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12 衛兵の過去
しおりを挟む翌日、ユンは相変わらず無表情だった。
しかし、俺は見逃さなかった。食事を持って部屋に入ってきた瞬間、彼の視線が床を注意深く掠めたのを。
(やっぱり、あのペンダントはユンのものだよな……この反応を見る限り)
そう確信して、俺はほくそ笑んだ。
この部屋に入ってくるのは、ユンの他にはもう一人。
三日に一回、口がきけない老婆がやって来る。水回りと部屋の掃除のためだが、ユンが注意深く監視しているので老婆に助けを求めることは不可能だ。
ペンダントはその老婆が落としたもの、という可能性もある。昨日は、老婆の出勤日でもあったのだ。
俺は、昨日じっくりと眺めていたペンダントに隠された人物画を思い出した。
あまりに小さくて、移民なのかどうかはわからない。
それが仮に老婆のものであれば、自分の娘時代のものか子どもの肖像画だろうな、と思っていた。
……が、老婆の持ち物だという可能性は薄れた。ユンが何かを捜している素振りをしたからだ。
――豊かな黒髪に、色白の横顔。少し寂しそうな遠い眼差し。
それはユンの母親か、恋人なのか……いずれにしても、肌身離さず持っていたならよほど大事な相手に違いない。
俺をここから出すほど、そのペンダントに利用価値があるかどうか――。
昨夜それをずっと考えていたが、ユンを強請るのはむずかしいように思えた。
そもそも、オメガは非力である。俺はそのオメガの中でも、特に華奢な部類に入る。
アリサより少しばかり体格が大きいが、同じ年頃のベータの男性の一ひねりで折れてしまいそうだった。
しかも、ユンは俺よりも頭一つ分くらい背が高いし、衛兵というだけあって筋肉が発達している。
ペンダントを使って有利な取引をしようにも、力づくで奪い取られてオシマイだし、彼の感情を逆撫でする結果にしかならない。
そう考えると、正攻法で行くしかない――すなわち、ユンの情に訴えるということ。
運んできた皿をテーブルに並べているユンに、俺はストレートに尋ねた。
「ねぇ、昨日この部屋にペンダント、落としていかなかった?」
「……あッ!」
「中に女性の肖像画が入ってるやつだ。心当たり……ありそうだな」
途端にホッとした表情になったユンだったが、次の瞬間、俺を探るように見つめた。
きっと、取引材料にすると思っているのだろう。
俺は彼を安心させるために、ベッドサイドのチェストから千切れたチェーンとペンダントヘッドを取り出した。
「大事なものなんだろう? なくさないように大事にしろよ」
彼の目の前に、ペンダントを差し出す。
「ありがとうございます……! どこかにいってしまったとばかり、思っていました」
ユンは感極まったように何度も礼を言いながら、それを受け取った。
「うらやましいなぁ。俺も妹の肖像画でもあれば、こんなにさびしい思いをしないで済むのにな」
「シェリル様……」
「それ、ユンの恋人か?」
「いえ、私の妹です」
「……妹! お前にも妹がいたんだな」
「ええ。ずいぶん前に、亡くなりましたが……」
それを聞いて、ようやく合点がいった。
俺がアリサの話をするとき、ユンが遠い目をすることを。
そんな反応をしていた理由……それは、俺の話で亡くなった妹のことを思い出したからだったのだろう。
「……すまなかった、ユン。俺、自分の妹のことばっかり話しちゃって。お前につらいことを思い出させてしまったかもしれない」
「いえ」
ユンは首を横に振った。
「シェリル様のお気持ち、よくわかりますから。唯一の肉親だとしたら、なおさらお寂しいと思います」
「ユン……」
「できることなら……俺ができることなら、シェリル様が妹さんを捜す手助けをしたい。誰よりもその気持ちはあります。でも……」
と、ユンは言いよどんだ。
「……そうしてしまったら、長年よくしてくださった旦那様を裏切ることになります」
「ユン……」
それを聞いて、胸が痛くなった。
妹を亡くしたユンが、雇用主であるメディス伯爵の庇護を失ったらどうなるか、想像は容易かった。これから、この伯爵家よりもいい待遇で雇ってくれるところを探すところから始めなければならないのだ。
俺は、自分の傲慢さを恥じた。
ユンを利用してはいけない……妹を失ったことを悔いている相手に、俺のエゴを押しつけてはいけないのだ。
他人の人生をめちゃくちゃにしたら、結果としてアリサを助けることができても彼女は喜ばないだろう。
「いいんだ……ユンが話し相手になってくれただけで、ずいぶん気が楽になったから。メディス伯爵が戻ってきてから、力づくでここを出るさ」
「力づくって……!? いったい、何をなさるおつもりですか?」
「寝首をかくとか、かなぁ」
それを聞いて、ユンは唇を微かに歪めた。
たぶん「無理だ」と言いたいのだろう。
――そんなことくらい、わかっている。メディス伯爵を脅迫して逃げるなんて、どう考えても不可能だ。
この屋敷にいる衛兵は、ユンだけじゃない。もし、ここを首尾良く逃げられたとしても、追っ手は領地内どころか国内どこにでも追いかけてくるだろう。
それに、伯爵が戻ってきたら、さらに不可能さのレベルが増す。
魔法を使う輩を敵に回したら、一瞬で俺なんて殺されるんじゃないか……そんな恐怖さえも感じてしまう。
いや、一気に殺してくれるほうが、まだマシかもしれない。
いつか見た悪夢が、脳裏に甦ってくる。
絶対数が少ないオメガに与えられる罰として、見世物というのは最適解な気がした。
夢の中のように、何人もの男に犯されるか、オークションにかけられて蛮族の後宮に売り飛ばされるか……そうした死よりも屈辱的なことを受け入れねばならない可能性を考えると、背中に寒いものが走った。
そんなことになったら、アリサを助けにいくどころの話じゃなくなる。
結局、一生ここにいてメディス伯爵の欲望に奉仕し、共存共栄の関係を続けることでしか生きる術は見つからないのだろうか。
その絶望感から、重苦しいため息が漏れた。
無言のままの俺に、ユンは一礼する。
「私は外でお待ちしております。どうぞ、残さずに召し上がってください」
「わかった……」
戸が閉まる音を聞きながら、もう一つため息をつく。
伯爵が戻ってくるのが、明後日に迫っていた。
「あーあ、俺ってバカだよなー」
思わず、独り言を漏らした。
どんなに後悔しようと、過去にしてしまったことを帳消しにすることはできないんだけど……。
せめて、もう少し熟考してから、ユンにペンダントを返せばよかった。
俺の手元には、交渉材料は何もない。今は自分のお人好しなこの性格を、かなり後悔していた。
(……どうしよう? 本当にこれでよかったのか……もうすぐ、あいつが戻ってくるのに)
そんなことをグルグルと悩みながら、一人の時間を過ごしていると気が狂いそうだった。
メディス伯爵が王都に滞在するのは、今夜までのはず。予定に変更がなければ、明日の夕方にはこの屋敷に戻ってくるだろう。
要は、その前に俺がこの屋敷を抜け出すことは不可能になった、ということ――。
思い悩みながら、俺は窓際に行って眼下に広がる海を見下ろしてみた。
久しぶりに外は晴れているというのに、海の色は氷のように寒々しく見えた。
(冬じゃなければよかったのに……せめて、窓の錠がなければ……)
俺は色々な無い物ねだりをしてみた。
冬じゃないとしても、窓に鍵がかけられていないとしても、何の装備も持たない俺が窓から逃げようとしたら、それこそ無駄死にするだけ。
そんな自分に呆れて、雑念を払うために軽く窓のガラスを叩いてみる。
次の瞬間、その音をかき消すようにドアが開く。
ユンが少しばかり慌てた様子で、部屋の中に入ってきたのだ。
「ユン?」
朝食の時間は終わり、昼食にはまだ時間がある。
なのに、戸口に姿を見せた見張りに俺は疑問を投げかけた。
「いったい、どうしたんだ? ランチの仕込みを手伝えっていうなら、喜んでやるけど?」
冗談半分に笑った俺に、ユンは真顔で告げた。
「シェリル様……ご準備を!」
「え?」
いつも彼は真面目だが、今日はいつも以上に真剣な表情をしている。
「外の衛兵たちを眠らせてあります。さあ、外に……!」
「な、なんで!?」
「事情をゆっくり説明している暇はありません。お早く!」
ユンに促されて、俺は久しぶりに塔の外に出ることになった。
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