって」
誰かと通話している? カーテンを開けると、御子柴がちょうど電話を切ったところだった。
「あ、おかえり」
「親御さん、連絡ついたのか?」
「ん? あぁ、うちの親は無理だぜ。ブラック公務員だから」
「市役所とか?」
「いや、財務省。どっちもキャリアで、いつも過労死寸前」
それは……またなんというかすごい。こいつの家は一族郎党ハイスペックなのだろうか。
「じゃあ、誰が迎えに……」
そう尋ねた瞬間だった。
「——涼馬、来たわよー!」
急に保健室のドアが開いたかと思うと、やたら野太い声が響いた。俺はその闖入者に目を丸くする。
大股で俺達の前に進み出たのは、大柄な人だった。
そう、人——としか言えない。
真っ赤なタートルネックのセーターに、黒いエナメルのジャケット、下はタイトな白いジーンズを穿いている。髪は明るい金髪で、顔にはファッションショーのモデルのような濃い化粧が施されていた。
特徴はその体格である。御子柴よりも頭半分くらいは高いであろう身長に、広い肩幅、全身がどことなく筋肉質なのが分かる。とにもかくにも色んな意味で濃い人物だった。
完全に固まってしまった俺をよそに、御子柴と彼(でいいのだろうか)は親しげに会話し始めた。
「おーっす、お疲れ」
「お疲れ、じゃないってーの。何、ぶっ倒れたって? あんたねえ、体調管理も仕事のうちよ。来週の米原さんのコンサートに穴開けたらどうするつもり——って、あら?」
青いアイシャドウが瞼に乗っている瞳が、ちらりと俺の方を見やる。蛇に睨まれた蛙ってこのことを言うのだろうか。俺は目を見開いたまま動けない。
「あらあら? あなた、もしかして——」
「え、えと」
一歩、また一歩と後退る俺の前に、御子柴の腕が割り入った。
「やめろ、見るな。水無瀬が減る」
「あーやっぱり、なるほどね。はいはい」
なんだか知らないが勝手に納得される。彼はジャケットのポケットから名刺入れを取り出した。
「ハーイ、はじめまして、水無瀬くん。あたし、こういうものでーす」
受け取った名刺にはこう書かれていた。
『株式会社アクセス・エンターテインメント クラシック部門 エクスクルーシヴ・マネージャー ジェーン花園』
……じぇーん、はなぞの。
「気軽にジェーンって呼んでね」
扇状のつけまつげがばさっと揺れる。俺はなんとか会釈を返した。
「み、水無瀬晴希です。えっと、ジェーンさんは……」
「そ。こいつのマネージャーね。ご両親の代わりに迎えに来たってワケ」
やっぱりそうか。御子柴を振り返ると、それ以上の説明は不要とばかりに、さっさと身支度を調えていた。
「もう大丈夫なのか?」
「おー、全然へーき。じゃ、帰りますか。水無瀬も送ってくぜ」
「あんたね、運転すんの誰だと思ってんのよ」
「あ、いいです。俺、一人で帰れますから」
「何、遠慮してんだよ。同じ方向じゃん」
「そーよ、最近は男の子の一人歩きも物騒なんだから。あなた、カワイイから変態に狙われそうよね」
「だよなー。攫いやすそうだもん」
なんかめちゃくちゃ言われてる……。まぁ、今日は少し疲れたし、俺は素直にジェーンさんのお言葉に甘えることにした。
職員室に鍵を返して(ジェーンさんのインパクトが凄いからか、甲斐先生の危惧していた文句は言われなかった)、三人そろって校舎を出る。
外にはすっかり夜の帳が降り、いつの間にか運動部も引き上げていた。時計を見るとなんと七時を越えていた。
ジェーンさんの運転する車で、マンションの前まで送ってもらった。御子柴が助手席のウインドウを下げて、手を振ってくる。
「今日はありがとな。また明日」
「いや、明日は休め。医者に行けって甲斐先生が言ってたぞ」
「あ、そっか。じゃ、また明後日。おやすみ」
「……うん、おやすみ」
車が発進して、赤いテールランプが遠ざかっていく。俺はなんとはなしにそれを見送った後、マンションのエントランスをくぐった。
家に着くまでの間、頭を過るのは、もちろん保健室での出来事だった。冷静になって思い出すと、羞恥でどうにかなりそうだった。
エレベーターの中で人知れず、両手で顔を覆う。世の中の人って、あれ以上のことをしているのか。だとしたら、
「無理すぎる……」
エレベーターが静かに五階へ到着した。俺は緩く首を振りながら、一歩足を踏み出した。
鏡に映る自分の顔は酷いものだった。目元は泣き腫らして真っ赤だし、頬にはうっすらシーツの皺の跡がついている。
首にまで視線をずらすと、ふと詰め襟の上に違和感を感じた。
「あっ……!」
俺は鏡に顔を寄せた。薄い皮膚の一点が紫色に変色している。慌てて学ランとシャツの襟を開くと、同じような点がいくつも散らばっていた。
「うわ、なんだこれ。嘘だろ……」
首回りだけでこれなのだ。胸や腹、背中はどうなっているか分からない。確か明日は体育があったはず。一体、どうやって着替えろというのか。
俺は痛む頭を抱えながら、トイレを出た。暗い廊下を戻って、保健室に帰る。
ありったけの文句を言ってやろうと息巻いていた俺の耳に、御子柴の話し声が聞こえてきた。
「——うん、そう。校舎入ってすぐ左な。ああ……はい、はい。分かったって」
誰かと通話している? カーテンを開けると、御子柴がちょうど電話を切ったところだった。
「あ、おかえり」
「親御さん、連絡ついたのか?」
「ん? あぁ、うちの親は無理だぜ。ブラック公務員だから」
「市役所とか?」
「いや、財務省。どっちもキャリアで、いつも過労死寸前」
それは……またなんというかすごい。こいつの家は一族郎党ハイスペックなのだろうか。
「じゃあ、誰が迎えに……」
そう尋ねた瞬間だった。
「——涼馬、来たわよー!」
急に保健室のドアが開いたかと思うと、やたら野太い声が響いた。俺はその闖入者に目を丸くする。
大股で俺達の前に進み出たのは、大柄な人だった。
そう、人——としか言えない。
真っ赤なタートルネックのセーターに、黒いエナメルのジャケット、下はタイトな白いジーンズを穿いている。髪は明るい金髪で、顔にはファッションショーのモデルのような濃い化粧が施されていた。
特徴はその体格である。御子柴よりも頭半分くらいは高いであろう身長に、広い肩幅、全身がどことなく筋肉質なのが分かる。とにもかくにも色んな意味で濃い人物だった。
完全に固まってしまった俺をよそに、御子柴と彼(でいいのだろうか)は親しげに会話し始めた。
「おーっす、お疲れ」
「お疲れ、じゃないってーの。何、ぶっ倒れたって? あんたねえ、体調管理も仕事のうちよ。来週の米原さんのコンサートに穴開けたらどうするつもり——って、あら?」
青いアイシャドウが瞼に乗っている瞳が、ちらりと俺の方を見やる。蛇に睨まれた蛙ってこのことを言うのだろうか。俺は目を見開いたまま動けない。
「あらあら? あなた、もしかして——」
「え、えと」
一歩、また一歩と後退る俺の前に、御子柴の腕が割り入った。
「やめろ、見るな。水無瀬が減る」
「あーやっぱり、なるほどね。はいはい」
なんだか知らないが勝手に納得される。彼はジャケットのポケットから名刺入れを取り出した。
「ハーイ、はじめまして、水無瀬くん。あたし、こういうものでーす」
受け取った名刺にはこう書かれていた。
『株式会社アクセス・エンターテインメント クラシック部門 エクスクルーシヴ・マネージャー ジェーン花園』
……じぇーん、はなぞの。
「気軽にジェーンって呼んでね」
扇状のつけまつげがばさっと揺れる。俺はなんとか会釈を返した。
「み、水無瀬晴希です。えっと、ジェーンさんは……」
「そ。こいつのマネージャーね。ご両親の代わりに迎えに来たってワケ」
やっぱりそうか。御子柴を振り返ると、それ以上の説明は不要とばかりに、さっさと身支度を調えていた。
「もう大丈夫なのか?」
「おー、全然へーき。じゃ、帰りますか。水無瀬も送ってくぜ」
「あんたね、運転すんの誰だと思ってんのよ」
「あ、いいです。俺、一人で帰れますから」
「何、遠慮してんだよ。同じ方向じゃん」
「そーよ、最近は男の子の一人歩きも物騒なんだから。あなた、カワイイから変態に狙われそうよね」
「だよなー。攫いやすそうだもん」
なんかめちゃくちゃ言われてる……。まぁ、今日は少し疲れたし、俺は素直にジェーンさんのお言葉に甘えることにした。
職員室に鍵を返して(ジェーンさんのインパクトが凄いからか、甲斐先生の危惧していた文句は言われなかった)、三人そろって校舎を出る。
外にはすっかり夜の帳が降り、いつの間にか運動部も引き上げていた。時計を見るとなんと七時を越えていた。
ジェーンさんの運転する車で、マンションの前まで送ってもらった。御子柴が助手席のウインドウを下げて、手を振ってくる。
「今日はありがとな。また明日」
「いや、明日は休め。医者に行けって甲斐先生が言ってたぞ」
「あ、そっか。じゃ、また明後日。おやすみ」
「……うん、おやすみ」
車が発進して、赤いテールランプが遠ざかっていく。俺はなんとはなしにそれを見送った後、マンションのエントランスをくぐった。
家に着くまでの間、頭を過るのは、もちろん保健室での出来事だった。冷静になって思い出すと、羞恥でどうにかなりそうだった。
エレベーターの中で人知れず、両手で顔を覆う。世の中の人って、あれ以上のことをしているのか。だとしたら、
「無理すぎる……」
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