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1.出張と不思議な出会い

出張内容

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  そして何事もなく一週間が経ち、燈の出張当日になった。結局出張先の場所は教えてもらえず、橘部長には「いつもの支度で会社に来て、そのまま応接室に来てくれ」としか言われなかった。支度をしなくていいという事は今日だけの出張なのだろう。それならそんなに遠出はしないはずだ。祥子達に出張に出る事を告げてから応接室に行く。

「……よし」

  スーツをピシッと整えてから、燈は「失礼します」と扉を叩いて応接室に入った。黒くていかついソファが相向かいに置かれており、何処か緊張感を思い起こされる。ソファに挟まれているガラス製のテーブルの上には、同じくガラス製の灰皿が置かれていた。
  橘の姿は無い。燈は落ち着きなく辺りを見渡してから黒いソファに腰掛けた。部屋の中は少々煙草臭い。壁をよく見ると白い壁がヤニで黄ばんでいた。そんな中で、燈は長く息を吐いた。
  出張なんて初めてだ。まだ若手だから一人で行くとは考えにくいのだが、部長も一緒なのだろうか。
  橘は優しいし人望がある。苦手ではないのだが部長と二人きりなのかと考えると妙に緊張してしまう。燈は自分の胸を軽く叩いた。

「……大丈夫。落ち着いて……」

  そして胸に当てた手をピースサインにする。これは誰かに教えてもらったまじないだ。何時、誰に教わったかは覚えていないが、このまじないだけは燈に妙に浸透していた。

「……大丈夫」

  私なら、出来る。そう自分に言い聞かせる。その状態でしばらくいると、応接室のドアが開く音が聞こえた。
  燈は反射的に立ち上がった。入ってきたのは橘だった。

「ああ、もう来ていたんだね。待たせてすまなかった」
「いえ……」
「じゃあ今日の事について手短に話そう」

  橘は燈の目の前に座り、立ちっぱなしの燈に座るよう促した。
  一呼吸、沈黙があった。橘の表情はいつもより険しく見える。いつも笑顔なわけではないのだが、眉間に皺を寄せ、口を真一文字に結ばれていると、怒られるのではないかという緊張感が燈を襲う。だが、今日は怒られに来たわけではない。そう自分に言い聞かせた。橘は深く息を吐くと、ゆっくりと話し始めた。

「……出張の事だが……突然お願いしてすまなかったね。それで、まずは出張の期間なんだが……」

  燈は眉を潜める。何も用意しなくていいと言われたから、てっきり一日かと思っていた。着替えも用意しなくていいと言われたので1日だろうか、と燈が悩んでいる中、橘は気まずそうに後頭部を掻いた。

「出張の期間は一ヶ月だ」
「……えっ!?」

  燈は耳を疑った。一ヶ月といったら海外へ行ってもおかしくない期間。それなのに荷物はこの革製の鞄のみ。財布や携帯はあるが、着替えは勿論入っていない。

「でっでも私何も持ってきてないですよ!」
「……ああ、それなら大丈夫だ。それはこちらが何とかする」
「何とかって…!」

  燈は思わず声を荒げてしまう。女の子の準備は、そんな簡単なものじゃない。それを察して橘が「すまない」と謝って咳払いをした。

「話の続きを聞いてくれ。すぐに言えなかったのは……これは極秘のプロジェクトだからなんだ」
「……え?」

  部長の言葉に燈は面食らう。橘は何故か困惑した表情で机上で手を組んだ。

「このプロジェクトを知っているのは上層部の人間と君だけだ」
「え……えぇ!?」

  橘の更なる爆弾発言に燈は思わず声を上げてしまう。

「……うん。気持ちは分かるよ。……ええと、この出張は若い人を育てる、ものなんだ。多くの若手の中から選ばれたのが……君だよ」
「そ……そうですか……」

  橘の歯切れが悪かった事に少々引っかかったが、燈は数十人いる中で選ばれた。安易に考えていたのに、いきなりのしかかってきた重圧。燈の身体は無意識に震えていた。

「今回の出張は君の想像力を育てさせるためのものだ。そこで色んな事を学んでほしい」
「は、はい……」

  声も一緒になって震えてしまう。

「君には期待しているんだ」

  期待。最初は嬉しかった言葉が、今は重たくてたまらない。怖い。その期待が。重圧が。入社二年目の燈にはその重みに耐えられない。
じわりと涙が滲んだ。

「……柊さん?」

  燈の異変に気付いた橘は声をかける。燈はハッとした。折角声をかけてもらえたというのに、辛いなんて言えない。燈は気付かれないようにさりげなく涙を拭った。

「………あ、や……何でも」

  ありません。そう言おうとした時だった。

「橘さん。そんな言い方したらこの子の重荷になってしまうよ」

  聞き覚えのある男の声。燈はつられて振り返った。

「………あっ」

  燈は声を上げてしまう。燈の背後にいたのは……

「ウィル…さん…!」

  グレーのスーツを纏った綺麗な顔立ちの男。忽然と姿を消したので幻かと思っていた男……ウィルがそこにいた。幻じゃなかったんだ、と安堵すると同時に湧き上がる疑問。

「な、何でここに!?」

  部外者であるはずのウィルが極秘の話をしている最中に現れたので、動揺が隠せない。燈が戸惑っている中、ウィルは穏やかに笑った。

「一週間ぶりだね、柊さん」
「はい、一週間ぶり……なんですけど……!」

  そんな暢気に挨拶をしている場合じゃない。部長だって断りも無く入って来たから怒っているーーしかし、難しい顔の部長の口から出たのは。

「……ウィル。来るのが随分早いじゃないか」
「……え?」

  待っていたかのような部長の言葉に、燈の目が点になる。ウィルは笑いながら燈の隣に座った。

「久しぶりに私の楽しみが出来たからね。待ちきれなくて来てしまったよ」
「……え?  え?」

  何故ウィルがここにいて、そして部長と普通に話しているのか。燈の思考は完全に停止してしまった。それを見兼ねた部長が一つ咳払いをする。

「……順を追って説明しようとしたんだが……ウィルが来てしまったから話がごちゃごちゃになってしまったな…」
「ならまた最初から組み立てればいいよ。私が代わりに説明しようか?」
「……お前の説明だと不安だから、私がするよ。……柊さん」
「は、はいっ!!」

  燈は背をシャンと伸ばして返事をする。

「まずはこの男の話をしようか。この男……ウィルは部外者ではない。こちらの関係者だ」
「え……」

  こちらの関係者。つまりは社員という事になる。しかし、燈は勿論、祥子達もウィルを知る者はいなかった。

「関係者といっても、ここで働いているわけじゃないんだよ。…彼は、この出張の為に呼ばれたんだ。……この出張をサポートする為に」
「え。それって……」
「つまり、彼が君の出張についていくというわけだ」
「……ええ!?」

  バッと勢いよく隣のウィルを見る。ウィルは綺麗に微笑んで頷いた。

「正しくは、私が君を連れていく……だけど」
「ややこしくなるから口を挟むな、ウィル。…すまないね、柊さん。……で、君が行く所についてなんだが……」

  橘がそう言い掛けた時、ウィルが手を突き出して制した。ウィルはにこにこと笑ったまま、表情を崩さない。

「橘さん、話が遅いよ。やっぱり私から説明した方がいいね」
「何を言っている?だから君が話すと話がこじれる……」

  橘が眉間に皺を寄せた時だった。

「黙って」

  ウィルがそう言った瞬間。ポン、という軽い音がしたと同時に。橘の口がジッパーに変わった。
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