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64 寝取り令嬢の憂鬱(2)
しおりを挟むわたくしは、「カフェ・ベルトラ」に急いだ。
あんな新聞記事が出たら、衛生省の役人が来てしまうじゃない……!
わたくしは、お店の衛生状態を自分では管理をしていないから、実際のところよくわからない。
厨房についてはパティシエに、そして、店内については主任スタッフに任せっきり。
でも、本当に記事のような事実があったとしたら大問題でしょう?
すべての責任は、わたくしが負わねばならないことになる。
客の入りとかを心配するよりも先に、とにかく衛生省が怖い。
彼らがうるさくなったのは、ごく最近の話。
数十年前に流行った疫病の原因が不潔な食器や厨房にあると言い出して、抜き打ちで料理を出す店を取り締まるようになった。
日頃から、その対策ができていればまだよかったけれど、まだオープンして間もないのよ?
店内にネズミが出ることなんて、あるわけないと思っていたの。
畏れ多くもこのわたくしに陳情してくるスタッフはいたわ。でも、どうせ自分の懐にそのお金を入れるんだろうと高をくくって、放っておいたのよ。
だって、客足も思いのほかよくないし、殺鼠剤なんて買ったら赤字だわ。
だからと言って、いまさら猫を飼うのは……。
わたくし、猫アレルギーが酷くって……猫のことを考えただけで、鼻がムズムズしてくるわ。
馬車から降りると、店の前にはすでに人だかりができていた。
「何なのかしら……?」
わたくしは侍女に言って、道を開けさせて「カフェ・ベルトラ」の入口のドアを開けた。
その瞬間、足元に小さな何かが走り抜ける。
「きゃーっ!!」
わたくしはあまりのことに悲鳴をあげた。
だって……それはネズミだったのよ! しかも、よく太ったネズミ!
恐怖のあまり立ち竦むわたくしに、黒いコートを着た紳士が声をかけてきた。
「お嬢さん、あなたがこちらの店の経営者のベルトラ子爵令嬢ですか?」
「……え、ええ。そう……ですけれど……?」
さっき見たネズミの恐怖で震えているわたくしに、彼は帽子を取って恭しく挨拶をしてきた。
「申し遅れました、子爵令嬢。私は衛生省の官僚のベルグでございます」
それを聞いて、すべてを悟った。
一番来てほしくない時に、抜き打ち検査が来るなんて……!
しかも、さっき遭遇したのとは他のネズミが床を駆け回っているところに!
もう、知らぬ存ぜぬで誤魔化すことはできない。
「……今朝の新聞記事を見まして、こちらの店舗の衛生状態を確認に伺いました。問題があるのは一目瞭然。営業停止処分は免れられないでしょうな」
「営業停止処分……」
その言葉が示唆するのは、「カフェ・ベルトラ」にとっての絶望。
店舗のスタッフたちが見守る中、わたくしはその場で崩れ落ちていた。
気がつくと、わたくしは店のソファーに寝かされていた。
どうやら、ショックのあまり気を失ってしまったらしい。
すでに衛生省の役人は帰った後で、食材の納品を止める作業をしているパティシエ以外はスタッフ全員が退勤したとのことだった。
「大丈夫ですか、お嬢様? 侯爵邸の馬車を待たせてありますので、裏門から帰りましょう」
侍女の言葉に、わたくしは眉を顰めた。
「……なぜ、そんなにコソコソと帰らなきゃいけないの?」
「そ、それは……」
言い澱む彼女を問い詰めると、外は恐ろしいことになっていると言う。
今朝の新聞記事に出た店を一目見ようと人が訪れ、悪意がある者は店に石を投げつけたり、外壁にいたずら書きをしたりしている。
そして、それを知ったこの建物の貸主が怒り出し、営業停止になったなら早急に出て行けと喚き立てる始末――。
「なんで……なんで、わたくしがこんな目に……」
思わず、泣き始めたわたくしに侍女は困惑する。
「お嬢様は、何も悪くありませんわ。ただ、運が悪かっただけでございます」
そう言って慰められると、少しはささくれ立った心が凪いできた気がする。
そう……わたくしは、できることはやったつもり。
猫アレルギーは生まれつきだから仕方がないし、殺鼠剤の購入を渋ったのはコストを削減するためにはやむを得なかった。
仕方がない……そう、仕方がないのよ。
そうは言っても、営業停止になったらどうすればいいのだろう?
建物の貸主が立ち退きを要求しているって言うなら、もうどうすることもできない。
「……早く帰らないと……弁護士に、閉店の手続きもお願いできるか確認しないと……」
ゆっくりと起き上がり、侍女の肩を借りてわたくしは裏口から外に出た。
彼女が言った通りだった。
衛生省の役人によって、扉には「衛生不適格店舗により営業停止」のビラが貼りつけられている。
それを見てのいたずらだろうか……店の外壁には落書きがされ、窓ガラスが割れているところもある。
ほんの少し前まではピカピカだったのに、「カフェ・ベルトラ」はすっかり落ちぶれてしまった。
この店を出店するのに、お父様からどれだけのお金を融通してもらったかを考えると、わたくしは悲しくなった。
どんなに短くても半年くらいはもつと思っていた。
だからこそ、初期投資を惜しまず一軒家を借りて、「カフェ・カタリナ」の顧客を全員奪ってやるつもりだったのに!
結局、わたくしに残ったものは借金だけになってしまった。
持参金のほとんどを使い果たし、従業員の最後の給金を払えないような惨めな状況に陥るなんて、誰が思っただろう?
そして、これから必要になる弁護士費用のことも考えなくては……。
店の周りにたむろしている男たちの視線を避けながら、わたくしは馬車に乗り込んで、逃げるようにその場を立ち去った。
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