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山咲雅斗(23)
楽しい現実
しおりを挟むあれから利恵は何度も俺を買い物へと誘った。俺も利恵とそんなに頻繁に会えるのは嬉しかったから、喜んで行った。俺がたくさんの荷物を持って、彼女は笑顔を輝かせながら俺の少し前を歩いて誘導する。同じ事の繰り返しだが、俺はそれでもよかった。それが、俺の幸せだから。
財布も勿論持っていった。これはデートには必須だ。これがなくちゃ、餌付けできな……違う。デートにならない。
俺の持つこの荷物はどれも高価な物だ。どれだけ甘い密なのだろ……違う!何を考えているんだ、俺は!
あの財布を使い始めてから、俺は少しおかしくなっている。利恵を…彼女を、まるでペットのように思っているのだ。金が一気に手に入ったから、神経がおかしくなってしまったのか?
「雅斗?」
「…!」
利恵の声ではっとする。目の前で、俺の顔を覗き込む利恵と目が合う。そうだ、今は利恵が俺の家に来ているんだ。すっかり自分の世界に入ってしまった。
「ごめん、ちょっとぼうっとしていた…」
「もう、大丈夫ー?」
利恵が笑いながら頭を撫でてきたので、俺は眉間に皺を寄せた。
おい、何撫でているんだ。撫でるのは俺の役目だろう。お前が撫でられる方だ。俺の表情に気付かない利恵は、そのまま俺の背中に腕を回した。俺も利恵の小さな背中に腕を回す。甘い香水の匂いが鼻孔をくすぐった。
「雅斗、好きだよ」
利恵が、欲しかった言葉をくれる。聞いても、聞いても欲してしまう言葉を。
「……うん」
利恵はいい子だ。俺があげれば、きちんと返してくれる。だからご褒美に撫でてあげなくては。利恵のふわふわした髪を優しく触る。利恵はくすぐったそうに身を捩った。
「いい子だね、利恵」
俺は身を離して利恵の顔を見た。その顔は恥ずかしそうに赤らんでいた。
「もう、子供扱いしないでよー」
……子供扱い?ピタリと撫でる手を止めた。
俺は、子供扱いなんてしていない。俺は――子供どころか、人間扱いをしていたか?撫でている時、俺は何を考えていた?
――いい子だね、利恵。
この言葉は彼女をどう思って言ったものだった?恋人?女?子供?人間?………犬?
分からない。分からない分からない分からない!!俺が何を考えているのか、何をしたいのか。今の自分は、自分じゃないみたいだ。どんどんと知らない俺が身体を蝕んでいく。
自分が消えていくような恐怖が俺を襲う。……消えた後には何が残る?怖い。俺が俺じゃなくなるのが。俺が消えても誰も気付かないのが。俺は、俺はどうすれば…?
「…雅斗?」
名を呼ばれて、ハッと我に返る。利恵が心配そうに俺を見つめていた。
「どうしたの…? 震えている」
「えっ」
そう言われて初めて俺の身体が震えている事に気付いた。恐怖のあまり、身体にも出てしまったようだ。まずい、利恵に心配をかけてしまう、と俺は素早く身体を離して笑顔を無理やり作る。
「大丈夫、ちょっと…薬が切れた」
「もう、何それー」
俺の冗談に、利恵は呆れたように笑う。苦し紛れに言った言い訳で、思いついた。このままコンビニに行ってしまおう。その間に心を落ち着かそう。平静を装いながら立ち上がって、財布を手に取ってジーンズの後ろポケットに突っ込んだ。
「ちょっとヤク買いに行ってくるわ。何か欲しいものある?」
「ん、じゃあオレンジジュース」
「わかった、ちょっと待っていて」
「うん……あ、雅斗」
俺は数歩動かした足を止めて振り返ると、利恵はニコリと笑った。
「雅斗は一人じゃないよ。あたしがいるの、忘れないで」
「利恵…」
やっぱり、利恵はいい子だ。俺は心が温かくなっていくのを感じた。
「ありがとう、行ってくる」
利恵を家に置いて、俺は近くのコンビニへと向かおうと家を出た。アパートの階段を降りきった俺は寒空の下、月を見上げる。三日月が綺麗な弧を描いている。月を見るなんて久しぶりだ。黒の中にぽつりと浮かぶ金色。ある一人の魔法使いが思い浮かぶ。
イオリ…もし、財布から魔法が消えてしまっても、俺の幸せは変わらない。俺の隣には利恵がいる。楽ができなくなってしまっても、俺には利恵がいればいい。今は有給を取っているだけで、会社だって辞めていない。現実に戻っても俺の幸せが無くなる事はないんだよ。この財布が無くても俺は……
「……あれ」
後ろポケットをまさぐる。財布が、無い。ポケットに入れたはずなのに。忘れて来たのだろうか。俺はもう一度月を横目で見た後、階段に足をかけた。
ドジだなって利恵に笑われるかな。オレンジジュース買ってこいって怒られるかもな。俺は軽く笑った。
階段を上り、すぐ側に俺の部屋のドアに手を延ばそうとした時、利恵の笑い声が聞こえた。テレビでも見て笑っているのか?……いや、どうやら電話をしているようだ。……誰と話しているんだ?何となく中に入るのを躊躇い、ドアに耳を当てて盗み聞きする。
「あははっ、もう笑うしかないっていうか!」
利恵の笑い声は、蔑むような色が混じっていた。俺は思わずドアから耳を離してしまう。……初めて聞く利恵の声色。嫌な予感がする。でも聞かずにはいられない。俺はまたドアに耳を押し付けた。
「あいつ、私になーんでも買ってくれるのよ! こんなボロアパートに住んでいるんだから金なんて無い癖にね!」
ドクン、と鼓動が重く響く。あいつが、俺の事だというのはすぐに分かった。
「見栄なんて張ってさ。きっと今借金まみれよ! 私の為に尽くしてくれてね。あはははっ!」
俺の中の利恵の笑顔が音を立てて崩れ落ちていく。う…嘘だ。だって利恵は、俺の事が好きだって…
「え? あいつの事何とも思ってないかって? 当然よ! ただの金ヅルとしか考えていないもの」
あれは、あの笑顔は、あの日々は偽物……?目の前がぐにゃぐにゃと歪む。身体の震えは、この寒さのせいだけではない。
なあ、利恵。嘘だろ…?冗談だって、言ってくれよ。しかし、利恵の口は止まらない。どんどんと俺の心をズタズタに切り刻んでいる。
「あんな顔も普通で小さい会社で働く凡人なんて本当は相手にしないし。……あたしには、あなただけだよ」
後半は甘えるような猫なで声で言う。あんなに可愛らしい声だと思っていたのに、今は吐き気がした。利恵は、すでに他のエサ場にいた。……いや、最初からあいつにはエサ場があったんだ。
どす黒い感情が腹から湧き上がるのを感じた。あいつは、俺を、飼い主様を裏切ったんだ。
「あれ、あいつ財布忘れているじゃん! ……中身二千円しかないし! うわーウケる!」
あいつは俺の財布の中身を見たようだ。何て意地汚いメスだ。ちゃんと躾ないからこうなるんだ。……ん?
俺はある事に気付いた。今、何て言った…?二千円しか入っていない―?
おかしい。俺の財布には百万円入っているはずだ。魔法が解けない限り、財布の中身は変わらないはずなのに…
――その財布は、君が目を醒ました時に効力を失うだろう
……まさか。夢が終わって、俺は……目が醒めた?イオリが言っていた俺の夢は。俺が見ていた幻想は。利恵と仲良く一緒にいる事だったんだ。利恵の心は初めから俺にはなかった。最初から、金目当てだった。それに気付く事が、俺の目を醒ます唯一の方法だったんだ。
「はは…」
乾いた笑いが漏れた。俺はドアに耳を押し当てるのをやめて、その場に立ち尽くす。何て滑稽で、残酷な結末なんだ。
「可愛い彼女演じてやる為に、この財布持って行ってあげる事にするね。じゃあまたねー」
会話が切れて、こちらに近付いてくる気配がする。俺は隠れなかった。出迎えてあげようとドアの前で待つ事にした。目の前のドアがゆっくり開き、彼女が姿を現した。俺の姿を確認した瞬間、彼女の顔が一気に青くなる。
「あ……まさ…と」
「何、どうかした?」
俺はいつも以上に優しい笑顔で、彼女に問い掛ける。明らかに聞いていたはずの俺の優しい態度に、彼女は恐怖を感じたようだった。身体が、少し震えていた。俺はゆっくりと彼女の手元に目をやる。そこには黒い薄汚れた財布が握られていた。
「財布、持って来てくれたの? いい子だね」
彼女の手から財布を抜き取り、頭を優しく撫でてあげる。彼女はビクリと肩を震わせた。俺は構わず頭を撫で続ける。
「いい子、いい子」
彼女は怯えた目で俺を見る。おい、何でそんな目をするんだ。俺は褒めているんだぞ、喜べ。
「さっきの……」
「ん? 俺が金ヅルだって話? もちろん聞いていたよ」
それがどうしたの?と聞くと、彼女の表情はみるみる歪んでいき、涙が零れ落ちた。俺は思った。泣き顔汚いな。俺は可愛いのが好きなんだ。やめてくれる?しかし彼女は顔を両手で隠して泣き声を上げ始めた。
うるさいな。近所迷惑になるだろ。無感動の目線で彼女を見ていると、嗚咽を漏らしながら呟く。
「まさっ雅斗が…悪いんだから…ね!」
「……俺が悪い?」
「私の……私に、全く手を出さないからっ…! それを求めて他の男の所に行ったの!」
「そっか」
でもおかしいなぁ。いつも断っていたのはお前の方だったろ。俺は了承を貰えるのを健気に半年も待っていたんだ。即興の嘘にしてはできているかもしれないけれど、俺には通用しないね。
俺はこいつの身体を優しく包んだ。こいつは、俺が騙されたと思ったらしい。泣き真似をピタリと止めた。
「雅斗……ごめんね…やっぱり私には、あなただけだよ…」
こいつは…この家畜は嘘をどんどんと積み重ねていく。俺は思わず噴き出した。
「お前は……まだ俺が信じていると思っていたの?」
「…………え」
家畜は俺の言葉に、身を強張らせた。
「俺、普通の顔で小さな会社に勤めているけど、そこまで馬鹿じゃないんだよ」
今まで聞かせた事のないくらいの俺の低い声に怯え、家畜がヒッと小さく悲鳴を上げる。俺の腕から逃れようとしたが、俺が腕に力を込めたのでそれができなかった。
「自分の保身の為に嘘を重ねて……お前は悪い子だね。躾がなっていないな」
「な……何言って……」
「悪い子にはお仕置きが必要だけど…」
俺は視線を感じて顔を上げた。そこからは俺の部屋の中が見える。
ソファの上に、イオリがいた。最後に会った時のように、優雅にコーヒーを飲んでいる。俺の視線に気付くと、イオリはニコリと笑った。——その瞳は、血のように真っ赤だった。その笑顔を見ながら、俺は呟いた。
「お前は、もうどうしようもないな。だから、いらない」
イオリがパチンと指を鳴らした。それと同時に、右手に掴んでいた財布の感触が、固い物へと変化した。それが何なのか、俺は見なくても分かった。俺はより一層強く家畜を抱きしめる。……逃げられないように。
「な……何………」
家畜は何されるか分からないので、ただ戸惑うだけ。俺は、財布だった物を高く掲げ、そのまま家畜の背中に向けて振り下ろした。
それは、家畜の背中に刺さった。
「ぎっ……」
家畜から醜い声が漏れる。悲鳴を上げられる前に、俺は家畜から身体を離して、細い首を素早く掴んで地面に叩き付けた。何かが折れる嫌な音がした。俺はゆっくりと自分の右手を見つめた。財布だったはずの物体は、先端に赤い液体のついた果物ナイフに変わっていた。刃の部分には、金色の文字。
「……あは」
視界の隅に痙攣をしている家畜が入る。
「あははは、はは」
俺はぎこちなく首を家畜に向けた。家畜は、白眼を剥いて泡を吹いていた。それを見た瞬間、俺の何かが弾けた。
「あはっあはははははははははははははははははは!!」
俺は気絶しているであろう家畜に跨り、ナイフを突き立てた。何度も、何度も。
「俺のやったエサは何処へやった? ここか、ここか? ここかぁ!?」
胸へ、腹へ、顔へ。あらゆる場所へと突き立てて行く。血を浴びて、俺は赤くなる。あの瞳のように。それでも、手は止まらない。刺す度に狂気や憎しみが増大していく。
もう彼女だったものは肉の塊になっていた。それでも俺は刺し続けた。狂気に身を任せて。
「あははハははははははははははハははハはははハ!!」
視界の横で、黒い何かが扉を開けて去って行ったが、俺は気にせず肉を刻み続けた。
――――――
古びた庵の中で、黒がポツリと浮かんでいた。コーヒーを飲みきったカップを見つめ、笑みを浮かべる。
「ね、悪夢から醒めて良かっただろう?」
現実を見た雅人はあんなに楽しそうに笑っていた。…肉塊を刺し続けながら。
「楽しい現実だったでしょ? 雅斗…。金が手に入り、そして彼女の本心が分かって………殺めて。こうもスリリングな生き方なんてできないよ。……あ、そうだ。あの金色の文字、何て書いてあるか教えてあげようか?」
カップの表面に、雅人の顔が映像のように浮かぶ。狂ったように笑いながら、手錠をかけられ、警察に連行される雅斗が。イオリは嬉しそうに笑った。
「あの文字の意味は、“金食い虫のエサ場”、さ」
白いカップを放り投げる。指を鳴らすと、カップは煙を上げて消えた。
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