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第七章:夏と合宿とワサビと雨と
盛夏の大脱出!
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ようやく迎えた合宿最終日。遠く彼方にある台風の影響を受けてか、雲は足早に流れていく。だが、地上の風は穏やかなほうで、五人にとっては脱出日和だった。
椎名「重君、重君」
朝、Aフレームシェルターで未だ寝息を立てている重に、椎名は優しく声をかける。
重「……ん?」
目を覚ました重は、もはや『作:水木重』と呼ぶべき出来の寝癖のまま、上半身をゆっくり起こした。
椎名「起きた?」
重「あ、おはようござ……」
シェルター脇に立つ椎名の顔を見たまま、重は夏の風にその髪を梳かせた。まぁ、風のクシでは歯が立たないが。
重「うーん、マツボックリを探さないと……」
椎名「マツボックリ? マツボックリなんかどう‥」
重「椎名さんに投げつけてやるんですよ!」
椎名「なんで!?」
重「それはこっちのセリフですよ! なんでピエロのメイクをしてるんですか!」
大自然の中で一際目立つピエロのメイクに、重の文句は当然のことだった。
椎名「あぁ、重君ね、それは愚問だよ?」
重「……そうでもないですよ」
椎名「なんとなくに決まってるじゃない」
重「どこにやったかなぁマツボックリ」
椎名「ウソウソ! 最後だから気合を入れたんだよ」
重「どこにやったかなぁ、マツボックリ」
椎名「なんでまだ投げるつもりなの!」
重「冗談ですよ。半分は本気ですけどね」
椎名「半分本気?」
重「それより……」
重は他三人のシェルターへ目をやった。
重「三人はどこへ行ったんですか?」
椎名「あぁ、えーっとね、渡君と修君は水汲みに行ってくれて、知哉君はトイレに行ってるけど」
重「そうでしたか」
重はそう言いつつも、納得のいかない表情を浮かべる。
椎名「どうしたの?」
重「いやぁ、キャンプ地というか、この自然の中というか、いつもと違う気がするんですよねぇ」
椎名「あ、重君も感じる?」
重「ということは椎名さんも?」
重はシェルターから出てくると、辺りを見回し始めた。
椎名「ほかの皆も感じててね。ザワつきを感じるというか、人の気配を感じるというかさ」
重「そうですそうです。ザワつきを感じるんですよ……」
重はその場でゆっくり回り始め、もう一度、辺りの様子を確かめた。しかし、目で確認できるような変化は、一周した後に現れた椎名のピエロのメイクだけだった。
重「……」
椎名「……?」
重「早く見つけないと、マツボックリ」
椎名「まだ投げる気でいるの!?」
重「やってやるんだ俺は! 椎名さんのために!」
椎名「お気持ちだけで! お気持ちだけでいいよ!」
どうでもいい事で二人が騒いでいると、後ろから声がした。
修「なにを朝から騒いでんだよ?」
渡「騒がしいよ二人とも」
水汲みを終えた修と渡が戻ってきていたのだ。
椎名「だってねぇ、重君が……」
椎名は二人にワケを説明しようと振り返る。
修「うおっ……」
渡「うわっ!」
椎名のメイクに驚いたところをみると、修と渡が水汲みへ出発した後に、椎名はメイクをしたらしい。
椎名「あれ、どうしたの?」
渡「……修、焚火のところに置いてあるから」
修「おう、いま取ってくるよ、マツボックリ」
椎名「待ちなさいっての! 何でピエロのメイクをしてるだけでマツボックリを‥」
修「これからイカダに乗って脱出するのに何でピエロのメイクなんかしてんだよ!」
そう言われてしまった椎名は、パントマイムで自分の周りに壁を作り始めた。
修「コラコラ、壁を作るんじゃないよ!」
椎名は修にジェスチャーで言葉を伝え始めた。
椎名「………」
修「壁のせいで?」
椎名「………」
修「……あぁ、言葉が、俺の話す言葉が」
椎名「………」
修「はいはい、『壁のせいで何を言っているのか聞こえない』っていうことですか?」
椎名「うん」
修「聞こえてんだろ! 『うん』って言ったろ!」
椎名は『しまった』と笑いながら、再び壁を作り出す。
修「なにを厚めに作ってるんですか。ったく、教授さんも笑ってないで何とか言ってやれよ?」
渡「フフッ、修、大先生を見てみな?」
クスクス笑う渡が指をさすので、修は期待もせずに重のほうを見た。すると、重はなぜか、椎名の真似をして壁を作っていた。
修「そこのライオンみたいな頭してる奴は壁を作る意味ねぇだろ!」
重「これはライオンが人との間に作った『疑念』の壁」
修「…………」
修は黙ったまま、ピエロとライオンが作った壁を、茂み目がけて放り投げた。
椎名「あっ……」
重「あっ……」
修「あっ、じゃねぇよ! ったく、いいから朝‥」
その時、修の言葉を遮るように、茂みから声が聞こえてきた。
知哉「イテッ!」
四人が仕方なく茂みのほうへ目をやると、頭をさすりながら知哉がシェルターへ向かって歩いてきていた。
知哉「おい、透明な壁を放り投げたのは誰だぁ?」
修「…………かわいそうに」
知哉「どういう意味だ!」
朝の一ボケの後、五人は朝食のイチゴ・バナナを食べながら、焚火を囲んだ。
渡「……次に焚き火を囲むことになるのはいつになるだろうね」
知哉「そっか、この焚き火が最後か」
渡「うん」
椎名「汚苦多魔を離れたら、焚き火なんてしないもんね……」
最終日の焚き火は、いつもより暖かく美しい炎を見せて、ただそこで燃えていた。
重「そういえば、今日はなんかさ、変な感じがしない? ザワついてるような感じが」
渡「そうなんだよ大先生。なんかいつもと違うよね」
修「うーん、何かの気配がするんだよな。ただ熊さんと藍さんじゃないってのは分かるんだよ」
椎名「あの二人は完全に気配を消すからね」
知哉「教官というより忍者ですよ、忍者」
知哉がそう言ってイチゴを頬張ると、後ろから元気な声が聞こえてきた。
藍「どろん! 皆さん、おはようございます!」
忍者のように手を合わせた藍が、どこからともなく現れた。しかし、慣れてしまったのか、五人は驚かなかった。
渡「藍さん。あんまり『どろん!』なんてこと言ってると、そこらの変態が近づいてきますよ?」
修「そうですよ、『ウペペペ』言いながら近づいてきますよ?」
様々な装備を身に着けていた藍は、袖をまくり、照れるように笑った。
藍「大丈夫ですよ。そのときはアゴの骨を砕いてやりますから!」
渡「うん、物騒! なんてこと言うんですか?!」
藍「やるかやられるか、そうなったらやるしかありませんよ! 生きる意志こそ、自分を救ってくれる最強のツールですからね! 北欧の大自然、北アメリカの山々、そこでの訓練が私にそう教えてくれたんです!」
あの日の訓練を思い出したのか、藍は力強く拳を握った。その藍のたくましい腕の筋肉に、五人は今更気が付いた。
重「い、生きる意志ですって皆さん……」
修「え、えぇ、えぇ、存じ上げております……」
渡「私のところでは一昨年から導入していますもので……」
知哉「私なんか、『生きる意志通信講座』を受講してますからねぇ……」
椎名「なんでしたら修さん、どうぞ『ウペペペ』とおっしゃってみたら……」
修「あ、それではあのー、僭越ながら、ウペ、アゴの骨砕かれちまうだろうが!」
藍「うふふ、本当に面白いですねぇ皆さんは!」
藍の言葉を聞くや否や、五人は目にもとまらぬ早さで立ち上がり敬礼をする。
五人『ありがとうございます!』
北欧の大自然、北アメリカの山々に生きる意志を教えてもらった。そんなことを言う藍に、五人がダラついた姿勢を見せるはずもなかった。もちろん、垣間見れる藍の戦闘能力に恐れ慄いている部分もあった。
藍「おっ、気合入ってますね! それでは、これより、出発の準備をしていただきます!」
五人『はい!!』
直立不動である。
藍「まず、イカダの修理用に、シェルターの部品をいくつか外しておいてください! ただ、分解するシェルターは一つだけにしてください!」
返事と共にシェルターへ走り出した五人は、ロープを多く使用していた重のシェルターの解体、部品回収を始めた。そして、屋根代わりに使用していたサバイバルシートだけは全て回収した。
藍「回収できましたか?」
五人『はい!!』
藍「それでは、すべての荷物を持って出発です!」
シェルターの中央に集めて置いておいた荷物を引っ張り出す五人。
重「なんかさ、あっという間だったね。いろいろあったけど」
渡「いろいろありすぎたから、あっという間だったんだろうね」
修「本当、いろいろありすぎなんだよなぁ」
修の言葉の後、ほんの少しだけ沈黙が続いたかと思うと、渡が静かな声で言った。
渡「修、こっち四人は『お前が言うな』と思ってるよ」
修「なんでだよ?」
汚苦多魔を選んだのが自分だということを忘れている修。しかし、渡が言い返す寸前、修はそのことを思い出した。
修「だっ! わかった、思い出した!」
修は手のひらを渡に向ける。
渡「……何を思い出したの?」
修「俺が汚苦多魔を選んだった。すっかり忘れてた」
渡「まったく」
修「まぁ、楽しい思い出ができたと思えば…… じゃない! 危ない危ない、椎名さんに注意したことを自分で言うところだった」
椎名「ほとんど言ってたよ」
そう言いながら荷物の整理をする椎名は、藍のほうへ振り返った。
椎名「あのすみません藍さん」
他の四人は何を言うのかと、静かに椎名のことを見つめていた。
藍「はい、なんでしょう?」
椎名「キャンプ地とシェルターを背景に写真を撮ってもらえないですか? 記念に一枚欲しいんですよ」
藍「そう思いまして、カメラを持ってきたんですよ。写真はやっぱりカメラですよね!」
藍は背負っていたリュックから小型の三脚を取り出し、撮影の準備を始めた。
修「何を言い出すかと思ったら……」
重「ピエロのメイクをしたまま撮るつもりですか?」
知哉「なんの記念だか分かりませんよ、それじゃ」
渡「そういうところが抜けてるんですよ椎名さんは」
きょとんとしたまま四人を見つめていた椎名は、穏やかな声で言った。
椎名「あらまぁ、舌尖の鋭いこと」
渡「鋭くさせてるのはどこの‥」
椎名「まぁまぁ、いいからいいから。藍さんが準備してる間に並び順を決めちゃおうよ」
椎名はそう言って、シェルターの前に立った。
椎名「えーっと、修君と渡君は前でしゃがんでもらって、その後ろに知哉君、僕、重君の順に立てばいいかな?」
椎名の案に知哉は賛同したらしく、すぐに椎名の横へ移動した。
知哉「まっ、おチビさんは前だよな?」
修は言い返すことなく二人の前へ移動するとしゃがんだ。
修「仕事のできねぇデクノボウは当然後ろだよな」
知哉は言い返そうとし、修もそれを待っていた。が、二人の間に渡の冷めた声が割り込んできた。
渡「バカ二人が後ろでいいんじゃない?」
椎名「なるほどね」
その言葉に対する修と知哉の反応速度は目を見張るものがあった。
知哉「なんだとインテリ!」
修「勉強しかできないバカもいるんだぞバカ!」
渡「できないよりもマシでしょ」
椎名「僕は大道芸もできるし」
知哉「ピエロは引っ込んでろ!」
修「俺は草花や昆虫にだって造詣が深いんだ!」
重「はいはいはいはい……」
いつもの言い合いの中へ、重が澄ました顔で入っていく。
重「みんな、勉強も運動もそこそこ出来るこの私『Mr.そこそこ』のようになりたいってわけだね?」
重の言葉に、珍しく椎名が口を開いた。
椎名「あぁ…… Mr.そこそこの『そこ』って言うのは、『底辺』の底?」
椎名のボケに、プッと吹き出す三人。
重「誰が『Mr.底底』なんだ! 誰が『Mr.底辺』なんだよ!」
言われた四人は一斉に重を指差した。顔をそむけたり、残った手で顔を隠しながら。
重「プッ…… せめてこっちを見ろ! そんなんで匿名になったと思うな!」
修「わかったよ。もういいから早く並ぼうぜ?」
渡「というか、藍さんも一緒に写りましょうよ。記念写真なんですから」
藍「いいんですか?」
知哉「それじゃ…… 修と教授さんの間に入ってもらうか?」
渡「そうだね」
前列の修と渡は間を開け、藍の入る場所を作った。
藍「……はい、押しました!」
セルフタイマーのセットを終えた藍は、楽しそうな表情を浮かべながら、急いで修と渡の間に入ってしゃがんだ。そして藍が両手でピースを作ってすぐに、シャッターは切られた。
藍「はい! それでは、荷物を持って出発しましょう!」
藍に急かされるようにして荷物を持たされ歩き始めた五人だったが、林へと続く道の入口で立ち止まると、寂しげに振り返った。
約六日間を過ごしたキャンプ地。初めは広く寂しいただの広場だった。もちろん、今でもさほど変わりはしない。しかし、苦労して作り上げたシェルター、ビックリ箱のような食材箱、そのビックリさせられた食材を食べながら語り合った焚き火の跡は、五人を去りがたい気持ちにさせた。
藍「……それでは行きましょう」
五人は、心の中でキャンプ地に別れを告げると、歩き始めた藍の後に続いた。
重「結局、椎名さんと修が言ったように、楽しい思い出が作れちゃったね」
渡「かなり辛い思いもしたけど…… というか、まだ辛いのが一つ残ってるんだけどね」
知哉「一番辛そうなのが残ってるってのが嫌だよな」
渡「うん…… あの、藍さん?」
藍「はい、なんでしょう?」
渡「以前、地獄コースに3グループが参加して、どのグループもリタイアしてしまったんですよね?」
藍「はい、残念ながら……」
渡「……リタイアした理由っていうのは?」
聞きづらいことを聞くもんだよなぁ教授さんは。修はそう思いながらも藍の返答に耳を傾けていた。
藍「それは後ほど……」
遠回しに『川下り』が原因と取れる藍の発言に、気を落とす渡と修。気づかない重と知哉。椎名は気を落としつつも、藍に次なる質問をぶつけた。
椎名「あの藍さん、僕らが作ったシェルターやイカダは脱出の後はどうするんですか?」
藍「もし、みなさんがリタイアをせず、無事に脱出することが出来ましたら、本部前の広場に設置する予定です!」
椎名「えっ、設置? 飾ってもらえるんですか!?」
藍「はい! みなさんのネームプレート付きで!」
椎名「みんな! ちょっと聞いた!?」
椎名は四人に問いかけたが、返事はなかった。不思議に思った椎名が四人が顔を見てみると、四人は真面目な表情で辺りを気にしていた。
椎名「あれ、どうしたの?」
重「いやぁ、なんかですねぇ、あのザワつきが聞こえるんですよ」
椎名「あぁ、今朝言ってたザワつき?」
重「そうですそうです」
知哉「何の音なんだろうな?」
修「今いる位置から考えると、川原の方から聞こえて来る気がすんだけど……」
渡「確かに」
五人があれこれ意見を言っていると、再び藍が遠回しに話し始めた。
藍「多分その『ザワつき』は、川原で皆さんを待っている村の人たちの声じゃないでしょうか?」
知哉「俺たちを待っている村の人たち?」
重「……村そのものにアタシたちが切られちゃうってこと?」
修「おめぇが言ってんのは『村の一太刀』だろ! どう村が刀を抜くんだバカ!」
よくもまぁスグにボケが分かるもんだなと、渡は思わず感心してしまった。
その後、重のボケに修がすぐに切り返す、というのが続き、一同は笑いながら林を抜けていった。
藍「皆さーん! 到着しました!」
川原の入り口に着いた藍が爽やかに声を飛ばした。五人は自分たちに向かって言っているのかと思ったが、その声の調子から、それが違うことに気がついた。
藍「では、お先にどうぞ!」
藍は道の端によると、五人に道を譲った。よくは分からなかったが、五人は言われるがままに川原へと進んでいく。すると、先ほどの藍の言葉通り、川原には大勢の人の姿があった。
大勢の人たちは、大半が村人で、残りは合宿所の利用客たちだった。どちらも何でも屋五人の姿を見るやいなや、拍手と歓声とで出迎えた。
重「あ、どうも……」
渡「お、おはようございます……」
五人は立ち止まり、出迎えにぎこちなく応える。
修「あはは……」
知哉「えへへへ……」
もちろん、ピエロのメイクをしている椎名は度々、指をさされる。
椎名「メイクのタイミングを完全に間違えたなぁ……」
藍「はい、皆さん!」
後ろからやってきた藍は、村人と利用客たちに話し始めた。
藍「先ほどお話しましたが改めてご紹介します! 六日間の地獄コースを乗り越え、本日、イカダでの脱出を敢行します何でも屋の皆さんです!」
藍の紹介に一段と拍手と歓声は増し、さすがは何でも屋だピエロまでいるぞと、訳の分からない声まで聞こえてきた。
藍「それでは何でも屋の皆さんは準備をお願いします! 他の皆さんは出発式までもう少しお待ち下さい!」
出発時間が決まっている何でも屋たちは、紹介も早々に、イカダの点検と出発の準備を始めた。
藍「準備が完了したら知らせてください! 私は荒木教官との最終確認をしていますので!」
そう言って藍は、水辺でゴムボートの準備を進めている荒木のもとへ走っていった。
知哉「いいなぁゴムボート。救助用のいいやつじゃん……」
重「やっぱり、ボートで付いて来てくれるんだね」
知哉「そりゃ危ねぇもんな」
重「それに見てよアレ。ウチらが付けるヘルメットと救命胴衣だよ」
知哉「そりゃ危ねぇもんな」
修「おい、喋ってねぇで手を動かせよ」
重「そう言われてもねぇ……」
重はイカダの上に乗って結び目などを調べている修、渡、椎名の三人を見つめる。
重「三人で上に乗って作業されちゃ、こっちも調べようがないでしょ?」
渡「それじゃオールのチェックとか……」
重「オールのチェックね。全部のオールが検査をクリアしたらオールオッケーなんてね!」
言うつもりなどなかったのだが、重はついポロリと言ってしまった。なので重は何かを言われる前に対策を打つ。
重「って知ちゃんが言ってるけど」
知哉「言ってねぇよ!」
修「イカダが飯を食った後、爪楊枝で歯の隙間から取り出したモン見て言ったんだよ、あぁイカだ、って…… というような事を知哉が…」
知哉「言ってねぇよ!」
椎名「知哉君! くだらない事ばっかり言うのはイカダけないよ?」
知哉「だから言ってねぇし、くだらない事を言ってんのはピエロだろ!」
渡「いいから全員手を動かしなさいよ!」
渡は長く続く洒落合戦をやめさせた。
渡「まったく、いい年して言ってる事が中学生以下だもん…… 違う違う違う!」
偶然の発言だったが、もはや手遅れである。
知哉「聞きましたか椎名さん?」
椎名「聞いた聞いた」
修「人のことを注意してるかと思ったらこれだよ」
重「中学生イカダはヒドイよねぇ」
渡「狙って言ったんじゃないよ! ほら! イカダとオールのチェックは済んだんだから、藍さんを呼びなさいよ! あ、いいや、もう自分で呼ぶから!」
渡は一人で喋り終えると、藍を呼んだ。呼ばれた藍は、荒木と共に五人の方へとやって来る。
藍「準備が出来たようですね! それでは荒木教官、お願いします!」
荒木「はい。皆さんこれを装着してください」
荒木が配ったのは、先ほど重が言っていたヘルメットと救命胴衣だった。
荒木「では、私の方からいくつか説明をしたいと思います」
荒木は川の危険性や川での立ち振舞いなどについての説明を始めた。その簡潔かつ的確な説明のおかげで、干上がった大地へ恵みの雨が降ったときのように、五人はすっかり吸収していった。
荒木「皆さん、覚えていただけましたか?」
釣りを趣味としている五人の水難事故に対する知識や経験も手伝い、新たな知識はしっかりと五人の頭のなかで根を伸ばしていた。
知哉「いやぁ、すっかりご理解遊ばしちゃいましたよ! どっかの誰かさんと違って、すごく分かりやすい説明でした」
知哉は渡を見ながら言った。その視線に気づいた渡は鼻で笑った。
渡「いちいち噛んでから口に含んでやらないといけないってのは面倒なことだよ」
知哉「……修ちゃん」
修「あ? チッ、だから! バカ相手に難しい事を分かりやすく説明するのは疲れるってことだよ! つーか今の俺の状況がそうだよ!」
知哉「あら、可哀想に……」
修「……椎名さん、そこのオール取ってもらえます?」
知哉「何をする気だよ!」
荒木「そうですよ修さん」
荒木は眉をひそめる。
荒木「せっかく覚えてもらったことが、どこかへ行っちゃいますよ」
知哉「そういう意味で止めるんですか!?」
一同が荒木の冗談で笑っていると、一人の中年男が近づいてきた。
男は、黄色の蛍光色のジャンパー着用しており、胸元には『汚苦多魔村実行委員』とプリントしてあった。また、少しサイズの小さい白のキャップにも同じプリントがされていた。そしてその男は、どこから見ても『真面目一方』という雰囲気だった。
男「おはようございます」
藍「おはようございます! 何でも屋の皆さん、ご紹介します! 汚苦多魔村実行委員長の榊さんです!」
榊「初めまして、榊と申します」
深々と頭を下げる榊に、五人は姿勢を正してから深くお辞儀をした。
榊「本日は、私たち実行委員と村人が一丸となりまして、皆様の厄払いを執り行って行きますので、皆様は大船に乗った気持ちでいてください。まぁ、皆様が乗るのはイカダですが……」
榊は自分の冗談にクスクスと笑い始めた。『真面目一方』から『一方』が取れた。だが五人にとってそんなことはどうでも良かった。
残すは川下りだけ、そう思っていた五人の耳に聞こえてきた『厄払い』という言葉。きょとんとしていた五人の表情は曇天に変わっていった。
修「……あの、厄払いってのは?」
この合宿を計画した当人が、また無責任な発言をする。
知哉「お前も知らねぇのかよ!」
修「知るわけねぇだろ!」
榊「あれ、何でも屋さんのほうから申し込みがあったと伺っているんですが……」
不安になった榊は遠回しな言い方で藍に聞いた。
藍「はい、電話予約の際に、久石さんがお申込みを……」
修「俺がですか!? えぇっ!?」
腕を組み考え出す修。それを見つめ続ける同僚の三人と元同僚のピエロ。
修「電話予約っていってもなぁ、随分前だし…… あっ!」
思い出した修は、嬉しそうな顔で横にいる渡を何度も指差した。
渡「人を指でさすんじゃないよ。それで?」
修「藍さんの言う通り。電話予約の時にだ、『只今ですね、村の方ではですね、伝統的な厄払いを催しておりましてですね、合宿所と同時ご予約のお客様はですね、無料でですね、厄払いを執り行い奉り申候でござい』なんて受付の人が言うもんだからさ」
渡「受付の仕事を辞めたほうがいいね、その人は」
修「椎名さんは門出だし、俺達も四人で再出発だろ? だからちょうどいいかなと思って厄払いを申込んだんだった」
椎名「そうだったの? 修君ありがとう」
修「いえいえ、礼を言われるほどのことはしていませんでござい」
藍「……話を進めてもよろしいでござりまするか?」
気の利いた藍の言葉に、一同は笑った。
修「どうもすみません、どうぞ、進めてください」
藍「ありがとうございます! それでは、川下りと厄払いについて簡単に説明します!」
地図を広げた藍の説明はこうだった。
Aエリアでは合宿で覚えた事を再確認するためのクイズを五問出題。Bエリアではイカダの操縦に関する課題挑戦。Cエリアは休憩。Dエリアでは、クイズと操縦課題を足したもの。そして最後のEエリアで汚苦多魔村の伝統厄払いを川の上で行う。
藍「以上になりますが、ご質問はありますか?」
五人は『ご質問』だらけだったが、もう聞くことすら面倒になっていた。
椎名「ま、まぁ、大丈夫だよね?」
知哉「そう…… ですね……」
渡「大丈夫です…… ね……」
修「やっぱりあれですかね、厄払いの内容というのは……」
藍「Eエリアに到着後、榊さんから説明があります!」
修「あ、分かりました」
少しの静寂が訪れたが、藍の元気な声がそれを切り裂いた。
藍「さあ、それでは出発です! イカダを浮かべて乗り込んでください! 念のため、イカダとロープは繋げておいてくださいね!」
五人は重い足取りでイカダへ向かうと、持ち上げるために配置についた。
修「はぁ、嫌だなぁ」
重「あぇ? おたくがそれを言うの?」
修「いや、そういう意味で言ったんじゃなくてよ……」
そう言ってしゃがみこんだ修は、靴紐を締めなおす。
修「なんつーかさ、今これだけ気後れしてんのにさ、結局、気合だとか笑いだとかの力を使って乗り越えちゃう俺達が嫌なんだよ。バカみたいでさ」
ギュッと音を立てて靴紐を締め上げた修は立ち上がった。
渡「……まぁ悪いことじゃないけどね」
椎名「そうそう」
修「でもハナっから苦労しないようにしておくのが最善ですからねぇ」
椎名「確かにそうだけど、笑いを力にするのは良いことだと思うけどなぁ僕は」
妙に気持ちを入れた椎名の話し方に、四人は自然と椎名を見た。
修「……真面目な話がしたいならメイクを取ってきてもらえますか?」
渡「その悲しくも楽しげなメイクが邪魔してるんですよ」
椎名はピエロらしい動きを見せて、ジェスチャーで『ゴメン』と謝ってみせた。
知哉「ははは、上手くなりましたよね、その程よい腹立たせ方の動きが」
重「間もいい感じですし」
椎名「本当?! いやぁ嬉しいなぁ! それじゃ元気を出して、イカダを持ち上げて出発しようか!」
アッサリと元気になった椎名の合図に合わせ、イカダは五人によって持ち上げられた。ピエロを先頭に進水していく風景は、どこから見ても不思議なものだった。
椎名「だっ、相変わらず冷たい……」
渡「なんだろう、昨日感じた冷たさなのに、懐かしさを感じるよ」
重「だから、一日に起きることが多すぎるからそう思うんだよ」
渡「あぁ、そうだった」
重「例えば、今だってすんなり進水式が終わると思うでしょ? でも違うんだなこれが。だって予備の分のオールを一本、私が岸に忘れてきちゃうんだから」
渡「…………イカダが浮いたら取ってきなさいよ」
重「は、はーい」
川の水より冷たい渡の視線に耐える重は、イカダが浮かぶ深さに早く到達することを切に願った。
重「浮いた? 浮いたね! 浮いたね!」
重は手を離し確かめると、水しぶきを上げながら岸へと戻っていった。
渡「今回、ポンコツぶりを見せてないのは俺だけじゃないの?」
修「確かにな。けどな知哉?」
知哉「そうそう、次はポンのコツを披露すると思うぜ?」
渡「次? 次って?」
知哉「まぁ次だよ、次」
重「はーい! 戻りました! オールを手に戻ってまいりました!」
水しぶきを上げて重が戻ってきた。
重「ごめんねごめんね。はい、それじゃ昨日と同じ順番でサッサと乗っちゃいましょうよ」
オールの件を無かったことにしようと急く重。
修「調子がいいんだからよ…… ま、いいや、それじゃ乗るぜ」
四人が押さえてくれているイカダに、修は軽々と上がった。
修「えーと、最初は椎名さんでしたよね?」
椎名「うん。3でお願いね」
修「はい?」
椎名「引き上げるときの掛け声だよ」
修「あぁ、じゃ…… 1・2の3!」
修は椎名の差し出した手を握り、イカダへと引き上げると、続けて重、渡と引き上げていく。
渡「はい、ありがと」
修「あいよ。よし来い知哉!」
知哉「うーし、じゃあ、1‥」
修は昨日と同じく、掛け声を無視して知哉を強引に引き上げた。
知哉「あぶ… 危ねぇ! だから雑に引っ張るんじゃねぇよ!」
修「野郎のくせにコチコチうるせぇんだよ」
知哉「グチグチだろうが! 魚を知らなきゃ分からねぇボケすんな!」
修「悪かったよ。ほらこの通り」
頭を下げるかと思いきや、腰を屈めて尻を突き出し、右手でクチバシ、左手を腰に添えたフザけたポーズをとった。
知哉「楽しそうじゃねぇか」
渡「いいから準備しなさいよ。そういうことをやるから、俺が懐かしく感じちゃうんでしょ?」
修「俺たちが『死に損ないのジジイ』になったとき、楽しい思い出話になるんだから良いじゃねぇか」
重「けど『死に損ないのジジイ』になるのは修と知ちゃんだけだよ」
修「じゃあそっち三人はどうなるんだよ?」
重「そりゃもちろん『誰もが慕う老紳士』でしょ」
渡「その通り」
椎名「その通り」
修「だってよ知哉」
知哉「けっ、何が『誰もが慕う老紳士』だよ。『誰もが嫌う老人達』の間違いだろ?」
修「その通り」
五人が口を動かしながら準備を進めていると、川原のザワつきが一際大きくなっていった。
重「ん? なんだろ?」
椎名「なんだろうね?」
準備を終えた五人が静かに川原を見ていると、イカダと岸を繋ぐロープが縛ってある岩の近くに、人だかりが出来ていた。そしてその人だかりの中に藍たちの姿も見えた。
知哉「榊さんが持ってるのって枝切りバサミか?」
修「だな……」
華やかなリボンがあしらわれた大きな枝切りバサミ。それを手にした榊は満面の笑みを浮かべていた。
藍「それでは、何でも屋さんの出発になります! 榊さん、お願いします!」
榊は何でも屋たちに一礼し、ロープにも一礼すると、枝切りバサミを強く握りしめた。そして、ハサミの刃をロープに当てると、あっさり断ち切った。
知哉「なんかロープ切られちゃったけど……」
渡「う、うん……」
自由になったイカダは五人を乗せ、浅瀬から静かに旅立つ。どこか感動的な光景だったが、切られたロープがだらしなく水面に浮かび、舵に絡みついたせいで締まりがなかった。
椎名「あぁ、絡んじゃって……」
修「あ、いま俺が巻き取るんで……」
修は手際よくロープを巻き取り、まとめて支柱に縛り付ける。
修「こんな感じでいいですかね?」
椎名「うん、大丈夫」
重「みなさーん! いってきまーす!」
重は呑気に、見送りの声に応えていた。
知哉「おい大先生、いってきますじゃねぇって。ここにはもう帰ってこねぇんだからよ」
重「いってき… え? なんか言った?」
知哉「……藍さんたちはボートで出たのかなって聞いたんだよ。俺と教授さんは前にいるからよく見えねぇんだよ、後ろは」
重「あぁ。あのーね、今ね、荒木さんがエンジンをかけて、こっちに向かってるとこ」
知哉「そうか。っていうか、思ったより流れが遅くて良かったな」
渡「そうだね。初めての実践だからね」
知哉「椎名さん、舵は任せましたよ!」
椎名が無言でサムズアップを見せたとき、後方からゴムボートが近づいてきた。
ゴムボートには船首から藍、榊、荒木の順で乗っており、荒木が操縦を担当していた。榊は無駄に似合う救命胴衣を着ながら、何やら楽しそうに座っている。重はなぜだかその事が少し腹立たしかった。
藍『皆さん!』
藍は防水仕様の赤い小型の拡声器を使っていた。
藍『私たちは先にAエリア入り口で待っていますので、イカダの扱いに慣れておいてくださいね!』
ゴムボートは低速でイカダの横を通過した後、スピード上げて進んでいった。いくらかの波と白煙を残して。
修「始まっちゃったなぁ。シゲ、オールさばきの確認をしておこうぜ」
重「了解。椎名さんも一緒に舵取りお願いしますね」
椎名「うん、任せて」
イカダの舵取りを担当する三人は、穏やかな流れの中で昨日のおさらいを始めた。その間、前の二人は、持っていた姿勢制御用の竹の棒を水面に滑らせ、ただいたずらに水しぶきを上げていた。
渡「こう出発してみると、意外にほのぼのとしてるね」
知哉「そうだな。イカダに乗って川の流れに身を任せてるとな」
渡「台風の影響もほとんど無いしね」
知哉「あぁ。ま、熊さんのことだから、台風の影響がなくても、大事に大事を取って日程を早めたんだろうな」
渡「それにしても、のどかだねぇ」
知哉「ゆったりとしてて良いよなぁ」
重「コラ、前二人」
オールをこまめに動かしている重は、眉間にシワを寄せていた。
重「Do Your Job. 自分の役割を果たしなさい!」
渡「果たすも何も、流れも川の形状もほとんど真っ直ぐだし、岸に近いところを下ってるしさ。特にやることがないだもん」
知哉「障害物とかもないんだもん」
重「もんもんウルサイね。目に見えない障害物が水の中にあるかもしれないんだから‥」
知哉「わかってるよ。ちゃんと注意してるよ」
重「るよるよウルサイねぇ」
知哉「……ったく。というか椎名さん、Aエリアまではもう少しですか?」
椎名「うん、あそこの緩いカーブを抜けたところだね」
椎名は見やすいように折りたたんだ地図を見ながら答えた。
椎名「だからクイズの準備をしておかないと。みんな、大丈夫だよね?」
修「大丈夫ですよ。学校の勉強と違って、実際にいろんな事を体験して学びましたから、そうそう忘れませんよ。なぁ教授さん」
渡「えぇ本当、いろんな事を体験させられましたからねぇ」
嫌味ったらしい渡の口調に修がケラケラと笑っていると、イカダは緩いカーブを抜けていった。すると、藍たちの乗るゴムボートが見えてきた。同時に、川の上の空間にあるものが見えてきた。
知哉「なんだアレ……」
修「なんだありゃ……」
五人の前に現れたのは、水面から5メートルほど上に張られた真っ白な横断幕だった。幕の中央には縦に太い線が入っており、その左側にはA、右側にはBと書いてあった。
藍『皆さん! 川の中央に移動してこちらまで来てください!』
拡声器で一段と大きくなった藍の元気な声が聞こえてくる。
重「ですって、椎名さん」
椎名「あ、はーい……」
椎名が腕に少しの力を入れると、イカダは素直に川の中央へと寄っていった。
藍『さて皆さん! お伝えした通り、五つの問題に回答していただきます! 正解だと思うアルファベットの下をイカダで通過してください! 不正解の場合、一問につき、次のBエリアでの課題が難しくなりますので注意してください!』
重「ですって、皆さん……」
修「つーことはだ、川の流れも考えて、早めにAかBかを決めなきゃいけないってことだ」
知哉「不正解で次が厳しくなるんじゃ、是が非でも正解しないとな」
五人がああだこうだと話していると、藍の笛が鳴り響く。
藍『それでは第一問!』
一問目から外せないと、五人はぐっと身構える。
藍『汚苦多魔村合宿所の所長も務める教官の名字は?』
身構えていた五人の力は、すぅっと抜けていった。
重「随分と簡単じゃない?」
渡「一問目だからかな?」
藍『A・焼網! B・網焼! お選びください!』
あまりに拍子抜けな問題の難易度に、重は軽い口調で言った。
重「もう、Aの焼網に決まってるじゃない」
修「Bの網焼だろ!」
重「えぇ!? 焼網じゃなかったっけ?!」
修「網焼だって」
知哉「大先生、これはBだぜ?」
椎名「うん、Bだね」
渡「完全にBの網焼だよ」
立て続けに否定された重は、ヘルメットをさすりながらトボけた声を出した。
重「……だってさ修」
修「だからそう言ってるだろ! ったく、椎名さん、ゆっくりBに近づけていきましょう」
椎名「了解!」
修「シゲもボケっとしてないでオールを動かせよ!」
重「……だってさ教授さん」
渡「いや、だったら早くやりなさいよ! いちいち報告しなくていいから!」
重「……そういうもんかねぇ」
修「早くやれっての!」
相変わらずの五人が、ゆっくりとBの下を通過すると、藍の拡声器が響いた。
藍『お見事、正解です!』
藍の正解発表にウンウンと頷く五人。
知哉「まぁまぁ、当然だよな」
重「あー、Bが正解か……」
修「だから言ったろ?」
重「いやー、こりゃ年齢だな」
修「三十にもなってねぇうちから‥」
重「だって修がいつも言ってるじゃん、男は二十歳を過ぎたらジジイだって」
修「言ってるけど、そういう意味で言ってんじゃねぇって。二十歳すぎたからってタバコだ酒だって騒いでんじゃねぇよガキ、っていう意‥」
重「うん、うん、はいはーい、わかりました」
いつもより高い声を出す重は、修の方へ向かってフザけた表情の顔を突き出す。見慣れた、いや、見飽きたはずの重の変顔に、修は思わず笑ってしまう。
修「くっ、なんだおい、やるかコノ!」
重「うん、うーん、はいはい、やりませーん」
打っても響かない重が、新たな変顔を披露していると、第二問が出題された。
藍『第二問! やむを得ず、サバイバルの状況下に置かれてしまった場合、優先するべき行動はどちらでしょう? A・救助要請! B・身の安全確保!』
渡「二問目も今となっては簡単だね。初日に出されたら迷っただろうけど」
知哉「俺だったら、パニクって食い物だ水だ言って、探し回ってると思うな」
重「だったら。パニクって。言って。探し回って。小書きの『っ』ばかりを使用しているね、君という男は」
知哉「……修に文句を言ってたんじゃねぇのかよ? つーか、んなこと言ったってしょうがねぇだろ?」
重「ほら、教えたそばからこれだものなぁ。君という男は」
渡「確かに、知ちゃんは促音とか拗音が多いかもね」
知哉「その話はもういいんだよ! とっととAの身の安全確‥」
椎名「Aは救助要請だよ知哉君」
知哉「あ、えーっと、そうでした、Bの‥」
椎名「うん、Bが身の安全確保だね」
知哉「それじゃBの‥」
重「知ちゃんって今年で何才だっけ?」
知哉「同級生だよ! 同じ年に決まってんだろ! んなことはいいから、早くBの方へ寄せろっての!」
知哉がそう叫んだときには、イカダはすでにBの方へ寄っていた。
重「騒がしいね、君という男は」
知哉「……川下り終えて岸に着いたら、歯を食いしばっておけよ大先生」
重「お前がな!」
知哉「なんだってんだ!」
知哉の叫び声と共にBの下を通過していくイカダ。
藍『お見事、正解です! ではどんどん行きましょう!』
並走するゴムボートの船首で、藍は勇ましく立ったまま続ける。
藍『第三問! 合宿初日に作ったシェルターの名前はどちらでしょうか?』
渡「これはまた……」
易しい問題が続き、渡が気を緩めた時だった。
藍『A・Bフレーム! B・Aフレーム!』
渡「……あれ、Aがなんだって?」
修「A・BとB・Aだよ」
渡「あぁ、スウェーデンの音楽グループ‥」
修「なにボケたくなってんだよ!」
渡「だってさぁ、大先生が楽しそうにボケるからさぁ」
修「ったく、このままBの方に進むぞ」
再び、イカダがBの下を通過すると、三度目となる藍の正解の声が響いた。
藍『ではでは第四問! 2つの資材が交差する際に使用する結び方はどちらでしょう! A・ダイアゴナルラッシング! B・ラウンドラッシング!』
知哉「これはあれだ、Aのダイアゴナルだよな」
重「そうそう、ダイアゴナル。嫌ってほど結んだから覚えてるよ」
知哉「あの椎名さん、ダイアゴナルってどういう意味でしたっけ?」
椎名「対角線って意味だよ」
知哉「あぁ、じゃあ見た目通りの名前なんですね」
椎名「そうだね。結ぶとXみたいだもんね」
慣れてきたのか、椎名は知哉と話しながら舵を切り、イカダをAの方へと導いていく。
藍『四問連続正解です!」
五人は笑顔で互いの顔を見合った。
椎名「この調子なら全問正解を狙えそうだね」
知哉「いけますよ! 全問正解!」
渡「正解してBエリアの課題を少しでも楽にしようよ!」
修「んで、肝心要の五問目はどんな問題だ?」
修の問に応えるかのように、藍の拡声器が響いた。
藍『Aエリア最後の問題です! 網焼熊の好物はどちらでしょう!』
五人は無表情のまま、互いの顔を見合った。
藍『A・稲庭うどん! B・伊勢うどん!』
修「知らねぇよ!」
知哉「知らねぇよ!」
椎名「全問正解を阻止しに来たよ……」
渡「熊さんの意地の悪さが滲み出てますよね」
椎名「それで、どっちだと思う?」
知哉「どっちもうどんですからねぇ……」
修「だけど、味もコシも全く違ううどんだからなぁ。秋田の味か、三重の味か…」
知哉「三重には鈴鹿サーキットがあるしなぁ……」
渡「うどんと関係ないでしょ」
修「でも秋田の蝶はミヤマカラスアゲハに決まったんだぞ?」
渡「何が『でも』なんだ! うどんと関係ないでしょって言ってるの! どこからそういう情報を仕入れてくるんだか……」
椎名「いや皆! 早く決めないと! 距離がそんなに残ってないよ!? 多数決にする!?」
四人がなかなか答えを決められずにいると、川の水面を静かに見ていた重が大きな声を上げた。
重「稲庭だ!」
あまりの声量に、ゴムボートの三人も驚いた。榊にいたっては胸を押さえている。
重「稲庭うどんだ!」
修「声がでかいんだよバカ!」
重「いいから! Aに向かいなさいよ! 稲庭なんだよこれは!」
渡「……まぁ考えたってわからない問題だし」
椎名「ここは重君の言う通りにしてみようか」
重「いい考えですよ椎名さん! これは稲庭なんです!」
知哉「頑なだな……」
特にアテもない四人は、重の大声に押されるようにして、稲庭うどんのAの下を通過していった。
藍『……お見事! 全問正解です!』
藍のハツラツとした声が響いた後に、榊の寂しい拍手の音が五人の耳に届いた。ハンバーグを作る際、こねた挽肉の空気抜きをする時に鳴るようなペチペチとした音。重は無性に腹立たしかった。
藍『では皆さん! 次のエリアの入口で待っていますので、落水や障害物に気をつけてください! 水分補給も忘れずに!』
簡単な注意事項だけを残して去っていくゴムボート。
重「やっぱ稲庭うどんだったでしょ?」
得意げな声を出す重。
重「こんな問題、余裕のよっちゃんでしょ!」
椎名「……久しぶりにきいたなぁそのセリフ」
渡「でも大先生はどうして答えが分かったの?」
渡の質問にはまず、重の高らかな笑い声が答えた。
重「どうしてもなにも、藍さんは『好物』って聞いたんだよ? 好物で『羽布団』はないでしょ普通。好物っていったら大体は食べ物なんだから、Aの稲庭うどんに決まってるじゃない」
渡「……え? なになに? もう一回言って」
重「だから、好物で羽布団はありえな‥」
渡「その羽布団ってのは何?」
重「何って、Bの羽布団だよ」
渡「いや、Bは伊勢うどんだよ? 両方食べ物で、両方うどんだから迷ってたんだよ?」
教授さんが何か言ってるぜ。そんな表情で重は知哉を見た。ただ知哉は小さく首を振ってみせた。
重「ん?」
知哉の奴、どうしたんですか? そんな表情で重は椎名を見た。椎名は静かに頷いた。
重「え?」
みんながああ言ってるんだけど。そんな表情で重は修を見た。修は何も言わずに重を見つめ続けた。
重「…………」
ありえない聞き間違いをしていた事に気づいた重は、四人を見て言った。
重「ふぅ、危ねぇ」
渡「……正解しちゃった手前、強く言えないのが腹立たしいね」
知哉「それにしたって、伊勢うどんを羽布団と聞き間違えるなんてことあるか?」
修「いやだって見てみろよ知哉、アレだぜ?」
修の言うアレとは重の頭部。つまりは装着しているヘルメットからはみ出ている髪の毛のことで、重の伸びた天然パーマのモジャフォサヘアーは、ヘルメットにかぶりついているように見える。
修「あんなんじゃ、毛が邪魔で聞こえづらいだろ」
知哉「でも稲庭うどんは聞こえたんだろ?」
修「……あぁ、そうか」
重「そうだよ、馬鹿じゃねぇの?」
修「よーし、分かった! 俺はやってやるぞ!」
何をとは言わない修に、四人は笑う。
重「ちょっと、何をする気なの!」
修「いい、いい、いい。もう俺はやってやるんだ。一気に、躊躇せず、まるごとがっぽりとやってやるんだ!」
重「ゴメンゴメンゴメン! まるごとがっぽりはやめて!」
椎名「そこをお願いするの!?」
重「いや椎名さん、何事もまるごとがっぽりは危ないですって!」
椎名「アハハッ、というかあそこのカーブ抜けるとBエリアだよ?」
修「え、もうですか?」
椎名「うーん、やっぱりこの地図の縮尺率が分からないのがねぇ」
修「あぁ、そういえば書いてないんですよねその地図」
椎名「それに、若干だけど流れが早くなってる気がするんだよね」
椎名はイカダが川の中央からずれないように舵を調整する。
知哉「これアレですよね、次は操縦に関する課題でしたよね?」
椎名「うん。だから集中していかないとね。気をひしきめて、違う、気を引き締めちぇ、あの‥」
知哉「いや集中してもらえますか椎名さん」
椎名が言葉を噛んでいると、藍の声が聞こえてきた。
藍『はい! ここBエリアではイカダの操縦に関する課題に挑戦していただきます! 課題内容自体はシンプルなものですが、激しさを伴いますので、落水には気をつけてください!』
単純で激しく落水の可能性がある課題。否が応でも五人の緊張感は高まっていく。
藍『ではご覧ください!』
藍に促された五人がカーブの先を見てみると、課題のために使用する物が、川のあちらこちらに設置されていた。
渡「うわっ……」
渡に声を漏らさせたものは、カヌーなどの競技でよく見るスラローム用のゲートだった。
緑と白、赤と白で塗られた二種類のゲートが、川の上に張られたワイヤーから吊り下げられていた。ゲート同士の位置関係は不規則だったが、全部で六つのゲートのうち、最後の二つだけが赤白のゲートになっていた。
渡「イカダでスラロームをさせる気なんだ……」
その呟きを聞き逃さなかった藍は、元気に説明を始める。
藍『その通り、スラロームをしていただきますがルールは簡単! 六つあるゲートを全て通過するだけです。ただし、赤白のゲートは上流に向かって通過をしてください! まもなくスタートします!』
知哉「あ、はーい…… なぁ教授さん、上流に向かってってどういうことだ?」
渡「だから、始めはゲートの外を通過して、向きを変えて、上流に向かって漕いでゲートを通過するってこと。確かアップゲートって……」
椎名「あれ、渡君って詳しいの?」
渡「大学のクラブに友人が入ってまして、何度か大会を見に行ったことがあるんですよ」
椎名「あぁ、そうなんだ」
知哉「さっき『うわっ』って言ったのは?」
渡「すごいキツいし大変だからだよ。カヌーってのは腕だけじゃなく、体全部を使って操らなきゃならないし、ゲートを通過するのにも、川の激しい流れを読みながらアプローチコースを考えなきゃいけないし……」
知哉「あぁ…… ま、疲れるってことだろ?」
安くまとめた知哉に、重が言った。
重「バカは語彙が少なくていけねぇやな」
知哉「いや、時間もねぇから短く簡単に言っただけだろ!」
重「本当かねぇ? まぁいいや、それで教授さんが言ったアップゲートって何だって?」
渡「はぁ!?」
重「ゴメン、ちょっと聞こえづらくて……」
渡「帰ったら床屋に行きなよ?」
重「うん」
渡「それで、アップゲートっていうのはね、始めにゲートの外を通過して、向きを変えて、上流に向かって漕いでゲートを通過するってこと。ゲートの外を通過して向き変えて上流に向かってゲートを通過!?」
自分で言った事にいまさら驚く渡。
渡「イカダの向きを変えるだけで大変なのに、上流に向かって漕ぐって! いくら流れが比較的に穏やかでも、融通がきかないイカダじゃ、水の抵抗も‥」
知哉「大変なのはわかったから落ち着けって」
渡「本当だろうね! 本当にわかったのだろうね!」
知哉「本当だって言っ‥」
知哉の声を遮って、藍の声が割り込んできた。
藍『それではBエリアの課題挑戦…… 開始です!』
重「あぁっ、始まっちゃったよ!」
修「し、椎名さん! 指示をお願いします!」
椎名「よ、よし、それじゃとりあえず、最初の四つの緑白のゲートは普通に通過するだけだから、一気に行こうか! それじゃ、まずは右に寄っていくよ!」
緊張感のある声で、椎名は指示を飛ばし始めた。
椎名「重君、もっと角度をつけてグワッとオールをお願い!」
良く言えば直感的な椎名の指示。
椎名「そう! 修くんはそのままクイッといきましょうか! はい、渡くんはそこでチョイとやって!」
悪く言えば何も伝わらない椎名の指示。
椎名「うんうんいい感じだよ! はい、そこで知哉君ググッて!」
知哉の頭の中に、一瞬だけ検索バーが出てきた。
椎名「みんな良いよ!」
意外にも、イカダはスムーズにゲートを通過していく。ただ、それは椎名の指示のおかげではなく、気心の知れた五人の阿吽の呼吸、つまりはチームワークによるものだった。
椎名「ふぅ、今ので緑白のゲートは終わり! あとは赤白のゲートだけだよ!」
修「それで、どうするんですか? やっぱりゆっくり接近して……」
椎名「うーん、ちょっと考えてみたんだけどね。一つ目の赤白ゲートは川の右側にあるでしょ? あと、川底に竹の棒が届く深さだから、ゲート左側に勢い良く接近したら、渡君の位置を中心にして、流れと勢いを利用して右回りで円を描くようにゲートを通過‥」
修「いけます!? 椎名さん、それいけます!? さすがに難しいというか、イカダも俺たちも危険なんじゃないですか!?」
自分で言ったものの、椎名もさすがに難しすぎると内心で思っており、修の反対意見を受け入れるつもりでいた。だがしかし、というやつだった。
重「椎名の旦那!」
低く渋い声を出す重。
重「その難しく危険な『男の航路』とやら…… 行ってみようじゃありませんか」
昭和の銀幕スターを彷彿とさせるような苦味走った重の表情に、意外な人物が感化され同調してしまった。
渡「へっ、年を食うと挑む心を無くしちまっていけねぇやな…… ピエロの旦那。旦那の言う男の航路…… お供しやす……」
修「誰なんだよお前らは! 椎名さんを焚き付けるんじゃねぇよ!」
椎名よりも先に焚き付けられてしまった男がいたことを、修は知らなかった。
知哉「焚き付けても燃えやしねぇ…… そんな湿気た男にゃなりたかぁねぇんだよ。男の航路、それがしも参ります」
修「……………………」
修が呆れていると、椎名が静かに口を開いた。
椎名「皆の者、よくぞ言ってくれた!」
修「だから誰なんだよ! あんなとこでグルって回転なんかしてみろ! 遠心力で‥」
重「修の兄貴!」
修「誰が兄貴だ! それでなんだ!?」
重「人生是、激流也」
修「……………………だからなんだよバカ! 遠心力を一番受けるのは後ろの俺達なんだぞ!」
重「あっしらには、椎名の旦那の求心力があるんですぜ?」
修「………」
重「ピエロの旦那、行きましょうぜ!」
椎名「参ろうぞ!」
椎名の清涼な声に、若く力強い声で応える三人。静かな修。
椎名「さぁ、速度を上げて、勢いを保ったまま近づくよ! そしたら『エイッ!』の合図に合わせて!」
三人『ホイサッ!』
修「はいはい……」
少し意味は違うが呉越同舟。修も保身のためには協力するしかない。
椎名「……エイッ!」
椎名らしくもない、空を切り裂く張った声が響き渡ると、各々、自分の役割を果たしにかかる。渡は川底を棒で突いて必死に踏ん張り、知哉は勢いを維持させる。椎名はイカダが転覆しない程度に舵を切り、修と重は遠心力に耐えながらオールを駆使する。
椎名「ヨイショ!」
イカダは椎名の目論見通りにゲートを通過することが出来た。
椎名「このまま勢いに乗って最後のゲートも通過しちゃうよ!」
知哉「ホイサッ!」
渡「ホイサッ!」
修「ったく……」
椎名の問いかけに答えたのは三人だけ。重はと言うと、小さな声で『オェッ…』と漏らしただけだった。
椎名「重君、重君」
朝、Aフレームシェルターで未だ寝息を立てている重に、椎名は優しく声をかける。
重「……ん?」
目を覚ました重は、もはや『作:水木重』と呼ぶべき出来の寝癖のまま、上半身をゆっくり起こした。
椎名「起きた?」
重「あ、おはようござ……」
シェルター脇に立つ椎名の顔を見たまま、重は夏の風にその髪を梳かせた。まぁ、風のクシでは歯が立たないが。
重「うーん、マツボックリを探さないと……」
椎名「マツボックリ? マツボックリなんかどう‥」
重「椎名さんに投げつけてやるんですよ!」
椎名「なんで!?」
重「それはこっちのセリフですよ! なんでピエロのメイクをしてるんですか!」
大自然の中で一際目立つピエロのメイクに、重の文句は当然のことだった。
椎名「あぁ、重君ね、それは愚問だよ?」
重「……そうでもないですよ」
椎名「なんとなくに決まってるじゃない」
重「どこにやったかなぁマツボックリ」
椎名「ウソウソ! 最後だから気合を入れたんだよ」
重「どこにやったかなぁ、マツボックリ」
椎名「なんでまだ投げるつもりなの!」
重「冗談ですよ。半分は本気ですけどね」
椎名「半分本気?」
重「それより……」
重は他三人のシェルターへ目をやった。
重「三人はどこへ行ったんですか?」
椎名「あぁ、えーっとね、渡君と修君は水汲みに行ってくれて、知哉君はトイレに行ってるけど」
重「そうでしたか」
重はそう言いつつも、納得のいかない表情を浮かべる。
椎名「どうしたの?」
重「いやぁ、キャンプ地というか、この自然の中というか、いつもと違う気がするんですよねぇ」
椎名「あ、重君も感じる?」
重「ということは椎名さんも?」
重はシェルターから出てくると、辺りを見回し始めた。
椎名「ほかの皆も感じててね。ザワつきを感じるというか、人の気配を感じるというかさ」
重「そうですそうです。ザワつきを感じるんですよ……」
重はその場でゆっくり回り始め、もう一度、辺りの様子を確かめた。しかし、目で確認できるような変化は、一周した後に現れた椎名のピエロのメイクだけだった。
重「……」
椎名「……?」
重「早く見つけないと、マツボックリ」
椎名「まだ投げる気でいるの!?」
重「やってやるんだ俺は! 椎名さんのために!」
椎名「お気持ちだけで! お気持ちだけでいいよ!」
どうでもいい事で二人が騒いでいると、後ろから声がした。
修「なにを朝から騒いでんだよ?」
渡「騒がしいよ二人とも」
水汲みを終えた修と渡が戻ってきていたのだ。
椎名「だってねぇ、重君が……」
椎名は二人にワケを説明しようと振り返る。
修「うおっ……」
渡「うわっ!」
椎名のメイクに驚いたところをみると、修と渡が水汲みへ出発した後に、椎名はメイクをしたらしい。
椎名「あれ、どうしたの?」
渡「……修、焚火のところに置いてあるから」
修「おう、いま取ってくるよ、マツボックリ」
椎名「待ちなさいっての! 何でピエロのメイクをしてるだけでマツボックリを‥」
修「これからイカダに乗って脱出するのに何でピエロのメイクなんかしてんだよ!」
そう言われてしまった椎名は、パントマイムで自分の周りに壁を作り始めた。
修「コラコラ、壁を作るんじゃないよ!」
椎名は修にジェスチャーで言葉を伝え始めた。
椎名「………」
修「壁のせいで?」
椎名「………」
修「……あぁ、言葉が、俺の話す言葉が」
椎名「………」
修「はいはい、『壁のせいで何を言っているのか聞こえない』っていうことですか?」
椎名「うん」
修「聞こえてんだろ! 『うん』って言ったろ!」
椎名は『しまった』と笑いながら、再び壁を作り出す。
修「なにを厚めに作ってるんですか。ったく、教授さんも笑ってないで何とか言ってやれよ?」
渡「フフッ、修、大先生を見てみな?」
クスクス笑う渡が指をさすので、修は期待もせずに重のほうを見た。すると、重はなぜか、椎名の真似をして壁を作っていた。
修「そこのライオンみたいな頭してる奴は壁を作る意味ねぇだろ!」
重「これはライオンが人との間に作った『疑念』の壁」
修「…………」
修は黙ったまま、ピエロとライオンが作った壁を、茂み目がけて放り投げた。
椎名「あっ……」
重「あっ……」
修「あっ、じゃねぇよ! ったく、いいから朝‥」
その時、修の言葉を遮るように、茂みから声が聞こえてきた。
知哉「イテッ!」
四人が仕方なく茂みのほうへ目をやると、頭をさすりながら知哉がシェルターへ向かって歩いてきていた。
知哉「おい、透明な壁を放り投げたのは誰だぁ?」
修「…………かわいそうに」
知哉「どういう意味だ!」
朝の一ボケの後、五人は朝食のイチゴ・バナナを食べながら、焚火を囲んだ。
渡「……次に焚き火を囲むことになるのはいつになるだろうね」
知哉「そっか、この焚き火が最後か」
渡「うん」
椎名「汚苦多魔を離れたら、焚き火なんてしないもんね……」
最終日の焚き火は、いつもより暖かく美しい炎を見せて、ただそこで燃えていた。
重「そういえば、今日はなんかさ、変な感じがしない? ザワついてるような感じが」
渡「そうなんだよ大先生。なんかいつもと違うよね」
修「うーん、何かの気配がするんだよな。ただ熊さんと藍さんじゃないってのは分かるんだよ」
椎名「あの二人は完全に気配を消すからね」
知哉「教官というより忍者ですよ、忍者」
知哉がそう言ってイチゴを頬張ると、後ろから元気な声が聞こえてきた。
藍「どろん! 皆さん、おはようございます!」
忍者のように手を合わせた藍が、どこからともなく現れた。しかし、慣れてしまったのか、五人は驚かなかった。
渡「藍さん。あんまり『どろん!』なんてこと言ってると、そこらの変態が近づいてきますよ?」
修「そうですよ、『ウペペペ』言いながら近づいてきますよ?」
様々な装備を身に着けていた藍は、袖をまくり、照れるように笑った。
藍「大丈夫ですよ。そのときはアゴの骨を砕いてやりますから!」
渡「うん、物騒! なんてこと言うんですか?!」
藍「やるかやられるか、そうなったらやるしかありませんよ! 生きる意志こそ、自分を救ってくれる最強のツールですからね! 北欧の大自然、北アメリカの山々、そこでの訓練が私にそう教えてくれたんです!」
あの日の訓練を思い出したのか、藍は力強く拳を握った。その藍のたくましい腕の筋肉に、五人は今更気が付いた。
重「い、生きる意志ですって皆さん……」
修「え、えぇ、えぇ、存じ上げております……」
渡「私のところでは一昨年から導入していますもので……」
知哉「私なんか、『生きる意志通信講座』を受講してますからねぇ……」
椎名「なんでしたら修さん、どうぞ『ウペペペ』とおっしゃってみたら……」
修「あ、それではあのー、僭越ながら、ウペ、アゴの骨砕かれちまうだろうが!」
藍「うふふ、本当に面白いですねぇ皆さんは!」
藍の言葉を聞くや否や、五人は目にもとまらぬ早さで立ち上がり敬礼をする。
五人『ありがとうございます!』
北欧の大自然、北アメリカの山々に生きる意志を教えてもらった。そんなことを言う藍に、五人がダラついた姿勢を見せるはずもなかった。もちろん、垣間見れる藍の戦闘能力に恐れ慄いている部分もあった。
藍「おっ、気合入ってますね! それでは、これより、出発の準備をしていただきます!」
五人『はい!!』
直立不動である。
藍「まず、イカダの修理用に、シェルターの部品をいくつか外しておいてください! ただ、分解するシェルターは一つだけにしてください!」
返事と共にシェルターへ走り出した五人は、ロープを多く使用していた重のシェルターの解体、部品回収を始めた。そして、屋根代わりに使用していたサバイバルシートだけは全て回収した。
藍「回収できましたか?」
五人『はい!!』
藍「それでは、すべての荷物を持って出発です!」
シェルターの中央に集めて置いておいた荷物を引っ張り出す五人。
重「なんかさ、あっという間だったね。いろいろあったけど」
渡「いろいろありすぎたから、あっという間だったんだろうね」
修「本当、いろいろありすぎなんだよなぁ」
修の言葉の後、ほんの少しだけ沈黙が続いたかと思うと、渡が静かな声で言った。
渡「修、こっち四人は『お前が言うな』と思ってるよ」
修「なんでだよ?」
汚苦多魔を選んだのが自分だということを忘れている修。しかし、渡が言い返す寸前、修はそのことを思い出した。
修「だっ! わかった、思い出した!」
修は手のひらを渡に向ける。
渡「……何を思い出したの?」
修「俺が汚苦多魔を選んだった。すっかり忘れてた」
渡「まったく」
修「まぁ、楽しい思い出ができたと思えば…… じゃない! 危ない危ない、椎名さんに注意したことを自分で言うところだった」
椎名「ほとんど言ってたよ」
そう言いながら荷物の整理をする椎名は、藍のほうへ振り返った。
椎名「あのすみません藍さん」
他の四人は何を言うのかと、静かに椎名のことを見つめていた。
藍「はい、なんでしょう?」
椎名「キャンプ地とシェルターを背景に写真を撮ってもらえないですか? 記念に一枚欲しいんですよ」
藍「そう思いまして、カメラを持ってきたんですよ。写真はやっぱりカメラですよね!」
藍は背負っていたリュックから小型の三脚を取り出し、撮影の準備を始めた。
修「何を言い出すかと思ったら……」
重「ピエロのメイクをしたまま撮るつもりですか?」
知哉「なんの記念だか分かりませんよ、それじゃ」
渡「そういうところが抜けてるんですよ椎名さんは」
きょとんとしたまま四人を見つめていた椎名は、穏やかな声で言った。
椎名「あらまぁ、舌尖の鋭いこと」
渡「鋭くさせてるのはどこの‥」
椎名「まぁまぁ、いいからいいから。藍さんが準備してる間に並び順を決めちゃおうよ」
椎名はそう言って、シェルターの前に立った。
椎名「えーっと、修君と渡君は前でしゃがんでもらって、その後ろに知哉君、僕、重君の順に立てばいいかな?」
椎名の案に知哉は賛同したらしく、すぐに椎名の横へ移動した。
知哉「まっ、おチビさんは前だよな?」
修は言い返すことなく二人の前へ移動するとしゃがんだ。
修「仕事のできねぇデクノボウは当然後ろだよな」
知哉は言い返そうとし、修もそれを待っていた。が、二人の間に渡の冷めた声が割り込んできた。
渡「バカ二人が後ろでいいんじゃない?」
椎名「なるほどね」
その言葉に対する修と知哉の反応速度は目を見張るものがあった。
知哉「なんだとインテリ!」
修「勉強しかできないバカもいるんだぞバカ!」
渡「できないよりもマシでしょ」
椎名「僕は大道芸もできるし」
知哉「ピエロは引っ込んでろ!」
修「俺は草花や昆虫にだって造詣が深いんだ!」
重「はいはいはいはい……」
いつもの言い合いの中へ、重が澄ました顔で入っていく。
重「みんな、勉強も運動もそこそこ出来るこの私『Mr.そこそこ』のようになりたいってわけだね?」
重の言葉に、珍しく椎名が口を開いた。
椎名「あぁ…… Mr.そこそこの『そこ』って言うのは、『底辺』の底?」
椎名のボケに、プッと吹き出す三人。
重「誰が『Mr.底底』なんだ! 誰が『Mr.底辺』なんだよ!」
言われた四人は一斉に重を指差した。顔をそむけたり、残った手で顔を隠しながら。
重「プッ…… せめてこっちを見ろ! そんなんで匿名になったと思うな!」
修「わかったよ。もういいから早く並ぼうぜ?」
渡「というか、藍さんも一緒に写りましょうよ。記念写真なんですから」
藍「いいんですか?」
知哉「それじゃ…… 修と教授さんの間に入ってもらうか?」
渡「そうだね」
前列の修と渡は間を開け、藍の入る場所を作った。
藍「……はい、押しました!」
セルフタイマーのセットを終えた藍は、楽しそうな表情を浮かべながら、急いで修と渡の間に入ってしゃがんだ。そして藍が両手でピースを作ってすぐに、シャッターは切られた。
藍「はい! それでは、荷物を持って出発しましょう!」
藍に急かされるようにして荷物を持たされ歩き始めた五人だったが、林へと続く道の入口で立ち止まると、寂しげに振り返った。
約六日間を過ごしたキャンプ地。初めは広く寂しいただの広場だった。もちろん、今でもさほど変わりはしない。しかし、苦労して作り上げたシェルター、ビックリ箱のような食材箱、そのビックリさせられた食材を食べながら語り合った焚き火の跡は、五人を去りがたい気持ちにさせた。
藍「……それでは行きましょう」
五人は、心の中でキャンプ地に別れを告げると、歩き始めた藍の後に続いた。
重「結局、椎名さんと修が言ったように、楽しい思い出が作れちゃったね」
渡「かなり辛い思いもしたけど…… というか、まだ辛いのが一つ残ってるんだけどね」
知哉「一番辛そうなのが残ってるってのが嫌だよな」
渡「うん…… あの、藍さん?」
藍「はい、なんでしょう?」
渡「以前、地獄コースに3グループが参加して、どのグループもリタイアしてしまったんですよね?」
藍「はい、残念ながら……」
渡「……リタイアした理由っていうのは?」
聞きづらいことを聞くもんだよなぁ教授さんは。修はそう思いながらも藍の返答に耳を傾けていた。
藍「それは後ほど……」
遠回しに『川下り』が原因と取れる藍の発言に、気を落とす渡と修。気づかない重と知哉。椎名は気を落としつつも、藍に次なる質問をぶつけた。
椎名「あの藍さん、僕らが作ったシェルターやイカダは脱出の後はどうするんですか?」
藍「もし、みなさんがリタイアをせず、無事に脱出することが出来ましたら、本部前の広場に設置する予定です!」
椎名「えっ、設置? 飾ってもらえるんですか!?」
藍「はい! みなさんのネームプレート付きで!」
椎名「みんな! ちょっと聞いた!?」
椎名は四人に問いかけたが、返事はなかった。不思議に思った椎名が四人が顔を見てみると、四人は真面目な表情で辺りを気にしていた。
椎名「あれ、どうしたの?」
重「いやぁ、なんかですねぇ、あのザワつきが聞こえるんですよ」
椎名「あぁ、今朝言ってたザワつき?」
重「そうですそうです」
知哉「何の音なんだろうな?」
修「今いる位置から考えると、川原の方から聞こえて来る気がすんだけど……」
渡「確かに」
五人があれこれ意見を言っていると、再び藍が遠回しに話し始めた。
藍「多分その『ザワつき』は、川原で皆さんを待っている村の人たちの声じゃないでしょうか?」
知哉「俺たちを待っている村の人たち?」
重「……村そのものにアタシたちが切られちゃうってこと?」
修「おめぇが言ってんのは『村の一太刀』だろ! どう村が刀を抜くんだバカ!」
よくもまぁスグにボケが分かるもんだなと、渡は思わず感心してしまった。
その後、重のボケに修がすぐに切り返す、というのが続き、一同は笑いながら林を抜けていった。
藍「皆さーん! 到着しました!」
川原の入り口に着いた藍が爽やかに声を飛ばした。五人は自分たちに向かって言っているのかと思ったが、その声の調子から、それが違うことに気がついた。
藍「では、お先にどうぞ!」
藍は道の端によると、五人に道を譲った。よくは分からなかったが、五人は言われるがままに川原へと進んでいく。すると、先ほどの藍の言葉通り、川原には大勢の人の姿があった。
大勢の人たちは、大半が村人で、残りは合宿所の利用客たちだった。どちらも何でも屋五人の姿を見るやいなや、拍手と歓声とで出迎えた。
重「あ、どうも……」
渡「お、おはようございます……」
五人は立ち止まり、出迎えにぎこちなく応える。
修「あはは……」
知哉「えへへへ……」
もちろん、ピエロのメイクをしている椎名は度々、指をさされる。
椎名「メイクのタイミングを完全に間違えたなぁ……」
藍「はい、皆さん!」
後ろからやってきた藍は、村人と利用客たちに話し始めた。
藍「先ほどお話しましたが改めてご紹介します! 六日間の地獄コースを乗り越え、本日、イカダでの脱出を敢行します何でも屋の皆さんです!」
藍の紹介に一段と拍手と歓声は増し、さすがは何でも屋だピエロまでいるぞと、訳の分からない声まで聞こえてきた。
藍「それでは何でも屋の皆さんは準備をお願いします! 他の皆さんは出発式までもう少しお待ち下さい!」
出発時間が決まっている何でも屋たちは、紹介も早々に、イカダの点検と出発の準備を始めた。
藍「準備が完了したら知らせてください! 私は荒木教官との最終確認をしていますので!」
そう言って藍は、水辺でゴムボートの準備を進めている荒木のもとへ走っていった。
知哉「いいなぁゴムボート。救助用のいいやつじゃん……」
重「やっぱり、ボートで付いて来てくれるんだね」
知哉「そりゃ危ねぇもんな」
重「それに見てよアレ。ウチらが付けるヘルメットと救命胴衣だよ」
知哉「そりゃ危ねぇもんな」
修「おい、喋ってねぇで手を動かせよ」
重「そう言われてもねぇ……」
重はイカダの上に乗って結び目などを調べている修、渡、椎名の三人を見つめる。
重「三人で上に乗って作業されちゃ、こっちも調べようがないでしょ?」
渡「それじゃオールのチェックとか……」
重「オールのチェックね。全部のオールが検査をクリアしたらオールオッケーなんてね!」
言うつもりなどなかったのだが、重はついポロリと言ってしまった。なので重は何かを言われる前に対策を打つ。
重「って知ちゃんが言ってるけど」
知哉「言ってねぇよ!」
修「イカダが飯を食った後、爪楊枝で歯の隙間から取り出したモン見て言ったんだよ、あぁイカだ、って…… というような事を知哉が…」
知哉「言ってねぇよ!」
椎名「知哉君! くだらない事ばっかり言うのはイカダけないよ?」
知哉「だから言ってねぇし、くだらない事を言ってんのはピエロだろ!」
渡「いいから全員手を動かしなさいよ!」
渡は長く続く洒落合戦をやめさせた。
渡「まったく、いい年して言ってる事が中学生以下だもん…… 違う違う違う!」
偶然の発言だったが、もはや手遅れである。
知哉「聞きましたか椎名さん?」
椎名「聞いた聞いた」
修「人のことを注意してるかと思ったらこれだよ」
重「中学生イカダはヒドイよねぇ」
渡「狙って言ったんじゃないよ! ほら! イカダとオールのチェックは済んだんだから、藍さんを呼びなさいよ! あ、いいや、もう自分で呼ぶから!」
渡は一人で喋り終えると、藍を呼んだ。呼ばれた藍は、荒木と共に五人の方へとやって来る。
藍「準備が出来たようですね! それでは荒木教官、お願いします!」
荒木「はい。皆さんこれを装着してください」
荒木が配ったのは、先ほど重が言っていたヘルメットと救命胴衣だった。
荒木「では、私の方からいくつか説明をしたいと思います」
荒木は川の危険性や川での立ち振舞いなどについての説明を始めた。その簡潔かつ的確な説明のおかげで、干上がった大地へ恵みの雨が降ったときのように、五人はすっかり吸収していった。
荒木「皆さん、覚えていただけましたか?」
釣りを趣味としている五人の水難事故に対する知識や経験も手伝い、新たな知識はしっかりと五人の頭のなかで根を伸ばしていた。
知哉「いやぁ、すっかりご理解遊ばしちゃいましたよ! どっかの誰かさんと違って、すごく分かりやすい説明でした」
知哉は渡を見ながら言った。その視線に気づいた渡は鼻で笑った。
渡「いちいち噛んでから口に含んでやらないといけないってのは面倒なことだよ」
知哉「……修ちゃん」
修「あ? チッ、だから! バカ相手に難しい事を分かりやすく説明するのは疲れるってことだよ! つーか今の俺の状況がそうだよ!」
知哉「あら、可哀想に……」
修「……椎名さん、そこのオール取ってもらえます?」
知哉「何をする気だよ!」
荒木「そうですよ修さん」
荒木は眉をひそめる。
荒木「せっかく覚えてもらったことが、どこかへ行っちゃいますよ」
知哉「そういう意味で止めるんですか!?」
一同が荒木の冗談で笑っていると、一人の中年男が近づいてきた。
男は、黄色の蛍光色のジャンパー着用しており、胸元には『汚苦多魔村実行委員』とプリントしてあった。また、少しサイズの小さい白のキャップにも同じプリントがされていた。そしてその男は、どこから見ても『真面目一方』という雰囲気だった。
男「おはようございます」
藍「おはようございます! 何でも屋の皆さん、ご紹介します! 汚苦多魔村実行委員長の榊さんです!」
榊「初めまして、榊と申します」
深々と頭を下げる榊に、五人は姿勢を正してから深くお辞儀をした。
榊「本日は、私たち実行委員と村人が一丸となりまして、皆様の厄払いを執り行って行きますので、皆様は大船に乗った気持ちでいてください。まぁ、皆様が乗るのはイカダですが……」
榊は自分の冗談にクスクスと笑い始めた。『真面目一方』から『一方』が取れた。だが五人にとってそんなことはどうでも良かった。
残すは川下りだけ、そう思っていた五人の耳に聞こえてきた『厄払い』という言葉。きょとんとしていた五人の表情は曇天に変わっていった。
修「……あの、厄払いってのは?」
この合宿を計画した当人が、また無責任な発言をする。
知哉「お前も知らねぇのかよ!」
修「知るわけねぇだろ!」
榊「あれ、何でも屋さんのほうから申し込みがあったと伺っているんですが……」
不安になった榊は遠回しな言い方で藍に聞いた。
藍「はい、電話予約の際に、久石さんがお申込みを……」
修「俺がですか!? えぇっ!?」
腕を組み考え出す修。それを見つめ続ける同僚の三人と元同僚のピエロ。
修「電話予約っていってもなぁ、随分前だし…… あっ!」
思い出した修は、嬉しそうな顔で横にいる渡を何度も指差した。
渡「人を指でさすんじゃないよ。それで?」
修「藍さんの言う通り。電話予約の時にだ、『只今ですね、村の方ではですね、伝統的な厄払いを催しておりましてですね、合宿所と同時ご予約のお客様はですね、無料でですね、厄払いを執り行い奉り申候でござい』なんて受付の人が言うもんだからさ」
渡「受付の仕事を辞めたほうがいいね、その人は」
修「椎名さんは門出だし、俺達も四人で再出発だろ? だからちょうどいいかなと思って厄払いを申込んだんだった」
椎名「そうだったの? 修君ありがとう」
修「いえいえ、礼を言われるほどのことはしていませんでござい」
藍「……話を進めてもよろしいでござりまするか?」
気の利いた藍の言葉に、一同は笑った。
修「どうもすみません、どうぞ、進めてください」
藍「ありがとうございます! それでは、川下りと厄払いについて簡単に説明します!」
地図を広げた藍の説明はこうだった。
Aエリアでは合宿で覚えた事を再確認するためのクイズを五問出題。Bエリアではイカダの操縦に関する課題挑戦。Cエリアは休憩。Dエリアでは、クイズと操縦課題を足したもの。そして最後のEエリアで汚苦多魔村の伝統厄払いを川の上で行う。
藍「以上になりますが、ご質問はありますか?」
五人は『ご質問』だらけだったが、もう聞くことすら面倒になっていた。
椎名「ま、まぁ、大丈夫だよね?」
知哉「そう…… ですね……」
渡「大丈夫です…… ね……」
修「やっぱりあれですかね、厄払いの内容というのは……」
藍「Eエリアに到着後、榊さんから説明があります!」
修「あ、分かりました」
少しの静寂が訪れたが、藍の元気な声がそれを切り裂いた。
藍「さあ、それでは出発です! イカダを浮かべて乗り込んでください! 念のため、イカダとロープは繋げておいてくださいね!」
五人は重い足取りでイカダへ向かうと、持ち上げるために配置についた。
修「はぁ、嫌だなぁ」
重「あぇ? おたくがそれを言うの?」
修「いや、そういう意味で言ったんじゃなくてよ……」
そう言ってしゃがみこんだ修は、靴紐を締めなおす。
修「なんつーかさ、今これだけ気後れしてんのにさ、結局、気合だとか笑いだとかの力を使って乗り越えちゃう俺達が嫌なんだよ。バカみたいでさ」
ギュッと音を立てて靴紐を締め上げた修は立ち上がった。
渡「……まぁ悪いことじゃないけどね」
椎名「そうそう」
修「でもハナっから苦労しないようにしておくのが最善ですからねぇ」
椎名「確かにそうだけど、笑いを力にするのは良いことだと思うけどなぁ僕は」
妙に気持ちを入れた椎名の話し方に、四人は自然と椎名を見た。
修「……真面目な話がしたいならメイクを取ってきてもらえますか?」
渡「その悲しくも楽しげなメイクが邪魔してるんですよ」
椎名はピエロらしい動きを見せて、ジェスチャーで『ゴメン』と謝ってみせた。
知哉「ははは、上手くなりましたよね、その程よい腹立たせ方の動きが」
重「間もいい感じですし」
椎名「本当?! いやぁ嬉しいなぁ! それじゃ元気を出して、イカダを持ち上げて出発しようか!」
アッサリと元気になった椎名の合図に合わせ、イカダは五人によって持ち上げられた。ピエロを先頭に進水していく風景は、どこから見ても不思議なものだった。
椎名「だっ、相変わらず冷たい……」
渡「なんだろう、昨日感じた冷たさなのに、懐かしさを感じるよ」
重「だから、一日に起きることが多すぎるからそう思うんだよ」
渡「あぁ、そうだった」
重「例えば、今だってすんなり進水式が終わると思うでしょ? でも違うんだなこれが。だって予備の分のオールを一本、私が岸に忘れてきちゃうんだから」
渡「…………イカダが浮いたら取ってきなさいよ」
重「は、はーい」
川の水より冷たい渡の視線に耐える重は、イカダが浮かぶ深さに早く到達することを切に願った。
重「浮いた? 浮いたね! 浮いたね!」
重は手を離し確かめると、水しぶきを上げながら岸へと戻っていった。
渡「今回、ポンコツぶりを見せてないのは俺だけじゃないの?」
修「確かにな。けどな知哉?」
知哉「そうそう、次はポンのコツを披露すると思うぜ?」
渡「次? 次って?」
知哉「まぁ次だよ、次」
重「はーい! 戻りました! オールを手に戻ってまいりました!」
水しぶきを上げて重が戻ってきた。
重「ごめんねごめんね。はい、それじゃ昨日と同じ順番でサッサと乗っちゃいましょうよ」
オールの件を無かったことにしようと急く重。
修「調子がいいんだからよ…… ま、いいや、それじゃ乗るぜ」
四人が押さえてくれているイカダに、修は軽々と上がった。
修「えーと、最初は椎名さんでしたよね?」
椎名「うん。3でお願いね」
修「はい?」
椎名「引き上げるときの掛け声だよ」
修「あぁ、じゃ…… 1・2の3!」
修は椎名の差し出した手を握り、イカダへと引き上げると、続けて重、渡と引き上げていく。
渡「はい、ありがと」
修「あいよ。よし来い知哉!」
知哉「うーし、じゃあ、1‥」
修は昨日と同じく、掛け声を無視して知哉を強引に引き上げた。
知哉「あぶ… 危ねぇ! だから雑に引っ張るんじゃねぇよ!」
修「野郎のくせにコチコチうるせぇんだよ」
知哉「グチグチだろうが! 魚を知らなきゃ分からねぇボケすんな!」
修「悪かったよ。ほらこの通り」
頭を下げるかと思いきや、腰を屈めて尻を突き出し、右手でクチバシ、左手を腰に添えたフザけたポーズをとった。
知哉「楽しそうじゃねぇか」
渡「いいから準備しなさいよ。そういうことをやるから、俺が懐かしく感じちゃうんでしょ?」
修「俺たちが『死に損ないのジジイ』になったとき、楽しい思い出話になるんだから良いじゃねぇか」
重「けど『死に損ないのジジイ』になるのは修と知ちゃんだけだよ」
修「じゃあそっち三人はどうなるんだよ?」
重「そりゃもちろん『誰もが慕う老紳士』でしょ」
渡「その通り」
椎名「その通り」
修「だってよ知哉」
知哉「けっ、何が『誰もが慕う老紳士』だよ。『誰もが嫌う老人達』の間違いだろ?」
修「その通り」
五人が口を動かしながら準備を進めていると、川原のザワつきが一際大きくなっていった。
重「ん? なんだろ?」
椎名「なんだろうね?」
準備を終えた五人が静かに川原を見ていると、イカダと岸を繋ぐロープが縛ってある岩の近くに、人だかりが出来ていた。そしてその人だかりの中に藍たちの姿も見えた。
知哉「榊さんが持ってるのって枝切りバサミか?」
修「だな……」
華やかなリボンがあしらわれた大きな枝切りバサミ。それを手にした榊は満面の笑みを浮かべていた。
藍「それでは、何でも屋さんの出発になります! 榊さん、お願いします!」
榊は何でも屋たちに一礼し、ロープにも一礼すると、枝切りバサミを強く握りしめた。そして、ハサミの刃をロープに当てると、あっさり断ち切った。
知哉「なんかロープ切られちゃったけど……」
渡「う、うん……」
自由になったイカダは五人を乗せ、浅瀬から静かに旅立つ。どこか感動的な光景だったが、切られたロープがだらしなく水面に浮かび、舵に絡みついたせいで締まりがなかった。
椎名「あぁ、絡んじゃって……」
修「あ、いま俺が巻き取るんで……」
修は手際よくロープを巻き取り、まとめて支柱に縛り付ける。
修「こんな感じでいいですかね?」
椎名「うん、大丈夫」
重「みなさーん! いってきまーす!」
重は呑気に、見送りの声に応えていた。
知哉「おい大先生、いってきますじゃねぇって。ここにはもう帰ってこねぇんだからよ」
重「いってき… え? なんか言った?」
知哉「……藍さんたちはボートで出たのかなって聞いたんだよ。俺と教授さんは前にいるからよく見えねぇんだよ、後ろは」
重「あぁ。あのーね、今ね、荒木さんがエンジンをかけて、こっちに向かってるとこ」
知哉「そうか。っていうか、思ったより流れが遅くて良かったな」
渡「そうだね。初めての実践だからね」
知哉「椎名さん、舵は任せましたよ!」
椎名が無言でサムズアップを見せたとき、後方からゴムボートが近づいてきた。
ゴムボートには船首から藍、榊、荒木の順で乗っており、荒木が操縦を担当していた。榊は無駄に似合う救命胴衣を着ながら、何やら楽しそうに座っている。重はなぜだかその事が少し腹立たしかった。
藍『皆さん!』
藍は防水仕様の赤い小型の拡声器を使っていた。
藍『私たちは先にAエリア入り口で待っていますので、イカダの扱いに慣れておいてくださいね!』
ゴムボートは低速でイカダの横を通過した後、スピード上げて進んでいった。いくらかの波と白煙を残して。
修「始まっちゃったなぁ。シゲ、オールさばきの確認をしておこうぜ」
重「了解。椎名さんも一緒に舵取りお願いしますね」
椎名「うん、任せて」
イカダの舵取りを担当する三人は、穏やかな流れの中で昨日のおさらいを始めた。その間、前の二人は、持っていた姿勢制御用の竹の棒を水面に滑らせ、ただいたずらに水しぶきを上げていた。
渡「こう出発してみると、意外にほのぼのとしてるね」
知哉「そうだな。イカダに乗って川の流れに身を任せてるとな」
渡「台風の影響もほとんど無いしね」
知哉「あぁ。ま、熊さんのことだから、台風の影響がなくても、大事に大事を取って日程を早めたんだろうな」
渡「それにしても、のどかだねぇ」
知哉「ゆったりとしてて良いよなぁ」
重「コラ、前二人」
オールをこまめに動かしている重は、眉間にシワを寄せていた。
重「Do Your Job. 自分の役割を果たしなさい!」
渡「果たすも何も、流れも川の形状もほとんど真っ直ぐだし、岸に近いところを下ってるしさ。特にやることがないだもん」
知哉「障害物とかもないんだもん」
重「もんもんウルサイね。目に見えない障害物が水の中にあるかもしれないんだから‥」
知哉「わかってるよ。ちゃんと注意してるよ」
重「るよるよウルサイねぇ」
知哉「……ったく。というか椎名さん、Aエリアまではもう少しですか?」
椎名「うん、あそこの緩いカーブを抜けたところだね」
椎名は見やすいように折りたたんだ地図を見ながら答えた。
椎名「だからクイズの準備をしておかないと。みんな、大丈夫だよね?」
修「大丈夫ですよ。学校の勉強と違って、実際にいろんな事を体験して学びましたから、そうそう忘れませんよ。なぁ教授さん」
渡「えぇ本当、いろんな事を体験させられましたからねぇ」
嫌味ったらしい渡の口調に修がケラケラと笑っていると、イカダは緩いカーブを抜けていった。すると、藍たちの乗るゴムボートが見えてきた。同時に、川の上の空間にあるものが見えてきた。
知哉「なんだアレ……」
修「なんだありゃ……」
五人の前に現れたのは、水面から5メートルほど上に張られた真っ白な横断幕だった。幕の中央には縦に太い線が入っており、その左側にはA、右側にはBと書いてあった。
藍『皆さん! 川の中央に移動してこちらまで来てください!』
拡声器で一段と大きくなった藍の元気な声が聞こえてくる。
重「ですって、椎名さん」
椎名「あ、はーい……」
椎名が腕に少しの力を入れると、イカダは素直に川の中央へと寄っていった。
藍『さて皆さん! お伝えした通り、五つの問題に回答していただきます! 正解だと思うアルファベットの下をイカダで通過してください! 不正解の場合、一問につき、次のBエリアでの課題が難しくなりますので注意してください!』
重「ですって、皆さん……」
修「つーことはだ、川の流れも考えて、早めにAかBかを決めなきゃいけないってことだ」
知哉「不正解で次が厳しくなるんじゃ、是が非でも正解しないとな」
五人がああだこうだと話していると、藍の笛が鳴り響く。
藍『それでは第一問!』
一問目から外せないと、五人はぐっと身構える。
藍『汚苦多魔村合宿所の所長も務める教官の名字は?』
身構えていた五人の力は、すぅっと抜けていった。
重「随分と簡単じゃない?」
渡「一問目だからかな?」
藍『A・焼網! B・網焼! お選びください!』
あまりに拍子抜けな問題の難易度に、重は軽い口調で言った。
重「もう、Aの焼網に決まってるじゃない」
修「Bの網焼だろ!」
重「えぇ!? 焼網じゃなかったっけ?!」
修「網焼だって」
知哉「大先生、これはBだぜ?」
椎名「うん、Bだね」
渡「完全にBの網焼だよ」
立て続けに否定された重は、ヘルメットをさすりながらトボけた声を出した。
重「……だってさ修」
修「だからそう言ってるだろ! ったく、椎名さん、ゆっくりBに近づけていきましょう」
椎名「了解!」
修「シゲもボケっとしてないでオールを動かせよ!」
重「……だってさ教授さん」
渡「いや、だったら早くやりなさいよ! いちいち報告しなくていいから!」
重「……そういうもんかねぇ」
修「早くやれっての!」
相変わらずの五人が、ゆっくりとBの下を通過すると、藍の拡声器が響いた。
藍『お見事、正解です!』
藍の正解発表にウンウンと頷く五人。
知哉「まぁまぁ、当然だよな」
重「あー、Bが正解か……」
修「だから言ったろ?」
重「いやー、こりゃ年齢だな」
修「三十にもなってねぇうちから‥」
重「だって修がいつも言ってるじゃん、男は二十歳を過ぎたらジジイだって」
修「言ってるけど、そういう意味で言ってんじゃねぇって。二十歳すぎたからってタバコだ酒だって騒いでんじゃねぇよガキ、っていう意‥」
重「うん、うん、はいはーい、わかりました」
いつもより高い声を出す重は、修の方へ向かってフザけた表情の顔を突き出す。見慣れた、いや、見飽きたはずの重の変顔に、修は思わず笑ってしまう。
修「くっ、なんだおい、やるかコノ!」
重「うん、うーん、はいはい、やりませーん」
打っても響かない重が、新たな変顔を披露していると、第二問が出題された。
藍『第二問! やむを得ず、サバイバルの状況下に置かれてしまった場合、優先するべき行動はどちらでしょう? A・救助要請! B・身の安全確保!』
渡「二問目も今となっては簡単だね。初日に出されたら迷っただろうけど」
知哉「俺だったら、パニクって食い物だ水だ言って、探し回ってると思うな」
重「だったら。パニクって。言って。探し回って。小書きの『っ』ばかりを使用しているね、君という男は」
知哉「……修に文句を言ってたんじゃねぇのかよ? つーか、んなこと言ったってしょうがねぇだろ?」
重「ほら、教えたそばからこれだものなぁ。君という男は」
渡「確かに、知ちゃんは促音とか拗音が多いかもね」
知哉「その話はもういいんだよ! とっととAの身の安全確‥」
椎名「Aは救助要請だよ知哉君」
知哉「あ、えーっと、そうでした、Bの‥」
椎名「うん、Bが身の安全確保だね」
知哉「それじゃBの‥」
重「知ちゃんって今年で何才だっけ?」
知哉「同級生だよ! 同じ年に決まってんだろ! んなことはいいから、早くBの方へ寄せろっての!」
知哉がそう叫んだときには、イカダはすでにBの方へ寄っていた。
重「騒がしいね、君という男は」
知哉「……川下り終えて岸に着いたら、歯を食いしばっておけよ大先生」
重「お前がな!」
知哉「なんだってんだ!」
知哉の叫び声と共にBの下を通過していくイカダ。
藍『お見事、正解です! ではどんどん行きましょう!』
並走するゴムボートの船首で、藍は勇ましく立ったまま続ける。
藍『第三問! 合宿初日に作ったシェルターの名前はどちらでしょうか?』
渡「これはまた……」
易しい問題が続き、渡が気を緩めた時だった。
藍『A・Bフレーム! B・Aフレーム!』
渡「……あれ、Aがなんだって?」
修「A・BとB・Aだよ」
渡「あぁ、スウェーデンの音楽グループ‥」
修「なにボケたくなってんだよ!」
渡「だってさぁ、大先生が楽しそうにボケるからさぁ」
修「ったく、このままBの方に進むぞ」
再び、イカダがBの下を通過すると、三度目となる藍の正解の声が響いた。
藍『ではでは第四問! 2つの資材が交差する際に使用する結び方はどちらでしょう! A・ダイアゴナルラッシング! B・ラウンドラッシング!』
知哉「これはあれだ、Aのダイアゴナルだよな」
重「そうそう、ダイアゴナル。嫌ってほど結んだから覚えてるよ」
知哉「あの椎名さん、ダイアゴナルってどういう意味でしたっけ?」
椎名「対角線って意味だよ」
知哉「あぁ、じゃあ見た目通りの名前なんですね」
椎名「そうだね。結ぶとXみたいだもんね」
慣れてきたのか、椎名は知哉と話しながら舵を切り、イカダをAの方へと導いていく。
藍『四問連続正解です!」
五人は笑顔で互いの顔を見合った。
椎名「この調子なら全問正解を狙えそうだね」
知哉「いけますよ! 全問正解!」
渡「正解してBエリアの課題を少しでも楽にしようよ!」
修「んで、肝心要の五問目はどんな問題だ?」
修の問に応えるかのように、藍の拡声器が響いた。
藍『Aエリア最後の問題です! 網焼熊の好物はどちらでしょう!』
五人は無表情のまま、互いの顔を見合った。
藍『A・稲庭うどん! B・伊勢うどん!』
修「知らねぇよ!」
知哉「知らねぇよ!」
椎名「全問正解を阻止しに来たよ……」
渡「熊さんの意地の悪さが滲み出てますよね」
椎名「それで、どっちだと思う?」
知哉「どっちもうどんですからねぇ……」
修「だけど、味もコシも全く違ううどんだからなぁ。秋田の味か、三重の味か…」
知哉「三重には鈴鹿サーキットがあるしなぁ……」
渡「うどんと関係ないでしょ」
修「でも秋田の蝶はミヤマカラスアゲハに決まったんだぞ?」
渡「何が『でも』なんだ! うどんと関係ないでしょって言ってるの! どこからそういう情報を仕入れてくるんだか……」
椎名「いや皆! 早く決めないと! 距離がそんなに残ってないよ!? 多数決にする!?」
四人がなかなか答えを決められずにいると、川の水面を静かに見ていた重が大きな声を上げた。
重「稲庭だ!」
あまりの声量に、ゴムボートの三人も驚いた。榊にいたっては胸を押さえている。
重「稲庭うどんだ!」
修「声がでかいんだよバカ!」
重「いいから! Aに向かいなさいよ! 稲庭なんだよこれは!」
渡「……まぁ考えたってわからない問題だし」
椎名「ここは重君の言う通りにしてみようか」
重「いい考えですよ椎名さん! これは稲庭なんです!」
知哉「頑なだな……」
特にアテもない四人は、重の大声に押されるようにして、稲庭うどんのAの下を通過していった。
藍『……お見事! 全問正解です!』
藍のハツラツとした声が響いた後に、榊の寂しい拍手の音が五人の耳に届いた。ハンバーグを作る際、こねた挽肉の空気抜きをする時に鳴るようなペチペチとした音。重は無性に腹立たしかった。
藍『では皆さん! 次のエリアの入口で待っていますので、落水や障害物に気をつけてください! 水分補給も忘れずに!』
簡単な注意事項だけを残して去っていくゴムボート。
重「やっぱ稲庭うどんだったでしょ?」
得意げな声を出す重。
重「こんな問題、余裕のよっちゃんでしょ!」
椎名「……久しぶりにきいたなぁそのセリフ」
渡「でも大先生はどうして答えが分かったの?」
渡の質問にはまず、重の高らかな笑い声が答えた。
重「どうしてもなにも、藍さんは『好物』って聞いたんだよ? 好物で『羽布団』はないでしょ普通。好物っていったら大体は食べ物なんだから、Aの稲庭うどんに決まってるじゃない」
渡「……え? なになに? もう一回言って」
重「だから、好物で羽布団はありえな‥」
渡「その羽布団ってのは何?」
重「何って、Bの羽布団だよ」
渡「いや、Bは伊勢うどんだよ? 両方食べ物で、両方うどんだから迷ってたんだよ?」
教授さんが何か言ってるぜ。そんな表情で重は知哉を見た。ただ知哉は小さく首を振ってみせた。
重「ん?」
知哉の奴、どうしたんですか? そんな表情で重は椎名を見た。椎名は静かに頷いた。
重「え?」
みんながああ言ってるんだけど。そんな表情で重は修を見た。修は何も言わずに重を見つめ続けた。
重「…………」
ありえない聞き間違いをしていた事に気づいた重は、四人を見て言った。
重「ふぅ、危ねぇ」
渡「……正解しちゃった手前、強く言えないのが腹立たしいね」
知哉「それにしたって、伊勢うどんを羽布団と聞き間違えるなんてことあるか?」
修「いやだって見てみろよ知哉、アレだぜ?」
修の言うアレとは重の頭部。つまりは装着しているヘルメットからはみ出ている髪の毛のことで、重の伸びた天然パーマのモジャフォサヘアーは、ヘルメットにかぶりついているように見える。
修「あんなんじゃ、毛が邪魔で聞こえづらいだろ」
知哉「でも稲庭うどんは聞こえたんだろ?」
修「……あぁ、そうか」
重「そうだよ、馬鹿じゃねぇの?」
修「よーし、分かった! 俺はやってやるぞ!」
何をとは言わない修に、四人は笑う。
重「ちょっと、何をする気なの!」
修「いい、いい、いい。もう俺はやってやるんだ。一気に、躊躇せず、まるごとがっぽりとやってやるんだ!」
重「ゴメンゴメンゴメン! まるごとがっぽりはやめて!」
椎名「そこをお願いするの!?」
重「いや椎名さん、何事もまるごとがっぽりは危ないですって!」
椎名「アハハッ、というかあそこのカーブ抜けるとBエリアだよ?」
修「え、もうですか?」
椎名「うーん、やっぱりこの地図の縮尺率が分からないのがねぇ」
修「あぁ、そういえば書いてないんですよねその地図」
椎名「それに、若干だけど流れが早くなってる気がするんだよね」
椎名はイカダが川の中央からずれないように舵を調整する。
知哉「これアレですよね、次は操縦に関する課題でしたよね?」
椎名「うん。だから集中していかないとね。気をひしきめて、違う、気を引き締めちぇ、あの‥」
知哉「いや集中してもらえますか椎名さん」
椎名が言葉を噛んでいると、藍の声が聞こえてきた。
藍『はい! ここBエリアではイカダの操縦に関する課題に挑戦していただきます! 課題内容自体はシンプルなものですが、激しさを伴いますので、落水には気をつけてください!』
単純で激しく落水の可能性がある課題。否が応でも五人の緊張感は高まっていく。
藍『ではご覧ください!』
藍に促された五人がカーブの先を見てみると、課題のために使用する物が、川のあちらこちらに設置されていた。
渡「うわっ……」
渡に声を漏らさせたものは、カヌーなどの競技でよく見るスラローム用のゲートだった。
緑と白、赤と白で塗られた二種類のゲートが、川の上に張られたワイヤーから吊り下げられていた。ゲート同士の位置関係は不規則だったが、全部で六つのゲートのうち、最後の二つだけが赤白のゲートになっていた。
渡「イカダでスラロームをさせる気なんだ……」
その呟きを聞き逃さなかった藍は、元気に説明を始める。
藍『その通り、スラロームをしていただきますがルールは簡単! 六つあるゲートを全て通過するだけです。ただし、赤白のゲートは上流に向かって通過をしてください! まもなくスタートします!』
知哉「あ、はーい…… なぁ教授さん、上流に向かってってどういうことだ?」
渡「だから、始めはゲートの外を通過して、向きを変えて、上流に向かって漕いでゲートを通過するってこと。確かアップゲートって……」
椎名「あれ、渡君って詳しいの?」
渡「大学のクラブに友人が入ってまして、何度か大会を見に行ったことがあるんですよ」
椎名「あぁ、そうなんだ」
知哉「さっき『うわっ』って言ったのは?」
渡「すごいキツいし大変だからだよ。カヌーってのは腕だけじゃなく、体全部を使って操らなきゃならないし、ゲートを通過するのにも、川の激しい流れを読みながらアプローチコースを考えなきゃいけないし……」
知哉「あぁ…… ま、疲れるってことだろ?」
安くまとめた知哉に、重が言った。
重「バカは語彙が少なくていけねぇやな」
知哉「いや、時間もねぇから短く簡単に言っただけだろ!」
重「本当かねぇ? まぁいいや、それで教授さんが言ったアップゲートって何だって?」
渡「はぁ!?」
重「ゴメン、ちょっと聞こえづらくて……」
渡「帰ったら床屋に行きなよ?」
重「うん」
渡「それで、アップゲートっていうのはね、始めにゲートの外を通過して、向きを変えて、上流に向かって漕いでゲートを通過するってこと。ゲートの外を通過して向き変えて上流に向かってゲートを通過!?」
自分で言った事にいまさら驚く渡。
渡「イカダの向きを変えるだけで大変なのに、上流に向かって漕ぐって! いくら流れが比較的に穏やかでも、融通がきかないイカダじゃ、水の抵抗も‥」
知哉「大変なのはわかったから落ち着けって」
渡「本当だろうね! 本当にわかったのだろうね!」
知哉「本当だって言っ‥」
知哉の声を遮って、藍の声が割り込んできた。
藍『それではBエリアの課題挑戦…… 開始です!』
重「あぁっ、始まっちゃったよ!」
修「し、椎名さん! 指示をお願いします!」
椎名「よ、よし、それじゃとりあえず、最初の四つの緑白のゲートは普通に通過するだけだから、一気に行こうか! それじゃ、まずは右に寄っていくよ!」
緊張感のある声で、椎名は指示を飛ばし始めた。
椎名「重君、もっと角度をつけてグワッとオールをお願い!」
良く言えば直感的な椎名の指示。
椎名「そう! 修くんはそのままクイッといきましょうか! はい、渡くんはそこでチョイとやって!」
悪く言えば何も伝わらない椎名の指示。
椎名「うんうんいい感じだよ! はい、そこで知哉君ググッて!」
知哉の頭の中に、一瞬だけ検索バーが出てきた。
椎名「みんな良いよ!」
意外にも、イカダはスムーズにゲートを通過していく。ただ、それは椎名の指示のおかげではなく、気心の知れた五人の阿吽の呼吸、つまりはチームワークによるものだった。
椎名「ふぅ、今ので緑白のゲートは終わり! あとは赤白のゲートだけだよ!」
修「それで、どうするんですか? やっぱりゆっくり接近して……」
椎名「うーん、ちょっと考えてみたんだけどね。一つ目の赤白ゲートは川の右側にあるでしょ? あと、川底に竹の棒が届く深さだから、ゲート左側に勢い良く接近したら、渡君の位置を中心にして、流れと勢いを利用して右回りで円を描くようにゲートを通過‥」
修「いけます!? 椎名さん、それいけます!? さすがに難しいというか、イカダも俺たちも危険なんじゃないですか!?」
自分で言ったものの、椎名もさすがに難しすぎると内心で思っており、修の反対意見を受け入れるつもりでいた。だがしかし、というやつだった。
重「椎名の旦那!」
低く渋い声を出す重。
重「その難しく危険な『男の航路』とやら…… 行ってみようじゃありませんか」
昭和の銀幕スターを彷彿とさせるような苦味走った重の表情に、意外な人物が感化され同調してしまった。
渡「へっ、年を食うと挑む心を無くしちまっていけねぇやな…… ピエロの旦那。旦那の言う男の航路…… お供しやす……」
修「誰なんだよお前らは! 椎名さんを焚き付けるんじゃねぇよ!」
椎名よりも先に焚き付けられてしまった男がいたことを、修は知らなかった。
知哉「焚き付けても燃えやしねぇ…… そんな湿気た男にゃなりたかぁねぇんだよ。男の航路、それがしも参ります」
修「……………………」
修が呆れていると、椎名が静かに口を開いた。
椎名「皆の者、よくぞ言ってくれた!」
修「だから誰なんだよ! あんなとこでグルって回転なんかしてみろ! 遠心力で‥」
重「修の兄貴!」
修「誰が兄貴だ! それでなんだ!?」
重「人生是、激流也」
修「……………………だからなんだよバカ! 遠心力を一番受けるのは後ろの俺達なんだぞ!」
重「あっしらには、椎名の旦那の求心力があるんですぜ?」
修「………」
重「ピエロの旦那、行きましょうぜ!」
椎名「参ろうぞ!」
椎名の清涼な声に、若く力強い声で応える三人。静かな修。
椎名「さぁ、速度を上げて、勢いを保ったまま近づくよ! そしたら『エイッ!』の合図に合わせて!」
三人『ホイサッ!』
修「はいはい……」
少し意味は違うが呉越同舟。修も保身のためには協力するしかない。
椎名「……エイッ!」
椎名らしくもない、空を切り裂く張った声が響き渡ると、各々、自分の役割を果たしにかかる。渡は川底を棒で突いて必死に踏ん張り、知哉は勢いを維持させる。椎名はイカダが転覆しない程度に舵を切り、修と重は遠心力に耐えながらオールを駆使する。
椎名「ヨイショ!」
イカダは椎名の目論見通りにゲートを通過することが出来た。
椎名「このまま勢いに乗って最後のゲートも通過しちゃうよ!」
知哉「ホイサッ!」
渡「ホイサッ!」
修「ったく……」
椎名の問いかけに答えたのは三人だけ。重はと言うと、小さな声で『オェッ…』と漏らしただけだった。
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