俺が、恋人だから

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『疾走』

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※性的暴行の被害者についての記述は登場人物の現在の認識であり、決して作者の見解、思想ではありません※


「ごめん、守山くん。オレのこと護ってくれてたんだよな。ごめん……っ。ごめん、ほんとうに」

強い謝意がこめられた、ごめん。
平和は嵐から目が離せなくて、呼吸も、うまくできなかった。
綾野がいつも、なにかやわらかい、やさしい手ざわりの薄い膜越しに平和を見るような眼差しであるのとはまったく違う。
嵐は平和の全部をそのまま見ようとしてくる。浮気を追求されたときも、昨日だってそうだった。
自分に対しても他者に対しても常にまっすぐな、澄んだ双眼。
きっと、自分が嫌いだとか、自分自身に嘘をつくとか、そういう感覚がない人なのだ。
今、平和に向けて吐き出した言葉は重苦しい謝罪であるはずなのに。
嵐の言葉を受けた平和の反応を、欠片ほども見逃さないとでもいうかのように目を逸らさない。
きっと平和が罵詈雑言を返したとしてもすべて正面から受けとめて、彼の何かを少しも汚すことはできない。
そんな嵐が、平和はいつだって羨ましいし、……嫌いだ。
平和が何も反応できないでいると、嵐はさらに続ける。

「兄ちゃんが、芦屋唯司と同じ大学の卒業生なんだ」

唯司の名が嵐の口から出た瞬間、胸のあたりがひやりとした。

「もう守山くんが関わらなくていいように、なんとかできないか、兄ちゃんに事情を話して相談させてほしい」

謝罪と、解決への提案をぼんやりと聞き終える。
よかった、これで大丈夫だとはとても思えない。
唯司は、おかしいのだ。
普通の人間の理屈は通じないし道理も踏みにじるだろう。
平和は身動ぎをして、ベッドのうえに上半身を起こす。ひょうしに綾野の手が離れてしまった。今の接触が最後だと思うとこの会話で冷え切った胸が今度はずきずきと痛む。
平和は綾野を見て、嵐を見た。

「……大丈夫だからふたりは、」

声が濁る。「んんっ」と喉奥の筋肉を刺激して発声を整える。
きちんと伝えなければならない言葉だ。

「大丈夫だから、ふたりは、バスケして」

ハッピーエンドが約束された、青春映画の登場人物でいてほしい。
そんな思いをこめた平和の言葉に綾野と嵐は嵐を見合わせる。
ふたりは無言で会話をして。
それを見ながら浅ましく傷ついている平和にふたり同時に向き直った。
こんな時でも聞きたいのは綾野の声だったが口を開いたのは嵐だった。

「そもそも、オレが原因だから。巻き込んだら、ちゃんと救うべきだと思ってる」

平和は少し意地悪な気持ちで嗤いたくなってしまった。
嵐はきっと、これまでの人生で、ほんとうに頭がおかしい人と接したことがないんだろうなと思ったから。
正義で刀をふるう人に毒ガス入りの手りゅう弾を投げつけるような人が、芦屋唯司だ。
嵐も、嵐の兄も、彼を無難に抑え込んで事態を解決まで導けるとは思えない。
さらに性質が悪いのは、唯司は「自分が頭がおかしい側の人間だ」と自覚がありつつも、自分の人生を良いものにしようという意欲が旺盛なことだ。
彼はきっとこの先、何気ない顔で表の世界を泳いでいきながらも器用に作りあげる安寧の場所は昏く、そこでは歪んだ自分をおおいに解放し、バランスをとって資本主義社会での強者として上手に生きていくのだろう。
そういう人間を、平和は他にも知っていた。

『あんたたちの父親はね、狂ってるの。キ〇ガイなの』

平和が中学3年生になった春。
異母弟が訪ねてきた。
初対面に戸惑う異母兄弟に向かって母がいった言葉だ。
続きがある。

『あの人はさ、自分の気がおかしいって知ってるんだよ。誰よりも自覚してるの。けど、まっとうな人間っぽいことができるか試してるわけ。実験。だから平和、あんたも実験の材料として生まれただけだし、きみも同じ。あの人に生かされて、観察されるだけの存在。私や、きみを生んだ女も全部ね。すっごく、気持ち悪い男でしょ?』

異母弟は、「あんたのほうがきもいわ、ばばあ」と言い捨てて立腹で帰っていった。母は冷めきった笑い声をもらしたきり父のことについても、異母弟についても何も言わなかった。
平和の外見は母似で、父に似たところがほとんどない。
けれど異母弟は父との繋がりを強く感じるほどよく似ていた。
意図せず蘇った過去の空虚な記憶に連なり、季節ごとに会う父の、やたら白い歯を平和は思い出す。
肉が焼ける香ばしいにおいも。
会う度に、何か困ったことがあれば何でも言えといつも笑っている大人の男。
その笑顔には、無遠慮な関心だけがあって、今日にいたるまで平和は父から親子の愛情を感じたことは一瞬たりともない。
彼を「親父」と呼ぶスーツ姿の部下へ向ける眼差しのほうが、よほど情があるといつも思う。
でも、だからこそ。
今の自分の醜態を開示して、助けを求めることへの抵抗は薄い。
そうだ。
こんなにも近くに、唯司と同族で、唯司よりも力を持っている存在がいた。
どうしてもっと早く思いつかなかったのだろう。
平和はふたたび綾野を見て、嵐を見た。

「父さんに、言ってみる」
「え?」

綾野と嵐の声がきれいに重なった。
揃って戸惑った表情を浮かべ詳細をもとめる。
身内の恥をさらすことよりも、ふたりがこれ以上、唯司に関わろうとすることが怖かった。

「父さん、怖い人だから」

平和も父のことはよくわかっていない。
でも、間違った表現ではないはずだ。
嵐と綾野は黙っている。
彼らにとって『怖い人』=『反社会的勢力』とは伝わらないのかもしれない。
もう少し言葉が必要だろうか。

「ふたりは、何もしないで。理由がどうだとしても、……唯くんに従ったのは俺だし、嵐くんのことは、もう、完全に関係ないから」

結局はそういうことなのだ。
こうなった今振り返ると、きっかけに嵐の存在があったとしても、それは唯司のこじつけでしかなく、おぞましい取り引きを持ちかけてきた時点で父に相談することもできた。
けれど平和は、芦屋唯司という男の深淵を甘くみていた。
結果的に綾野を裏切り、傷つけ、嵐まで巻きこんでいる。
父に頼ることをすっかり決意した平和の言葉を、綾野はただ静かに聞いていた。
だが嵐は、わかりやすく納得がいかない顔だ。
心配なのでもう一押ししておこう。

「お兄さんには、何も話さないで」

みっともない自分の恥態を、という意味をこめる。
綾野や嵐からしたら平和は性的暴行の被害者という図ができあがっているのだろう。でも、平和は自分をそういう立場に置くことはどうにも違うと思った。
唯司の要求に従ったのは平和の選択であって、一方的に踏みにじられたわけじゃない。
綾野以外の男と、同意の上でそういう行為をした。
不貞は事実だ。
平和は自分自身を粗末に扱うことで、嵐を救えると思った。
それくらいしかできることはないと思った。
馬鹿だった。
無茶だった。
ただ、それだけ。
とりかえしのつかない選択をしたってだけなのだ。
そんな人間の後始末を誰かがするとしたら、やっぱり、この世に産み落とした親しかいない。
父も、母も、守山平和というひとりの人間に興味がなくとも。
人間として生かしているのだから、少しは手を貸してくれてもよいだろう。
少し、衝撃を受ければいいとも思う。
ああ自分がこの世に生みだしたものはこんなにもぐちゃぐちゃな状況に陥っているんだなと、少しは、後悔したり、申し訳なく思ったり、……可哀想だと思って、苦しめばいいのだ。

◆ ◆ ◆

水分をとり、体温の計測は拒否し(「体温計がない」との理由だった)、食事のすすめも断りふたたびベッドに戻った平和はあっという間に寝てしまった。
椿と嵐は床に座ったまま、静かに眠る平和の背中を見つめている。
家主に会話の体力がないとき、そもそも無断侵入であるふたりはさっさと帰るべきだとはわかっていた。けれど鍵を開けたままになることがどうしても気掛かりだ。
嵐は昨日より片付いた室内に視線をめぐらせ、棚に並んだ2つの缶箱をみつけた。
椿には昨日の出来事と、原因となった自分への一方的な恋心を話していたが、あの缶箱のことや、平和との細かなやりとりなどは省略した。
椿には言わないという約束のほとんどを破ったが、少しは守りたかった。
でも今、疲れ果てたような目で眠る平和を見つめる椿は、あの缶箱の中身を知ってもたいして表情を変えない気がする。
恋人である嵐が、兄弟のような存在の嵐を護るためにとった行動は、彼をおおいに混乱させているのだろう。
無言の時間が長いと、椿の思考が嫌な考えで埋まりそうだ。
そう判断して嵐は口を開く。

「守山くんのお父さん、普通じゃない感じの人なのかな」

ひそめた声で訊くと、椿は平和を見たままで答える。

「わかんない。聞いたことないから」

ああ。苦笑だ。
付き合いの長い嵐には、椿が言葉にしない部分まで簡単に読み取れてしまう。
とんでもない状況に陥っている平和のことを、恋人である自分が、いちばん最後に知った。
それも平和本人からではなく嵐から聞かされた。
さらには問題解決のために頼る人物も、椿ではない。
嵐の兄である凪や、情報をほぼ知らない平和の父親なのだ。
──もし。
もし、自分が平和の恋人だったら。
嵐は考えた。
寂しくて、悔しいだろうなと。
無力さに苦笑いしてしまうだろうなと。
かける言葉は見つからないし、無理に言葉を求めていないことも伝わっている。
嵐にできることは恋人たちをふたりにさせてあげることだけだった。

「オレ、部活戻るよ。椿は守山くんが起きるまで、傍にいてあげな」
「ん。……ごめんね、嵐」
「なんのごめん?」
「へーわが、……ちょっと間違った選択したから。嵐も傷ついたでしょ」
「は……?」

壁際に置いたエナメルバッグに伸ばしていた手が空中でとまる。
聞き間違いかと思った。……聞き間違いであってほしい。

「何言ってんの、椿……間違った選択とか、なに?」

芦屋唯司の狡猾さに追い詰められて、苦しみながら選択したことなんて平和本人からはっきり聞かなくとも容易にわかる。
椿は平和を見たまま答えようとしない。
でた、昔からこうだ。
嵐と意見が違うとき、話し合いを拒否する。
心を閉ざして、意見をぶつけ、そのうえでわかりあうことを拒む。
滅多に意見が割れないからこういう瞬間は多くないが、嵐は椿の直してほしいところをあげろと言われたら一番にこの対応を言いたい。

「椿、正気?」

答えない。
どうやら正気なのだろう。
嵐は昨日、泣きじゃくりながら芦屋唯司に犯されていた椿のようすが頭から離れない。

「椿。こっち見ろ」

声に抗議と、怒りをはっきりこめた。
椿は一度ゆっくりとまばたきをして、どうしてか自分が被害者のような傷ついた表情を浮かべて嵐を見た。
そんな顔されたら嵐の怒りは瞬時にしおれてしまう。
喉元までこみあげていた異議が引っ込んだ。
嵐の戦意喪失を正確にさとった椿は、

「へーわは、芦屋唯司に、従うべきじゃなかった」

また言った。
平和の選択が間違いだと。

「俺に、話すべきだった。役に立たないかもだけど……てか普通の高校生だからそりゃ役に立たないけど、嵐を護るためだからってひとりで決めてあんな動画……っ。どんな理由があっても、へーわのやったこと、嵐のためにありがとうって100%の気持ちでは俺は言えない。自分を粗末にすることを肯定したらへーわは、いつかもう、謝ったり叱ったりできないところまで離れていっちゃう気がするから」

(あ──……そうか)

嵐はさっきとはべつの意味で、言葉を失う。
椿が、平和のことを嵐なんかよりずっと深く思ってそう言っているのだと理解したから。
……でも。
それでも。

「椿の言うこと……わかるよ。けど絶対、守山くんに言ってほしくない。叱ったりとか、してほしくない」
「へーわには言わないよ。……嵐にしか言えない」

声は弱弱しくなって、ああこんなことにオレの大事な唯一の相棒は巻き込まれてしまったんだなと、嵐はいまさら自分たちが日常から遠くかけ離れた状況に置かれていることを痛感した。
膝上で筋が浮き出るほど握りしめられた椿の拳に、手のひらを重ねて、ぎゅっと力をこめる。

「うん、……うん、ごめん椿。オレには話して。なんでも」
「うん」

この日、嵐はひとり平和の家を出て、学校まで疾走した。
途中で雨がふってきたけれど鞄の中の折り畳み傘を出すことはなく、ひたすらに全速力で、息をきらして、ただただ走った。
あとから思うと、追いつかれてはいけない感情から逃げていたんだと思う。
6月の初旬。
高校2年生だったあの日。
前年より10日も早く、東海地方の梅雨入りが発表された。
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