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しおりを挟む◯県S市
岸辺は重たい頭を抱えながら、ベッドから上体を起こした。
昨夜滅多に飲まない酒に潰れ、そのまま転がり込むように眠ってしまっていた。
窓の向こうを見るに、どうやら既に昼に差し掛かっているらしい。
いつの間にか、時間に左右されないこの生活リズムにも慣れきってしまい、一々時計を確認する習慣が知らぬ間に欠落してしまっていた。
傍に放り出されていた眼鏡を掛けた岸辺は、縺れる足をなんとか動かして肘掛け椅子に腰を下ろすと、煙草に火を付けながら、呆然と窓に目を向けた。
薄鈍色の外界では雨がしとしとと降る音が静かに響いており、未だに節々が痛む身体に心地良い。
街の至る所で初夏の気配を感じることが増えた最近だったが、今日はどんよりとした雲に覆われた梅雨日だった。
湿り気を含んだ空気の中に紫煙を吐き出しながら、目下執筆中の作品について思いを巡らしていると、頭の中に纏わりついていた眠気が漸く覚め始め、腹が控えめな主張を始めた。
冷蔵庫には何か残っていただろうか。そんなことを考えながら、岸辺は未だに安楽椅子から腰を上げられないでいた。
その時、遠くでチャイムが鳴った。
来客が?はて、編集者だろうか。しかし、打ち合わせは今日ではなかったはず。
もう一度大きく紫煙を吸い込むと、岸辺は漸く立ち上がって玄関先に向かった。
岸辺は扉に両手を当てながら、覗き窓を覗いた。
片目に映った視界。その円形全体を覆っていたのは、紛れもない黒。
外側から掌で隠されているのだろうか。
そんな疑問が脳裏を過った数秒後、岸辺は理解した。
それは、人間の目だった。内側から覗いている岸辺と同じように、外にいる人間も覗き窓からこちらを覗いていた。外側からは当然見えない筈なのに、である。
岸辺は完全に意表を突かれ、ワッと声を上げながら後ろに飛び退いた。
「えっ、ああ、すみません」
扉一枚を隔てた向こう側から男性の声が聞こえた。
「怪しいものじゃないんですよ、信じてください」
向こうも自分の存在に気づいたらしく、ドア越しに囁き始める。
「岸辺先生ですよね・・・すみません、以前このマンションに住む友人を訪ねた時に偶然お見かけして」
岸辺は慎重に扉に近づき、ゆっくりと覗き口に目をやった。
先程とは異なりその視界には、真剣な面持ちの青年が立っていた。
「おいおい、勘弁してくれ。そう云うのはお断りなんだ、帰ってくれ」
岸辺は数秒遅れて湧き上がってきた怒りをできるだけ抑えながら、冷静な口調で云った。
「本当に失礼なのは分かっています。でも、どうしても先生に見せたいものがありまして・・・お願いします。少しお時間を頂けませんか」
「見せたいもの?そう云う類のものは編集部に送ってくれ」
「お願いします。それじゃダメなんですよ。今じゃないと・・・今じゃないとダメなんですよ」
青年は円形の視界の中心で、縋るようにこちらを眺めている。
「しつこいなぁ、君。警察の世話にでもなりたいのか」
「頼みますよ、岸辺先生。読んでもらいたいものがあるんですよ、他の誰でもない、岸辺先生あなたに」
そこで岸辺の視線は、傘を持つ右手とは反対の、青年の左手に向けられた。
「その左手に持っているもの、それ。一体何なんだ」
その言葉に、青年は左手に持ったファイルを覗き口の前に向けて、
「小説なんですよ、僕が描いたんです。今読んでもらわないと困るんです」
「どう信じろと?君が新手の泥棒じゃないと証明できるのか」
「そんな、泥棒なんかじゃないですよ。先生何年か前に、実際の島での体験を元にして描いたという作品出していましたよね。僕もそれに倣って、実際の島での出来事を元に作品を描いたんで、それを読んでもらいたいだけなんです。何なら受け取ってくれるだけでも構いませんので・・・ここ、入れておきますね」
青年は今にも泣きだしそうな面持ちだった。
「・・・いいや、その必要はない」
岸辺は掛かっていた鍵を外し、扉を開けた。
「俄然興味が湧いた。入ってくれ」
「えっ・・・本当ですか、有難うございます」
青年は恭しく頭を下げると、持っていた傘と脱いだ靴を丁寧に並べて中に入った。
「そのソファにでも。大したものはないんだが・・・コーヒーでいいかな?」
岸辺は冷蔵庫の中を覗きながら云った。
「あ、コーヒーをお願いします」
青年は部屋を見渡しながらゆっくりとソファに腰を下ろした。
「君、名前は?」
「あっ、失礼しました。私、青池(あおち)と申します。青い池に、愛の都と書いて、青池愛都(あおちあいと)です」
「愛の都?どういう意味が込められているのかな」
青池は曖昧に頷くだけだった。
「学生なのか?見たところかなり若いようだが」
岸辺は青池の風貌を観察しながら続ける。
「ええと、一応社会人と云う身分なのですが・・・もうここ何年も会社には行ってなくて」
「ふうん、まあいい。君のその小説は昼食の後でいいかな」
岸辺は青池の前にコーヒーを差し出すと、自分のコーヒーカップとインスタントラーメンを抱えたまま向かいの席に座った。
そうして、岸辺はリモコンを手に取ってテレビの方に向け、テレビからテレビキャスターの抑揚のない声が聞こえ始めた。
「勿論です・・・先生、家では眼鏡なんですね。それに、カップラーメンなんてお食べになるとは」
「普段はできるだけ自炊をするよう心がけているんだがね。昨日はちょっと用事があって帰るのが遅くなってしまったから、今回は仕方なく」
「成程・・・」
青年は膝の上に乗せた両手をそわそわと動かしながら、顔を横に向けてテレビを眺めている。
そこで、ニュースキャスターが新しいニュースを読み上げる声が二人の耳に入った。
「最近は物騒だねぇ。五人惨殺なんて・・・それに×県って隣の県じゃないか」
「そうですね。でも、先生の以前の作品と同じような感じじゃないですか」
「おいおい、勘弁してくれよ。あれは、小説であってフィクションなんだ。現実と混同してもらっては困るよ」
「・・・そうですよね」
青池は反省したようにそう云って、握ったカップのコーヒーを一口啜った。
岸辺は麺を啜りながら、上目遣いでその様子を観察する。
中肉中背。年齢は・・・二十三位だろうか。
幼なげな丸い目に、高校生と云われても信じてしまいそうな程の童顔。それに反して、黒地の襟付き長袖シャツと黒のジーパンに包まれた彼の体躯はすらりと細く、上背もかなりあるため、全体を通してどこか不均等に感じられる。
先程まで岸辺の脳裏には、この目の前にいる青年が泥棒なのではないかという疑念が未だに残っていたが、彼の態度や表情、視線の動かし方から、それは無いと結論に達した。
しかし、一つ気になる点があった。
黒を基調とした落ち着いた雰囲気の衣服の中で、やけに目立つ燕脂色の革製のグローブ。何故か家に入ってからも外すことなく、今もそのグローブを嵌めた左手でコーヒーカップを持っている。
ここまでバイクで来たのだろうか。しかし、彼の衣服にはどこにも濡れた様子はない。
「君、両手につけてるそれ、外さないの?」
青池は初め何について言われているのか合点がいっていなかったようで、コーヒーカップを握っていた自分の両手を見下ろしたところで、漸く驚きの声を上げた。
「ああ、すっかり忘れてました。バイクに乗って来たんですよ。雨に濡れたヘルメットとジャケットはバイクに置いて来たんですけど、グローブを外すのを忘れてました・・・何してるんですかね、僕」
青池は恥ずかしそうに右手を上げ、頭の後ろを摩りながら云った。
「でもこのままで大丈夫です、もう乾いてますし、指紋付けてしまうのは悪いので」
「何だ君、変わってるね。まぁ君がそうしたいならいいんだが」
岸辺はやおら立ち上がって空になった容器を捨てると、再びポットを持ちながらソファに戻った。
「待たせてすまないね。それで、君が描いたという小説、どういう物なんだい?」
二つのコップにお湯を注ぎ足しながら、岸辺は尋ねた。
「まぁ簡単にいえば、犯人当て小説です。実際の島での体験を元に、推理小説的に再現したものとなっております」
青池は横に置いていたリュックサックから、半透明のクリアファイルを取り出した。
「へえー、懐かしいな。学生の頃はよくやったもんだ。最近少し執筆の方が行き詰まっていてね、何かアイデアをもらえたら良いんだけど」
ポットを台所に置いて再び戻ってきた岸辺は、青池の向かいの席に腰を下ろした。
「そうなれば良いんですが」
そう云って青池は横に置いていたリュックサックから、クリアファイルを取り出し、岸辺の方に向きを変えて置いた。
「こちらです、どうぞ。一応先生を模倣した文体をとったつもりなんですが」
「『隠れた犯人』か・・・」
「はい。紙面にも描いたのですが、一応口頭でもルールを説明させて頂きますね。これから[問題篇]を読んでいただいて、その情報を元に犯人を推理して頂きます。そうして、自分が犯人だと思う人物の名前を僕に伝えてもらって、その後[解答篇]に入ると云う流れになります。ちなみに、犯人当て小説の原則に則り、犯人は必ず一人で、如何なる場合でも共犯は無し。それに犯人を除いた登場人物や地の文が偽証を行うことはありません。どうですか、何か質問はありますか?」
岸辺は無言で頷く。
「ちなみに、地の文が偽証を行うことはありませんが、今回地の文に少し仕掛けのようなものを施しました。それと、名前は変えてありますけど、どこかに僕自身も登場してますので、参考までに。読んでいる途中の質問は厳禁でお願いしますね」
「ああ了解した。僕が読んでいる間、君はあそこの本棚の本でも適当に読んでいてくれ」
岸辺はそう云って視線を原稿に落とした。
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