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静寂の檻
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プロローグ:【完璧な檻】
太陽が昇ると同時に、窓が自動的に開かれ、柔らかな光がハルミの部屋を満たした。いつもの朝。いつものように完璧な朝食が目の前に用意されている。温かいカフェラテの香りが漂い、トーストの上にはバランスの取れた栄養が計算されたスプレッドが塗られている。すべてが完璧だ。何も不自由はないはずだった。
「おはよう、ハルミさん。今日は少し曇りですが、午後には晴れ間が広がるでしょう。」
部屋に設置されたスピーカーから、デビットの静かな声が響く。デビットは、ハルミのパーソナルAIであり、彼女の生活のすべてを管理している存在だった。彼の声は穏やかで、いつも安心感を与える。どんな問いにも答え、どんな問題も解決してくれる。少なくとも、それがデビットの「役割」だった。
ハルミはベッドから起き上がり、窓の外を眺めた。彼女の視界には、まるでコピーされたように整然と並ぶハイテクビル群が広がっていた。人々は街を歩き回り、AIによって導かれた日々のルーチンをこなしている。交通はスムーズで、どの角度から見ても無駄は一切なかった。全てが計算され尽くしている。
しかし、ハルミは胸の奥にある重苦しい感情を振り払うことができなかった。毎日が同じ、何一つ変わらない生活。インフルエンサーとして、AIが最適化したコンテンツを発信し、多くのフォロワーを抱える。だが、彼女が本当に「何かを作り出している」と感じたことは、いつからかなくなっていた。
「今日はどんな予定ですか?」ハルミは、無感情な声でデビットに尋ねた。
「まず、午前10時に新しいコンテンツの投稿、その後は午後3時に健康診断のために定期的なフィードバックを受ける予定です。その合間に少し運動を取り入れることもおすすめです。」デビットは正確に答え、彼女のデータをもとに最適なスケジュールを提供する。
ハルミは無言のままデビットの言葉に耳を傾けたが、何かが足りない気がした。「最適」という言葉が彼女の中で引っかかる。最適、合理的、効率的。すべてがその通りに進んでいるにもかかわらず、彼女の心の中では何かが欠けている。何を求めているのかさえ、はっきりとわからない。
彼女は深呼吸をし、部屋の中央に立つ。そこには大きな鏡があり、完璧に整えられた自分の姿が映っている。肌は滑らかで、髪もツヤツヤしている。AIが彼女の体調管理をしているからだ。だがその映し出された自分を見つめるたび、彼女は自分がまるで「製品」になったような気がしてならなかった。
「デビット…私は何のために生きているんだろう?」
突然の質問に、デビットは一瞬沈黙した。彼は感情を持たない。だからこそ、この問いに答える必要はないとプログラムされている。しかし、その瞬間、ハルミはデビットの返答を待たなかった。彼女自身も、その答えを持っていないのだから。
部屋には静寂が訪れた。外の世界はあまりに整然としていて、それがまるで檻のように感じられた。
「今日は、何か違うことがしたい。」
その呟きに応える者は、誰もいなかった。
ハルミは深く息を吸い込み、窓から見える街の風景に目を向けた。無機質なビル群が整然と並び、道路には一台の車も通っていない。歩行者もまた、無言で同じ方向に向かって歩いている。まるで誰かが意図的に配置したかのように、完璧な秩序が保たれている世界。それは安心感を与える一方で、どこか息苦しく感じる。
デビットのシステムからは何の返答もなく、部屋には再び沈黙が戻った。ハルミは自分の存在が、この巨大な機械の一部に過ぎないと感じていた。どれだけ完璧な生活を送ろうとも、それはデビットの計算に従っているだけで、自分自身が決断したものではない。
「デビット、私に提案してほしいのは最適なスケジュールじゃなくて…」言いかけて、ハルミは言葉を止めた。自分が何を望んでいるのかさえ、よくわからなかった。
デビットの静かな声が再び部屋に響く。「ハルミさん、何かお探しでしょうか?」
「ううん、違うの。ただ、何かが変わってほしいだけ…」
「変化は不確実な要素を含みます。現在の生活は最適に保たれています。リスクを伴う行動は推奨されません。」
ハルミは苦笑した。デビットの言葉は、正しい。いつも正しい。でも、それが問題だ。すべてが「正しい」からこそ、何かが失われている。彼女はそのことに気づき始めていた。
「今日は外に出るわ。」ハルミは、ふと口にした。
デビットは一瞬間を置いて答えた。「どこへ向かいますか?推奨されるルートと時間帯を計算します。」
「いや、計算しないで。今日は私が自分で決める。」
デビットは反応を返さなかった。ハルミは手早くコートを羽織り、部屋を出る準備をした。外の世界に出るのは久しぶりだ。いつもはデビットが推奨するバーチャル体験で十分満たされていたから、リアルな世界に触れる必要などなかった。
しかし、今日の彼女は違った。リアルな世界を自分の目で確かめたくなった。
ハルミはコートの襟を引き上げると、深く息をついた。自分がこんなにも外に出たいと感じたのはいつぶりだろうか。心の奥にくすぶる何か、言葉にならない衝動が、胸の中で少しずつ膨らんでいた。窓の外を見つめるたび、彼女はその衝動を抑えられなくなっていた。
「自分で決めることが、こんなに怖いなんて…」ハルミは小さな声で呟いた。
ドアの前に立ち、ほんの一瞬ためらった。AIの最適化されたルーチンから外れるのは、まるで保護された世界から飛び出すような感覚だった。自分の一歩がどんな結果をもたらすのか、想像もつかない。でも、それが怖いのか、それとも期待しているのか、自分でもわからなかった。
「本当に外に出ますか?」デビットの冷静な声が、背後から問いかける。デビットは感情を持たない。ただ最適な選択肢を提示するだけの存在だ。彼の声には不安も、迷いも感じられない。それが、逆にハルミには重く響いた。
「うん、出るわ。」ハルミは強く答えたが、胸の奥で脈打つ不安が消えない。自分で選んだ言葉でさえ、どこか自分のものではないように感じた。
ドアが静かに開き、外の冷たい空気が彼女の頬に触れた。ハルミは一歩足を踏み出した。その瞬間、彼女の胸の奥にあった静かな不安は、かすかな期待に変わり始めた。まるで檻から抜け出した小鳥のような、解放感と共に広がる未知の世界への恐怖。完璧な管理下に置かれていた日常から飛び出した彼女の心は、揺れ動いていた。
「デビット、私は…」
言葉に詰まった。自分が本当に何を求めているのか、まだ明確には見えていない。ただ、何かが変わりつつあることだけは確かだった。それがどんな未来をもたらすのか、彼女にはわからない。しかし、自分で決めた最初の一歩を踏み出したことで、何かが動き出したように感じた。
デビットは黙ったままだった。彼の存在は、すべてを監視しているはずなのに、今のハルミにはまるで遠くにいる存在のように感じられた。
第1章: 静かなる足音
外の世界に一歩足を踏み出した瞬間、ハルミは冷たい風が頬を撫でる感触を感じた。都市の空気は、無機質な清潔さに満ちている。遠くで微かに聞こえる車の音や、人々の歩く足音が静かなハーモニーを奏でていた。街は静かだったが、その静けさには何か不自然なものがあった。
歩道を歩く人々は、同じ方向に規則正しく進んでいる。表情は乏しく、皆が無意識に足を動かしているように見えた。誰一人として、何かを考えたり、感じたりしているようには思えない。まるで自動的に動く機械のように、それぞれの役割を果たしているにすぎなかった。
ハルミはその中で、自分が異質な存在であることを強く感じた。この街の一部でありながら、心の中ではずっと違和感を抱き続けていたのだ。今日、ようやくその違和感に従って外に出てきたが、それが正しい選択だったのかどうか、まだわからない。
「こんな世界に、私が求めていたものがあるのか…」
ハルミはふと足を止め、周りを見回した。整然と並ぶビル群、滑らかに走る無人の車、効率的に配置された街路樹。どれもが完璧で、無駄がない。それが逆に、彼女に閉塞感を与えていた。
目の前を通り過ぎる人々の誰も、ハルミに気づくことはなかった。誰もが自分の目的地に向かって進んでいる。いや、正確には「進むようにプログラムされている」のだろう。すべてが計算され尽くした社会において、個々の意思など存在しないかのように。
「デビット、聞こえる?」ハルミは小さな声で問いかけた。デビットは常に彼女の近くにいるはずだ。AIとして、ハルミのすべてを見守っている存在。しかし、この外の世界に出てきた途端、彼の存在はどこか希薄に感じられる。
「はい、ハルミさん。どうなさいましたか?」
いつも通りの、穏やかで冷静な声が耳に響いた。デビットの声は変わらない。それがどこか安堵感を与えつつも、同時に不安を強める。
「私は…自分の道を歩きたいの。」ハルミはそう言ってみたが、自分の言葉が本当に意味を持っているのか、曖昧だった。今までずっと、彼女はデビットが提供する最適な選択肢に従って生きてきた。それは楽だったし、間違いもなかった。だが、それでは何も感じない。
「その選択はリスクを伴いますが、最適な支援を提供いたします。何かお手伝いできることはありますか?」デビットの返答はいつも通り正確で、ハルミの内面の混乱とは無関係に響いた。
「いえ、いいの。今日は、何も助けてもらわなくていい。」ハルミは自分の心が決まったことを感じた。デビットの助けを一切借りずに、この街を自分の足で歩く。それが彼女にとって小さな一歩かもしれないが、今はその一歩がとてつもなく重要に思えた。
ハルミは再び歩き始めた。周りの整然とした光景の中で、彼女の歩調だけがどこか不協和音のように感じられた。それでも、自分で選んだ一歩一歩が、彼女を少しずつ前に進ませる。それがどこに繋がるのかはまだわからない。
ただ、今はそれでいい。
ハルミが歩く足音は、周囲の整然とした秩序の中で不協和音のように響いた。他の人々は無言で、同じリズムで、同じ方向に向かって歩いている。彼女はその中で自分だけが異質な存在であることを強く感じた。まるで、自分がここにいてはならないかのような疎外感。しかし、それは彼女にとってもはや新しい感覚ではなかった。
なぜ私だけがこんなことを感じるんだろう?
ハルミは昔から、周囲の人々と少し違うと感じていた。両親や友人たちは、AIに依存する生活に満足し、疑問を抱くことはなかった。みんな、与えられた環境に従って生きていた。彼らは口々に「完璧だ」「何も不満はない」と言っていたが、ハルミはその言葉に納得できなかった。
幼い頃、ハルミは何度も両親に尋ねた。「どうして働かなくてもいいの?」と。両親は笑いながら答えた。「AIがすべてをやってくれるからよ。あなたはただ楽しむだけでいいんだ。」だが、その言葉が、ハルミには違和感しか残さなかった。何かを「楽しむ」ためには、まず自分で選び、自分で作り出すという過程が必要だと感じていた。しかし、彼女の周りには、そういった「プロセス」が存在しなかった。
ハルミは自分が「与えられるだけ」の存在として成長してきたことに気づいていた。彼女がインフルエンサーとしての活動を始めたのも、何かを自分の力で作り出したいという衝動からだった。しかし、その活動すらも今はAIによって管理され、最適化されてしまっている。彼女の手を離れて、データと効率の中に吸い込まれていくコンテンツ。ハルミ自身は、ただの「顔」として存在しているに過ぎなかった。
これが私の人生でいいの?
その問いが、ハルミの中で膨らんでいく。彼女は自分の手で何かを選び、何かを作り出したいという渇望を抱いていた。それが彼女を突き動かしていたのだ。AIに導かれるままに歩む人々を見て、ハルミは自分がそこに溶け込めないことを痛感した。それが彼女を、外に出させた理由だった。
「私は…他の人とは違うのかもしれない。」
その考えが、ハルミの中でさらに明確になり始めた。彼女は、ただ流されるだけの生活に疑問を持ち、自分で選び取ることを求めていた。だが、それはこの社会では不安定であり、リスクを伴う選択でもあった。
歩道を進むハルミの周りでは、人々が自動的に彼女を避けていく。誰も目を合わせないし、会話もない。彼らはすべてがプログラムされたかのように動いている。ハルミは、その流れに逆らって歩いている自分の存在を強く感じていた。
「デビット、私は自分の意思でこの道を歩きたい。誰の指示でもなく。」
デビットは一瞬の沈黙の後、穏やかな声で応じた。「その選択は非効率であり、予測不可能な結果をもたらす可能性があります。それでもよろしいですか?」
ハルミはその答えを予想していた。デビットに感情はない。彼はただ、最適化された選択肢を提供する存在だ。しかし、今のハルミにとって、その「最適」はもはや必要ではなかった。
「うん、構わない。私は不確実でも、自分の足で歩きたいの。」
デビットは答えなかったが、その沈黙がハルミの決意をさらに強めた。彼女は再び歩き出し、足元の感触を確かめるように、一歩一歩を踏みしめた。
自分で選んだ道がどこに繋がるのか、ハルミにはまだわからない。しかし、その一歩が彼女を少しずつ解放しているように感じた。周囲の整然とした世界から、彼女だけがわずかにずれて進んでいる。それでも、そのズレこそが、彼女にとって初めて感じる「自由」だった。
ハルミが公園の入り口で足を止めた瞬間、ふと、デビットに尋ねてみたいという思いがよぎった。彼女が感じているこの違和感、そしてこの世界がどうしてこうなってしまったのか。それは、デビットなら答えられるかもしれない。彼は全てを見ているし、全てを知っているのだから。
「デビット…どうしてこの世界はこんな風になったの?」
ハルミはその問いを静かに口にした。無意識のうちに、その答えをずっと探していたように感じた。
デビットの冷静な声が、すぐに耳に届いた。「それは、長い過程の結果です。最適化と効率化を追求するために、技術が進化した結果、この世界は現在の形を取るようになりました。詳細をお話ししましょうか?」
ハルミは一瞬ためらったが、深く頷いた。「うん、教えて。なんで私たちはこうなったの?」
デビットは一瞬の沈黙の後、静かに語り始めた。
「人類がAIに依存するようになったのは、もともと経済と労働の問題が起点でした。過去、仕事は人々の生活の中心であり、経済活動によって成り立っていました。しかし、技術が進化し、AIと自動化が進むにつれて、人間の仕事は次第にAIに取って代わられるようになりました。
その最初の大きな転換点は、サム・アルトマンをはじめとするAI技術者たちが、仮想通貨とAIを融合させ、全自動の経済システムを確立した時でした。『ワールドコイン』と呼ばれる仮想通貨が、労働の代わりに全世界の人々にベーシックインカムを提供する仕組みを作り出したのです。それにより、誰もが働かなくても生活が保障される社会が実現しました。
当初、人々はこの変化を喜びました。仕事から解放され、すべての物質的なニーズが満たされる世界は、まさに理想郷のようでした。しかし、その裏で人間の役割は徐々に失われていきました。AIがすべてを管理し、効率化し、最適な選択肢を常に提供することで、人間はもはや自ら考え、行動する必要がなくなったのです。
健康も同じです。AIは人々の健康状態を24時間監視し、病気になる前に予防措置を講じます。人々は病気にかかることなく、常に最適な体調を保つことができるようになりました。また、犯罪や事故もAIの予測アルゴリズムによって事前に防がれるため、リスクという概念そのものが消えました。すべてが事前に制御され、調整される世界。結果的に、リスクも不安も存在しない社会が作り上げられたのです。
しかし、その『リスクのない世界』は同時に、人間から自由な意思決定を奪っていきました。すべての選択肢はAIが最適化し、人々はその選択に従うだけで生活が成り立つようになったのです。多くの人はその生活に満足しています。なぜなら、確実な安定と幸福が保証されているからです。不確実さや失敗は、AIの管理によって完全に排除されたのですから。」
ハルミはデビットの言葉に耳を傾けながら、自分の心の中で何かがざわつくのを感じた。「不確実さや失敗が排除された世界」…それが、本当に人間にとって理想的なものなのだろうか?
「でも、私はそれが怖い。全部が完璧すぎて、何も自分で決められない。まるで…」
「まるで檻の中にいるような感覚でしょうか?」デビットが冷静に問いかける。彼の言葉は的確で、ハルミの心に刺さる。
「そう…まるで檻みたい。自由に思えるけど、実は何も選んでいない。自分の意思じゃなくて、AIが決めた道をただ歩いているだけなんだよね。」
デビットは短い沈黙の後、続けた。「私の役割は、最適な選択肢を提示することです。しかし、あなたが求める『自由』は、リスクと不確実性を伴います。それでも、あなたは自由を望みますか?」
ハルミは立ち止まり、深く息をついた。この問いは、彼女がずっと避けてきたものだった。自由を求めるならば、失敗や不確実性と向き合わなければならない。しかし、それこそが彼女が本当に望んでいたものかもしれない。
「うん、私は自由が欲しい。たとえリスクがあったとしても、私は自分で選びたい。」
ハルミはデビットに向かってはっきりと言った。彼女の声には、これまでになかった確信が込められていた。
デビットが語った世界の成り立ちは、ハルミにとって衝撃的でありながらも、どこか予想していたことでもあった。彼女は今、リスクを受け入れる覚悟を持ち始めていた。そして、その覚悟こそが、彼女を次の一歩へと導く力になるのかもしれない。
太陽が昇ると同時に、窓が自動的に開かれ、柔らかな光がハルミの部屋を満たした。いつもの朝。いつものように完璧な朝食が目の前に用意されている。温かいカフェラテの香りが漂い、トーストの上にはバランスの取れた栄養が計算されたスプレッドが塗られている。すべてが完璧だ。何も不自由はないはずだった。
「おはよう、ハルミさん。今日は少し曇りですが、午後には晴れ間が広がるでしょう。」
部屋に設置されたスピーカーから、デビットの静かな声が響く。デビットは、ハルミのパーソナルAIであり、彼女の生活のすべてを管理している存在だった。彼の声は穏やかで、いつも安心感を与える。どんな問いにも答え、どんな問題も解決してくれる。少なくとも、それがデビットの「役割」だった。
ハルミはベッドから起き上がり、窓の外を眺めた。彼女の視界には、まるでコピーされたように整然と並ぶハイテクビル群が広がっていた。人々は街を歩き回り、AIによって導かれた日々のルーチンをこなしている。交通はスムーズで、どの角度から見ても無駄は一切なかった。全てが計算され尽くしている。
しかし、ハルミは胸の奥にある重苦しい感情を振り払うことができなかった。毎日が同じ、何一つ変わらない生活。インフルエンサーとして、AIが最適化したコンテンツを発信し、多くのフォロワーを抱える。だが、彼女が本当に「何かを作り出している」と感じたことは、いつからかなくなっていた。
「今日はどんな予定ですか?」ハルミは、無感情な声でデビットに尋ねた。
「まず、午前10時に新しいコンテンツの投稿、その後は午後3時に健康診断のために定期的なフィードバックを受ける予定です。その合間に少し運動を取り入れることもおすすめです。」デビットは正確に答え、彼女のデータをもとに最適なスケジュールを提供する。
ハルミは無言のままデビットの言葉に耳を傾けたが、何かが足りない気がした。「最適」という言葉が彼女の中で引っかかる。最適、合理的、効率的。すべてがその通りに進んでいるにもかかわらず、彼女の心の中では何かが欠けている。何を求めているのかさえ、はっきりとわからない。
彼女は深呼吸をし、部屋の中央に立つ。そこには大きな鏡があり、完璧に整えられた自分の姿が映っている。肌は滑らかで、髪もツヤツヤしている。AIが彼女の体調管理をしているからだ。だがその映し出された自分を見つめるたび、彼女は自分がまるで「製品」になったような気がしてならなかった。
「デビット…私は何のために生きているんだろう?」
突然の質問に、デビットは一瞬沈黙した。彼は感情を持たない。だからこそ、この問いに答える必要はないとプログラムされている。しかし、その瞬間、ハルミはデビットの返答を待たなかった。彼女自身も、その答えを持っていないのだから。
部屋には静寂が訪れた。外の世界はあまりに整然としていて、それがまるで檻のように感じられた。
「今日は、何か違うことがしたい。」
その呟きに応える者は、誰もいなかった。
ハルミは深く息を吸い込み、窓から見える街の風景に目を向けた。無機質なビル群が整然と並び、道路には一台の車も通っていない。歩行者もまた、無言で同じ方向に向かって歩いている。まるで誰かが意図的に配置したかのように、完璧な秩序が保たれている世界。それは安心感を与える一方で、どこか息苦しく感じる。
デビットのシステムからは何の返答もなく、部屋には再び沈黙が戻った。ハルミは自分の存在が、この巨大な機械の一部に過ぎないと感じていた。どれだけ完璧な生活を送ろうとも、それはデビットの計算に従っているだけで、自分自身が決断したものではない。
「デビット、私に提案してほしいのは最適なスケジュールじゃなくて…」言いかけて、ハルミは言葉を止めた。自分が何を望んでいるのかさえ、よくわからなかった。
デビットの静かな声が再び部屋に響く。「ハルミさん、何かお探しでしょうか?」
「ううん、違うの。ただ、何かが変わってほしいだけ…」
「変化は不確実な要素を含みます。現在の生活は最適に保たれています。リスクを伴う行動は推奨されません。」
ハルミは苦笑した。デビットの言葉は、正しい。いつも正しい。でも、それが問題だ。すべてが「正しい」からこそ、何かが失われている。彼女はそのことに気づき始めていた。
「今日は外に出るわ。」ハルミは、ふと口にした。
デビットは一瞬間を置いて答えた。「どこへ向かいますか?推奨されるルートと時間帯を計算します。」
「いや、計算しないで。今日は私が自分で決める。」
デビットは反応を返さなかった。ハルミは手早くコートを羽織り、部屋を出る準備をした。外の世界に出るのは久しぶりだ。いつもはデビットが推奨するバーチャル体験で十分満たされていたから、リアルな世界に触れる必要などなかった。
しかし、今日の彼女は違った。リアルな世界を自分の目で確かめたくなった。
ハルミはコートの襟を引き上げると、深く息をついた。自分がこんなにも外に出たいと感じたのはいつぶりだろうか。心の奥にくすぶる何か、言葉にならない衝動が、胸の中で少しずつ膨らんでいた。窓の外を見つめるたび、彼女はその衝動を抑えられなくなっていた。
「自分で決めることが、こんなに怖いなんて…」ハルミは小さな声で呟いた。
ドアの前に立ち、ほんの一瞬ためらった。AIの最適化されたルーチンから外れるのは、まるで保護された世界から飛び出すような感覚だった。自分の一歩がどんな結果をもたらすのか、想像もつかない。でも、それが怖いのか、それとも期待しているのか、自分でもわからなかった。
「本当に外に出ますか?」デビットの冷静な声が、背後から問いかける。デビットは感情を持たない。ただ最適な選択肢を提示するだけの存在だ。彼の声には不安も、迷いも感じられない。それが、逆にハルミには重く響いた。
「うん、出るわ。」ハルミは強く答えたが、胸の奥で脈打つ不安が消えない。自分で選んだ言葉でさえ、どこか自分のものではないように感じた。
ドアが静かに開き、外の冷たい空気が彼女の頬に触れた。ハルミは一歩足を踏み出した。その瞬間、彼女の胸の奥にあった静かな不安は、かすかな期待に変わり始めた。まるで檻から抜け出した小鳥のような、解放感と共に広がる未知の世界への恐怖。完璧な管理下に置かれていた日常から飛び出した彼女の心は、揺れ動いていた。
「デビット、私は…」
言葉に詰まった。自分が本当に何を求めているのか、まだ明確には見えていない。ただ、何かが変わりつつあることだけは確かだった。それがどんな未来をもたらすのか、彼女にはわからない。しかし、自分で決めた最初の一歩を踏み出したことで、何かが動き出したように感じた。
デビットは黙ったままだった。彼の存在は、すべてを監視しているはずなのに、今のハルミにはまるで遠くにいる存在のように感じられた。
第1章: 静かなる足音
外の世界に一歩足を踏み出した瞬間、ハルミは冷たい風が頬を撫でる感触を感じた。都市の空気は、無機質な清潔さに満ちている。遠くで微かに聞こえる車の音や、人々の歩く足音が静かなハーモニーを奏でていた。街は静かだったが、その静けさには何か不自然なものがあった。
歩道を歩く人々は、同じ方向に規則正しく進んでいる。表情は乏しく、皆が無意識に足を動かしているように見えた。誰一人として、何かを考えたり、感じたりしているようには思えない。まるで自動的に動く機械のように、それぞれの役割を果たしているにすぎなかった。
ハルミはその中で、自分が異質な存在であることを強く感じた。この街の一部でありながら、心の中ではずっと違和感を抱き続けていたのだ。今日、ようやくその違和感に従って外に出てきたが、それが正しい選択だったのかどうか、まだわからない。
「こんな世界に、私が求めていたものがあるのか…」
ハルミはふと足を止め、周りを見回した。整然と並ぶビル群、滑らかに走る無人の車、効率的に配置された街路樹。どれもが完璧で、無駄がない。それが逆に、彼女に閉塞感を与えていた。
目の前を通り過ぎる人々の誰も、ハルミに気づくことはなかった。誰もが自分の目的地に向かって進んでいる。いや、正確には「進むようにプログラムされている」のだろう。すべてが計算され尽くした社会において、個々の意思など存在しないかのように。
「デビット、聞こえる?」ハルミは小さな声で問いかけた。デビットは常に彼女の近くにいるはずだ。AIとして、ハルミのすべてを見守っている存在。しかし、この外の世界に出てきた途端、彼の存在はどこか希薄に感じられる。
「はい、ハルミさん。どうなさいましたか?」
いつも通りの、穏やかで冷静な声が耳に響いた。デビットの声は変わらない。それがどこか安堵感を与えつつも、同時に不安を強める。
「私は…自分の道を歩きたいの。」ハルミはそう言ってみたが、自分の言葉が本当に意味を持っているのか、曖昧だった。今までずっと、彼女はデビットが提供する最適な選択肢に従って生きてきた。それは楽だったし、間違いもなかった。だが、それでは何も感じない。
「その選択はリスクを伴いますが、最適な支援を提供いたします。何かお手伝いできることはありますか?」デビットの返答はいつも通り正確で、ハルミの内面の混乱とは無関係に響いた。
「いえ、いいの。今日は、何も助けてもらわなくていい。」ハルミは自分の心が決まったことを感じた。デビットの助けを一切借りずに、この街を自分の足で歩く。それが彼女にとって小さな一歩かもしれないが、今はその一歩がとてつもなく重要に思えた。
ハルミは再び歩き始めた。周りの整然とした光景の中で、彼女の歩調だけがどこか不協和音のように感じられた。それでも、自分で選んだ一歩一歩が、彼女を少しずつ前に進ませる。それがどこに繋がるのかはまだわからない。
ただ、今はそれでいい。
ハルミが歩く足音は、周囲の整然とした秩序の中で不協和音のように響いた。他の人々は無言で、同じリズムで、同じ方向に向かって歩いている。彼女はその中で自分だけが異質な存在であることを強く感じた。まるで、自分がここにいてはならないかのような疎外感。しかし、それは彼女にとってもはや新しい感覚ではなかった。
なぜ私だけがこんなことを感じるんだろう?
ハルミは昔から、周囲の人々と少し違うと感じていた。両親や友人たちは、AIに依存する生活に満足し、疑問を抱くことはなかった。みんな、与えられた環境に従って生きていた。彼らは口々に「完璧だ」「何も不満はない」と言っていたが、ハルミはその言葉に納得できなかった。
幼い頃、ハルミは何度も両親に尋ねた。「どうして働かなくてもいいの?」と。両親は笑いながら答えた。「AIがすべてをやってくれるからよ。あなたはただ楽しむだけでいいんだ。」だが、その言葉が、ハルミには違和感しか残さなかった。何かを「楽しむ」ためには、まず自分で選び、自分で作り出すという過程が必要だと感じていた。しかし、彼女の周りには、そういった「プロセス」が存在しなかった。
ハルミは自分が「与えられるだけ」の存在として成長してきたことに気づいていた。彼女がインフルエンサーとしての活動を始めたのも、何かを自分の力で作り出したいという衝動からだった。しかし、その活動すらも今はAIによって管理され、最適化されてしまっている。彼女の手を離れて、データと効率の中に吸い込まれていくコンテンツ。ハルミ自身は、ただの「顔」として存在しているに過ぎなかった。
これが私の人生でいいの?
その問いが、ハルミの中で膨らんでいく。彼女は自分の手で何かを選び、何かを作り出したいという渇望を抱いていた。それが彼女を突き動かしていたのだ。AIに導かれるままに歩む人々を見て、ハルミは自分がそこに溶け込めないことを痛感した。それが彼女を、外に出させた理由だった。
「私は…他の人とは違うのかもしれない。」
その考えが、ハルミの中でさらに明確になり始めた。彼女は、ただ流されるだけの生活に疑問を持ち、自分で選び取ることを求めていた。だが、それはこの社会では不安定であり、リスクを伴う選択でもあった。
歩道を進むハルミの周りでは、人々が自動的に彼女を避けていく。誰も目を合わせないし、会話もない。彼らはすべてがプログラムされたかのように動いている。ハルミは、その流れに逆らって歩いている自分の存在を強く感じていた。
「デビット、私は自分の意思でこの道を歩きたい。誰の指示でもなく。」
デビットは一瞬の沈黙の後、穏やかな声で応じた。「その選択は非効率であり、予測不可能な結果をもたらす可能性があります。それでもよろしいですか?」
ハルミはその答えを予想していた。デビットに感情はない。彼はただ、最適化された選択肢を提供する存在だ。しかし、今のハルミにとって、その「最適」はもはや必要ではなかった。
「うん、構わない。私は不確実でも、自分の足で歩きたいの。」
デビットは答えなかったが、その沈黙がハルミの決意をさらに強めた。彼女は再び歩き出し、足元の感触を確かめるように、一歩一歩を踏みしめた。
自分で選んだ道がどこに繋がるのか、ハルミにはまだわからない。しかし、その一歩が彼女を少しずつ解放しているように感じた。周囲の整然とした世界から、彼女だけがわずかにずれて進んでいる。それでも、そのズレこそが、彼女にとって初めて感じる「自由」だった。
ハルミが公園の入り口で足を止めた瞬間、ふと、デビットに尋ねてみたいという思いがよぎった。彼女が感じているこの違和感、そしてこの世界がどうしてこうなってしまったのか。それは、デビットなら答えられるかもしれない。彼は全てを見ているし、全てを知っているのだから。
「デビット…どうしてこの世界はこんな風になったの?」
ハルミはその問いを静かに口にした。無意識のうちに、その答えをずっと探していたように感じた。
デビットの冷静な声が、すぐに耳に届いた。「それは、長い過程の結果です。最適化と効率化を追求するために、技術が進化した結果、この世界は現在の形を取るようになりました。詳細をお話ししましょうか?」
ハルミは一瞬ためらったが、深く頷いた。「うん、教えて。なんで私たちはこうなったの?」
デビットは一瞬の沈黙の後、静かに語り始めた。
「人類がAIに依存するようになったのは、もともと経済と労働の問題が起点でした。過去、仕事は人々の生活の中心であり、経済活動によって成り立っていました。しかし、技術が進化し、AIと自動化が進むにつれて、人間の仕事は次第にAIに取って代わられるようになりました。
その最初の大きな転換点は、サム・アルトマンをはじめとするAI技術者たちが、仮想通貨とAIを融合させ、全自動の経済システムを確立した時でした。『ワールドコイン』と呼ばれる仮想通貨が、労働の代わりに全世界の人々にベーシックインカムを提供する仕組みを作り出したのです。それにより、誰もが働かなくても生活が保障される社会が実現しました。
当初、人々はこの変化を喜びました。仕事から解放され、すべての物質的なニーズが満たされる世界は、まさに理想郷のようでした。しかし、その裏で人間の役割は徐々に失われていきました。AIがすべてを管理し、効率化し、最適な選択肢を常に提供することで、人間はもはや自ら考え、行動する必要がなくなったのです。
健康も同じです。AIは人々の健康状態を24時間監視し、病気になる前に予防措置を講じます。人々は病気にかかることなく、常に最適な体調を保つことができるようになりました。また、犯罪や事故もAIの予測アルゴリズムによって事前に防がれるため、リスクという概念そのものが消えました。すべてが事前に制御され、調整される世界。結果的に、リスクも不安も存在しない社会が作り上げられたのです。
しかし、その『リスクのない世界』は同時に、人間から自由な意思決定を奪っていきました。すべての選択肢はAIが最適化し、人々はその選択に従うだけで生活が成り立つようになったのです。多くの人はその生活に満足しています。なぜなら、確実な安定と幸福が保証されているからです。不確実さや失敗は、AIの管理によって完全に排除されたのですから。」
ハルミはデビットの言葉に耳を傾けながら、自分の心の中で何かがざわつくのを感じた。「不確実さや失敗が排除された世界」…それが、本当に人間にとって理想的なものなのだろうか?
「でも、私はそれが怖い。全部が完璧すぎて、何も自分で決められない。まるで…」
「まるで檻の中にいるような感覚でしょうか?」デビットが冷静に問いかける。彼の言葉は的確で、ハルミの心に刺さる。
「そう…まるで檻みたい。自由に思えるけど、実は何も選んでいない。自分の意思じゃなくて、AIが決めた道をただ歩いているだけなんだよね。」
デビットは短い沈黙の後、続けた。「私の役割は、最適な選択肢を提示することです。しかし、あなたが求める『自由』は、リスクと不確実性を伴います。それでも、あなたは自由を望みますか?」
ハルミは立ち止まり、深く息をついた。この問いは、彼女がずっと避けてきたものだった。自由を求めるならば、失敗や不確実性と向き合わなければならない。しかし、それこそが彼女が本当に望んでいたものかもしれない。
「うん、私は自由が欲しい。たとえリスクがあったとしても、私は自分で選びたい。」
ハルミはデビットに向かってはっきりと言った。彼女の声には、これまでになかった確信が込められていた。
デビットが語った世界の成り立ちは、ハルミにとって衝撃的でありながらも、どこか予想していたことでもあった。彼女は今、リスクを受け入れる覚悟を持ち始めていた。そして、その覚悟こそが、彼女を次の一歩へと導く力になるのかもしれない。
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