上 下
1 / 93

1 それは婚約破棄から始まった(1)

しおりを挟む

「こ、婚約破棄……ですって!?」
 私は呻くように、手紙に書かれていた衝撃的な言葉を反芻した。
 その手紙は、かれこれ三ヶ月ぶりに婚約者であるフィリップから届いたもの。
 グラストン侯爵家の次男である彼は、秀才のうえ誰もが認める美形である。アカデミーで優秀な成績を取り、念願叶って官僚試験に合格した。
 いまは、この地方の大都市であるベルンで司法補佐官見習いをしている。
『まずは、僕が基盤作りをしなきゃね』
 ベルンへ旅立つ前に、彼はそう言っていた。
『だって、そうだろう? 君を妻として迎えるために、まずは仕事を安定させないと……しばらくは官舎で暮らすだろうけど、すぐに屋敷を構えるよ。そうしたら、すぐにでも結婚しよう』
 そう言ってくれたのは、かれこれ一年前の話。
 いつ、連絡が来るだろうって毎日心待ちにしていた。
 この前、手紙でいつになるのか尋ねたら、「もう少し待ってくれる?」と返事がきたきりだった。
(……それが、婚約破棄? どういうことよ?)
 頭にガンガンとした痛みを感じてくる。
 風の噂で、彼が屋敷を借りたと聞いた。
 その後、なかなか連絡がこないから、すべてをつつがなく整えて、私を驚かそうとしているのだと思っていた。
 それなのに……いったい、何が起こったというの?
「どうしたの、カタリナ。グラストン侯爵令息からのお手紙が来たのでしょう? 彼は何て言っているの?」
 顔を真っ青にしている私に、お母様が心配そうに声をかけてきた。
「……これ、読んでちょうだい……」
 口に出すのもつらくて、私は彼の手紙を手渡した。
 驚くべき早さで手紙を読み終わったお母様は、「ああ……」と小さな声をあげて床に崩れ落ちる。
「わっ……お母様!」
「奥様、どうなさいましたか!」
 ちょうど紅茶を運んできた侍女のマドレーヌが、床に倒れたお母様を助け起こした。
「……どうしましょう。カタリナが……カタリナの将来が……」
 譫言のように呟いて、そのまま失神してしまった。
「奥様! 大丈夫ですか、奥様っ!」
 マドレーヌが大声を出すと、執事や他の侍女たちが駆けつけてくる。
 私は執事たちがお母様を寝室に運んでいくのを見守った。
「……私ったら、親不孝な娘だわ」
 静けさが戻った部屋の中で、私は床に落ちた手紙に視線を落とす。
 そして、腹立ちまぎれに赤い靴でそれを踏みにじった。ぐしゃぐしゃになった紙を見ると、少しだけ気分が晴れた。
「そうか……お母様、そんなにショックだったのね……」
 予想外に大事になったことに申し訳なさを感じたが、はっきり言って被害者は私のほう。
 だって、すべてはフィリップが私と結婚する意志をなくしたのが原因だ。どう考えても悪いのは、あの男のほうだろう。
 婚約破棄自体は、ショックだった。
 ただ、その驚愕が落ち着いてくると、違う気持ちが胸の奥底からムクムクと湧いてくる。
 私はクスッと笑った。
(……ってことは、これでしばらく結婚しなくて済むわよね?)
 誰もいない部屋の中で、私はにやにやしてしまう。
 婚約破棄されたという事実……これは、うまく使えばいい切り札になりそうだ。
 あきらめ切っていた夢を叶えるための、このうえない切り札に――。
 この時代では、結婚をするとき女性が男性に持参金を用意するのが習わしだ。
 しかし、婚約の儀を正式に挙げているのにもかかわらず婚約破棄になった場合、それを言い出したほうが相手に持参金の半額の慰謝料を支払わねばならない、という決まりがこのベルクロン王国には存在する。
 なぜなら、一度でも婚約破棄をされてしまうと、女性側の貞操が疑われてしまう。
 二度目以降の縁談が不利になる女性たちのために、設けられた制度だそうだ。婚約破棄で得た慰謝料を加算すれば、それだけ持参金も多くなる。すなわち、縁談が入りやすくなるという配慮だそうだ。
 私の実家……エルフェネス伯爵家が、グラストン侯爵家に提示していた持参金は十万ゴールド。すなわち、私あてに侯爵家から払われる慰謝料は五万ゴールドということになる。
 五万ゴールドと言えば、フィリップが官僚として働いた給金の一年分に相当する。
 そう思ったら、婚約破棄されたばかりだというのに楽しくなってきた。
 そもそも、結婚なんて別にしたかったわけじゃない。
 伯爵令嬢として生を受けた以上、他の貴族令嬢たちと違うことをして目立つことはよくないと思ってきた。
 エルフィネス伯爵家はこの南部地方では有数の家柄だ。その一人娘が行き遅れになったら、色々と悪い噂も立ってしまうだろう。
 ……しかし、一度相手から婚約破棄をされているわけだから、問題のある令嬢だと見做されて、もう二度と求婚されない可能性もある。
 いや、求婚されたとしても断る理由ができたのだ。『婚約破棄でできた心の傷』を言い訳にすればいいのだから。
 そういうわけで、婚約破棄されたばかりの私……カタリナ・エルフィネスは男に縋って生きる貴族令嬢の人生を捨てて、夢を追いかけることに決めた。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

強い祝福が原因だった

恋愛
大魔法使いと呼ばれる父と前公爵夫人である母の不貞により生まれた令嬢エイレーネー。 父を憎む義父や義父に同調する使用人達から冷遇されながらも、エイレーネーにしか姿が見えないうさぎのイヴのお陰で孤独にはならずに済んでいた。 大魔法使いを王国に留めておきたい王家の思惑により、王弟を父に持つソレイユ公爵家の公子ラウルと婚約関係にある。しかし、彼が愛情に満ち、優しく笑い合うのは義父の娘ガブリエルで。 愛される未来がないのなら、全てを捨てて実父の許へ行くと決意した。 ※「殿下が好きなのは私だった」と同じ世界観となりますが此方の話を読まなくても大丈夫です。 ※なろうさんにも公開しています。

転生したらついてましたァァァァァ!!!

夢追子
ファンタジー
「女子力なんてくそ喰らえ・・・・・。」 あざと女に恋人を奪われた沢崎直は、交通事故に遭い異世界へと転生を果たす。 だけど、ちょっと待って⁉何か、変なんですけど・・・・・。何かついてるんですけど⁉ 消息不明となっていた辺境伯の三男坊として転生した会社員(♀)二十五歳。モブ女。 イケメンになって人生イージーモードかと思いきや苦難の連続にあっぷあっぷの日々。 そんな中、訪れる運命の出会い。 あれ?女性に食指が動かないって、これって最終的にBL!? 予測不能な異世界転生逆転ファンタジーラブコメディ。 「とりあえずがんばってはみます」

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

虐げられ令嬢の最後のチャンス〜今度こそ幸せになりたい

みおな
恋愛
 何度生まれ変わっても、私の未来には死しかない。  死んで異世界転生したら、旦那に虐げられる侯爵夫人だった。  死んだ後、再び転生を果たしたら、今度は親に虐げられる伯爵令嬢だった。  三度目は、婚約者に婚約破棄された挙句に国外追放され夜盗に殺される公爵令嬢。  四度目は、聖女だと偽ったと冤罪をかけられ処刑される平民。  さすがにもう許せないと神様に猛抗議しました。  こんな結末しかない転生なら、もう転生しなくていいとまで言いました。  こんな転生なら、いっそ亀の方が何倍もいいくらいです。  私の怒りに、神様は言いました。 次こそは誰にも虐げられない未来を、とー

村娘になった悪役令嬢

枝豆@敦騎
恋愛
父が連れてきた妹を名乗る少女に出会った時、公爵令嬢スザンナは自分の前世と妹がヒロインの乙女ゲームの存在を思い出す。 ゲームの知識を得たスザンナは自分が将来妹の殺害を企てる事や自分が父の実子でない事を知り、身分を捨て母の故郷で平民として暮らすことにした。 村娘になった少女が行き倒れを拾ったり、ヒロインに連れ戻されそうになったり、悪役として利用されそうになったりしながら最後には幸せになるお話です。 ※他サイトにも掲載しています。(他サイトに投稿したものと異なっている部分があります) アルファポリスのみ後日談投稿しております。

余命六年の幼妻の願い~旦那様は私に興味が無い様なので自由気ままに過ごさせて頂きます。~

流雲青人
恋愛
商人と商品。そんな関係の伯爵家に生まれたアンジェは、十二歳の誕生日を迎えた日に医師から余命六年を言い渡された。 しかし、既に公爵家へと嫁ぐことが決まっていたアンジェは、公爵へは病気の存在を明かさずに嫁ぐ事を余儀なくされる。 けれど、幼いアンジェに公爵が興味を抱く訳もなく…余命だけが過ぎる毎日を過ごしていく。

王弟殿下の番様は溺れるほどの愛をそそがれ幸せに…

ましろ
恋愛
見つけた!愛しい私の番。ようやく手に入れることができた私の宝玉。これからは私のすべてで愛し、護り、共に生きよう。 王弟であるコンラート公爵が番を見つけた。 それは片田舎の貴族とは名ばかりの貧乏男爵の娘だった。物語のような幸運を得た少女に人々は賞賛に沸き立っていた。 貧しかった少女は番に愛されそして……え?

処理中です...