コンテニュー

土芥 枝葉

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コンテニュー

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 アティリッタ湖のほとりに一軒の宿屋がある。古めかしい石造りの二階建てで、客室は十もない。私は薬売りの父に連れられ、月に一度はそこに宿泊したものだった。薬の買い付けに出かける際、街道沿いのその宿屋で行きに一泊、帰りに一泊すると日程的に丁度良かったのだ。

 宿屋には美しい少女が働いていた。主人の娘で、名をイコといった。歳は私の一つ下。いつも赤毛を三つ編みにし、細い体をせっせと動かしていた。
 定期的に宿泊していたこともあり、イコは私の顔も、スリンガという名前も憶えてくれていた。おとなしい娘ではあったが、宿を出る時はいつも笑顔で見送ってくれたものだった。
 思春期の私がイコに心を奪われたのは必然だったと言えるだろう。

 大人になったらイコに求婚しよう。少年時代の私は勉強をしながら、あるいは父の仕事を手伝いながら、そのことばかりを考えていた。もっとも、子供らしく結婚した後のことなど何も考えてはいなかった。ただ純粋に彼女と結ばれたいと願っていたのだ。

 しかし、私が十七歳になった春、イコの運命を決定づける出来事が起こってしまう。

 *

 その日もいつもと同じように、私は父と共に買い付けを終え、イコの宿屋で夕食をとっていた。いつもと違ったのは、ズボンのポケットにイコへの贈り物――市場で買ったネックレスが忍ばせてあったことだ。
 告白するつもりはなかった。彼女ともっと仲良くなりたかっただけだ。夕食が済んだら頃合いを見計らってイコに渡すつもりでいたのだが、それは思いも寄らぬ客によって阻まれてしまった。

 突然食堂に男が入ってきて、宿屋の主人と話し始めた。身なりからして宮廷の人物のようだが、なにやら困っている様子だった。
 断片的に聞こえてきた話を要約すると、皇太子殿下の狩りに随伴していた従者が近くで落馬して大けがを負い、連れて帰るのが難しいので、その者をここで一晩休ませてほしいということらしかった。
 話を聞いた主人はイコを呼び、急いで空き部屋の支度をするよう言いつけた。そうしてイコが食堂を出ようとした矢先、別の男が現れた。二十歳ほどだろうか、背が高く、線の細い優男に見えたが、従者が彼を殿下と呼んだことで、食堂にいた他の人間は皆改まった。
「迷惑をかけてすまない。明日の朝には迎えを寄越すので、それまで面倒を見てやってくれないか」
 殿下の声は威圧的ではなく、かといって神々しいものでもなく、その辺にいそうな青年と変わらなかった。顔つきも肖像画より随分穏やかに思える。私は親近感を覚えたが、それは次の瞬間、嫉妬の炎によって焼き尽くされてしまうのだった。
「ところでこの少女はそなたの娘か?」
 殿下はイコに目をつけられたようだった。イコはイコで、目の前に天使が舞い降りたかのような顔で硬直していた。私は無意識のうちにポケットのネックレスを握りしめ、ことの成り行きを見守った。
 主人がかしこまって紹介すると、殿下はイコの手をお取りになった。
「そなたを妻として迎えたい。後日、使いを寄越すのでそのつもりでいてくれ。すまないが今は怪我人を休ませてやりたいのでな。頼むぞ」
 殿下は用件を伝えると出て行かれ、イコはしばらくその場に立ち尽くしていた。
 イコが殿下の妻に?
 私もまた、衝撃から立ち直れず、身動きできずにいた。
 主人に声をかけられたイコは飛び上がるように食堂を出て行った。私に一瞥をくれることもなく。

 その晩、私は疲れていたにもかかわらず、ほとんど眠ることができなかった。
 一時的な失恋ではなく、永遠にイコとは結ばれないことが確定してしまったのだ。殿下の命令は絶対であり、拒否などできるはずがない。おまけに、イコもまんざらではないように見えた。
 私の片想いは唐突に、かつ完全に終わりを告げたのだった。

 翌朝、イコは見送りに顔を出さなかった。私は涙をこらえているのを父に悟られないよう、うつむいて歩き続けなければならなかった。

 *

 イコが皇太子殿下に見初められてから一月ほど経ち、再び薬の買い付けに出かける頃合いになった。行けば必ずイコの宿屋に泊まることになるので、本音を言えば行きたくはなかったのだが、そういうわけにもいかなかった。

 どうせイコにはもう会えない。彼女は宮殿に召されただろう。そんなふうに考えていたのだが、イコは以前と変わらず宿屋で働いていた。話を聞くと、まだ使いは来ていないらしい。
 いっそのこと、イコとは会えない方が良かったのかもしれない。そのせいで私は未練を捨てきれず、さらには、以前よりも生き生きとした彼女の顔を見て胸を痛めることになったのだから。

 *

 その次も、次の次に宿泊した際もイコはいた。その頃になると彼女の表情にも不安が見え隠れするようになっていた。あれは殿下の気まぐれで、もうすっかりお忘れになっていらっしゃるのではないか。イコの胸にはそんな疑念が渦巻いていたことだろう。
 反対に、私はその状況に希望を見いだしていた。イコが悲しむのは心苦しいが、このまま殿下の使いが来なければ、やがて彼女も諦めることだろう。そうなれば私にもチャンスが巡ってくる。
 私は自らの欲望のために、愛する人の不幸を願ったのだった。

 *

 季節が一回りしても、依然としてイコは宿屋にいた。さすがに殿下と出逢った頃の浮ついた様子は消え失せ、昔と同じようにけなげに働いていたが。
 私は彼女と話す内につい、「殿下はもう忘れてしまわれたのではないか」、「他にもお妃様がいらっしゃるのだし」というようなことを言ってしまった。
「私はいつまでも待ち続けます。殿下を信じていますから」
 言い返したイコの瞳は、強い信念と私への怒りを湛えていた。彼女の心の中に私の入り込む余地などない。その事実を突きつけるかのように。

 *

 数年が経ち、私は二十歳になった。
 イコも少女から美しい女性へと成長していた。殿下がご覧になれば、今度こそ間違いなく彼女を召されるだろうと思えるほどに。
 イコは変わらず待ち続けていた。彼女の両親もそろそろ別の相手を探した方が良いと言っているらしいが、イコは頑として聞かないということであった。
「殿下に謁見を申し込んでみてはどうですか」
 私はイコに提案したが、そんなはしたないことはできない、きっと事情がおありなのだろうと却下されてしまった。

 私としては、イコの心が揺らいでくれば結婚を申し込むつもりでいた。両親は私の気持ちを知ってか知らずか地元の娘との縁談を持ちかけてきたが、イコ以外の女性のことなど考えられなかったので断り続けた。それこそ、イコが殿下を想い続けるのと同じように。

 そんな日々を繰り返しているうちに、時間は無情にも過ぎていったのだった。

 *

 五十年の歳月は、思っていたよりもずっと早く流れ去った。
 私の皮膚は皺だらけになり、腰も折れ曲がってしまった。早い話が年老いたのだ。
 もちろん、それはイコも同じことだった。彼女は皇太子殿下(そのときはすでに皇帝に即位された後、退位されていた)からお呼びがかかるのを待ち続け、貞節を守ったまま老婆となってしまったのだった。

 私もイコを想い続け、結婚することなく老いてしまった。その間に両親と死別し、薬屋の跡を継ぎ、体力の衰えから店を畳んでいた。商売をやめてからは、故郷の町で学校の教師をしたりしながら、ゆったりと余生を送っていた。
 買い付けに出る必要がなくなったことで、イコとは数年顔を合わせていなかった。ただ、最後に宿を訪ねたとき、主として宿を切り盛りしているイコの甥に、何かあったら手紙で知らせてほしいと頼んであった。私もそうだが、いつお迎えが来てもおかしくない歳だったのだ。

 *

”会ってお伝えしたいことがあるので、近いうちにお越しいただけませんか。”

 ある日手紙が届いた。差出人はイコだった。
 それほど親しいわけでもない私に何を伝えようというのだろう。見当もつかなかったが、イコの頼みとあればすぐにでも向かわざるを得なかった。私は年甲斐もなく浮かれ、どれも変わらない服の中から少しでもましなものを選ぼうとした。この期に及んでもまだ、イコのことを忘れられずにいたのだ。

 さすがに徒歩では厳しいので馬車で宿屋に向かった。イコは私を快く出迎えてくれた。彼女は歳を重ねても上品な美しさを保ち続けていた。
 イコの私室で紅茶を振る舞われ、当たり障りのない世間話をした。イコは私が独身であること、一人で暮らしていることを確認した。
「そうそう、忘れるところでした」
 イコは立ち上がり、机の上に置いてあった小瓶を持ってきて私に手渡した。最近この辺りで新手の流行病が蔓延していて、予防薬が配られたのだという。その薬を飲むように言われ、私はそのとおりにした。薬屋を営んでいた私でさえ聞いたことのない薬で、特に味も匂いもしなかった。
「スリンガさんに来ていただいたのは他でもありません、ネスタン様のことです」
 私が薬を飲み干すと話は本題に入った。ネスタン様とは前皇帝、つまりイコを数十年の間ほったらかしになさった元皇太子殿下のことである。少し前に退位され、現在は隠居なさっているはずだ。
「実は先日、ネスタン様が私を訪ねていらっしゃったのです。なんでも、長年支えてくださった腹心の方が今際の際に、そういえばあの宿屋の娘はどうなさいましたかと仰り、私のことを思い出されたということで。その腹心の方というのが以前落馬してこの宿屋に担ぎ込まれた方で、そのとき看病した私のことを憶えていらしたようです」
 やはりネスタン様はイコのことをお忘れになっていたようだ。しかし、お気づきになるのがあまりに遅すぎた。
「ネスタン様は何度も謝ってくださいました。私の一生を台無しにしてすまなかったと。……でも、私はネスタン様を恨んだことなど一度もありませんし、ずっと信じておりましたから、再びお目にかかれたことが本当に嬉しくて」
 話をするイコは穏やかで満たされた顔をしていた。一方私は嫉妬のせいか、体が火照り、血液が全身を駆け巡るような感覚に見舞われていた。
「ネスタン様はお詫びにと、大変貴重な若返りの薬をくださいました。これを飲んで人生をやり直してほしいと」
「その薬を飲まなかったのですか?」
「はい」
 確かに、イコが若返ったようには見えなかった。しかし、噂でしか聞いたことがない若返りの薬が実在していたことに私は驚かされた。材料のほとんどは滅多に見かけない、あるいは本当に存在しているのかもわからない動物や植物であり、作り方を知っているのも一握りの魔術師だけと言われているような代物なのだ。
「薬は一人分しかないということでしたし、私だけ若返るよりも、残りの人生をネスタン様と共に過ごしたいと思いましたので。それを申し出ると、ネスタン様は大変お喜びになり、許してくださいました」
 私は体の異変をはっきりと自覚していた。これは嫉妬からくる反応ではない。体の内側から膨張するような感覚、血液が煮えたぎるような感覚が段々と強くなっている。しかし、それらは痛みや苦しみを伴うわけではなく、どちらかといえば力が湧いてくると表現する方が適切に思えた。
「そういうわけで、私はここを出て、ネスタン様のお側に置いていただくことになりました。そのことをスリンガさんにもお伝えしておきたかったのです」
 どうやら、私の五十年以上に及ぶ片想いは、今度こそ完全に片がついたようだった。しかし、正直それどころではなかった。私の体に何が起こったというのだろうか。
「薬が効いてきたようですね」
 イコの言葉に耳を疑った。彼女が私に飲ませたのは予防薬ではなかったとでもいうのか。
「ご自分の手をご覧になってください」
 言われるがまま両手を見て、絶句した。そこにはしなびた手ではなく、張りと艶のある若々しい手が並んでいたのだ。驚いて頬を触ってみるとそちらもすべすべしていて、自分の体ではないように思われた。
「若返りの薬を飲むと、肉体が最も充実していた頃、おおよそ二十歳くらいに戻るそうです」
「では、私がさっき飲んだのは……」
 その先は聞くまでもなかった。私の体はみるみる内に若さを取り戻し、やがて完全に二十歳頃の肉体へと変貌を遂げた。着ていた服が窮屈に思えたほどだ。
 若返りというものを体験すれば、ほとんどの人間は喜ぶのだろう。しかし、私はそうではなかった。
「どうして、私に飲ませたのです……」
 悔しくて涙がこぼれた。
「スリンガさんのお気持ちには気づいていました。でも、私はそれに応えることができません。これまでも、これからも……。私があなたの人生を台無しにしてしまいました。ですから、あなたには人生をやり直していただきたいのです」
 イコは穏やかな表情のまま答えた。
「台無しなんかではありませんし、あなたを愛したことを悔やんでなどいません。それに……それに、イコさんのいない人生など、やり直して何になるというのです」
「……別の女性を愛して、新しい人生を歩んでください。それを私へのはなむけとしてくださいませんか」
 とめどなく涙が溢れ、私は嗚咽を漏らした。

 イコは長年想い続けた人と結ばれた。
 私は新たな肉体を与えられ、代わりに魂の拠り所を失った。
 イコにとってのネスタン様がそうであったように、私にとってはイコがすべてだったのだ。
 もはや生きる理由など無いに等しいのに、イコは私に新たな人生を歩めと言う。別の女を好きになれと言う。
 イコのいない人生をまっとうすることができるだろうか。
 そして、その先に何があるというのだろうか。

 イコは私が落ち着くまで待ってくれた。その短い時間は私たちが見送った数十年よりもずっと濃密で、感傷的だった。

 私は鞄からネックレスを取り出し、イコに差し出した。
「これは子供の頃、あなたに差し上げようと思っていたものです。丁度ネスタン様がおいでになって、渡せずじまいになっていました。子供の小遣いで買った安物ですが、どうかもらっていただけませんか」
「まあ、嬉しい。一生大切にします。よかったらかけてくださいませんか」
 私はイコの側に寄り、ネックレスをかけてやった。こらえきれず、そのまま彼女を抱きしめた。
「すみません。少しだけこのままでいさせてください」
 イコは抵抗せず、私の背中に手を回した。幾星霜を経た想いが再び涙となって頬を伝った。

 *

 数日後、イコは荷物をまとめ、宿屋を出て行った。私は彼女の家族と共に玄関先へ出て、馬車が見えなくなるまで見送った。
 私もすぐに発つことになっている。
「スリンガさんはこれからどうなさるんです?」
 イコの甥が尋ねた。私が若返ったことやイコとのいきさつは彼らも知っていた。
「とりあえず故郷に戻って、それから仕事を探そうと思います。また薬屋をやってもいいですし」
「じゃあ、また仕事で出てくるときはうちに泊まっていってね」
 甥の娘が嬉しそうに言った。年の頃は二十歳くらいで、見た目は若い頃のイコに似ているが、性格は明るく社交的であり、随分違う。
「こら、目上の人に向かってなんだその口の利き方は」
「えー、だって今はあたしと同じくらいだから、別にいいじゃん。ねえ、今度来たときイコばあちゃんとのこと、聞かせてよ」
 娘は父親に叱られても悪びれる様子はない。私は目を細め、「ああ」と返事をした。

 イコは私に人生をやり直してほしいと言った。
 しかし、私はイコを愛し続けたことを悔やんではいないし、彼女への想いをなかったことにはしたくない。
 だから、これからの人生は「やり直し」ではなく、「続き」として歩んでいくつもりだ。もう未練は無いが、この先別の女性を好きになったとしても、イコとの思い出は私の心の中で生き続けていくだろう。
 どうか、そのくらいは許してほしい。

 宿屋を出た後、しばらく歩いて振り返ると、見送りに出てきた娘がまだ残ってくれていた。私が手を上げると、彼女も大きく手を振り返した。
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