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7.仄かに香る
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今回は、【それぞれの立場からの、それぞれの思い】編です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【エリアードの困惑】
ーーどうしてこんなことになってしまったのかーー
サリアと叔父が王宮から去ってから、なにかと物事がうまくゆかない。
いままで問題なく流れていた執務が、滞る。
陳情者は長い列を作って、いつまで経ってもいなくならない。
ともに過ごす時間が少なくなり、ファムの機嫌が悪くなる。
気晴らしに宴を開いても、趣向がありきたりで面白みに欠ける。
振り返っても、自分の行動にはなんの瑕疵も思いつかない。
王国の次代を担うため、日々研鑽してきた。
大局を見るため、雑事は王を支えるべき、同じ王族である叔父に回していた。
なにが、問題なのだろう。
そして『運命の伴侶』に出会った。
彼女が平民だからといって、なんの問題がある?
将来、国を統べる俺が選んだのに、なぜ異議を唱える。
彼女はいままで狭い世界で生きてきた。
将来王妃となる彼女の見聞を広げるため、市井に連れ出すことの、なにがいけないのだ。
礼儀作法など、王妃より上の位は王たる俺しかいないのだから、最低限でよいだろう。
その『最低限』に達していないと、付けている教育係達が口を揃えていってくる。
そんなことはない。
少なくとも、俺を不快にしないのだから、問題ない。
父上がお戻りになり、ファムを正式に俺の婚約者と認めていただければ、周りの雑音もマシになるだろう。
そうだ。俺の立太子と合わせて国内外にお披露目をすればいい。
うん、いい考えだ。
少し上向かせた気分で、執務机に積み上げられた書類に署名をしていく。
チェックが入っている書類に署名をしていくだけだが、一応、目を通さなくてはならない。
父上からご下問があったとき、答えられるように。
以前父上から、あるひとつの案件を選ばれれて、どうしてこのような対処をしたのか、とご下問を頂き、答えられないことがあった。
それはそうだ。
雑事は叔父上の仕事なのだから。
俺は次期王としてもっと大局的な判断を下さなくてはならないのだから、ひとつひとつの些細な案件に関わり合っている立場ではないのだ。
叔父上もどうせなら注釈をつけておくなど、もっと気を利かせておくべきだ。
やる気が失せて、椅子から腰をあげようとするが、俺の署名を待っている幾人も官僚達からの、無言の圧に、腰をもぞつかせて終わる。
署名済みの書類は奪われるように持ち去られ、未署名の書類が机上を覆わんばかりだ。
しかし、真に緊急な書類はあと拳ひとつ分の高さだ。
この調子なら、ファムと昼食をともにできそうだ。
最近ともにいる時間が少なくなってしまっているので、拗ねられてしまっている。
それも、俺とともにいられない寂しさの裏返しと思えば、可愛いものだ。
王宮の模様替えをしたり、ドレスや宝石を買い漁ったりすることで気が晴れるのなら、好きなようにやらせてやっている。
気を入れ直そうと姿勢を正したところで扉が叩かた。執事が少し扉を開けて誰何するのを押しのけて、ファムが入ってきた。
「エリアード様。お仕事はまだ終わらないんですか?」
ファムの飾らなすぎる言葉や態度に、扉を開けた執事はなにもいわずに目線を下げた。
「ファム。今は礼儀作法の講義を受けていたんじゃないか?」
「そうです。でも、あの先生、意地悪すぎます!ああしろこうしろ、アレはダメコレもダメって。
これみよがしに、ため息なんかつくんです。
きっと、サリア様のお友達だった人じゃないですか?
きっと私をいじめて、王宮から追い出したいんですっ。
あんまりひどいから、出てきちゃいました。
あんな人、クビにしてくだい、エリアード様っ」
今回は、あえてサリアの生まれの公爵家と対立している家から推薦を受けた家庭教師をつけたのだが、ファムには合わなかったようだ。
これまでクビにした教師たちの数は、もう数えるのをやめてしまった。
「わかった。家庭教師は新しい者をつけるよ。
それより、今日は仕事のケリが付きそうなんだ。それより、久しぶりに昼食を一緒にどうだろう」
「ほんとうですかっ。嬉しいです、エリアードさまっ」
ファムが笑う。その笑顔をみると、少し肩が軽くなった気がする。
「でも……」
「なんだ?」
「机の上にはお仕事がいっぱいですわ。あとどれくらい待てばいいんですか?」
本当は今すぐにでも立ち上がりたいが、部屋の空気がそれを許してくれそうもない。
次期王たる俺が、ここまで気を使っているのを、お前らはわかっているのだろうな。
俺の献身を心に刻めよ。
「あと一刻ほどで終わりそうだよ。少し待っていてくれるかい?」
なんとか浮かべた笑顔で、ファムに答える。それなのに、ファムは不満そうに唇を尖らせた。
「えぇー……。私は今すぐエリアード様とご一緒したのに……」
「ファム……」
「あ! でしたら私、お昼は町に出て、ザクト様とカル様といただきますっ。
ちょうど町に新しいお菓子屋さんができたって聞いて、行ってみたかったんですっ。
エリアード様にもお土産を買ってきますねっ」
さも名案、とばかりに身を翻して、そのまま部屋を出ていく。
退出の礼もない慌ただしさだ。
始めは眉をひそめていた官僚や執事たち、側仕えたちも、今はなにもいわなくなった。
あたかも迷い猫でも現れて、暴れて去っていたかだけ、とでもいうように、何事もなかったことにされている。
まったく、なんでこんなにままならないのか。
空いたままの扉を見ていると、かつてそこにあった完璧で洗練されたカーテシーが見えた気がした。
それを振り切るように息を吐き、終わりが伸ばされた執務時間を埋めるべく、次に署名をする書類を眺め始めた。
【執事の思惑】
我が主は、傍から見れば多少奔放ではあっても人畜無害の貴公子だ。
社交界の大勢がそう思っているだろう。
やや近くによると、浮かべている笑顔は無表情と同じであり、公平さは無関心の表れとわかる。
おそらくーー恐れ多いことながら、と加えておくーー国王陛下などはそうお感じになられているのではないか、と思う。
そう見えていないとすれば、重ねて恐れ多いことながら、相当なお人好しか、口にするのも憚り多いことながら、バカではないだろうか。
かつて我が身は国への忠誠を誓った身だが、それが一方的な思い込みだと思い知らされてからは、距離を置くようにしている。
宙ぶらりんに思いを持て余したわたくしにあてがわれたのが、南方出身の朗らかに笑う妃と、その王子の世話だ。
あのテオドール殿下が、幼少の頃は気難しい老人のように表情を変えない幼子だった、といったら誰が信じるだろう。
妃様亡き後、邸に古くから仕えている者だけが知っていることだ。
幼い頃のテオドール殿下は、放っておけば一日中、薄暗い部屋の隅で膝を抱え込んで座っているような子供だった。
それも、じっとりした目で床を睨んだまま。
子どもとしても、付き合いづらい。
俺ーーもとい、わたくしはそれまで騎士として生きてきた。
騎士である自分が、生きがいでもあった。
それを唐突に奪われ、はっきりいってヤサグレていたところを、南方から来た妃に拾われたのだ。
じと目の子どもの養育係兼護衛として。
子どもの扱いなんて知らなかったので、今振り返ればとんでもなく雑に扱っていた。
それこそ、そこいらの騎士見習いの子どものように。
初めて怪我をさせた時は、俺の死因はこれか、と観念したが、妃は笑っただけだった。
王子が転ぶほど外で遊んでいるなんて、と大喜びだった。
王子も、俺に敵わなくて(当たり前だ)悔しがったり、癇癪を起こしたりしたものの、王族に怪我をさせたといって私の手首を切り落としたり、顔面から地面に転ばせたからといって、鞭打ちの刑に処したりはしなかった。
結構な頻度で現れる刺客たちを躱したり、反撃したり、依頼主を吐かせた挙げ句元から断ったり。
そんなことを二人でしながら、ここまできた。
結果として、じと目で床を睨んでいた子どもは、線自体はまっすぐだが、途中で複雑怪奇に屈折を繰り返し、そのくせ伸びている方向は根本からまっすぐライン、というとても面倒くさい性格の王子様になった。
ヘラヘラしている人畜無害の外面だけの付き合いで済んでいる輩を、どれほど羨んだことか。
このまま分厚い外面と、根暗い内面を見ながらお仕えしていくのかと思っていたが……
救世主が現れた。
サリア様だ。
なにがどう、あのひねくれ者の琴線に触れてしまったのかわからないが、母である亡き妃様以外にあれほど執着するのは、初めてのことだ。
残念ながら出来のいい頭で、すべてのことに笑顔で飽きていた主が執着している。
……これを逃す手はない。
幸いなことに、本当に幸いなことに、サリア様も主を憎からず思っておられるようだ。
なんと素晴らしい方だろうか。
これで無理やり監禁したり、怪しい香で洗脳したりせずに、いていただくことができる。
本当によかった。
あとはこのまま、あの性格複雑骨折の主と、末永くともにいていただき、できるだけ幸せに過ごしていただくことを願うばかりだ。
来し方行く末、様々な思いを身の内に潜め、執事であるわたくしは、人に迷惑をかけない範囲での主の幸せを願い、入室の許可をもとめて扉をノックした。
「テオドール様。公爵様からのお返事と、ご所望の物をお持ちいたしました。扉を開けさせていただいてもよろしゅうございましょうか」
【兄王の困惑】
弟からの書簡を握りつぶさないようにするには、いささか自制心が必要だった。
ほんの2か月ほど王都を離れ、その間、問題なく治めてさえいれば、いや、過ごしてえいればなんの問題もないようにしておいたはずなのに、なぜこんなことになっているのだ。
得体のしれない娘にのめり込み、私が定めた公爵の娘を貴族たちの面前で罵倒した挙げ句、婚約を一方的に破棄。
王国でも最有力といっていい後ろ盾を自ら放棄して、その代わりの力も示さずにその娘と遊び呆けている。
付けていた側近たちも、止めるどころか娘に籠絡されているという。
我が息子ながら、どうしようもない。
せめてその娘を公爵と張り合う貴族の養女にしてから娶る約束をして、それから話を詰めるべきだった。
それができないのなら、せめて愛妾にすべきだった。
サリアとて、そのくらいは認めざるを得ないはずだ。
確かに、ひとり息子への教育は甘かった。
母親をなくした子が不憫で、厳しくはできなかった。
それに、弟のテオドールだ。
アレは統治者に向いている。
先が読め、周りの力関係や流れがわかる。
そのうえ発想力も処理能力も十分にある。
唯一なかったのは、王位への野心だけだ。
年の離れた弟だ。
先王は私の次代はテオドールを望んでいた。
それを察してしたから、テオドールはあえて王位への野心がないことを、繰り返し周囲に示してきた。
鮮やかな保身だ。
自らの地位も力も持ったまま、私に感謝すら抱かせている。
私の息子として生まれてきていれば、どれだけよかったか。
愚かな息子は、それを自分の権力と取り違えていた。
テオドールからの書簡には、淡々と状況が記載してあるだけだ。
対してエリアードからの書簡は……
婚約は破棄した。
得体のしれない娘と運命の出会いをした。
結婚して、自分が王になる時(確定事項のように書かれてあった)、王妃につける。
王宮からの報告も、芳しくない。
とてつもなく控えめな表現で、惨状が伝わってくる。
痛んできたこめかみに、指先を当てて揉む。
ここでは如何ともし難いが、できる手は打っておこう。
「誰か。公爵と公子を昼食に招待する。伝令をたてよ」
少しでも挽回できればよいが。
【公爵(サリアの父親)の思惑】
もとからあの馬鹿王子に、サリアはもったいないと思っていたが、こうなるとはな。
サリアからの手紙は、謝罪からだった。
家と王家をつなぐ役割を、果たせなかったことに。
あの子は貴族に生まれた者として、果たすべき役目を理解している。
息子は二人おり、それぞれの出来に満足しているがやはり娘は格別だ。
家のためとはいえ、あんなボンクラに嫁がぜてしまう以上、後継ぎのひとりでも産んでもらえば、あとは好きにさせるつもりだった。
あんな愚か者ーー我ながら罵倒語がとまらんーーに一生を捧げさせるつもりもなかった。
が。
王弟か。
テオドール殿下は出来物だ。
だが、自分の才能を隠しきり、あまりに波風を立てない保身の動きが癪に触っていたが、今はいい。
すべて許す。
なにより、我が愛しの娘を、身の程知らずにも貶めた小僧から見事に救ったのが評価できる。
年はいささか離れているが、まぁ、許してやらなくも、ないかもしれない、といおうか……男親が娘をかっさらう男にいえる最高の賛辞だぞ。
そしてこれは、父親としての『情』の話だ。
公爵家当主としては、テオドール殿下からの書簡に書かれている提案が……唆る。
まさかあのヘラヘラとーー言い直すーーにこやかに、しかし世の中になんの興味も持っていなかったような王弟殿下から、こんな大胆な提案を受けるとは。
大胆な提案と、詳細で緻密な資料と裏付け。
サリアという『餌』から吊り上げた成果としては、こちらのほうが圧倒的に大物だ。
さて、これをどう動かしていけば、我が家の栄につながるか。
この、謀略策略を巡らせる思考こそ、貴族の醍醐味だ。
戸を叩く音に入室を許すと、侍従が王からの手紙を銀のトレイに捧げ持って来た。
昼食を共に、とのことだ。
我らを懐柔しようとする見え見えの手だが、定石としては悪くない。
だが、しかし。
王の方にも、テオドール殿下からの書簡は届いているだろう。
ただし、この『提案』は抜きにして。
「喜んでご相伴の栄に浴する、と使者に伝えろ。それから公子を呼べ」
後との面談の前に我が息子にテオドール殿下からの『提案』を伝えておくか、否か。
我が長子は『公爵家』の跡取りとしては問題ないが、この『提案』を聞いて、王に平常に対面できだろうか。
まだ、無理だろう。
今は、まだ。
であれば逆に、これだけのことができる『娘婿』ができるのは、喜ばしいことだ。
「誰かある」
王の昼食会に出席するため、身支度をするべく、家人を呼びやった。
【サリアの幸福】
もともとエリアード殿下とは、わかりきった政略としての婚約だった。
たまたま年が近いので、恋心、とまではいかないけれど、せめて友情のような、お互いを尊敬できるような関係を築ければと考えていた。
口さがない者たちや、逆に親しい者たちが、エリアード殿下に親しい女性ができたと告げてきても、愛妾ならば仕方がない、と思った。
所詮、王族貴族の結婚とは、家と家とのものであり、お父様が愛情深い方であっても、公爵家が優先される。
わかりきっていたことなのに、エリアード殿下のお心が離れていくのは、寂しかった。
なにか考えていらっしゃるご様子なのは察していたけれど、まさか陛下のご不在を狙って、あのようなことをなさろるとは。
確かに、いささか軽弾みなところもお見受けしていたが、お若さゆえのことであり、そのうち落ち着かれる思っていたのに。
途方にくれていた私を救ってくださったのが、テオドール様。
年も少し離れているし、王子の婚約者の私が浮ついたことができるわけもなかったけれど、お友達の中でも憧れを口にする方は多かった。
貴族の娘として、いずれ家のため政略結婚するとわかっているがゆえに、夢や憧れを楽しんでいたのだと思う。
王弟殿下というお立場と貴公子然としたお姿に憧れる方もいれば、微笑みを絶やさない柔らかな物腰と余裕に頬を染める方もいた。
少し『大人』な方たちは、浅黒い肌とエキゾチックな黒髪。そして時折、近衛兵たちを指導している時の薄着のお姿を見て、熱いため息をついている方もいらした。
陛下からエリアード様の婚約者を任じられてまだ日の浅い時、鍛錬場でテオドール様をお見かけした。
汗で張りついたシャツ一枚のお姿をお見かけした。
騎士たちに混じって剣を振るわれているそのお姿があまりに凛々しく、首筋を伝う汗が、当時の私にはあまりに、その、性的に見えてしまって、頬に血が上って立ち尽くしてしまった。
声も出てしまったらしく、振り返られたテオドール様に微笑みかけられ、隣にいた令嬢が、淑女らしからぬ声を上げて気を失ってしまった方もいた。
助け起こそうと、騎士達が駆け寄ってきたが、それでさらに令嬢達が感極まって倒れていくという混乱が起ってしまった。
テオドール殿下は、令嬢たちの様子が深刻でないのを見て取ると、苦笑しておられた。
そのお顔を見た令嬢達がまた……という悪循環になってしまったので、私は立場もわきまえず、テオドール様に申し上げてしまった。
『テオドール殿下っ。騎士のみなさまを連れて鍛錬場にお戻りくださいませ。でないと、この場が収まりません』
『そうなのか? 非力な我が身ではあるが、か弱い令嬢のおひとりや二人、抱えて運んで行くこともできるが?』
そのお言葉と微笑みに、さらに倒れていく令嬢が増える。
『不要です。今、この場を収めるのに殿下にお願いすることは、一刻も早く立ち去っていただくことですっ』
今思い出しても赤面ものだけれど、不遜にも私は王族である殿下に指図をするというありえないことをしてしまった。しかも、指揮官が兵士にするように、指で鍛錬場を指し示すことまでした。
さすがに周りの者たちが、私の過ぎたふるまいを止めようとする。
テオドール様も、私を見下ろして、キョトンとされた。
私はもう精一杯だった。
顔は熱いままだったし、指差した反対の手は、ドレスをシワになるほど握りしめていた。
王宮の女主人を任された誇らしさもあったが、重責に重荷と感じていた時で、本当に余裕もなにもなかったのだ。
そんな私の手を取ると、テオドール様は片膝を地につけ、指先に唇で触れ、騎士の礼をとってくださった。
『謝罪を。サリア嬢を含め迷惑をおかけした令嬢方に』
そうおしゃると、立ち上がり、騎士たちを鍛錬場に戻るよう命令し、さらに周囲にいた王宮の使用人たちに指示を出し、倒れた令嬢たちを部屋にお連れし休ませること。王宮の医師に診察さること。
それぞれの家に王弟の名で謝罪の手紙を送ることをおっしゃられた。
テオドール殿下にそこまでしていただいて、異議を唱えられるものはいなかった。
あっという間に秩序を取り戻した周囲を、当時の私は呆然と見ているしか出来なかった。
それ以来、テオドール様は私をお気にかけて頂いている……と自惚れにも思っていた。
でもそれは、甥である王子の婚約者として。
自分に必死にそう言い聞かせなくてはならない時点で、私は、私の心はエリアード殿下には添えなくなってしまったのだろう。
婚約者としてアリアード殿下の隣に立ちながら、テオドール様のお姿を探してしまう。
そんな自分がわかってしまったからこそ、贖罪のつもりで、王宮の女主人としての役割は、完璧にこなそうと努めてきた。
この身の忠誠と献身は王国とエリアード殿下へ。
憧れは……テオドール様へ。
心に秘めていたのに、そんな憧れの、でも、立場上遠くから見ているだけだった方の……伴侶になってしまった。
令嬢達が、扇で覆った口元から、熱いため息をつきながら、でも見つめているだけで精一杯だった方から『伴侶』と呼んで頂いている。
父から結婚の了承を得るまで、その……最後、まではしない、とのお約束をして頂きはしたので……その……テオドール様いわく『愛でて』頂いている。
とても、たくさん。
陛下に随行している父様には、謝罪のお手紙を出した。
公爵家に生まれた娘として、政略結婚を破談としてしまったのは、とても申し訳なく思っている。
エリアード殿下のお心をつかめず、王家と公爵家とのつながりを作れなかったのは、ひとえに私の何かが不足していたのだろう。
それでも。
一生誰にも告げず、胸に秘めたまま墓に持っていこうとしてた思いが、花開いてしまった。
これまで育てていただいたお父様に、公爵家に生まれた娘としての責務を果たせず。
兄様や弟には、肩身の狭い思いをさせてしまうかもしれないのに。
それでも。
私はテオドール様から頂いた思いを、なかったことにすることが、できない。
一度得てしまった幸せを手放すことが出来ない私は、なんと欲深いのだろう。
それでも。
私はあの方の『伴侶』として生きていきたい。
テオドール様の隣に立てる人間になりたい。
そしてできれば……あの方に頼っていただけるようになったら、嬉しい。
そう思って、今はテオドール様の領地に関わることを学んでいる。
元々、父様の公爵家領地と隣なので、人や物資の往来も盛んなところで……
資料を読みふけっていると、入室の許可を求めるノックが聞こえた。
侍女が誰何すると、テオドール付きの執事だった。
「おくつろぎのところ恐れ入ります、サリア様。
テオドール様が、よろしければ来ていただけないかと仰せです」
「テオドール様が? えぇ、すぐに参りますと伝えてください」
侍女に身支度を手伝ってもらいながら、これからテオドール様にお会いできると思うと、ここが浮き立つ。
ここのところお忙しそうだったので、ご一緒に過ごしていただける時間が少なかったので、本当に、嬉しい。
憧れだった方が、優しい『伴侶』となっていただいたうえ、王宮から出てきてしまったことで、諸事を仕切る女主人としての仕事も置いてきてしまった。それなのに。
こんなに幸福で、いいのかしら……
はしたないほど軽やかになりそうな足を抑え、私はテオドール様のもとに向かっていった。
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「香る」、とのことで終盤に向けて「匂わせ」てみました!
ちゃんと回収するんだぞ! 自分!
次回は、今回供給不足のいちゃいちゃです。
五感は「聴覚」!
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【エリアードの困惑】
ーーどうしてこんなことになってしまったのかーー
サリアと叔父が王宮から去ってから、なにかと物事がうまくゆかない。
いままで問題なく流れていた執務が、滞る。
陳情者は長い列を作って、いつまで経ってもいなくならない。
ともに過ごす時間が少なくなり、ファムの機嫌が悪くなる。
気晴らしに宴を開いても、趣向がありきたりで面白みに欠ける。
振り返っても、自分の行動にはなんの瑕疵も思いつかない。
王国の次代を担うため、日々研鑽してきた。
大局を見るため、雑事は王を支えるべき、同じ王族である叔父に回していた。
なにが、問題なのだろう。
そして『運命の伴侶』に出会った。
彼女が平民だからといって、なんの問題がある?
将来、国を統べる俺が選んだのに、なぜ異議を唱える。
彼女はいままで狭い世界で生きてきた。
将来王妃となる彼女の見聞を広げるため、市井に連れ出すことの、なにがいけないのだ。
礼儀作法など、王妃より上の位は王たる俺しかいないのだから、最低限でよいだろう。
その『最低限』に達していないと、付けている教育係達が口を揃えていってくる。
そんなことはない。
少なくとも、俺を不快にしないのだから、問題ない。
父上がお戻りになり、ファムを正式に俺の婚約者と認めていただければ、周りの雑音もマシになるだろう。
そうだ。俺の立太子と合わせて国内外にお披露目をすればいい。
うん、いい考えだ。
少し上向かせた気分で、執務机に積み上げられた書類に署名をしていく。
チェックが入っている書類に署名をしていくだけだが、一応、目を通さなくてはならない。
父上からご下問があったとき、答えられるように。
以前父上から、あるひとつの案件を選ばれれて、どうしてこのような対処をしたのか、とご下問を頂き、答えられないことがあった。
それはそうだ。
雑事は叔父上の仕事なのだから。
俺は次期王としてもっと大局的な判断を下さなくてはならないのだから、ひとつひとつの些細な案件に関わり合っている立場ではないのだ。
叔父上もどうせなら注釈をつけておくなど、もっと気を利かせておくべきだ。
やる気が失せて、椅子から腰をあげようとするが、俺の署名を待っている幾人も官僚達からの、無言の圧に、腰をもぞつかせて終わる。
署名済みの書類は奪われるように持ち去られ、未署名の書類が机上を覆わんばかりだ。
しかし、真に緊急な書類はあと拳ひとつ分の高さだ。
この調子なら、ファムと昼食をともにできそうだ。
最近ともにいる時間が少なくなってしまっているので、拗ねられてしまっている。
それも、俺とともにいられない寂しさの裏返しと思えば、可愛いものだ。
王宮の模様替えをしたり、ドレスや宝石を買い漁ったりすることで気が晴れるのなら、好きなようにやらせてやっている。
気を入れ直そうと姿勢を正したところで扉が叩かた。執事が少し扉を開けて誰何するのを押しのけて、ファムが入ってきた。
「エリアード様。お仕事はまだ終わらないんですか?」
ファムの飾らなすぎる言葉や態度に、扉を開けた執事はなにもいわずに目線を下げた。
「ファム。今は礼儀作法の講義を受けていたんじゃないか?」
「そうです。でも、あの先生、意地悪すぎます!ああしろこうしろ、アレはダメコレもダメって。
これみよがしに、ため息なんかつくんです。
きっと、サリア様のお友達だった人じゃないですか?
きっと私をいじめて、王宮から追い出したいんですっ。
あんまりひどいから、出てきちゃいました。
あんな人、クビにしてくだい、エリアード様っ」
今回は、あえてサリアの生まれの公爵家と対立している家から推薦を受けた家庭教師をつけたのだが、ファムには合わなかったようだ。
これまでクビにした教師たちの数は、もう数えるのをやめてしまった。
「わかった。家庭教師は新しい者をつけるよ。
それより、今日は仕事のケリが付きそうなんだ。それより、久しぶりに昼食を一緒にどうだろう」
「ほんとうですかっ。嬉しいです、エリアードさまっ」
ファムが笑う。その笑顔をみると、少し肩が軽くなった気がする。
「でも……」
「なんだ?」
「机の上にはお仕事がいっぱいですわ。あとどれくらい待てばいいんですか?」
本当は今すぐにでも立ち上がりたいが、部屋の空気がそれを許してくれそうもない。
次期王たる俺が、ここまで気を使っているのを、お前らはわかっているのだろうな。
俺の献身を心に刻めよ。
「あと一刻ほどで終わりそうだよ。少し待っていてくれるかい?」
なんとか浮かべた笑顔で、ファムに答える。それなのに、ファムは不満そうに唇を尖らせた。
「えぇー……。私は今すぐエリアード様とご一緒したのに……」
「ファム……」
「あ! でしたら私、お昼は町に出て、ザクト様とカル様といただきますっ。
ちょうど町に新しいお菓子屋さんができたって聞いて、行ってみたかったんですっ。
エリアード様にもお土産を買ってきますねっ」
さも名案、とばかりに身を翻して、そのまま部屋を出ていく。
退出の礼もない慌ただしさだ。
始めは眉をひそめていた官僚や執事たち、側仕えたちも、今はなにもいわなくなった。
あたかも迷い猫でも現れて、暴れて去っていたかだけ、とでもいうように、何事もなかったことにされている。
まったく、なんでこんなにままならないのか。
空いたままの扉を見ていると、かつてそこにあった完璧で洗練されたカーテシーが見えた気がした。
それを振り切るように息を吐き、終わりが伸ばされた執務時間を埋めるべく、次に署名をする書類を眺め始めた。
【執事の思惑】
我が主は、傍から見れば多少奔放ではあっても人畜無害の貴公子だ。
社交界の大勢がそう思っているだろう。
やや近くによると、浮かべている笑顔は無表情と同じであり、公平さは無関心の表れとわかる。
おそらくーー恐れ多いことながら、と加えておくーー国王陛下などはそうお感じになられているのではないか、と思う。
そう見えていないとすれば、重ねて恐れ多いことながら、相当なお人好しか、口にするのも憚り多いことながら、バカではないだろうか。
かつて我が身は国への忠誠を誓った身だが、それが一方的な思い込みだと思い知らされてからは、距離を置くようにしている。
宙ぶらりんに思いを持て余したわたくしにあてがわれたのが、南方出身の朗らかに笑う妃と、その王子の世話だ。
あのテオドール殿下が、幼少の頃は気難しい老人のように表情を変えない幼子だった、といったら誰が信じるだろう。
妃様亡き後、邸に古くから仕えている者だけが知っていることだ。
幼い頃のテオドール殿下は、放っておけば一日中、薄暗い部屋の隅で膝を抱え込んで座っているような子供だった。
それも、じっとりした目で床を睨んだまま。
子どもとしても、付き合いづらい。
俺ーーもとい、わたくしはそれまで騎士として生きてきた。
騎士である自分が、生きがいでもあった。
それを唐突に奪われ、はっきりいってヤサグレていたところを、南方から来た妃に拾われたのだ。
じと目の子どもの養育係兼護衛として。
子どもの扱いなんて知らなかったので、今振り返ればとんでもなく雑に扱っていた。
それこそ、そこいらの騎士見習いの子どものように。
初めて怪我をさせた時は、俺の死因はこれか、と観念したが、妃は笑っただけだった。
王子が転ぶほど外で遊んでいるなんて、と大喜びだった。
王子も、俺に敵わなくて(当たり前だ)悔しがったり、癇癪を起こしたりしたものの、王族に怪我をさせたといって私の手首を切り落としたり、顔面から地面に転ばせたからといって、鞭打ちの刑に処したりはしなかった。
結構な頻度で現れる刺客たちを躱したり、反撃したり、依頼主を吐かせた挙げ句元から断ったり。
そんなことを二人でしながら、ここまできた。
結果として、じと目で床を睨んでいた子どもは、線自体はまっすぐだが、途中で複雑怪奇に屈折を繰り返し、そのくせ伸びている方向は根本からまっすぐライン、というとても面倒くさい性格の王子様になった。
ヘラヘラしている人畜無害の外面だけの付き合いで済んでいる輩を、どれほど羨んだことか。
このまま分厚い外面と、根暗い内面を見ながらお仕えしていくのかと思っていたが……
救世主が現れた。
サリア様だ。
なにがどう、あのひねくれ者の琴線に触れてしまったのかわからないが、母である亡き妃様以外にあれほど執着するのは、初めてのことだ。
残念ながら出来のいい頭で、すべてのことに笑顔で飽きていた主が執着している。
……これを逃す手はない。
幸いなことに、本当に幸いなことに、サリア様も主を憎からず思っておられるようだ。
なんと素晴らしい方だろうか。
これで無理やり監禁したり、怪しい香で洗脳したりせずに、いていただくことができる。
本当によかった。
あとはこのまま、あの性格複雑骨折の主と、末永くともにいていただき、できるだけ幸せに過ごしていただくことを願うばかりだ。
来し方行く末、様々な思いを身の内に潜め、執事であるわたくしは、人に迷惑をかけない範囲での主の幸せを願い、入室の許可をもとめて扉をノックした。
「テオドール様。公爵様からのお返事と、ご所望の物をお持ちいたしました。扉を開けさせていただいてもよろしゅうございましょうか」
【兄王の困惑】
弟からの書簡を握りつぶさないようにするには、いささか自制心が必要だった。
ほんの2か月ほど王都を離れ、その間、問題なく治めてさえいれば、いや、過ごしてえいればなんの問題もないようにしておいたはずなのに、なぜこんなことになっているのだ。
得体のしれない娘にのめり込み、私が定めた公爵の娘を貴族たちの面前で罵倒した挙げ句、婚約を一方的に破棄。
王国でも最有力といっていい後ろ盾を自ら放棄して、その代わりの力も示さずにその娘と遊び呆けている。
付けていた側近たちも、止めるどころか娘に籠絡されているという。
我が息子ながら、どうしようもない。
せめてその娘を公爵と張り合う貴族の養女にしてから娶る約束をして、それから話を詰めるべきだった。
それができないのなら、せめて愛妾にすべきだった。
サリアとて、そのくらいは認めざるを得ないはずだ。
確かに、ひとり息子への教育は甘かった。
母親をなくした子が不憫で、厳しくはできなかった。
それに、弟のテオドールだ。
アレは統治者に向いている。
先が読め、周りの力関係や流れがわかる。
そのうえ発想力も処理能力も十分にある。
唯一なかったのは、王位への野心だけだ。
年の離れた弟だ。
先王は私の次代はテオドールを望んでいた。
それを察してしたから、テオドールはあえて王位への野心がないことを、繰り返し周囲に示してきた。
鮮やかな保身だ。
自らの地位も力も持ったまま、私に感謝すら抱かせている。
私の息子として生まれてきていれば、どれだけよかったか。
愚かな息子は、それを自分の権力と取り違えていた。
テオドールからの書簡には、淡々と状況が記載してあるだけだ。
対してエリアードからの書簡は……
婚約は破棄した。
得体のしれない娘と運命の出会いをした。
結婚して、自分が王になる時(確定事項のように書かれてあった)、王妃につける。
王宮からの報告も、芳しくない。
とてつもなく控えめな表現で、惨状が伝わってくる。
痛んできたこめかみに、指先を当てて揉む。
ここでは如何ともし難いが、できる手は打っておこう。
「誰か。公爵と公子を昼食に招待する。伝令をたてよ」
少しでも挽回できればよいが。
【公爵(サリアの父親)の思惑】
もとからあの馬鹿王子に、サリアはもったいないと思っていたが、こうなるとはな。
サリアからの手紙は、謝罪からだった。
家と王家をつなぐ役割を、果たせなかったことに。
あの子は貴族に生まれた者として、果たすべき役目を理解している。
息子は二人おり、それぞれの出来に満足しているがやはり娘は格別だ。
家のためとはいえ、あんなボンクラに嫁がぜてしまう以上、後継ぎのひとりでも産んでもらえば、あとは好きにさせるつもりだった。
あんな愚か者ーー我ながら罵倒語がとまらんーーに一生を捧げさせるつもりもなかった。
が。
王弟か。
テオドール殿下は出来物だ。
だが、自分の才能を隠しきり、あまりに波風を立てない保身の動きが癪に触っていたが、今はいい。
すべて許す。
なにより、我が愛しの娘を、身の程知らずにも貶めた小僧から見事に救ったのが評価できる。
年はいささか離れているが、まぁ、許してやらなくも、ないかもしれない、といおうか……男親が娘をかっさらう男にいえる最高の賛辞だぞ。
そしてこれは、父親としての『情』の話だ。
公爵家当主としては、テオドール殿下からの書簡に書かれている提案が……唆る。
まさかあのヘラヘラとーー言い直すーーにこやかに、しかし世の中になんの興味も持っていなかったような王弟殿下から、こんな大胆な提案を受けるとは。
大胆な提案と、詳細で緻密な資料と裏付け。
サリアという『餌』から吊り上げた成果としては、こちらのほうが圧倒的に大物だ。
さて、これをどう動かしていけば、我が家の栄につながるか。
この、謀略策略を巡らせる思考こそ、貴族の醍醐味だ。
戸を叩く音に入室を許すと、侍従が王からの手紙を銀のトレイに捧げ持って来た。
昼食を共に、とのことだ。
我らを懐柔しようとする見え見えの手だが、定石としては悪くない。
だが、しかし。
王の方にも、テオドール殿下からの書簡は届いているだろう。
ただし、この『提案』は抜きにして。
「喜んでご相伴の栄に浴する、と使者に伝えろ。それから公子を呼べ」
後との面談の前に我が息子にテオドール殿下からの『提案』を伝えておくか、否か。
我が長子は『公爵家』の跡取りとしては問題ないが、この『提案』を聞いて、王に平常に対面できだろうか。
まだ、無理だろう。
今は、まだ。
であれば逆に、これだけのことができる『娘婿』ができるのは、喜ばしいことだ。
「誰かある」
王の昼食会に出席するため、身支度をするべく、家人を呼びやった。
【サリアの幸福】
もともとエリアード殿下とは、わかりきった政略としての婚約だった。
たまたま年が近いので、恋心、とまではいかないけれど、せめて友情のような、お互いを尊敬できるような関係を築ければと考えていた。
口さがない者たちや、逆に親しい者たちが、エリアード殿下に親しい女性ができたと告げてきても、愛妾ならば仕方がない、と思った。
所詮、王族貴族の結婚とは、家と家とのものであり、お父様が愛情深い方であっても、公爵家が優先される。
わかりきっていたことなのに、エリアード殿下のお心が離れていくのは、寂しかった。
なにか考えていらっしゃるご様子なのは察していたけれど、まさか陛下のご不在を狙って、あのようなことをなさろるとは。
確かに、いささか軽弾みなところもお見受けしていたが、お若さゆえのことであり、そのうち落ち着かれる思っていたのに。
途方にくれていた私を救ってくださったのが、テオドール様。
年も少し離れているし、王子の婚約者の私が浮ついたことができるわけもなかったけれど、お友達の中でも憧れを口にする方は多かった。
貴族の娘として、いずれ家のため政略結婚するとわかっているがゆえに、夢や憧れを楽しんでいたのだと思う。
王弟殿下というお立場と貴公子然としたお姿に憧れる方もいれば、微笑みを絶やさない柔らかな物腰と余裕に頬を染める方もいた。
少し『大人』な方たちは、浅黒い肌とエキゾチックな黒髪。そして時折、近衛兵たちを指導している時の薄着のお姿を見て、熱いため息をついている方もいらした。
陛下からエリアード様の婚約者を任じられてまだ日の浅い時、鍛錬場でテオドール様をお見かけした。
汗で張りついたシャツ一枚のお姿をお見かけした。
騎士たちに混じって剣を振るわれているそのお姿があまりに凛々しく、首筋を伝う汗が、当時の私にはあまりに、その、性的に見えてしまって、頬に血が上って立ち尽くしてしまった。
声も出てしまったらしく、振り返られたテオドール様に微笑みかけられ、隣にいた令嬢が、淑女らしからぬ声を上げて気を失ってしまった方もいた。
助け起こそうと、騎士達が駆け寄ってきたが、それでさらに令嬢達が感極まって倒れていくという混乱が起ってしまった。
テオドール殿下は、令嬢たちの様子が深刻でないのを見て取ると、苦笑しておられた。
そのお顔を見た令嬢達がまた……という悪循環になってしまったので、私は立場もわきまえず、テオドール様に申し上げてしまった。
『テオドール殿下っ。騎士のみなさまを連れて鍛錬場にお戻りくださいませ。でないと、この場が収まりません』
『そうなのか? 非力な我が身ではあるが、か弱い令嬢のおひとりや二人、抱えて運んで行くこともできるが?』
そのお言葉と微笑みに、さらに倒れていく令嬢が増える。
『不要です。今、この場を収めるのに殿下にお願いすることは、一刻も早く立ち去っていただくことですっ』
今思い出しても赤面ものだけれど、不遜にも私は王族である殿下に指図をするというありえないことをしてしまった。しかも、指揮官が兵士にするように、指で鍛錬場を指し示すことまでした。
さすがに周りの者たちが、私の過ぎたふるまいを止めようとする。
テオドール様も、私を見下ろして、キョトンとされた。
私はもう精一杯だった。
顔は熱いままだったし、指差した反対の手は、ドレスをシワになるほど握りしめていた。
王宮の女主人を任された誇らしさもあったが、重責に重荷と感じていた時で、本当に余裕もなにもなかったのだ。
そんな私の手を取ると、テオドール様は片膝を地につけ、指先に唇で触れ、騎士の礼をとってくださった。
『謝罪を。サリア嬢を含め迷惑をおかけした令嬢方に』
そうおしゃると、立ち上がり、騎士たちを鍛錬場に戻るよう命令し、さらに周囲にいた王宮の使用人たちに指示を出し、倒れた令嬢たちを部屋にお連れし休ませること。王宮の医師に診察さること。
それぞれの家に王弟の名で謝罪の手紙を送ることをおっしゃられた。
テオドール殿下にそこまでしていただいて、異議を唱えられるものはいなかった。
あっという間に秩序を取り戻した周囲を、当時の私は呆然と見ているしか出来なかった。
それ以来、テオドール様は私をお気にかけて頂いている……と自惚れにも思っていた。
でもそれは、甥である王子の婚約者として。
自分に必死にそう言い聞かせなくてはならない時点で、私は、私の心はエリアード殿下には添えなくなってしまったのだろう。
婚約者としてアリアード殿下の隣に立ちながら、テオドール様のお姿を探してしまう。
そんな自分がわかってしまったからこそ、贖罪のつもりで、王宮の女主人としての役割は、完璧にこなそうと努めてきた。
この身の忠誠と献身は王国とエリアード殿下へ。
憧れは……テオドール様へ。
心に秘めていたのに、そんな憧れの、でも、立場上遠くから見ているだけだった方の……伴侶になってしまった。
令嬢達が、扇で覆った口元から、熱いため息をつきながら、でも見つめているだけで精一杯だった方から『伴侶』と呼んで頂いている。
父から結婚の了承を得るまで、その……最後、まではしない、とのお約束をして頂きはしたので……その……テオドール様いわく『愛でて』頂いている。
とても、たくさん。
陛下に随行している父様には、謝罪のお手紙を出した。
公爵家に生まれた娘として、政略結婚を破談としてしまったのは、とても申し訳なく思っている。
エリアード殿下のお心をつかめず、王家と公爵家とのつながりを作れなかったのは、ひとえに私の何かが不足していたのだろう。
それでも。
一生誰にも告げず、胸に秘めたまま墓に持っていこうとしてた思いが、花開いてしまった。
これまで育てていただいたお父様に、公爵家に生まれた娘としての責務を果たせず。
兄様や弟には、肩身の狭い思いをさせてしまうかもしれないのに。
それでも。
私はテオドール様から頂いた思いを、なかったことにすることが、できない。
一度得てしまった幸せを手放すことが出来ない私は、なんと欲深いのだろう。
それでも。
私はあの方の『伴侶』として生きていきたい。
テオドール様の隣に立てる人間になりたい。
そしてできれば……あの方に頼っていただけるようになったら、嬉しい。
そう思って、今はテオドール様の領地に関わることを学んでいる。
元々、父様の公爵家領地と隣なので、人や物資の往来も盛んなところで……
資料を読みふけっていると、入室の許可を求めるノックが聞こえた。
侍女が誰何すると、テオドール付きの執事だった。
「おくつろぎのところ恐れ入ります、サリア様。
テオドール様が、よろしければ来ていただけないかと仰せです」
「テオドール様が? えぇ、すぐに参りますと伝えてください」
侍女に身支度を手伝ってもらいながら、これからテオドール様にお会いできると思うと、ここが浮き立つ。
ここのところお忙しそうだったので、ご一緒に過ごしていただける時間が少なかったので、本当に、嬉しい。
憧れだった方が、優しい『伴侶』となっていただいたうえ、王宮から出てきてしまったことで、諸事を仕切る女主人としての仕事も置いてきてしまった。それなのに。
こんなに幸福で、いいのかしら……
はしたないほど軽やかになりそうな足を抑え、私はテオドール様のもとに向かっていった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「香る」、とのことで終盤に向けて「匂わせ」てみました!
ちゃんと回収するんだぞ! 自分!
次回は、今回供給不足のいちゃいちゃです。
五感は「聴覚」!
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