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「何ということだ」
腕の中で眠る赤ん坊を見下ろし、父親は呟いた。
「この子は何の力も持たぬというのか。我が一族において、許されぬことなのに」
風の絶えぬ丘陵の神殿。その祭壇の鏡には何も映っていない。
生まれたばかりの子の資質を占った。
なのに風は沈黙を返すのみ。
「神よ」
父親の顔に苦悩が滲む。
王はどう言うだろう。次なる神官が無力な者であると知れば。
国はいまだ戦乱のさなかにあり、精霊の加護なくしては民は飢えて死んでゆく。
だが、数多の神官達は名ばかりで、その実たいした力を持っていない。
遥か昔よりその力を伝え保ち、神殿の長を司る我が血族は既に我とこの子のみ。
なのに、新しい命はその役目に足る力を備えてはいなかった。
数十年後には、精霊の加護を伝えうるものは消える。そして風鏡は光を失うだろう。
王はこの子を長に据えるだろうか。
否。
役に立たぬ者はおそらく………切り捨てられる。
神官になれぬなら、せめて我が娘として普通の暮らしをさせてやりたいが、果たして癇癪持ちの王が聞き入れてくださるかどうか。
怒りにまかせて命すら取られかねない。
王はそういう人物だ。
父親は海よりも深い溜息をついた。
「風の主よ、風の守りを願う。この風の刻印を持つ者に、全ての風の加護を」
彼の指先が白い光を帯び、赤ん坊の額にすべる。それは複雑な紋様をその肌に刻みつけた。
「我が愛し子」
そっと額に口付ける。
刻印は一瞬ぽうっと薄桃色に光り、すうっと吸い込まれるように消えた。
目を開いた赤ん坊は、無邪気に両手を差し伸べる。
「ア……ブ………」
真っ白な小さい手。
父親の目を見てにっこり笑った。
なにものにも染まらない無垢の輝きは、この世の苦しみが全て浄化されるかのような心地よさを感じさせる。
もしかして神官として束縛されるより、むしろ普通の娘として生きる方が、この子にとっては良いのかも知れない。
普通の娘としての幸せを手に入れる方が。
だが………
「風はこの国を見捨てるおつもりか」
小さな呟きが漏れた。
そのとき、沈黙を続けていた鏡の表面が揺らぎ、不意に凄まじい光景を映し出した。
黒煙の立ち込める街、遠くには焼け焦げた残骸の如き森。
広がる砂漠には延々と続く砂嵐。
その向こうから、巨大な禍々しい気配が漂って来る。
風が悲鳴をあげる。
巨大な、獣と呼ぶにもおぞましい異形の者、人の顔を持つ大蛇、翼を持ち角のある虎、鷲の頭と獅子の胴と魚の尾を持つ妖、脚に無数の蜘蛛を生やした蟷螂、牛よりも大きいスズメ蜂、背の節々に苦悶する人の顔の浮き出た百足、形容しがたい魔性の数々が街を襲い人を殺す。
血塗られた神殿には動く者はいない。
黒い影のようなものが倒れた神官達の死体を覆っては、じわじわと溶かし喰っていく。
「これは……」
聞こえるはずのない音が聞こえる。
甲高い哄笑。きちがいじみたこれは確かに王の声。
幻ではない。風は告げている。
そう遠くない未来の姿。
これはーーー『滅び』か?
精霊達の嘆きが聞こえる。
空気を震わせて悲鳴が聞こえる。
愛しいものが失われてゆく悲哀。愛したものが崩れ落ちてゆく絶望。
「ああ、だから……か」
無意識に呟いていた。
この子はここにいてはいけない。生きてゆくには。
扉を開く呪文。
それは禁忌の魔術。
父親は決心した。
他の神官達に気づかれぬうちに、子は次元の狭間に吸い込まれたとして。
「風よ——この世界の扉を開き、異次元への道をこの子に示せ」
そしてゆるやかに唱え始める。
始まりの呪文を。
道を繋ぎ、旅立ちをうながす魔呪がひそやかに流れる。
神殿内を流れる空気が張り詰めてゆく。
鏡の中から風が吹き、彼の衣装をはためかせる。
次第に風鏡は七色の光を放ちはじめた。光が神殿内に錯綜する。
二度と生きてまみえることはあるまい。
祈るのは子の幸せ。
そして、この国の希望。
「風よ、加護を与えたまえ!」
光と風が渦を巻き、彼らを吹き飛ばさんばかりに荒れ狂う。
一条の金の光が空間を貫いた。
父親の手から赤ん坊がふうわりと浮き上がる。
突然抱きとめるあたたかな腕を失って泣き始める子に、父親は悲痛な笑みを送った。
「生きよ。私達の分まで」
カッと閃光が辺りを包む。
赤ん坊の姿が光に飲まれ消える。
「この国を守るために………」
異変を感じた神官達の靴音を遠くに聞きながら、父親は嘆きとも安堵ともとれぬ溜息をもらした。
腕の中で眠る赤ん坊を見下ろし、父親は呟いた。
「この子は何の力も持たぬというのか。我が一族において、許されぬことなのに」
風の絶えぬ丘陵の神殿。その祭壇の鏡には何も映っていない。
生まれたばかりの子の資質を占った。
なのに風は沈黙を返すのみ。
「神よ」
父親の顔に苦悩が滲む。
王はどう言うだろう。次なる神官が無力な者であると知れば。
国はいまだ戦乱のさなかにあり、精霊の加護なくしては民は飢えて死んでゆく。
だが、数多の神官達は名ばかりで、その実たいした力を持っていない。
遥か昔よりその力を伝え保ち、神殿の長を司る我が血族は既に我とこの子のみ。
なのに、新しい命はその役目に足る力を備えてはいなかった。
数十年後には、精霊の加護を伝えうるものは消える。そして風鏡は光を失うだろう。
王はこの子を長に据えるだろうか。
否。
役に立たぬ者はおそらく………切り捨てられる。
神官になれぬなら、せめて我が娘として普通の暮らしをさせてやりたいが、果たして癇癪持ちの王が聞き入れてくださるかどうか。
怒りにまかせて命すら取られかねない。
王はそういう人物だ。
父親は海よりも深い溜息をついた。
「風の主よ、風の守りを願う。この風の刻印を持つ者に、全ての風の加護を」
彼の指先が白い光を帯び、赤ん坊の額にすべる。それは複雑な紋様をその肌に刻みつけた。
「我が愛し子」
そっと額に口付ける。
刻印は一瞬ぽうっと薄桃色に光り、すうっと吸い込まれるように消えた。
目を開いた赤ん坊は、無邪気に両手を差し伸べる。
「ア……ブ………」
真っ白な小さい手。
父親の目を見てにっこり笑った。
なにものにも染まらない無垢の輝きは、この世の苦しみが全て浄化されるかのような心地よさを感じさせる。
もしかして神官として束縛されるより、むしろ普通の娘として生きる方が、この子にとっては良いのかも知れない。
普通の娘としての幸せを手に入れる方が。
だが………
「風はこの国を見捨てるおつもりか」
小さな呟きが漏れた。
そのとき、沈黙を続けていた鏡の表面が揺らぎ、不意に凄まじい光景を映し出した。
黒煙の立ち込める街、遠くには焼け焦げた残骸の如き森。
広がる砂漠には延々と続く砂嵐。
その向こうから、巨大な禍々しい気配が漂って来る。
風が悲鳴をあげる。
巨大な、獣と呼ぶにもおぞましい異形の者、人の顔を持つ大蛇、翼を持ち角のある虎、鷲の頭と獅子の胴と魚の尾を持つ妖、脚に無数の蜘蛛を生やした蟷螂、牛よりも大きいスズメ蜂、背の節々に苦悶する人の顔の浮き出た百足、形容しがたい魔性の数々が街を襲い人を殺す。
血塗られた神殿には動く者はいない。
黒い影のようなものが倒れた神官達の死体を覆っては、じわじわと溶かし喰っていく。
「これは……」
聞こえるはずのない音が聞こえる。
甲高い哄笑。きちがいじみたこれは確かに王の声。
幻ではない。風は告げている。
そう遠くない未来の姿。
これはーーー『滅び』か?
精霊達の嘆きが聞こえる。
空気を震わせて悲鳴が聞こえる。
愛しいものが失われてゆく悲哀。愛したものが崩れ落ちてゆく絶望。
「ああ、だから……か」
無意識に呟いていた。
この子はここにいてはいけない。生きてゆくには。
扉を開く呪文。
それは禁忌の魔術。
父親は決心した。
他の神官達に気づかれぬうちに、子は次元の狭間に吸い込まれたとして。
「風よ——この世界の扉を開き、異次元への道をこの子に示せ」
そしてゆるやかに唱え始める。
始まりの呪文を。
道を繋ぎ、旅立ちをうながす魔呪がひそやかに流れる。
神殿内を流れる空気が張り詰めてゆく。
鏡の中から風が吹き、彼の衣装をはためかせる。
次第に風鏡は七色の光を放ちはじめた。光が神殿内に錯綜する。
二度と生きてまみえることはあるまい。
祈るのは子の幸せ。
そして、この国の希望。
「風よ、加護を与えたまえ!」
光と風が渦を巻き、彼らを吹き飛ばさんばかりに荒れ狂う。
一条の金の光が空間を貫いた。
父親の手から赤ん坊がふうわりと浮き上がる。
突然抱きとめるあたたかな腕を失って泣き始める子に、父親は悲痛な笑みを送った。
「生きよ。私達の分まで」
カッと閃光が辺りを包む。
赤ん坊の姿が光に飲まれ消える。
「この国を守るために………」
異変を感じた神官達の靴音を遠くに聞きながら、父親は嘆きとも安堵ともとれぬ溜息をもらした。
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