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満月は今日も浮かぶ
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仕事の帰り道。僕はまっすぐ帰らずに、馴染みの酒屋へ立ち寄った。個人経営の小さな店だが、品揃えは豊富で、その店でなければ手に入らない珍しい銘柄もあった。
僕が扉を開けて店に入ると、カウンターの奥でイスに座っていた店主が僕を見た。
「いらっしゃい……」
白髪の少し混じった店主は、客である僕への興味を一切見せず、疲れた声で呟くように言った。馴染みの店といっても、僕の来店頻度はそう多くない。店主からしてみれば、たまにやってくる客の一人にしかすぎないのだろう。
「こんばんは」
僕がカウンターへ近づくと、店主はいじっていた古い型の端末を机に置いて、イスからゆっくりと立ち上がった。そして、これといった表情も浮かべず、僕を黙って見続ける。
「すみません。ウイスキーの『グッドオールド』を下さい」
いつもなら「あいよ」と言って、ウイスキーのボトルを棚へ取りに行ってくれるのだが、今日は銘柄を聞いた途端に表情を変え「やっぱりな」という具合に笑い始めた。
僕がどう反応すればいいのか戸惑っていると、店主は笑みを浮かべたまま話し始めた。
「急に笑ったりして悪かったな。そろそろアンタが来る頃なんじゃないかと思って、楽しみに待ってたんだよ」
「楽しみに? 僕のことをですか?」
「ああ、そうさ」
店主は僕を指さすと、カウンターの下からウイスキーのボトルを取り出した。それはグッドオールドのボトルだった。
「あいよ、いつものグッドオールド。仕入れている俺が言うのもなんだが、アンタも随分とマイナーな酒を選ぶよな」
「いえその、亡くなった親友との思い出のウイスキーでして」
「なるほど、そういうわけだったのか」
店主はボトルを茶色の紙袋に入れ、袋の口をクシャっと締めた。
「いちおう聞いておくが、このボトルを家に『転送』するかい?」
「大丈夫です。自分で持って帰るので……」
店主は再び笑い始めた。
「やっぱり自分で持って帰るのか。ウチだって転送装置の保険に入ってるんだぜ? だいたい、帰り道に落として割っちまったらどうするんだ?」
「それはそうなんですけど、どうしても自分の手で持って帰りたくて」
「いや、アンタの自由だからいいんだけどさ。ただ今どき、店へ直接やってくることでさえ珍しいのに、買った物も自分で持って帰るってのはアンタくらいなもんだよ。それに、今日の支払いも現金なんだろうしな」
たまにやって来る客の一人どころか、店に直接やって来る唯一の客として覚えられていた私は、何だか恥ずかしくなってしまい、黙ったまま頷いた。
「やっぱり現金か!」
「はい。あの、ちょうどありますので……」
僕が三枚の紙幣と五枚の硬貨をカウンターに置くと、店主は嬉しそうに金額の確認を始める。
「また『今どき』って言っちまうけど、今どき現金で支払いって聞かないもんな。他所でも現金払いかい?」
「いえ、このウイスキーを買うときだけです。なんというか、本当に思い出の詰まったウイスキーなので、『手に入れた』という実感が欲しくて」
「何となくわかるような気がするよ。なんでもかんでも、手首の端末一つで済むのは味気ないよな。でもあれだな、アンタが持ってくる現金しか見てないから、これが本物かどうかもわかりゃしないよ」
僕が「今日わざわざ予約して銀行へ」と慌てると、店主は手のひらをこちらに見せて、僕の言葉と焦りを遮った。
「冗談だよ、冗談。それにしても、現金を引き落とすのに予約がいる時代になるとはな。そうそう、実はアンタに見せたいものがあるんだよ」
そう言って店主が取り出したのは大きな空のボトルだった。しかし、空のボトルといってもまるっきりではなく、中には紙幣や硬貨などの現金が入っていた。
「これって貯金箱ですか?」
「ああ、アンタが現金で支払うもんだから、おかしな趣味が出来ちまった」
「ちょっと待って下さい! ということは、このビンの中に入っているお金は、全て僕が支払ったものですか?」
「そりゃそうだろ。現金で払うのはアンタしかいないんだからな」
大きなボトルの半分ほどの高さまで積み重なった紙幣と硬貨。その分だけ、あの日から年月が過ぎて去っていったのかと思うと、なんだか目の奥がじんと温かくなってしまった。
「なんだかんだで、すぐに半分まで貯まっちまったな」
筒状に丸めた三枚の紙幣を、店主はビンの中に入れていく。
「あの、すみません。もしよかったら僕にも入れさせてもらえませんか?」
「もちろん。それじゃ頼むよ」
手元に戻ってきた硬貨を、ボトルへ一枚一枚と入れていく。その度に聞こえる硬貨が身を打つ音は、小さな幸せがたまっていく音そのものだった。
「代金はしっかりいただきました。というより貯金されました、だな」
歯を見せ笑う店主につられ、僕も笑う。
「それじゃ、僕はそろそろ」
「そうかい。また来てくれよ、楽しみに待ってるからさ。もう少し貯金したいからな」
「はい、また必ず来ます。貯金のお手伝いに」
店主の朗らかな笑顔に見送られ、僕は紙袋片手に店を後にした。
店を出ると、外はすっかり冬になっていた。そう、私はグッドオールドのことで頭がいっぱいになっていて、地区別季節予報の確認を忘れていた。つまり、超電導ライナーに乗り込むまでの間、僕は秋服のままで冬を過ごさなければならなくなったのだ。
紙袋という手荷物を持っているだけで人目を集めてしまうのに、この寒さの中を秋服というのは恥ずかしいものがある。だが、寒さで身を縮こめている内に、昔の事を思い出した。
そう、親友との出会いの日も、吐く息が白くなる寒い冬だった。
僕は新入社員の頃に、会社のユニークな方針の一つ、「滞在型新人研修プログラム」に参加した。参加の義務はなかったが、全ての費用を会社が持ち、複数ある滞在先も自分で選べるのだ。参加しない理由はない。
そうして、僕が滞在先に選んだのは、不思議の国「ニッポン」だった。上司や先輩から、ニッポンでの仕事・研修はかなりキツイと言われていたが、僕は気にならなかった。子供の頃から行ってみたかったニッポン。いつだって僕の感性に刺激を与えてくれたニッポン。多少のキツさなら耐えられる。
すっかり童心に返った僕は、出発の準備を始めた。しかし、ニッポンに行ける喜びで頭がいっぱいになっていた僕は、到着時のニッポンの季節を調べ忘れ、薄着のまま出発をしてしまった。
そんな浮かれた薄着姿の僕は、ニッポンの冬の空港に降り立った。いくら暖房を効かせているとはいえ、それは冬着姿で暖かいと感じる温度。浮かれた薄着男には悲しいほど寒い。
体を縮こませ、待ち合わせのゲートで僕が待っていると、一人の男が驚いた様子で話しかけてきた。
「あの、すみません」
話しかけて来た男は、フォーマルなスーツに温かそうなダウンジャケットを着ており、気さくで親しみやすい雰囲気を出していた。
「もしかしてフームさんですか?」
僕がそうですと答えると、彼は驚きに笑いを混ぜたような顔を見せた。
「どうしてそんな薄着姿なんですか?」
「い、いえ、到着時の季節を確認するのを忘れてしまって」
「そうでしたか。あ、申し遅れました。私はショーゴといいます。フームさんには私と同じ部署で働いていただきながら、様々なスキルを磨いてもらいます。まあ、私の事はニッポンにいる間の相棒とでも思って下さい。とにかく、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「それで、お荷物の中に冬服は……」
「……入ってないです」
思わず笑ってしまったショーゴは、咳払いをしてダウンジャケットを脱ぎ始める。
「実は空港内にある駐車場が混んでまして、野外の駐車場にしか車を停められなかったんです。すぐそこのゲートから外に出て、五分ほどいったところなんですが、今日はものすごく冷えていまして。なので、良かったら着てください」
ショーゴは爽やかな笑みを見せながら、自分のダウンジャケットを僕に差し出した。私は喉から手が出るほど欲しかった。実際、喉から手が出ていたかもしれない。だが、ニッポンに到着して早々、さすがに情けなさすぎる。私は二つの意味で温かい申し出を丁重に断った。
「えっ、大丈夫ですか! 本当に寒いんですよ?」
「五分ぐらいなら我慢できますので」
「そうですか? では荷物は私が持ちますので。本当にすみません、転送装置が使えなくて」
「あっ、そうでした。なにかあったんですか?」
「ちょっとした騒動がありましてね。誤って恥ずかしいものを、人に見せたくないものを、自宅から国会議事堂に送ってしまった大物議員がいまして」
「そうだったんですか……」
「車に乗ったら詳しく説明します。それでは、私の後についてきて下さい」
「わかりました」
ショーゴは、私の荷物を抱えて歩き始めた。私は、身を縮こませたまま後に続く。
「このゲートから出ます」
そう言ってショーゴがゲートに近づくと、自動ドアが絶妙な速度で開いた。その瞬間、私はダウンジャケットを借りなかったことを激しく後悔した。想像を遥かに超える寒さ。これでは五分という短い時間でも、体の芯まで冷えきり、凍え死んでしまう可能性がある。
「フームさん、大丈夫ですか?」
「は、はい、大丈夫です!」
なぜ「大丈夫」という言葉が出たのかはわからない。原因は未だに不明で、未来永劫、謎のままだろう。
「それでは行きます」
ゲートを出たショーゴの後に、僕は必死になってついていった。
「もう少しで着きますからねフームさん!」
極寒の中、ショーゴは何度か私に話しかけてくれたが、僕は大した返事もできなかった。口を開けたら、冷気が一気に体内に入り込んで、体の内側から凍りついてしまうような気がしたのだ。
「あっ、フームさん! あそこです、あの案内板の横に車がありますから!」
長かった。これほどまでに長かった五分はなかった。
「はい、到着です! ドアを開けます!」
ワゴンの後部座席のドアを開けたショーゴは、僕を見るなり、とうとう声に出して笑い始めた。それは無理もないこと。五分くらい我慢できると言った男が、寒さに青ざめ震えているのだから。
「いやあ、フームさん! 私たちは親友になれると思いますよ! あなたほど面白い方には会った事がない!」
「……どうもです」
その後、本当に親友となったショーゴとの出会いは、そんな寒くて可笑しなものだった。
昔を懐かしみながら歩いていると、いつの間にか駅までやって来ていた。店から駅まで、歩きであればそれなりの距離だったが、楽しい時間というものはすぐに過ぎ去ってしまう。昔の楽しい思い出が、時間を早めたのだろう。
「お客様、お手数を掛けますが、乗車前に手荷物検査をお願いします」
ただ時間というものは、嫌なこと、嬉しくないことが相手だと微動だにしない。現に、手荷物検査を受けている今この瞬間、時間は止まっている。寒さに震えたあの時も、時間は止まっていたのかもしれない。
「お客様、申し訳ありませんが、お荷物のウイスキーが持ち込み規定のアルコール度数を越えていまして。専用のケースに入れての乗車となってしまうのですが、よろしいでしょうか?」
「はい、構いません」
「有料ですが、転送装置もありますけど……」
「いえ、自分で持っていきたいので」
「わかりました。それでは紙袋ごとケースに入れておきます。安全の為にロックを掛けさせていただきますので、到着した駅の専用改札口を通ってロックを解除してください。ケースは、改札脇にあります回収棚へお願いします」
「わかりました。ありがとうございます」
駅員が渡してくれた真っ赤な手荷物専用ケース。万が一に備え、目立つ赤色にということらしいが、ここまで人目を引く状態となってしまえば、もうどうにでもなれだ。
ホームへ出た僕は、ホームドアの前で超電導ライナーを待った。すると、ホームドアの大きなモニターに、最新式転送装置の広告が流れ始めた。まったく、物というのは気楽でいい。暑さ寒さを感じることもなく、一瞬のうちに目的地へ到着出来るのだから。まあ、僕の持つウイスキーは別だけども。
「まもなく、快走ライナー八号が到着します」
アナウンスがホームに静かに響くと、すぐにライナーがやって来た。静かにホームへ進入してきたライナーは、音もなく静かに停車した。それに合わせてというわけではないが、僕も静かにライナーへ乗り込んだ。
二人掛けシートの窓際に座った僕は、すぐに足元のケース置き場にケースを固定した。ほとんど使われることのないケース置き場は、仕事が来たと喜んでいるか、久しぶりの仕事に大慌てしているかのどちらかだろう。
僕がケースを固定し、車内の温かさに喜びを感じていると、ドアが閉まり、ライナーは発車した。もちろん静かに。
発車後、ぐんぐんと加速していくライナー。窓から見える近くの景色は、あっという間にいなくなる。いま何が通り過ぎていったのかさえわからない。だが、遠くに見える雄大なビル群は、街の中央に鎮座したまま動かない。そして陸の灯台と言わんばかりに光を放ち、街を照らし続けていた。そう、あの街は眠ることを忘れているのだ。
すでに最高速度に到達していたライナーは、相変わらず静かだった。揺れの一つも感じない。音も聞こえない。正に快走で快適な乗り心地。だが、こうも静かだとニッポンで乗った「電車」が懐かしくなってくる。
超電導ライナーの故郷であるニッポンには、血管のように電車の路線が張り巡らされていた。だが今はその路線をライナーが走っている。より快適で安全なライナーに電車は仕事を奪われたのだ。だが、一部地域では電車の路線が残されていた。これは数多くいた電車ファンたっての願いを反映したものだった。
しかしながら、この電車という乗り物は、ライナーに比べるとものすごくうるさく、そして揺れる。ただ、それでも人々に愛されていた。実を言えば僕も電車に魅了された一人。ニッポンにいた時は、遠回りになるのにも関わらず、電車を利用して生活をしていた。言葉に出来ない魅力が電車にはあった。
だが、親友のショーゴは全くと言っていいほど電車に魅力を感じていなかった。
それは、仕事帰りに寄った「居酒屋」という所で、酒を飲んでいる時だった。その居酒屋は高架下にあって、時折、電車の出す音と揺れが店にまで届いていた。
「なぁフーム。こんなに騒がしくても電車が好きなのか?」
空港での出会いからだいぶ経ち、すっかり打ち解けていた私とショーゴは、互いに丁寧語を捨てていた。
「好きだよ。なんていうのかな、機械だけど命を感じるというか、そんな感じなんだよ」
「命? お前ってたまに難しいこと言うよな」
「そうかな?」
「そうだよ。でも命を感じるっていうなら、蒸気機関車の方が命を感じるんじゃないか?」
黄金色に輝くジンバックを飲むショーゴは、次第に柔らかく、緩やかな雰囲気になっていく。
「蒸気機関車? ああ、このまえ社員旅行の時に渓谷で乗ったやつ?」
「そうそう。俺もあんときが初めてだったけど、想像以上に迫力があってさ」
「確かにね。本当に生きてるみたいだった。けど、乗る機会がほとんどないし、身近に感じられないんだよね」
「まあ、観光用にいくつか走ってるだけだからな。でもよ、今の時代、電車にだって乗る機会はそうないだろ? 超電導ライナーの時代なんだからよ」
「はあ、電車で溢れていた頃のニッポンに生まれたかった」
悔しがる僕の肩に手を回したショーゴは、それは豪快に笑った。そして「落ち込んでる暇があるなら美味いものを食え」と、焼き鳥を注文してくれた。
この焼き鳥はニッポン特有の食べ物で、竹串というやつに野菜や鶏肉の様々な部位が刺さっていて、それを炭火で焼くのだ。甘辛いタレも美味しいが、シンプルな塩も美味しい。
「焼き鳥って、あの焼き鳥? 僕の大好物の焼き鳥? 毎日食べてもいいくらい美味しい、あの焼き鳥?」
「そうだよ。この店は焼き鳥も美味いんだよ」
「焼き鳥屋じゃない居酒屋にも焼き鳥があるの?」
「あのな、ニッポンじゃ酒が置いてある所に焼き鳥は必ずあるんだよ。運命共同体なんだよ、酒と焼き鳥はな。というか酒飲みと焼き鳥はな」
「そうだったんだ。でもよく行く『メロウアウト』に焼き鳥あったっけ?」
「あそこはバーなんだ、あるわけないだろ」
「でもお酒が置いてあるじゃない」
「バーは酒を楽しむ場所だからないんだよ。本当、酒に関することには疎いな。ほら、焼き鳥きたぞ」
「待ってました!」
ニッポンで食べたあの焼き鳥。あれは史上最高の食べ物かもしれない。あの香ばしい匂いは至高の香り。塩で甘みが増した鶏肉のうま味といったらない。なんだか、ライナーの窓から遠く見えるの街の赤い光が、居酒屋の赤ちょうちんに見えてきてしまう。
そういえば、ショーゴの家でもよく酒を飲んだ。ニッポン特有の狭いアパートの一室。今でも初めて訪れた時の事を覚えている。
あれは、立ち寄ったメロウアウトが臨時休業だった日のことだった。他の店にしようか、そんな案も出たが、ここからなら近いとショーゴが自宅に招いてくれたのだ。
「はい到着、この豪華絢爛なアパートが俺の愛しき我が家だ」
ニッポンではよく見かける二階建てのアパート。年季が少しばかり入っているアパート。それが彼の言う、豪華絢爛な愛しき我が家だった。
「ここの最上階に俺の部屋があるからよ」
「最上階って二階建てじゃない」
「ニッポンジョークだよ。まあいいから行こうぜ。あっ、ここの階段は滑りやすいから気をつけろよ?」
そう僕に注意を促したショーゴは、階段の二段目で足を滑らせた。驚いた顔でこちらを見るショーゴに僕は笑った。
「大丈夫?」
「……押したろ?」
「押してないよ!」
「……呪ったろ?」
「呪ってないよ!」
「……本当かよ? 怪しいもんだよな」
照れ笑いを見せて階段を上がっていくショーゴは、手すりにしっかりと掴まっていた。もちろん、僕も手すりに掴まって階段を上がっていった。
「はい、ここが俺の部屋」
階段を上がった目の前が彼の部屋だった。
「狭っ苦しい部屋だけど、まあ上がってくれよ」
ショーゴは鍵を開け、玄関の扉を開けると、先に入るよう僕を促した。
「それじゃ、お邪魔します」
「はいはい、どうぞ。あっ、そこのスイッチで電気をつけてくれ」
言われた通りに電気をつけた僕は、靴を脱ぎ、もう一度「お邪魔します」と言って奥に進んだ。奥と言っても、申し訳程度の長さしかない廊下を少し進んだだけだが。
「おいフーム、待ってなくていいよ。奥のドアに行けば豪華絢爛な愛しきリビングだからよ」
二度目の「豪華絢爛な愛しき」の信憑性の無さといったらなかった。
「なんだよ、その顔は?」
「わかるでしょ?」
「いいから先に進めって!」
どうせ散らかっているんだろう。そう思いながらドアを開けると、小綺麗なリビングが僕を待っていた。
落ち着いた雰囲気と装いのリビング。そう、それはバーとカフェを融合させたような空間だった。正直、気さくなイメージのショーゴからは想像できないリビングだった。
「なあ、ドアを開けたら中に入れって」
「ああ、ごめん。それにしてもいい部屋だね」
「だろ? 結構こだわってんだよ。まっ、ソファーにでも座っててくれよ。いま酒とツマミの用意しちゃうからさ」
「うん」
窓際に置かれたダークブラウンの二人掛けソファー。その向かいには同じソファーがあり、二つのソファーの間には木製のローテブルが置かれていた。僕は右側のソファーに座るか、左側のソファーに座るか無駄に悩んだが、結局、左側のソファーに座った。
窓からは街の夜景が見えた。二階建てとはいえ高台にあるアパート。遠くの家々の灯りがいくつも見え、あの光の数だけ営みがあるかと思うと、なんだか心が柔らかくなっていく。
「なにをたそがれてんだ?」
手に一枚の大皿を持ったショーゴが、私の顔を覗いてきた。
「いや、良い景色だなって」
「そうだろ? いま酒を作るから、これ食って待っててくれ」
ローテブルに置かれた大皿には、数種類のツマミが乗っていた。
「これってスモークサーモン?」
「スモークサーモンも好きだったろ?」
ショーゴは再びキッチンへ向かった。
「うん、焼き鳥の次に好きだね」
どれだけ焼き鳥が好きなんだと、ショーゴは笑い、グラスと酒のボトルを乗せたトレーを持ってやってきた。
「よし、それじゃ飲むか」
「飲むってどんなお酒?」
「酒に詳しくないフームに教えたいカクテルがあるんだよ。ライウイスキーがベースなんだけどよ」
「ライウイスキー?」
「ああ。ライ麦で作ったウイスキーでな。特に『グッドオールド』って銘柄が美味い」
「グッドオールドね……」
「これを、この氷の入ったミキシンググラスに二十ミリリットル入れる。まぁ二人分だから四十だな」
ボトルより一回りほど大きいガラス製のミキシンググラスには、大きな氷が三つほど入っており、そこへ流し込まれたウイスキーは、きれいな琥珀色をしていた。
「それと、ビターオレンジのリキュールを四十、ドライベルモットを四十。あとはバー・スプーンでクルクルと回す」
「ステアだね?」
その通りと、ショーゴは目で答えた。
「そうしたら、氷が入らないようにグラスに注いで、はい完成」
「なんていうカクテルなの?」
「オールド・パルって名前のカクテルだよ。旧友、古い友人って意味なんだけどな」
グラスに注がれたオールド・パル。きれいな琥珀色を見せていたウイスキーは、リキュールのオレンジ色を身にまとい、深い色合いに変わっていた。その色合いは、どこか長い年月を思わせた。
「じゃあ乾杯だ」
「うん、乾杯」
グラスを少し上に掲げ、乾杯を済ませた僕は、オールド・パルを口にした。
「どうだ?」
ほろ苦く、どこか甘い香りがする。だがウイスキーベースのカクテル、キツさもある。しかし、そのキツさが、苦楽を共にした旧友を思わせるのかもしれない。
「美味しいよ、すごく。ただちょっと強いかな……」
「そうか、フームには少し強かったか。水を持ってきてやろうか?」
「うーん、少しソーダを入れたら良いんじゃないかな」
「それはあれか? オールド・パルに足すって意味か?」
「うん」
僕の提案に、ショーゴは腕を組んで目をつむった。酒を愛するショーゴには、何か引っかかることがあるのだろう。
「ダメかな?」
「家で飲むなら……そうだな。家で作って飲むなら足してもいいかな。店でやったらバーテンダーが悲しむだろうし」
「そういうもの?」
「同じカクテルでも、使う酒や氷、器具や作り方によって味が変わるからな。こだわりを持ったバーテンダーほど悲しむと思うぜ?」
ショーゴはオールド・パルを口に運ぶと、眉間にシワを寄せ、口に広がる旧友を味わった。
「ふー、美味いな。あっ、悪い悪い。いまソーダを持ってきてやるから」
「ごめんね、ありがとう」
「気にすんなよ」
ニッと口角を上げ笑顔を見せたショーゴは、キッチンへ歩いて行く。僕は気になっていたスモークサーモンを口に入れ、再び窓の外へと目をやった。もう酒がまわってしまったのか、先程より夜景が美しく感じられた。
「なんだよフーム、効いちゃったのか?」
キッチンから戻ったショーゴは、僕のグラスにソーダを足してくれていた。
「疲れてたからかなぁ、少し効いたよ」
「悪かったな、ちょっと強さのことまで考えてなかったからよ」
「気にすんなよ」
僕がショーゴの口調を真似て言うと、ショーゴは呆れた笑いを見せて、向かいのソファーにだらしなく座った。
「ぜんぜん似てないからな」
「そうかな」
「そうだよ」
笑いながら外を見たショーゴは、一瞬だけ片方の眉を上げた。
「今日は満月だったのか……」
「えっ、月なんて見えた?」
「フームが座ってる位置からじゃ見えないんだよ。俺がふんぞり返って見える位置に月が出てるんだから。後ろを覗き込むようにして空を見ないとな」
僕は少し身を乗り出し、ショーゴの言う通りにして窓を覗いてみた。すると、星の見えない夜空に、まん丸な月が浮かんでいた。
「夜空なんて滅多に見上げないからな、月を見るのは久しぶりだ」
「それにしても月は綺麗だね。一番好きな天体だよ」
太陽の光が元気をくれる光とすれば、月の光は癒やしをくれる光。こうして眺めているだけで、失った何かが補充されていく。ただ、身を乗り出したまま眺めていると、首の耐久力は減っていく一方だ。
「俺も月が一番好きかな。情緒だとか風情があるからな。何より……」
座り直したショーゴはオールド・パルを飲むと簡潔に言った。
「天体望遠鏡を買わずに楽しめる。月は財布に優しいんだよ」
ショーゴの素朴な理由を思い出し、僕は危うくライナーの中で笑ってしまうところだった。
気がつけば、降りる駅は次となっていた。どうやら、またしても楽しい思い出が、僕の時間を勝手にいじったらしい。楽しい時間は短く感じ、嫌な時間は長く感じる。時間というやつは、僕に恨みでもあるのだろうか?
ライナーから降りた僕は、手荷物を持った乗客専用のゲートを通り、ケースのロックを解除した。無罪放免、釈放された気分で僕は妻の待つ家へと歩き始めた。
正直、僕の歩く速度は少しずつ上がっていた。先ほどのライナーのようにはいかないが、競歩の手前ぐらいまでは加速していた。白状しよう。早く妻に会いたいのである。
僕は世間一般よりも遅くに結婚をした。遅くなった理由は仕事だった。ただ、仕事が忙しくてというわけではない。仕事が楽しく、恋というものが僕の頭の中から抜け落ちていた。
しかしながら人生は面白い。あれだけ抜け落ちていた恋が、とある店で今の妻を一目見た時に戻ってきた。いや、それは正しい表現ではない。ニッポンの漫画じゃないが、ドゥオンッと、ズゴンッと戻ってきたのだ。
もう、妻との出会いは奇跡としか言いようがなかった。世間は転送装置依存症。酒屋の店主が言ったように、今どき店に直接やってくる客などいない。自分自身でも僕くらいなものだろうと思っていた。だが、彼女は店にいた。店員としてではなく、客として。
奇跡はそれだけではない。妻と出会ったその店は輸入雑貨店なのだが、ニッポン文化の「ショーワレトロ」と「タイショーロマン」関連の商品のみを取り扱っている店なのだ。そう、妻は僕と同じく、熱烈なショーワレトロファンだった。
今でも鮮明にその時を覚えている。店内にはニッポンの古い歌謡曲(といっても僕には新鮮だが)が流れていて、裸電球の温かな光が商品を照らしていた。角ばったデザインの扇風機が、かき氷の暖簾や風鈴を揺らしていて、ニッポンで飲んだラムネの味が、思わず口の中に蘇った。
その時だった。店の通路の先から、シュポンッと爽やかな甘酸っぱい音が聞こえてきた。まさかと思い、音が聞こえてきた方へ歩いていく。すると、髪を後ろで結い上げた浴衣姿の女性が、飲料メーカーのロゴが入った真っ赤なベンチに腰掛け、涼しげにラムネを飲んでいたのだ。
口を半開きにした僕が黙って彼女を見ていると、視線に気がついた彼女がこちらを見た。彼女も僕の事を見て驚いていたが、すぐに笑顔で挨拶をしてくれた。
僕はその笑顔の一撃でドゥオンッと心を奪われ、恋というやつをズゴンッと思い出した。
その出会いから結婚までは早かった。妻となった彼女は、ショーワレトロが溢れる我が家で、僕を待っていてくれる。だが、妻との出会いを思い出すと、ショーゴに感謝をせずにはいられない。僕と妻を出会わせてくれたのはショーワレトロだが、そのショーワレトロを僕に教えてくれたのはショーゴだ。
不慣れなニッポンの生活が快適だったのも、ニッポンの様々な文化を深く学べたのも、美味しい料理と酒に出会えたのも、間接的ではあるが、僕と妻が出会えたのも、全てショーゴのおかげだ。彼への感謝を言い尽くすことはできない。
そんな彼がもうこの世にいないかと思うと、どうしても寂しくなって、今生の別れとなったあの日を思い出してしまう。
それは研修を終えた僕が、地球から自分の星へ帰る日のことだった。
地球へと降り立ったあの空港に、僕とショーゴはいた。少しばかり早く着いてしまったので、僕とショーゴは空港内のカフェで他愛もない話をしていた。だが次第に話は、僕の乗る星間高速船の話になっていた。
「なあフーム、もう一回説明してくれよ」
「なんの説明?」
「星間移動の話だよ」
「えっ、また? 昨日の送別会の時にも説明したじゃない。台の上に立ってマイクで説明したでしょ」
ショーゴは鼻で笑って腕を組んだ。
「あのな、百人近く飲み食いする送別会を取り仕切ったのは俺なんだぞ? お前の別れの挨拶だって忙しくて所々しか聞けなかったんだ。つまり、小難しい星間移動の話も所々しか聞けてないんだよ。まあ、とんでもなく長い時間が掛かるってことだけはわかったけどよ」
長椅子に深く腰掛けていたショーゴは、体の横においてある茶色の紙袋を少しだけ見た。あの紙袋には間違いなく僕への送別のプレゼントが入っている。そう思うと、僕はなんだか紙袋を見ることが出来なかった。
「まあ、簡単に説明するとね」
「おう」
「地球から僕の住む惑星までは、ああしてこうして二百年かかるって感じだね」
今度はプッと吹き出して笑うショーゴ。
「いやだから、ああしてこうしての部分の説明をしてほしいんだよ」
「説明って言われても、長期睡眠装置に入って、星間高速船で標準星間移動をすればいいだけだよ。二百年の間ずっとね」
僕は簡単に二百年と言ったが、地球人のショーゴにとっては途方もない時間だ。地球人の寿命はあまりに短い。長生きしたとしても、僕らの平均寿命の二十分の一にも満たない。
地球を出発し、長期睡眠装置に入れば、僕は二百年間眠ったまま。つまり、僕が高速船で一眠りをしている間に、ショーゴはその一生を終えてしまう。そう、この今日という別れは、ただの別れではない。再び会うことの出来ない別れなのだ。
僕はそのときになって、先輩や上司の言っていた「ニッポンでの仕事のキツさ」を知った。
「二百年、二百年か。まったく想像がつかないけど、あっという間なんだろうな」
十八年間というわずかな研修期間で、ショーゴはみるみる老化していった。地球人としては普通のことなのだろうが、僕はなんだか寂しかった。現実には、僕のほうが長生きをして、未来へと進んでいく。なのに、僕だけが置いていかれて、取り残されていくような。
「それにしてもフームは変わらないよな。初めは俺と大差なかったのに」
笑うショーゴの目尻に、新しいシワが刻まれている。
「そうだね。僕もこれだけ差が出るとは思わなかったよ」
「だよな。俺達の関係性を知らない人が見たら、新入社員と上司の関係だと思うだろうな」
「そこまでは思わないって」
「あれ、ちょっと待ってくれ。帰りに二百年ってことは、来るときにも二百年ってことだろ?」
「そうだよ」
「ってことは何か? 二世紀も前に出発してたってことか?」
「地球上で言えばそうなるね。だからショーゴはまだ生まれてないよ」
「二百年前って言ったらウチの会社もないぞ? 今年で創業八十三年なんだから」
「研修先の会社は、長期睡眠から目覚めた後に決めるんだよ。ただ担当社員さんは相当苦労してるよ。あらゆる時間計算をしながら……というか、僕らの星では時間というものが違っていてね? 相対性じゃないとうかね。例えばブラックホールが……」
ショーゴは苦い顔で首を左右に振っていた。
「もういい、もういい。説明してくれと言ったけどもういい。ただでさえ頭がこんがらがってるのに、ブラックホールとかが出てきたら終わり。俺の脳細胞が死んじゃう」
「いやでも、僕らの星の時間の概念とかを知ってもらえれば……」
「時間の概念なんてのは体に毒なんだよ」
ショーゴは物理だ科学だを笑い飛ばした。
「映画とかでもよくあるだろ、タイムパラドックスだっけ? 時間的な矛盾がどうとかってよ。でもな、全部はあの商人のせいなんだよ」
「えっ、どういうこと?」
「どんな盾でも貫ける矛と、どんな矛でも防げる盾を売ってて、その矛でその盾を突いたらどうなるって聞かれたんだろ? そんなもん『やってみなきゃわからねぇ』って言って、その場で突けばよかったんだよ。そうしたら答えが出てたはずだ。そこで商人が荷物まとめて逃げだしたもんだから『矛盾』なんてもんがこの世に生まれちゃったんだよ」
「なるほどね。ん、なるほどなのか? というか、何の話だっけ?」
「忘れたよ」
思わず二人で笑ってしまった。
「……おいフーム、そろそろ時間だぞ」
「本当だ。あと二十分だね」
「ああ、二十分だ」
出発までの二十分。それが僕とショーゴに残された時間だった。
カフェを後にした僕らは、搭乗口までやって来た。荷物は先に転送済み。僕が持っているものといえば、手首に付けた端末一つのみだ。
「フーム」
明らかに照れた声を出したショーゴは、茶色の紙袋を僕に差し出した。
「餞別だ」
「えっ!」
「ワザとらしいんだよ。ずっとこの紙袋をチラチラ見てただろ。まあいいから、受け取ってくれよ」
「ありがとう。中を見てもいいかな?」
「ああ、いいぜ。ほら、袋を持っててやるから取り出せよ。割れ物だから慎重にな」
返事をした僕は、ショーゴの持つ紙袋から木箱を取り出した。ヒノキの木箱というやつだった。
「気をつけて開けろよ?」
黙ってうなずいた僕は、ゆっくりと木箱のフタを取った。
「どうだ、気に入ったか?」
中に入ってたのは二つのロックグラスだった。全体的に柔らかな丸みを帯びたロックグラスで、一般的なものより一回りほどサイズが大きかった。
「黙ったままグラスを見つめてるけど、気に入ったのかよ?」
「もちろん! 気に入らないわけがないよ!」
「それならいいんだけどよ。それにしても苦労したんだぜ、そのサイズを探すの。ほらフームはさ、どんな酒でもロックグラスで飲むだろ? おちょこでジュースを飲みたがる子供みたいによ」
「僕のピュアなところだよね」
「何がピュアだよ。そもそも、ロックグラスに酒をなみなみ注ぐなんてことは……まあいいや。とにかく、故郷の星で一杯やるときに使ってくれよ。あのデタラメなオールド・パルでも作ってさ」
「うん、大切に使わさせてもらうよ! でもなんで二つなの?」
「結婚するかもしれないだろ?」
「僕が?」
「この俺がしたんだぞ? フームだってするさ」
「どうかな、するかな結婚……」
考え込む僕の手からロックグラスを取り上げたショーゴは、木箱へ丁寧にしまった。そして木箱を僕に渡すと、紙袋の中に手を伸ばした。
「もう一つあるんだよ、餞別が」
そう言ってショーゴが取り出したのは、シリコン製のアイスメーカーだった。
「あっ! もしかして!」
「そうだよ。氷を球状に作れるやつだよ。本当はキューブ状に作れるやつをと思ったんだけどさ、丸いロックグラスに合わないと思ってよ」
「ちょっと、一度に四個も作れるって! 知ってた?」
「知ってんだよ俺は! 買ったのは俺なんだから!」
下らないジョークに笑ってしまったショーゴは、木箱とアイスメーカーを紙袋へ戻すと、僕に手渡してくれた。
「……ありがとう」
「そこまで高いもんじゃないから気にすんなよ」
「そうじゃなくて、今日までありがとうって意味」
僕の真面目な声を嫌ってか、ショーゴは僕から視線をそらした。
「そういう意味で言ったとしても、気にすんなよ。俺たちは親友なんだから」
「うん」
互いに見せた笑顔が、寂しさからくるものだと知っている。残り時間が五分もない中、僕らは黙ってしまった。いや、今日までの日々が、一気に押し寄せてきたといったほうが正しいのかもしれない。
「……もう時間だな」
ショーゴはいつものような声を出してくれた。明日また会えるような、いつもの声で。
「うん。それじゃ、そろそろ行くよ」
「なんか悪かったな。昨日の内に餞別を渡しておけば、転送出来たのに」
「いや、大切なものは、やっぱり自分の手で持たなくちゃ」
「そう言ってもらえると助かるよ」
「まあ、気にすんなよ」
ショーゴの口調を真似た僕は、自分自身で可笑しくなって笑ってしまった。そしてショーゴもまた、呆れた笑顔をみせた。
それが、ショーゴとの別れだった。
気がつけば、僕はうつむいて歩いていた。というより、手にぶら下げた紙袋を見ながら歩いていた。そして僕は、自分でも気がつかない内に微笑みを浮かべていた。
ショーゴがこの世にいない事を思い出すと寂しくなるのだが、いつだって最後は笑顔になれる。それは、僕とショーゴで過ごした日々が、別れを上回っているという証拠だ。
置いていかれたわけじゃない、取り残されたわけじゃない。大切なものを両手いっぱいに抱えて、未来へ向かって歩いている。そういうことなのだ。
「ただいま」
ようやく我が家にたどり着いた僕は、玄関を開けるなり元気よく声を出した。というより、元気になってしまう。愛する妻に会えるのだから。
「おかえりフーム。いつものお酒は買えた?」
裸電球が照らす、短い廊下の先から出てきたのは妻のルーナ。ショーワレトロに関して僕よりも詳しい彼女は、今どき珍しいエプロン姿だった。
老若男女問わず、家で料理をするということは、直接店に行き、現金で支払いを済ませ、買った商品を自分で持ち帰ることぐらいに珍しい。いや、それ以上に珍しいことだろう。
「うん、買えたよ。それにね、たまにしか行かないのに、店主さんが僕の事を覚えていてくれてさ」
「覚えてるに決まってるでしょ。店へ買いに行くなんて、今どきフームぐらいしか……今どきフームと私ぐらいしかいないんだから」
そう、僕らは今どき珍しい夫婦なのだ。
「それもそうだね。というか……」
玄関を開けた時から気になっていた部屋の匂い。懐かしく香ばしい匂い。
「これだけいい匂いがするってことは、焼き鳥を買えたんだね?」
少し幼い声を出してしまった僕に、妻は大きく頷いた。
「しかも、調理前の鶏肉を手に入れました!」
自慢げな声を出した妻は、腰に手を当てていた。
「調理前? えっ、ということは、ルーナが焼き鳥を作ったの?」
「もちろん! 切った鶏肉を竹串に刺して、程よく塩を振って……」
そこまで言った妻は、グッと距離を詰め、僕の腕を両手で掴んだ。
「そう! フームに見せたいものがあるの! 早く早く!」
妻に引っ張られてダイニングルームへ連れてこられた僕は、窓際にあるテーブルの前で開放された。
「イスに座って待ってて! 順番に持ってくるから!」
慌ただしくキッチンの方へ向かった妻を見送った僕は、紙袋からグッドオールドを取り出し、テーブルの中央に置いた。
標準的な形の茶色のボトル。貼り付けられている白のラベルの中央には、地球で使われている文字の一つ、アルファベットでグッドオールドと書かれている。さらにその上には、創業者であろう人物の顔が印刷されていた。シンプルなデザインだが、下手に凝ったものより記憶に残る。
「ねぇフーム、聞いてるの?」
いつの間にか、テーブルの横で、大きな皿を持ったルーナが立っていた。
「ごめん、聞いてなかった! もう一度言ってもらえる?」
「もう一度って言われても、何もしゃべってないんだけどね」
「えっ? じゃあなんで聞いてるのって言ったの?」
妻は僕を優しく無視すると、持っていた大きな皿をテーブルに置いた。
「はい、お待たせしました焼き鳥になります」
皿の上には、まだ調理のされていない焼き鳥、串に刺さった生鳥がいくつも盛られていた。
「いや、あの、焼かれてない……」
「そうだよ」
「そうだよって、じゃあ部屋に少しだけ残ってる焼き鳥のいい香りは?」
「試しに一本焼いた時の残り香でしょ」
「……あっ、なるほど。」
「焼き鳥はこれから一緒に焼くの」
「一緒に? ああ、この前ようやく手に入れたホットプレートで焼くんだね」
ルーナは含み笑いを見せると、またキッチンへ向かった。それにしても、ルーナがたまに見せるあの含み笑い。実は好きだったりする。
「これを使って一緒に焼くの」
キッチンから戻ったルーナが皿の横に置いたのは、小型の焼き鳥用コンロだった。
「どうしたのこれ!」
「探せば売ってるものなのね」
「どこに売ってたの?」
「どこって、私が最近よく行く輸入雑貨店」
「この前に二人で行ったあの店? でもあそこには売ってなかったよね?」
「探す場所が間違ってたの」
「探す場所?」
「ほら、あそこの店主さん、ご両親の跡を継いで店を経営してるだけだから、輸入雑貨というか、星の外の文化に全く詳しくないでしょ?」
「まあ、ニッポンのことを知らないくらいだったからね……」
「前に行った時なんか食器と同じところに植木鉢があったし。でもそれでひらめいたの。もしかしたらってね」
「あ、そういうことか。じゃあ違う売り場に置かれてたんだ?」
「見つけた時はびっくりしちゃった。いろんな置き物の売り場にあってね、商品説明のところに『異星宗教の儀式用ガスランプ』って書いてあるんだもん」
本来の使用法からあまりにかけ離れた商品説明に妻と二人して腹を抱えて笑った。
「もう、お店で笑うのを我慢するのが大変で……」
妻は笑い涙を指で拭うと、三度キッチンへ向かった。それに合わせて立ち上がった僕は、近くの戸棚に手を伸ばした。
オレンジと白のツートーンが特徴的なポップなデザイン。引き戸のガラスには可愛らしい花が描かれている、いかにもショーワレトロらしい戸棚。妻のお気に入りだ。
「ビターオレンジのリキュールにドライベルモット……」
手に取った二つのボトルを、グッドオールドの横へ並べる。ようやく役者が揃った。
「はい、フーム」
声に振り返ると、妻は戸棚と似たデザインのトレーを持っていた。トレーには、ショーゴがくれた二つのロックグラスと、ソーダのボトル、そして、氷を入れておくアイスペールが乗せられていた。もちろん、アイスペールには、ショーゴからもらったアイスメーカーで作った球状の氷が入っていた。
「ありがとう。トレーごともらっちゃうよ」
「うん。それじゃ焼き鳥を焼こうか」
ルーナはコンロのツマミをひねると、専用の網の下で、ガスの青い火が揺らめいた。
「それにしてもルーナ、まさか焼き鳥用のコンロまで用意してくれるとは思わなかったよ」
「だって、前に焼き鳥を食べた時は美味しくなかったじゃない。調理済みの鶏肉を瞬間加熱器で温めたやつ。覚えてる?」
「覚えてるよ。デリバリーで頼んだのも酷かったしね」
「やっぱり、自分で作らなきゃ美味しくならないって思って、ちょっと前から探してたの」
「そうだったんだ」
「あっ、そろそろ焼き始めてもいいんじゃない?」
「じゃあ、とりあえず二本……」
僕が生の焼き鳥に手を伸ばしたその時だった。突然、ルーナが慌てた声を上げた。
「ちょっと待って!」
僕は自分でも驚くほどの早さで、手を縮こめた。光速まではいかなくとも、確実に音速は超えていたと思う。
「どうしたの?」
「ちょっと待って、ちょっと待って」
ルーナが手首の端末を操作すると、部屋の空気の流れが変わった。
「ごめんね。換気機能を一番強くしたの。さっきお試しで焼いた時は一本だけだったけど、今度は数本一度に焼くでしょ?」
「なんだ、そういうことか。てっきり、ルーナが僕より先に焼きたいのかと思ったよ。焼き鳥だけに、ルーナが先を越されて妬いているってね」
無表情のまま僕を見つめるルーナ。そっと視線をそらして黙る僕。そう今この瞬間、時間は微動だにしていない。
「あーあ、フームのせいで焼き鳥が凍っちゃった」
「そんなに寒くないでしょ!」
「コンロの火も消えちゃったし」
「消えてないって!」
「あっ! ほら見て! アイスペールの氷も凍っちゃってる!」
「氷だもの! 氷なんだから凍ってるのが当たり前なの!」
ようやく時間は動き始めた。
「もう、焼き鳥は私がやるから、フームはカクテル作ってよ」
ルーナは僕が持っていた焼き鳥を取り上げ、網の上に乗せた。ジュウと音を立てた焼き鳥は、少量の煙を上げた。
「ねぇフーム。鼻をひくつかせてないで早く作ってよ」
「わかったって、いま作るよ」
ルーナに焼き鳥をまかせた僕は、三本のボトルとトレーを引き寄せた。
「ねぇフーム、また説明しながら作って」
微笑むルーナに、僕は目で返事をした。
「まず、それぞれのロックグラスに球状の氷を入れる。そこへ、豊かで色褪せない香りと味わいを持つグッドオールドを二十ミリリットル注ぐ」
まん丸な氷は、ライ麦で作られた琥珀色の液体をその身にまとった。
「次に、ほろ苦さと甘さを兼ね備えたビターオレンジのリキュールと、ほのかな酸味とスパイスの刺激が特徴的なドライベルモットを、それぞれ二十ミリリットルずつ注ぎ入れる」
僕のつたない説明を聞くルーナは、ロックグラスと僕の顔を交互に見ては、頬を緩ませてクスクスと笑っていた。
「最後に、ソーダを四十ミリリットルほど注ぎ入れる」
そう、僕が作っているのはショーゴの家で飲んだオールド・パルである。
「氷とグラスの隙間に流し込み、ソーダの発泡を利用して、三種類のお酒を混ぜ合わせるのがポイントかな」
はじめは度数の高いオールド・パルを飲みやすくするためにソーダを入れていた。もちろん、今でもそうだが、星に帰ってきてからはもう一つの理由が増えた。
「はい、出来上がり」
焼き鳥のコンロの横から、僕はロックグラスの一つをルーナに渡した。
「フーム風・オールド・パルです」
「あれ、名前変えたの?」
「……デタラメ・オールド・パルです」
デタラメという言葉を聞いたルーナは、うんうんと頷いた。
「デタラメのほうがしっくりくるね」
「なんだかなあ……」
「それじゃあ乾杯しよ」
「うん」
「乾杯の挨拶もしてね」
僕は深く息を吐いて、ロックグラスを手にした。
「えー、今日は僕が地球を出発した日、つまりショーゴとの別れの日です。ショーゴがこの世を去ってから長い時が過ぎ去りましたが、僕とショーゴとの友情は薄れることもなく、今も続いています……」
苦楽を共に過ごしてきた友人は、いつしか親友になる。そして、何かをきっかけに顔を合わせることがなくなってしまい、親友は旧友になる。だが、二度と会えなくなったとしても、友情が腐ることはない。むしろ熟成されていく。
百年千年、それ以上の時が経ったとしても、「あなたの親友は誰ですか?」と聞かれれば、真っ先に思い浮かぶのはショーゴ、君だ。
「それじゃあ、僕の生涯の親友に……」
「私とフームを出会わせてくれたショーゴさんに……」
二人揃って乾杯と言った僕らは、ロックグラスに口をつけた。
「……美味しいね」
「……うん、美味しい」
二人で口に広がる余韻に浸っていると、焼いていた焼き鳥がパチンと音を立てた。
「びっくりした!」
「大丈夫ルーナ? 火傷とかしてない?」
「うん、それは大丈夫。けどびっくりした……」
「もう、食べられるんじゃない?」
「そう……だね」
焼き鳥を一本ずつ持った僕らは、ほぼ同時に頬張った。ハフハフと息を漏らしながら、焼きたての焼き鳥を味わう互いを見て、思わず笑ってしまった。
「ハフハフ言いすぎだよルーナは」
「フームのほうがハフハフ言ってるでしょ。それで? 私の作った焼き鳥の感想は?」
「いやもう、抜群に美味しいよ! 二人でタコ焼き屋をやってもいいくらいだよ!」
「タコ焼き?」
「……あっ、違う違う焼き鳥! 焼き鳥屋をやっていけるくらいに美味しいよ!」
「タコ焼きっていうのは、こう丸くてね、中にタコっていう……」
「言い間違えたの! 焼き鳥だって焼き鳥!」
「タコはね、こんな口しててね……」
口を尖らせ、タコの真似をするルーナに、僕は自分の焼き鳥を献上した。
「あら、ありがと」
ルーナタコは満足したようで、またハフハフと焼き鳥を食べ始めた。
「もう毎日食べてもいいくらい美味しいよね!」
どこかで聞いたセリフに、僕は笑いながら、なんとなく窓の外に目をやった。
窓の向こうには、薄紫の空が続いていた。数え切れない星がきらめき、原色の赤や緑をしたいくつかの惑星が、この星の近くをのんびりと通り過ぎていく。
そんな少し賑やかな故郷の夜空。嫌いなわけではないが、親友を偲ぶ今日という日には、どうしても足らないものがあった。
だが、心配はいらない。それは僕の手の中にある。昔を、思い出をしまいこんだ深みある琥珀の液体に、まん丸で透き通った天体が一つ。あの日、ショーゴの部屋から見た天体が一つ。
僕はもう一度ロックグラスを掲げて、こう言うのだ。
「親友よ、満月は今日も浮かんでいる」
僕が扉を開けて店に入ると、カウンターの奥でイスに座っていた店主が僕を見た。
「いらっしゃい……」
白髪の少し混じった店主は、客である僕への興味を一切見せず、疲れた声で呟くように言った。馴染みの店といっても、僕の来店頻度はそう多くない。店主からしてみれば、たまにやってくる客の一人にしかすぎないのだろう。
「こんばんは」
僕がカウンターへ近づくと、店主はいじっていた古い型の端末を机に置いて、イスからゆっくりと立ち上がった。そして、これといった表情も浮かべず、僕を黙って見続ける。
「すみません。ウイスキーの『グッドオールド』を下さい」
いつもなら「あいよ」と言って、ウイスキーのボトルを棚へ取りに行ってくれるのだが、今日は銘柄を聞いた途端に表情を変え「やっぱりな」という具合に笑い始めた。
僕がどう反応すればいいのか戸惑っていると、店主は笑みを浮かべたまま話し始めた。
「急に笑ったりして悪かったな。そろそろアンタが来る頃なんじゃないかと思って、楽しみに待ってたんだよ」
「楽しみに? 僕のことをですか?」
「ああ、そうさ」
店主は僕を指さすと、カウンターの下からウイスキーのボトルを取り出した。それはグッドオールドのボトルだった。
「あいよ、いつものグッドオールド。仕入れている俺が言うのもなんだが、アンタも随分とマイナーな酒を選ぶよな」
「いえその、亡くなった親友との思い出のウイスキーでして」
「なるほど、そういうわけだったのか」
店主はボトルを茶色の紙袋に入れ、袋の口をクシャっと締めた。
「いちおう聞いておくが、このボトルを家に『転送』するかい?」
「大丈夫です。自分で持って帰るので……」
店主は再び笑い始めた。
「やっぱり自分で持って帰るのか。ウチだって転送装置の保険に入ってるんだぜ? だいたい、帰り道に落として割っちまったらどうするんだ?」
「それはそうなんですけど、どうしても自分の手で持って帰りたくて」
「いや、アンタの自由だからいいんだけどさ。ただ今どき、店へ直接やってくることでさえ珍しいのに、買った物も自分で持って帰るってのはアンタくらいなもんだよ。それに、今日の支払いも現金なんだろうしな」
たまにやって来る客の一人どころか、店に直接やって来る唯一の客として覚えられていた私は、何だか恥ずかしくなってしまい、黙ったまま頷いた。
「やっぱり現金か!」
「はい。あの、ちょうどありますので……」
僕が三枚の紙幣と五枚の硬貨をカウンターに置くと、店主は嬉しそうに金額の確認を始める。
「また『今どき』って言っちまうけど、今どき現金で支払いって聞かないもんな。他所でも現金払いかい?」
「いえ、このウイスキーを買うときだけです。なんというか、本当に思い出の詰まったウイスキーなので、『手に入れた』という実感が欲しくて」
「何となくわかるような気がするよ。なんでもかんでも、手首の端末一つで済むのは味気ないよな。でもあれだな、アンタが持ってくる現金しか見てないから、これが本物かどうかもわかりゃしないよ」
僕が「今日わざわざ予約して銀行へ」と慌てると、店主は手のひらをこちらに見せて、僕の言葉と焦りを遮った。
「冗談だよ、冗談。それにしても、現金を引き落とすのに予約がいる時代になるとはな。そうそう、実はアンタに見せたいものがあるんだよ」
そう言って店主が取り出したのは大きな空のボトルだった。しかし、空のボトルといってもまるっきりではなく、中には紙幣や硬貨などの現金が入っていた。
「これって貯金箱ですか?」
「ああ、アンタが現金で支払うもんだから、おかしな趣味が出来ちまった」
「ちょっと待って下さい! ということは、このビンの中に入っているお金は、全て僕が支払ったものですか?」
「そりゃそうだろ。現金で払うのはアンタしかいないんだからな」
大きなボトルの半分ほどの高さまで積み重なった紙幣と硬貨。その分だけ、あの日から年月が過ぎて去っていったのかと思うと、なんだか目の奥がじんと温かくなってしまった。
「なんだかんだで、すぐに半分まで貯まっちまったな」
筒状に丸めた三枚の紙幣を、店主はビンの中に入れていく。
「あの、すみません。もしよかったら僕にも入れさせてもらえませんか?」
「もちろん。それじゃ頼むよ」
手元に戻ってきた硬貨を、ボトルへ一枚一枚と入れていく。その度に聞こえる硬貨が身を打つ音は、小さな幸せがたまっていく音そのものだった。
「代金はしっかりいただきました。というより貯金されました、だな」
歯を見せ笑う店主につられ、僕も笑う。
「それじゃ、僕はそろそろ」
「そうかい。また来てくれよ、楽しみに待ってるからさ。もう少し貯金したいからな」
「はい、また必ず来ます。貯金のお手伝いに」
店主の朗らかな笑顔に見送られ、僕は紙袋片手に店を後にした。
店を出ると、外はすっかり冬になっていた。そう、私はグッドオールドのことで頭がいっぱいになっていて、地区別季節予報の確認を忘れていた。つまり、超電導ライナーに乗り込むまでの間、僕は秋服のままで冬を過ごさなければならなくなったのだ。
紙袋という手荷物を持っているだけで人目を集めてしまうのに、この寒さの中を秋服というのは恥ずかしいものがある。だが、寒さで身を縮こめている内に、昔の事を思い出した。
そう、親友との出会いの日も、吐く息が白くなる寒い冬だった。
僕は新入社員の頃に、会社のユニークな方針の一つ、「滞在型新人研修プログラム」に参加した。参加の義務はなかったが、全ての費用を会社が持ち、複数ある滞在先も自分で選べるのだ。参加しない理由はない。
そうして、僕が滞在先に選んだのは、不思議の国「ニッポン」だった。上司や先輩から、ニッポンでの仕事・研修はかなりキツイと言われていたが、僕は気にならなかった。子供の頃から行ってみたかったニッポン。いつだって僕の感性に刺激を与えてくれたニッポン。多少のキツさなら耐えられる。
すっかり童心に返った僕は、出発の準備を始めた。しかし、ニッポンに行ける喜びで頭がいっぱいになっていた僕は、到着時のニッポンの季節を調べ忘れ、薄着のまま出発をしてしまった。
そんな浮かれた薄着姿の僕は、ニッポンの冬の空港に降り立った。いくら暖房を効かせているとはいえ、それは冬着姿で暖かいと感じる温度。浮かれた薄着男には悲しいほど寒い。
体を縮こませ、待ち合わせのゲートで僕が待っていると、一人の男が驚いた様子で話しかけてきた。
「あの、すみません」
話しかけて来た男は、フォーマルなスーツに温かそうなダウンジャケットを着ており、気さくで親しみやすい雰囲気を出していた。
「もしかしてフームさんですか?」
僕がそうですと答えると、彼は驚きに笑いを混ぜたような顔を見せた。
「どうしてそんな薄着姿なんですか?」
「い、いえ、到着時の季節を確認するのを忘れてしまって」
「そうでしたか。あ、申し遅れました。私はショーゴといいます。フームさんには私と同じ部署で働いていただきながら、様々なスキルを磨いてもらいます。まあ、私の事はニッポンにいる間の相棒とでも思って下さい。とにかく、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「それで、お荷物の中に冬服は……」
「……入ってないです」
思わず笑ってしまったショーゴは、咳払いをしてダウンジャケットを脱ぎ始める。
「実は空港内にある駐車場が混んでまして、野外の駐車場にしか車を停められなかったんです。すぐそこのゲートから外に出て、五分ほどいったところなんですが、今日はものすごく冷えていまして。なので、良かったら着てください」
ショーゴは爽やかな笑みを見せながら、自分のダウンジャケットを僕に差し出した。私は喉から手が出るほど欲しかった。実際、喉から手が出ていたかもしれない。だが、ニッポンに到着して早々、さすがに情けなさすぎる。私は二つの意味で温かい申し出を丁重に断った。
「えっ、大丈夫ですか! 本当に寒いんですよ?」
「五分ぐらいなら我慢できますので」
「そうですか? では荷物は私が持ちますので。本当にすみません、転送装置が使えなくて」
「あっ、そうでした。なにかあったんですか?」
「ちょっとした騒動がありましてね。誤って恥ずかしいものを、人に見せたくないものを、自宅から国会議事堂に送ってしまった大物議員がいまして」
「そうだったんですか……」
「車に乗ったら詳しく説明します。それでは、私の後についてきて下さい」
「わかりました」
ショーゴは、私の荷物を抱えて歩き始めた。私は、身を縮こませたまま後に続く。
「このゲートから出ます」
そう言ってショーゴがゲートに近づくと、自動ドアが絶妙な速度で開いた。その瞬間、私はダウンジャケットを借りなかったことを激しく後悔した。想像を遥かに超える寒さ。これでは五分という短い時間でも、体の芯まで冷えきり、凍え死んでしまう可能性がある。
「フームさん、大丈夫ですか?」
「は、はい、大丈夫です!」
なぜ「大丈夫」という言葉が出たのかはわからない。原因は未だに不明で、未来永劫、謎のままだろう。
「それでは行きます」
ゲートを出たショーゴの後に、僕は必死になってついていった。
「もう少しで着きますからねフームさん!」
極寒の中、ショーゴは何度か私に話しかけてくれたが、僕は大した返事もできなかった。口を開けたら、冷気が一気に体内に入り込んで、体の内側から凍りついてしまうような気がしたのだ。
「あっ、フームさん! あそこです、あの案内板の横に車がありますから!」
長かった。これほどまでに長かった五分はなかった。
「はい、到着です! ドアを開けます!」
ワゴンの後部座席のドアを開けたショーゴは、僕を見るなり、とうとう声に出して笑い始めた。それは無理もないこと。五分くらい我慢できると言った男が、寒さに青ざめ震えているのだから。
「いやあ、フームさん! 私たちは親友になれると思いますよ! あなたほど面白い方には会った事がない!」
「……どうもです」
その後、本当に親友となったショーゴとの出会いは、そんな寒くて可笑しなものだった。
昔を懐かしみながら歩いていると、いつの間にか駅までやって来ていた。店から駅まで、歩きであればそれなりの距離だったが、楽しい時間というものはすぐに過ぎ去ってしまう。昔の楽しい思い出が、時間を早めたのだろう。
「お客様、お手数を掛けますが、乗車前に手荷物検査をお願いします」
ただ時間というものは、嫌なこと、嬉しくないことが相手だと微動だにしない。現に、手荷物検査を受けている今この瞬間、時間は止まっている。寒さに震えたあの時も、時間は止まっていたのかもしれない。
「お客様、申し訳ありませんが、お荷物のウイスキーが持ち込み規定のアルコール度数を越えていまして。専用のケースに入れての乗車となってしまうのですが、よろしいでしょうか?」
「はい、構いません」
「有料ですが、転送装置もありますけど……」
「いえ、自分で持っていきたいので」
「わかりました。それでは紙袋ごとケースに入れておきます。安全の為にロックを掛けさせていただきますので、到着した駅の専用改札口を通ってロックを解除してください。ケースは、改札脇にあります回収棚へお願いします」
「わかりました。ありがとうございます」
駅員が渡してくれた真っ赤な手荷物専用ケース。万が一に備え、目立つ赤色にということらしいが、ここまで人目を引く状態となってしまえば、もうどうにでもなれだ。
ホームへ出た僕は、ホームドアの前で超電導ライナーを待った。すると、ホームドアの大きなモニターに、最新式転送装置の広告が流れ始めた。まったく、物というのは気楽でいい。暑さ寒さを感じることもなく、一瞬のうちに目的地へ到着出来るのだから。まあ、僕の持つウイスキーは別だけども。
「まもなく、快走ライナー八号が到着します」
アナウンスがホームに静かに響くと、すぐにライナーがやって来た。静かにホームへ進入してきたライナーは、音もなく静かに停車した。それに合わせてというわけではないが、僕も静かにライナーへ乗り込んだ。
二人掛けシートの窓際に座った僕は、すぐに足元のケース置き場にケースを固定した。ほとんど使われることのないケース置き場は、仕事が来たと喜んでいるか、久しぶりの仕事に大慌てしているかのどちらかだろう。
僕がケースを固定し、車内の温かさに喜びを感じていると、ドアが閉まり、ライナーは発車した。もちろん静かに。
発車後、ぐんぐんと加速していくライナー。窓から見える近くの景色は、あっという間にいなくなる。いま何が通り過ぎていったのかさえわからない。だが、遠くに見える雄大なビル群は、街の中央に鎮座したまま動かない。そして陸の灯台と言わんばかりに光を放ち、街を照らし続けていた。そう、あの街は眠ることを忘れているのだ。
すでに最高速度に到達していたライナーは、相変わらず静かだった。揺れの一つも感じない。音も聞こえない。正に快走で快適な乗り心地。だが、こうも静かだとニッポンで乗った「電車」が懐かしくなってくる。
超電導ライナーの故郷であるニッポンには、血管のように電車の路線が張り巡らされていた。だが今はその路線をライナーが走っている。より快適で安全なライナーに電車は仕事を奪われたのだ。だが、一部地域では電車の路線が残されていた。これは数多くいた電車ファンたっての願いを反映したものだった。
しかしながら、この電車という乗り物は、ライナーに比べるとものすごくうるさく、そして揺れる。ただ、それでも人々に愛されていた。実を言えば僕も電車に魅了された一人。ニッポンにいた時は、遠回りになるのにも関わらず、電車を利用して生活をしていた。言葉に出来ない魅力が電車にはあった。
だが、親友のショーゴは全くと言っていいほど電車に魅力を感じていなかった。
それは、仕事帰りに寄った「居酒屋」という所で、酒を飲んでいる時だった。その居酒屋は高架下にあって、時折、電車の出す音と揺れが店にまで届いていた。
「なぁフーム。こんなに騒がしくても電車が好きなのか?」
空港での出会いからだいぶ経ち、すっかり打ち解けていた私とショーゴは、互いに丁寧語を捨てていた。
「好きだよ。なんていうのかな、機械だけど命を感じるというか、そんな感じなんだよ」
「命? お前ってたまに難しいこと言うよな」
「そうかな?」
「そうだよ。でも命を感じるっていうなら、蒸気機関車の方が命を感じるんじゃないか?」
黄金色に輝くジンバックを飲むショーゴは、次第に柔らかく、緩やかな雰囲気になっていく。
「蒸気機関車? ああ、このまえ社員旅行の時に渓谷で乗ったやつ?」
「そうそう。俺もあんときが初めてだったけど、想像以上に迫力があってさ」
「確かにね。本当に生きてるみたいだった。けど、乗る機会がほとんどないし、身近に感じられないんだよね」
「まあ、観光用にいくつか走ってるだけだからな。でもよ、今の時代、電車にだって乗る機会はそうないだろ? 超電導ライナーの時代なんだからよ」
「はあ、電車で溢れていた頃のニッポンに生まれたかった」
悔しがる僕の肩に手を回したショーゴは、それは豪快に笑った。そして「落ち込んでる暇があるなら美味いものを食え」と、焼き鳥を注文してくれた。
この焼き鳥はニッポン特有の食べ物で、竹串というやつに野菜や鶏肉の様々な部位が刺さっていて、それを炭火で焼くのだ。甘辛いタレも美味しいが、シンプルな塩も美味しい。
「焼き鳥って、あの焼き鳥? 僕の大好物の焼き鳥? 毎日食べてもいいくらい美味しい、あの焼き鳥?」
「そうだよ。この店は焼き鳥も美味いんだよ」
「焼き鳥屋じゃない居酒屋にも焼き鳥があるの?」
「あのな、ニッポンじゃ酒が置いてある所に焼き鳥は必ずあるんだよ。運命共同体なんだよ、酒と焼き鳥はな。というか酒飲みと焼き鳥はな」
「そうだったんだ。でもよく行く『メロウアウト』に焼き鳥あったっけ?」
「あそこはバーなんだ、あるわけないだろ」
「でもお酒が置いてあるじゃない」
「バーは酒を楽しむ場所だからないんだよ。本当、酒に関することには疎いな。ほら、焼き鳥きたぞ」
「待ってました!」
ニッポンで食べたあの焼き鳥。あれは史上最高の食べ物かもしれない。あの香ばしい匂いは至高の香り。塩で甘みが増した鶏肉のうま味といったらない。なんだか、ライナーの窓から遠く見えるの街の赤い光が、居酒屋の赤ちょうちんに見えてきてしまう。
そういえば、ショーゴの家でもよく酒を飲んだ。ニッポン特有の狭いアパートの一室。今でも初めて訪れた時の事を覚えている。
あれは、立ち寄ったメロウアウトが臨時休業だった日のことだった。他の店にしようか、そんな案も出たが、ここからなら近いとショーゴが自宅に招いてくれたのだ。
「はい到着、この豪華絢爛なアパートが俺の愛しき我が家だ」
ニッポンではよく見かける二階建てのアパート。年季が少しばかり入っているアパート。それが彼の言う、豪華絢爛な愛しき我が家だった。
「ここの最上階に俺の部屋があるからよ」
「最上階って二階建てじゃない」
「ニッポンジョークだよ。まあいいから行こうぜ。あっ、ここの階段は滑りやすいから気をつけろよ?」
そう僕に注意を促したショーゴは、階段の二段目で足を滑らせた。驚いた顔でこちらを見るショーゴに僕は笑った。
「大丈夫?」
「……押したろ?」
「押してないよ!」
「……呪ったろ?」
「呪ってないよ!」
「……本当かよ? 怪しいもんだよな」
照れ笑いを見せて階段を上がっていくショーゴは、手すりにしっかりと掴まっていた。もちろん、僕も手すりに掴まって階段を上がっていった。
「はい、ここが俺の部屋」
階段を上がった目の前が彼の部屋だった。
「狭っ苦しい部屋だけど、まあ上がってくれよ」
ショーゴは鍵を開け、玄関の扉を開けると、先に入るよう僕を促した。
「それじゃ、お邪魔します」
「はいはい、どうぞ。あっ、そこのスイッチで電気をつけてくれ」
言われた通りに電気をつけた僕は、靴を脱ぎ、もう一度「お邪魔します」と言って奥に進んだ。奥と言っても、申し訳程度の長さしかない廊下を少し進んだだけだが。
「おいフーム、待ってなくていいよ。奥のドアに行けば豪華絢爛な愛しきリビングだからよ」
二度目の「豪華絢爛な愛しき」の信憑性の無さといったらなかった。
「なんだよ、その顔は?」
「わかるでしょ?」
「いいから先に進めって!」
どうせ散らかっているんだろう。そう思いながらドアを開けると、小綺麗なリビングが僕を待っていた。
落ち着いた雰囲気と装いのリビング。そう、それはバーとカフェを融合させたような空間だった。正直、気さくなイメージのショーゴからは想像できないリビングだった。
「なあ、ドアを開けたら中に入れって」
「ああ、ごめん。それにしてもいい部屋だね」
「だろ? 結構こだわってんだよ。まっ、ソファーにでも座っててくれよ。いま酒とツマミの用意しちゃうからさ」
「うん」
窓際に置かれたダークブラウンの二人掛けソファー。その向かいには同じソファーがあり、二つのソファーの間には木製のローテブルが置かれていた。僕は右側のソファーに座るか、左側のソファーに座るか無駄に悩んだが、結局、左側のソファーに座った。
窓からは街の夜景が見えた。二階建てとはいえ高台にあるアパート。遠くの家々の灯りがいくつも見え、あの光の数だけ営みがあるかと思うと、なんだか心が柔らかくなっていく。
「なにをたそがれてんだ?」
手に一枚の大皿を持ったショーゴが、私の顔を覗いてきた。
「いや、良い景色だなって」
「そうだろ? いま酒を作るから、これ食って待っててくれ」
ローテブルに置かれた大皿には、数種類のツマミが乗っていた。
「これってスモークサーモン?」
「スモークサーモンも好きだったろ?」
ショーゴは再びキッチンへ向かった。
「うん、焼き鳥の次に好きだね」
どれだけ焼き鳥が好きなんだと、ショーゴは笑い、グラスと酒のボトルを乗せたトレーを持ってやってきた。
「よし、それじゃ飲むか」
「飲むってどんなお酒?」
「酒に詳しくないフームに教えたいカクテルがあるんだよ。ライウイスキーがベースなんだけどよ」
「ライウイスキー?」
「ああ。ライ麦で作ったウイスキーでな。特に『グッドオールド』って銘柄が美味い」
「グッドオールドね……」
「これを、この氷の入ったミキシンググラスに二十ミリリットル入れる。まぁ二人分だから四十だな」
ボトルより一回りほど大きいガラス製のミキシンググラスには、大きな氷が三つほど入っており、そこへ流し込まれたウイスキーは、きれいな琥珀色をしていた。
「それと、ビターオレンジのリキュールを四十、ドライベルモットを四十。あとはバー・スプーンでクルクルと回す」
「ステアだね?」
その通りと、ショーゴは目で答えた。
「そうしたら、氷が入らないようにグラスに注いで、はい完成」
「なんていうカクテルなの?」
「オールド・パルって名前のカクテルだよ。旧友、古い友人って意味なんだけどな」
グラスに注がれたオールド・パル。きれいな琥珀色を見せていたウイスキーは、リキュールのオレンジ色を身にまとい、深い色合いに変わっていた。その色合いは、どこか長い年月を思わせた。
「じゃあ乾杯だ」
「うん、乾杯」
グラスを少し上に掲げ、乾杯を済ませた僕は、オールド・パルを口にした。
「どうだ?」
ほろ苦く、どこか甘い香りがする。だがウイスキーベースのカクテル、キツさもある。しかし、そのキツさが、苦楽を共にした旧友を思わせるのかもしれない。
「美味しいよ、すごく。ただちょっと強いかな……」
「そうか、フームには少し強かったか。水を持ってきてやろうか?」
「うーん、少しソーダを入れたら良いんじゃないかな」
「それはあれか? オールド・パルに足すって意味か?」
「うん」
僕の提案に、ショーゴは腕を組んで目をつむった。酒を愛するショーゴには、何か引っかかることがあるのだろう。
「ダメかな?」
「家で飲むなら……そうだな。家で作って飲むなら足してもいいかな。店でやったらバーテンダーが悲しむだろうし」
「そういうもの?」
「同じカクテルでも、使う酒や氷、器具や作り方によって味が変わるからな。こだわりを持ったバーテンダーほど悲しむと思うぜ?」
ショーゴはオールド・パルを口に運ぶと、眉間にシワを寄せ、口に広がる旧友を味わった。
「ふー、美味いな。あっ、悪い悪い。いまソーダを持ってきてやるから」
「ごめんね、ありがとう」
「気にすんなよ」
ニッと口角を上げ笑顔を見せたショーゴは、キッチンへ歩いて行く。僕は気になっていたスモークサーモンを口に入れ、再び窓の外へと目をやった。もう酒がまわってしまったのか、先程より夜景が美しく感じられた。
「なんだよフーム、効いちゃったのか?」
キッチンから戻ったショーゴは、僕のグラスにソーダを足してくれていた。
「疲れてたからかなぁ、少し効いたよ」
「悪かったな、ちょっと強さのことまで考えてなかったからよ」
「気にすんなよ」
僕がショーゴの口調を真似て言うと、ショーゴは呆れた笑いを見せて、向かいのソファーにだらしなく座った。
「ぜんぜん似てないからな」
「そうかな」
「そうだよ」
笑いながら外を見たショーゴは、一瞬だけ片方の眉を上げた。
「今日は満月だったのか……」
「えっ、月なんて見えた?」
「フームが座ってる位置からじゃ見えないんだよ。俺がふんぞり返って見える位置に月が出てるんだから。後ろを覗き込むようにして空を見ないとな」
僕は少し身を乗り出し、ショーゴの言う通りにして窓を覗いてみた。すると、星の見えない夜空に、まん丸な月が浮かんでいた。
「夜空なんて滅多に見上げないからな、月を見るのは久しぶりだ」
「それにしても月は綺麗だね。一番好きな天体だよ」
太陽の光が元気をくれる光とすれば、月の光は癒やしをくれる光。こうして眺めているだけで、失った何かが補充されていく。ただ、身を乗り出したまま眺めていると、首の耐久力は減っていく一方だ。
「俺も月が一番好きかな。情緒だとか風情があるからな。何より……」
座り直したショーゴはオールド・パルを飲むと簡潔に言った。
「天体望遠鏡を買わずに楽しめる。月は財布に優しいんだよ」
ショーゴの素朴な理由を思い出し、僕は危うくライナーの中で笑ってしまうところだった。
気がつけば、降りる駅は次となっていた。どうやら、またしても楽しい思い出が、僕の時間を勝手にいじったらしい。楽しい時間は短く感じ、嫌な時間は長く感じる。時間というやつは、僕に恨みでもあるのだろうか?
ライナーから降りた僕は、手荷物を持った乗客専用のゲートを通り、ケースのロックを解除した。無罪放免、釈放された気分で僕は妻の待つ家へと歩き始めた。
正直、僕の歩く速度は少しずつ上がっていた。先ほどのライナーのようにはいかないが、競歩の手前ぐらいまでは加速していた。白状しよう。早く妻に会いたいのである。
僕は世間一般よりも遅くに結婚をした。遅くなった理由は仕事だった。ただ、仕事が忙しくてというわけではない。仕事が楽しく、恋というものが僕の頭の中から抜け落ちていた。
しかしながら人生は面白い。あれだけ抜け落ちていた恋が、とある店で今の妻を一目見た時に戻ってきた。いや、それは正しい表現ではない。ニッポンの漫画じゃないが、ドゥオンッと、ズゴンッと戻ってきたのだ。
もう、妻との出会いは奇跡としか言いようがなかった。世間は転送装置依存症。酒屋の店主が言ったように、今どき店に直接やってくる客などいない。自分自身でも僕くらいなものだろうと思っていた。だが、彼女は店にいた。店員としてではなく、客として。
奇跡はそれだけではない。妻と出会ったその店は輸入雑貨店なのだが、ニッポン文化の「ショーワレトロ」と「タイショーロマン」関連の商品のみを取り扱っている店なのだ。そう、妻は僕と同じく、熱烈なショーワレトロファンだった。
今でも鮮明にその時を覚えている。店内にはニッポンの古い歌謡曲(といっても僕には新鮮だが)が流れていて、裸電球の温かな光が商品を照らしていた。角ばったデザインの扇風機が、かき氷の暖簾や風鈴を揺らしていて、ニッポンで飲んだラムネの味が、思わず口の中に蘇った。
その時だった。店の通路の先から、シュポンッと爽やかな甘酸っぱい音が聞こえてきた。まさかと思い、音が聞こえてきた方へ歩いていく。すると、髪を後ろで結い上げた浴衣姿の女性が、飲料メーカーのロゴが入った真っ赤なベンチに腰掛け、涼しげにラムネを飲んでいたのだ。
口を半開きにした僕が黙って彼女を見ていると、視線に気がついた彼女がこちらを見た。彼女も僕の事を見て驚いていたが、すぐに笑顔で挨拶をしてくれた。
僕はその笑顔の一撃でドゥオンッと心を奪われ、恋というやつをズゴンッと思い出した。
その出会いから結婚までは早かった。妻となった彼女は、ショーワレトロが溢れる我が家で、僕を待っていてくれる。だが、妻との出会いを思い出すと、ショーゴに感謝をせずにはいられない。僕と妻を出会わせてくれたのはショーワレトロだが、そのショーワレトロを僕に教えてくれたのはショーゴだ。
不慣れなニッポンの生活が快適だったのも、ニッポンの様々な文化を深く学べたのも、美味しい料理と酒に出会えたのも、間接的ではあるが、僕と妻が出会えたのも、全てショーゴのおかげだ。彼への感謝を言い尽くすことはできない。
そんな彼がもうこの世にいないかと思うと、どうしても寂しくなって、今生の別れとなったあの日を思い出してしまう。
それは研修を終えた僕が、地球から自分の星へ帰る日のことだった。
地球へと降り立ったあの空港に、僕とショーゴはいた。少しばかり早く着いてしまったので、僕とショーゴは空港内のカフェで他愛もない話をしていた。だが次第に話は、僕の乗る星間高速船の話になっていた。
「なあフーム、もう一回説明してくれよ」
「なんの説明?」
「星間移動の話だよ」
「えっ、また? 昨日の送別会の時にも説明したじゃない。台の上に立ってマイクで説明したでしょ」
ショーゴは鼻で笑って腕を組んだ。
「あのな、百人近く飲み食いする送別会を取り仕切ったのは俺なんだぞ? お前の別れの挨拶だって忙しくて所々しか聞けなかったんだ。つまり、小難しい星間移動の話も所々しか聞けてないんだよ。まあ、とんでもなく長い時間が掛かるってことだけはわかったけどよ」
長椅子に深く腰掛けていたショーゴは、体の横においてある茶色の紙袋を少しだけ見た。あの紙袋には間違いなく僕への送別のプレゼントが入っている。そう思うと、僕はなんだか紙袋を見ることが出来なかった。
「まあ、簡単に説明するとね」
「おう」
「地球から僕の住む惑星までは、ああしてこうして二百年かかるって感じだね」
今度はプッと吹き出して笑うショーゴ。
「いやだから、ああしてこうしての部分の説明をしてほしいんだよ」
「説明って言われても、長期睡眠装置に入って、星間高速船で標準星間移動をすればいいだけだよ。二百年の間ずっとね」
僕は簡単に二百年と言ったが、地球人のショーゴにとっては途方もない時間だ。地球人の寿命はあまりに短い。長生きしたとしても、僕らの平均寿命の二十分の一にも満たない。
地球を出発し、長期睡眠装置に入れば、僕は二百年間眠ったまま。つまり、僕が高速船で一眠りをしている間に、ショーゴはその一生を終えてしまう。そう、この今日という別れは、ただの別れではない。再び会うことの出来ない別れなのだ。
僕はそのときになって、先輩や上司の言っていた「ニッポンでの仕事のキツさ」を知った。
「二百年、二百年か。まったく想像がつかないけど、あっという間なんだろうな」
十八年間というわずかな研修期間で、ショーゴはみるみる老化していった。地球人としては普通のことなのだろうが、僕はなんだか寂しかった。現実には、僕のほうが長生きをして、未来へと進んでいく。なのに、僕だけが置いていかれて、取り残されていくような。
「それにしてもフームは変わらないよな。初めは俺と大差なかったのに」
笑うショーゴの目尻に、新しいシワが刻まれている。
「そうだね。僕もこれだけ差が出るとは思わなかったよ」
「だよな。俺達の関係性を知らない人が見たら、新入社員と上司の関係だと思うだろうな」
「そこまでは思わないって」
「あれ、ちょっと待ってくれ。帰りに二百年ってことは、来るときにも二百年ってことだろ?」
「そうだよ」
「ってことは何か? 二世紀も前に出発してたってことか?」
「地球上で言えばそうなるね。だからショーゴはまだ生まれてないよ」
「二百年前って言ったらウチの会社もないぞ? 今年で創業八十三年なんだから」
「研修先の会社は、長期睡眠から目覚めた後に決めるんだよ。ただ担当社員さんは相当苦労してるよ。あらゆる時間計算をしながら……というか、僕らの星では時間というものが違っていてね? 相対性じゃないとうかね。例えばブラックホールが……」
ショーゴは苦い顔で首を左右に振っていた。
「もういい、もういい。説明してくれと言ったけどもういい。ただでさえ頭がこんがらがってるのに、ブラックホールとかが出てきたら終わり。俺の脳細胞が死んじゃう」
「いやでも、僕らの星の時間の概念とかを知ってもらえれば……」
「時間の概念なんてのは体に毒なんだよ」
ショーゴは物理だ科学だを笑い飛ばした。
「映画とかでもよくあるだろ、タイムパラドックスだっけ? 時間的な矛盾がどうとかってよ。でもな、全部はあの商人のせいなんだよ」
「えっ、どういうこと?」
「どんな盾でも貫ける矛と、どんな矛でも防げる盾を売ってて、その矛でその盾を突いたらどうなるって聞かれたんだろ? そんなもん『やってみなきゃわからねぇ』って言って、その場で突けばよかったんだよ。そうしたら答えが出てたはずだ。そこで商人が荷物まとめて逃げだしたもんだから『矛盾』なんてもんがこの世に生まれちゃったんだよ」
「なるほどね。ん、なるほどなのか? というか、何の話だっけ?」
「忘れたよ」
思わず二人で笑ってしまった。
「……おいフーム、そろそろ時間だぞ」
「本当だ。あと二十分だね」
「ああ、二十分だ」
出発までの二十分。それが僕とショーゴに残された時間だった。
カフェを後にした僕らは、搭乗口までやって来た。荷物は先に転送済み。僕が持っているものといえば、手首に付けた端末一つのみだ。
「フーム」
明らかに照れた声を出したショーゴは、茶色の紙袋を僕に差し出した。
「餞別だ」
「えっ!」
「ワザとらしいんだよ。ずっとこの紙袋をチラチラ見てただろ。まあいいから、受け取ってくれよ」
「ありがとう。中を見てもいいかな?」
「ああ、いいぜ。ほら、袋を持っててやるから取り出せよ。割れ物だから慎重にな」
返事をした僕は、ショーゴの持つ紙袋から木箱を取り出した。ヒノキの木箱というやつだった。
「気をつけて開けろよ?」
黙ってうなずいた僕は、ゆっくりと木箱のフタを取った。
「どうだ、気に入ったか?」
中に入ってたのは二つのロックグラスだった。全体的に柔らかな丸みを帯びたロックグラスで、一般的なものより一回りほどサイズが大きかった。
「黙ったままグラスを見つめてるけど、気に入ったのかよ?」
「もちろん! 気に入らないわけがないよ!」
「それならいいんだけどよ。それにしても苦労したんだぜ、そのサイズを探すの。ほらフームはさ、どんな酒でもロックグラスで飲むだろ? おちょこでジュースを飲みたがる子供みたいによ」
「僕のピュアなところだよね」
「何がピュアだよ。そもそも、ロックグラスに酒をなみなみ注ぐなんてことは……まあいいや。とにかく、故郷の星で一杯やるときに使ってくれよ。あのデタラメなオールド・パルでも作ってさ」
「うん、大切に使わさせてもらうよ! でもなんで二つなの?」
「結婚するかもしれないだろ?」
「僕が?」
「この俺がしたんだぞ? フームだってするさ」
「どうかな、するかな結婚……」
考え込む僕の手からロックグラスを取り上げたショーゴは、木箱へ丁寧にしまった。そして木箱を僕に渡すと、紙袋の中に手を伸ばした。
「もう一つあるんだよ、餞別が」
そう言ってショーゴが取り出したのは、シリコン製のアイスメーカーだった。
「あっ! もしかして!」
「そうだよ。氷を球状に作れるやつだよ。本当はキューブ状に作れるやつをと思ったんだけどさ、丸いロックグラスに合わないと思ってよ」
「ちょっと、一度に四個も作れるって! 知ってた?」
「知ってんだよ俺は! 買ったのは俺なんだから!」
下らないジョークに笑ってしまったショーゴは、木箱とアイスメーカーを紙袋へ戻すと、僕に手渡してくれた。
「……ありがとう」
「そこまで高いもんじゃないから気にすんなよ」
「そうじゃなくて、今日までありがとうって意味」
僕の真面目な声を嫌ってか、ショーゴは僕から視線をそらした。
「そういう意味で言ったとしても、気にすんなよ。俺たちは親友なんだから」
「うん」
互いに見せた笑顔が、寂しさからくるものだと知っている。残り時間が五分もない中、僕らは黙ってしまった。いや、今日までの日々が、一気に押し寄せてきたといったほうが正しいのかもしれない。
「……もう時間だな」
ショーゴはいつものような声を出してくれた。明日また会えるような、いつもの声で。
「うん。それじゃ、そろそろ行くよ」
「なんか悪かったな。昨日の内に餞別を渡しておけば、転送出来たのに」
「いや、大切なものは、やっぱり自分の手で持たなくちゃ」
「そう言ってもらえると助かるよ」
「まあ、気にすんなよ」
ショーゴの口調を真似た僕は、自分自身で可笑しくなって笑ってしまった。そしてショーゴもまた、呆れた笑顔をみせた。
それが、ショーゴとの別れだった。
気がつけば、僕はうつむいて歩いていた。というより、手にぶら下げた紙袋を見ながら歩いていた。そして僕は、自分でも気がつかない内に微笑みを浮かべていた。
ショーゴがこの世にいない事を思い出すと寂しくなるのだが、いつだって最後は笑顔になれる。それは、僕とショーゴで過ごした日々が、別れを上回っているという証拠だ。
置いていかれたわけじゃない、取り残されたわけじゃない。大切なものを両手いっぱいに抱えて、未来へ向かって歩いている。そういうことなのだ。
「ただいま」
ようやく我が家にたどり着いた僕は、玄関を開けるなり元気よく声を出した。というより、元気になってしまう。愛する妻に会えるのだから。
「おかえりフーム。いつものお酒は買えた?」
裸電球が照らす、短い廊下の先から出てきたのは妻のルーナ。ショーワレトロに関して僕よりも詳しい彼女は、今どき珍しいエプロン姿だった。
老若男女問わず、家で料理をするということは、直接店に行き、現金で支払いを済ませ、買った商品を自分で持ち帰ることぐらいに珍しい。いや、それ以上に珍しいことだろう。
「うん、買えたよ。それにね、たまにしか行かないのに、店主さんが僕の事を覚えていてくれてさ」
「覚えてるに決まってるでしょ。店へ買いに行くなんて、今どきフームぐらいしか……今どきフームと私ぐらいしかいないんだから」
そう、僕らは今どき珍しい夫婦なのだ。
「それもそうだね。というか……」
玄関を開けた時から気になっていた部屋の匂い。懐かしく香ばしい匂い。
「これだけいい匂いがするってことは、焼き鳥を買えたんだね?」
少し幼い声を出してしまった僕に、妻は大きく頷いた。
「しかも、調理前の鶏肉を手に入れました!」
自慢げな声を出した妻は、腰に手を当てていた。
「調理前? えっ、ということは、ルーナが焼き鳥を作ったの?」
「もちろん! 切った鶏肉を竹串に刺して、程よく塩を振って……」
そこまで言った妻は、グッと距離を詰め、僕の腕を両手で掴んだ。
「そう! フームに見せたいものがあるの! 早く早く!」
妻に引っ張られてダイニングルームへ連れてこられた僕は、窓際にあるテーブルの前で開放された。
「イスに座って待ってて! 順番に持ってくるから!」
慌ただしくキッチンの方へ向かった妻を見送った僕は、紙袋からグッドオールドを取り出し、テーブルの中央に置いた。
標準的な形の茶色のボトル。貼り付けられている白のラベルの中央には、地球で使われている文字の一つ、アルファベットでグッドオールドと書かれている。さらにその上には、創業者であろう人物の顔が印刷されていた。シンプルなデザインだが、下手に凝ったものより記憶に残る。
「ねぇフーム、聞いてるの?」
いつの間にか、テーブルの横で、大きな皿を持ったルーナが立っていた。
「ごめん、聞いてなかった! もう一度言ってもらえる?」
「もう一度って言われても、何もしゃべってないんだけどね」
「えっ? じゃあなんで聞いてるのって言ったの?」
妻は僕を優しく無視すると、持っていた大きな皿をテーブルに置いた。
「はい、お待たせしました焼き鳥になります」
皿の上には、まだ調理のされていない焼き鳥、串に刺さった生鳥がいくつも盛られていた。
「いや、あの、焼かれてない……」
「そうだよ」
「そうだよって、じゃあ部屋に少しだけ残ってる焼き鳥のいい香りは?」
「試しに一本焼いた時の残り香でしょ」
「……あっ、なるほど。」
「焼き鳥はこれから一緒に焼くの」
「一緒に? ああ、この前ようやく手に入れたホットプレートで焼くんだね」
ルーナは含み笑いを見せると、またキッチンへ向かった。それにしても、ルーナがたまに見せるあの含み笑い。実は好きだったりする。
「これを使って一緒に焼くの」
キッチンから戻ったルーナが皿の横に置いたのは、小型の焼き鳥用コンロだった。
「どうしたのこれ!」
「探せば売ってるものなのね」
「どこに売ってたの?」
「どこって、私が最近よく行く輸入雑貨店」
「この前に二人で行ったあの店? でもあそこには売ってなかったよね?」
「探す場所が間違ってたの」
「探す場所?」
「ほら、あそこの店主さん、ご両親の跡を継いで店を経営してるだけだから、輸入雑貨というか、星の外の文化に全く詳しくないでしょ?」
「まあ、ニッポンのことを知らないくらいだったからね……」
「前に行った時なんか食器と同じところに植木鉢があったし。でもそれでひらめいたの。もしかしたらってね」
「あ、そういうことか。じゃあ違う売り場に置かれてたんだ?」
「見つけた時はびっくりしちゃった。いろんな置き物の売り場にあってね、商品説明のところに『異星宗教の儀式用ガスランプ』って書いてあるんだもん」
本来の使用法からあまりにかけ離れた商品説明に妻と二人して腹を抱えて笑った。
「もう、お店で笑うのを我慢するのが大変で……」
妻は笑い涙を指で拭うと、三度キッチンへ向かった。それに合わせて立ち上がった僕は、近くの戸棚に手を伸ばした。
オレンジと白のツートーンが特徴的なポップなデザイン。引き戸のガラスには可愛らしい花が描かれている、いかにもショーワレトロらしい戸棚。妻のお気に入りだ。
「ビターオレンジのリキュールにドライベルモット……」
手に取った二つのボトルを、グッドオールドの横へ並べる。ようやく役者が揃った。
「はい、フーム」
声に振り返ると、妻は戸棚と似たデザインのトレーを持っていた。トレーには、ショーゴがくれた二つのロックグラスと、ソーダのボトル、そして、氷を入れておくアイスペールが乗せられていた。もちろん、アイスペールには、ショーゴからもらったアイスメーカーで作った球状の氷が入っていた。
「ありがとう。トレーごともらっちゃうよ」
「うん。それじゃ焼き鳥を焼こうか」
ルーナはコンロのツマミをひねると、専用の網の下で、ガスの青い火が揺らめいた。
「それにしてもルーナ、まさか焼き鳥用のコンロまで用意してくれるとは思わなかったよ」
「だって、前に焼き鳥を食べた時は美味しくなかったじゃない。調理済みの鶏肉を瞬間加熱器で温めたやつ。覚えてる?」
「覚えてるよ。デリバリーで頼んだのも酷かったしね」
「やっぱり、自分で作らなきゃ美味しくならないって思って、ちょっと前から探してたの」
「そうだったんだ」
「あっ、そろそろ焼き始めてもいいんじゃない?」
「じゃあ、とりあえず二本……」
僕が生の焼き鳥に手を伸ばしたその時だった。突然、ルーナが慌てた声を上げた。
「ちょっと待って!」
僕は自分でも驚くほどの早さで、手を縮こめた。光速まではいかなくとも、確実に音速は超えていたと思う。
「どうしたの?」
「ちょっと待って、ちょっと待って」
ルーナが手首の端末を操作すると、部屋の空気の流れが変わった。
「ごめんね。換気機能を一番強くしたの。さっきお試しで焼いた時は一本だけだったけど、今度は数本一度に焼くでしょ?」
「なんだ、そういうことか。てっきり、ルーナが僕より先に焼きたいのかと思ったよ。焼き鳥だけに、ルーナが先を越されて妬いているってね」
無表情のまま僕を見つめるルーナ。そっと視線をそらして黙る僕。そう今この瞬間、時間は微動だにしていない。
「あーあ、フームのせいで焼き鳥が凍っちゃった」
「そんなに寒くないでしょ!」
「コンロの火も消えちゃったし」
「消えてないって!」
「あっ! ほら見て! アイスペールの氷も凍っちゃってる!」
「氷だもの! 氷なんだから凍ってるのが当たり前なの!」
ようやく時間は動き始めた。
「もう、焼き鳥は私がやるから、フームはカクテル作ってよ」
ルーナは僕が持っていた焼き鳥を取り上げ、網の上に乗せた。ジュウと音を立てた焼き鳥は、少量の煙を上げた。
「ねぇフーム。鼻をひくつかせてないで早く作ってよ」
「わかったって、いま作るよ」
ルーナに焼き鳥をまかせた僕は、三本のボトルとトレーを引き寄せた。
「ねぇフーム、また説明しながら作って」
微笑むルーナに、僕は目で返事をした。
「まず、それぞれのロックグラスに球状の氷を入れる。そこへ、豊かで色褪せない香りと味わいを持つグッドオールドを二十ミリリットル注ぐ」
まん丸な氷は、ライ麦で作られた琥珀色の液体をその身にまとった。
「次に、ほろ苦さと甘さを兼ね備えたビターオレンジのリキュールと、ほのかな酸味とスパイスの刺激が特徴的なドライベルモットを、それぞれ二十ミリリットルずつ注ぎ入れる」
僕のつたない説明を聞くルーナは、ロックグラスと僕の顔を交互に見ては、頬を緩ませてクスクスと笑っていた。
「最後に、ソーダを四十ミリリットルほど注ぎ入れる」
そう、僕が作っているのはショーゴの家で飲んだオールド・パルである。
「氷とグラスの隙間に流し込み、ソーダの発泡を利用して、三種類のお酒を混ぜ合わせるのがポイントかな」
はじめは度数の高いオールド・パルを飲みやすくするためにソーダを入れていた。もちろん、今でもそうだが、星に帰ってきてからはもう一つの理由が増えた。
「はい、出来上がり」
焼き鳥のコンロの横から、僕はロックグラスの一つをルーナに渡した。
「フーム風・オールド・パルです」
「あれ、名前変えたの?」
「……デタラメ・オールド・パルです」
デタラメという言葉を聞いたルーナは、うんうんと頷いた。
「デタラメのほうがしっくりくるね」
「なんだかなあ……」
「それじゃあ乾杯しよ」
「うん」
「乾杯の挨拶もしてね」
僕は深く息を吐いて、ロックグラスを手にした。
「えー、今日は僕が地球を出発した日、つまりショーゴとの別れの日です。ショーゴがこの世を去ってから長い時が過ぎ去りましたが、僕とショーゴとの友情は薄れることもなく、今も続いています……」
苦楽を共に過ごしてきた友人は、いつしか親友になる。そして、何かをきっかけに顔を合わせることがなくなってしまい、親友は旧友になる。だが、二度と会えなくなったとしても、友情が腐ることはない。むしろ熟成されていく。
百年千年、それ以上の時が経ったとしても、「あなたの親友は誰ですか?」と聞かれれば、真っ先に思い浮かぶのはショーゴ、君だ。
「それじゃあ、僕の生涯の親友に……」
「私とフームを出会わせてくれたショーゴさんに……」
二人揃って乾杯と言った僕らは、ロックグラスに口をつけた。
「……美味しいね」
「……うん、美味しい」
二人で口に広がる余韻に浸っていると、焼いていた焼き鳥がパチンと音を立てた。
「びっくりした!」
「大丈夫ルーナ? 火傷とかしてない?」
「うん、それは大丈夫。けどびっくりした……」
「もう、食べられるんじゃない?」
「そう……だね」
焼き鳥を一本ずつ持った僕らは、ほぼ同時に頬張った。ハフハフと息を漏らしながら、焼きたての焼き鳥を味わう互いを見て、思わず笑ってしまった。
「ハフハフ言いすぎだよルーナは」
「フームのほうがハフハフ言ってるでしょ。それで? 私の作った焼き鳥の感想は?」
「いやもう、抜群に美味しいよ! 二人でタコ焼き屋をやってもいいくらいだよ!」
「タコ焼き?」
「……あっ、違う違う焼き鳥! 焼き鳥屋をやっていけるくらいに美味しいよ!」
「タコ焼きっていうのは、こう丸くてね、中にタコっていう……」
「言い間違えたの! 焼き鳥だって焼き鳥!」
「タコはね、こんな口しててね……」
口を尖らせ、タコの真似をするルーナに、僕は自分の焼き鳥を献上した。
「あら、ありがと」
ルーナタコは満足したようで、またハフハフと焼き鳥を食べ始めた。
「もう毎日食べてもいいくらい美味しいよね!」
どこかで聞いたセリフに、僕は笑いながら、なんとなく窓の外に目をやった。
窓の向こうには、薄紫の空が続いていた。数え切れない星がきらめき、原色の赤や緑をしたいくつかの惑星が、この星の近くをのんびりと通り過ぎていく。
そんな少し賑やかな故郷の夜空。嫌いなわけではないが、親友を偲ぶ今日という日には、どうしても足らないものがあった。
だが、心配はいらない。それは僕の手の中にある。昔を、思い出をしまいこんだ深みある琥珀の液体に、まん丸で透き通った天体が一つ。あの日、ショーゴの部屋から見た天体が一つ。
僕はもう一度ロックグラスを掲げて、こう言うのだ。
「親友よ、満月は今日も浮かんでいる」
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「折り神」とは、古代日本で発祥し、巫一族の手によって密かに現代まで伝承されていた新興の和式錬金術である。霊与紙(ちよがみ)に因果符号である『ヤマト・ルーン文字』で数式を記述し、数式が特定の三次元的配置に組み上がる様に、その霊与紙を『折る』事で物理法則を書き換えてしまうのである。
その業を究極まで修めた者は、『無』から『有』を生み出す事も可能であり、まさしく神の御業であった。
久世遙斗(クゼハルト)は、ごく普通の高校生だった。転校生、巫瑞穂と出会うまでは・・・。彼はその時、己の運命を知ったのだ。古より残された強力な武器を『継ぐ者』である運命を・・・。
そして遙斗は瑞穂の守護者となった。彼女の残酷な運命を知ったからだ。彼女の使う霊与紙は、人の命をエネルギーに変換する反応炉だった。則ち、彼女は自らの命を削り武器にして戦っていたのだ。
瑞穂は人を守り、遙斗は瑞穂を守る。
『魂蟲』と呼ばれるその敵性体は、宇宙開闢の太古からこの宇宙に存在する敵『絶対天敵』として宇宙の全知性体に認識されている脅威だった。
壮絶な戦いの果てに、巫瑞穂と久世遙斗は・・・人類は勝利する。
しかし、それは新たな戦いの始まりだった。
ついに月軌道上に超空間のゲートが開かれる。
そこから現れるのは、新たな絶対天敵か、それとも自らが作り出した『兵器』である人類を収穫する為にやってきた『処理者』たちなのだろうか。
これは、人類文明が新たなステージを迎える黎明期の物語・・・。
月の涙
acolorofsugar
SF
月の上に落ちた涙が蒸発するまでの間、その表面に映ったのがこの物語です。
失われたSFの夢が舞い、その夢により街の形作られる月の上、百の街路の中に百の秘密を隠し持ち、百の秘密の中に百の街路を隠し持つ、その街の中、途方にくれたロボットがいます。
ロボットは自分の主人を探しているようです。何ものもあるはずのこの街には、探し人もきっといるはずなのですが、あまりにあるものが膨大で、何時までたっても見つけることができません。いくら探しても見つからない探し人に、ロボットは雪の降る街の中、疲れ果て、座り込み、夢の中の夢の中の夢の中の夢……その夢の深い階層を落ちて行き、たどり着いた真っ白な場所は何処?
そして始まるロボットの幻想譚。
時の織り糸
コジマサトシ
SF
アパレル業界に身を置く二人の主人公、ユカとハヤカワの物語。時代は2005年…29歳のユカは急成長するアパレルショップのトップ店長として活躍し、充実した日々を送っています。そんなユカが、ほんの少し先…未来を感じる事が出来るという奇妙な能力に気付き、本来の能力をさらに発揮するようになります。一方で2025年、50歳のハヤカワはかつて、ユカと共に成功を収めた人間でしたが、今は冴えない落ちぶれた日々。そんなある日、とあるきっかけで20年前に戻り、再び若き日のユカと出会います。ハヤカワは過去の失敗を繰り返さないために、未来を変えるために奮闘する、過去と未来が交錯するアパレル業界SFストーリーです。
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凄く丁寧によくかけた作品です。面白かったです。ただ、主人公の設定(ネタばれ)はもう少し後で書いたほうがよかったのかもしれないなと思いました。
中七七三さん、ご感想ありがとうございます。
作品を褒めていただき、本当に嬉しいです。ありがとうございます!
ご指摘の部分ですが、私自身、どのタイミングで主人公の設定を明らかにするか非常に悩んで書きました。
この作品のSFの肝のようなところなので、あまり遅らせすぎるとと思い、現在のタイミングになりました。
しかし、今回のご指摘を受け、もう少し後でも良い、ということが分かりました。現在、この作品は電子書籍化をする予定でいますので、もう一度、構成を考えてみます!
今回はご感想、本当にありがとうございました。これを糧としてさらに精進していきます。
ご機会があれば、またよろしくお願いします!
それでは失礼します。