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8 皇妃アデライードの疑問
しおりを挟む「……やっぱりおかしいわ。あの娘ったら」
皇妃アデライードは、持っていた扇についている房飾りをいじりながらそう呟いた。
彼女のはす向かいに座って紅茶を飲んでいた金髪の青年は、その言葉に頷いた。
「やはり、アデライード様もそう思われましたか?」
「お前が言うことを疑って悪かったわ。誰よりもあの娘のことをよく知っているというのにねぇ」
青年が顔を上げて、にやりと笑った。
彼は皇女ルドヴィカの『薔薇の園』の住人……お気に入りの兵士の一人・グントラム少尉だった。
「たしかに、皇女様はお変わりになられました。戦争の調停を終わらせて戻っていらっしゃった時からです。最初は疲れているだけかと思っていましたがぼんやりして、どの男にも興味を示されず夜は一人で寝ています」
「少し疲れたくらいで、そんな変わるものかしら? ロベルシュタイン公爵とよりを戻したわけではないの?」
「それどころか、公爵に少し触れられるだけで悲鳴をあげていましたよ」
「悲鳴って……それじゃあ、まるで別人じゃない!」
グントラム少尉の言葉に、皇妃は目を丸くする。
「その通りです。最近は朝早く起きて、礼拝堂で神に祈りを捧げていらっしゃるご様子……」
「あの娘、禁欲して神に祈りを捧げて……まさか、修道女にでもなるつもりなの? 別人どころの話じゃないわね。気が狂っているわ」
アデライードは、かつてのルドヴィカの悪女ぶりを揶揄する。
皇女ルドヴィカはアデライードにとって亡くなった皇后以上に厄介な存在だ。
神聖力も強くカリスマ性があるため皇帝からの信頼も篤い。彼女がもし男だったら、一点の曇りもない次期皇帝になるだろう。
ルドヴィカに文句の付け所があるとしたら貞操観念の無さだ。そんなものが女帝に必要なのかと聞かれたら、アデライードもよくわからない。
ただ、アデライードのこともマルクのことも、自分より下に見てくるからルドヴィカは悪女なのだ。
マルク皇子を次期皇帝に擁立するために、アデライードはルドヴィカの評判を落とすよう様々な画策をしてきたが、なかなかうまくいかない。
ようやく男好きで異母弟を虐める悪女というイメージはつけたが、それ以上に本人に魅力があるのが腹立たしい。
「他に何かないの? 公爵との関係は、その後どうなのよ?」
「昨今は、公爵とも節度を保ったお付き合いをされています。一時期は別れたと言われていたのですが、それが求婚者と皇女としての間柄に戻ったという印象ではありますが、ね」
「そう……公爵は何人もの令嬢を泣かせてきた方ですもの。あの娘に結婚を申し込んでいるのは、皇配として得られる地位と名誉が欲しいからに決まっている。愛情よりも権力を選ぶ男だわ」
悔しそうな表情をしながら、アデライードは手にしていた扇を畳んだ。
ロベルシュタイン公爵は帝国随一の高位貴族である。皇配になってルドヴィカの権力を増大させる前に、マルク皇子の側についてほしいところだが、皇妃の思惑とは逆の方向に物事は進んでいく。
「……でも、不思議だわ。あの娘はどうやって生きてここに戻ってきたのかしら」
眉間に皺を寄せながら、彼女は呻いた。
「報告を聞いた限りでは、崖から馬車ごと真っ逆さまに落ちたっていうのに……普通なら、重傷を負っているか、命を落とすかしているはずよね?」
「本当でございますね。毒を盛っても、大して効果がなかったし」
「毒は仕方ないかもしれないわ。恐ろしいことに、皇族の血統には毒さえ体内で中和する者が生まれるらしいもの。あの娘がそうなのかもしれない」
グントラム少尉はそれを聞いて、肩を竦めた。
「……しかし、それは本人の異能が働いてのことでしょう? 馬車から落ちて無傷というのは、かなり不自然な話だと思いますが」
二人の間にしばし沈黙が落ちた。
苦虫を噛み潰したような表情をして冷めた紅茶を飲む皇妃を、金髪の兵士は恐る恐る窺っている。
グントラム少尉は、皇妃がこれまでどれほど悪事を働いてきたかを知っている。
彼女がどれほどマルク皇子を愛しているのかも、我が子を皇位につけたいがために、皇女を亡き者にしようと常に策略を練っているかも--。
なぜなら、二人は他人には知られてはならない協力関係にあるからだ。
--今から十年前、孤児だった彼の美貌に目をつけて、アデライードは彼を自分専用の間諜に仕立て上げた。
没落貴族であるグントラム家から子どもの戸籍を買い取り、貴族の子弟として宮廷に上げさせたのも、ヴェルグ帝国でアデライードがのし上がりたいという野心からだった。
皇女の暗殺を考えるようになった契機は、ルドヴィカが皇妃の第一の野望--皇后位に就くことを阻んだことだった。
それ以上の悪意があるだろうか……アデライードを寵愛しているはずの皇帝も、愛娘の意見に逆らうことはできない。
民衆はルドヴィカの美しい容姿と強大な神聖力、そして父の代理として外交業務も行うカリスマ性を愛している。
完璧なる皇后と言われた母親の面影を残す皇女ルドヴィカを支持する貴族は数多く、下手をすれば皇帝が足下を掬われる事態になりかねない。
--それに対して、皇妃アデライードには味方は少なかった。
小国の王女だった彼女には影響力は少ない。まだ壮年の皇帝に、新たに皇后を娶るようにと側近たちが進言していたくらいである。
諸外国では男子を生めば国母として祭り上げられるのに、なぜ自分だけが肩身の狭い思いをしているのか……その鬱憤が夫である皇帝ではなく、ライバルだった女の娘に向かうのは必然ともいえることだろう。
「……あの娘、本当にルドヴィカなのかしら?」
不意に、アデライードは呟いた。
「えっ……? 見た目はルドヴィカ様以外の誰でもございませんが。あの色っぽい目つきといい、豊満な肉体といい……」
思い出し笑いをするグントラム少尉を、アデライードは軽蔑したように見やる。
「馬鹿ねぇ。外見なんて魔法を使えばどうにでもなるわよ」
「魔法?」
少尉はぽかんと口を開けた。
「実はルドヴィカはあの事故で死んでいて、身代わりで誰かがルドヴィカを演じているのかもしれないわ」
「身代わりって……そんなことが魔法でできるのですか!? それは、すごいですね!」
「私はできないけど、高等魔術を使える者なら大した手間はかからないと思うわ。この国では魔法が禁じられているけれど、私が生まれ育った国では魔法も一種の産業だった……宮廷にも魔術師が雇われていて、謁見の前には彼らが変身の術を使っていないか、本当に本人なのかを確認してから客人を通すほどだったわ」
アデライードの思い出話に、グントラム少尉は興味津々に聞き入った。
「へぇ、魔法なんておとぎ話みたいだ。この国じゃ、神聖力と相反するから魔術師なんてどこにもいないのに」
「何代か前の皇帝が、魔術師たちを排斥したせいよ。その時に国外に逃れた魔術師たちは、わたくしの祖国やその周辺の国で生き延びているわ」
「それは知らなかったな」
「……この国で禁じられている魔法を、皇女の周囲の者が使っていたとしたら?」
いつもは清楚さしか感じさせない美貌に、アデライードは意地悪そうな笑みを浮かべる。
「問題になるでしょうね。でも、どうやってそれを明らかにするんですか?」
「そうねぇ。どうしようかしら?」
蠱惑的な赤い唇が吊り上がるのを見て、グントラム少尉は背筋が寒くなった。
皇妃の奸計はこれまでうまくいかなかったが、今度こそは皇女を窮地に追いやるかもしれない。
皇女を排除して、アデライードが皇后になること。それができないのなら、せめてマルク皇子の皇位継承権を第一位に繰り上げさせ、皇帝亡き後は自分が皇太后の地位につくこと……それが、皇妃の野望である。
もし、それが果たされれば、彼はそれ相応の役職が与えられるだろう。
アデライードの野望の成就は、すなわち協力者である彼の今後に大きく影響してくる。
できれば今の状態のままがいいが、そうはいかない。
(……厄介なことに巻き込まれているなぁ……)
そう思いながら黒いフードで顔を隠し、グントラム少尉は周りを見回して皇妃宮の裏手からコソコソ出て行った。
皇女宮への道すがら、大きくため息を漏らす。
「まぁ、いいか……どうせ、俺はどっちにも寝返ることはできるからな」
その呟きが、誰かに聞かれているとはまったく気づいていなかった。
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