俺が、恋人だから

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『息つぎ』

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「椿(つばき)は、どうして守山くんを好きになったの?」

平和(ひらかず)と恋人同士になったことを嵐(あらし)に報告した時、最初に返ってきた言葉はそれだった。
部活の朝練に向かう通学路。
晴れた初夏の空のしたに続く住宅街の広くも狭くもない歩道。
椿より5,3センチメートル低いところにある嵐のまっすぐな澄んだ瞳には、生まれてから今日まで誰よりも深くつながってきた自分たちの間に現れた新たな登場人物を歓迎する無条件の愛がきらめいていたと思う。
綾野椿と、伊藤嵐。
幼い頃から属してきたすべてのコミュニティで、ふたりの親密さは絶対的だった。
幼馴染。
親友。
兄、弟。
相棒。
常にスポーツに誠実であろうとするひとりの人間としては、ライバルでもある。
ふたりをしっくりと結ぶことができない絆のカテゴリーは『恋人』くらいだと笑いながら言ったのは嵐の兄だったか。
血の繋がりがない他人と、こうまでも深い関係になれるのは稀なことだと大人たちはよく言う。尊いことだと。いくら仲良くなる環境が整っていたとしても人間としての基盤の部分、性根の相性がよくなければ高校生になった今でも同じコートで、同じボールを追うような絆の成熟はなかっただろうと。
それは、椿自身も感じている。
椿は、伊藤嵐という人間が好きだ。
尊敬しているし、憧れている。いつだって幸せで笑っていてほしいと思う。
嵐が自分に対して、心から同じ思いであることも日々感じていた。
他人の幸福をあたりまえのように願える人間が、必ずしも正義でありまっとうではないのだということはとっくに知っている。
それでも椿は、嵐の幸せを願う時の自分が好きだった。
小学校の時に好きになった隣の席の女子の幸せも願っていた。
中学校の時に付き合った数人の女子の幸せだって。
もちろん平和に対しても。
好き=幸せでいてほしいという感情だと思っている。
けれど好きになったきっかけとなると、椿にはすぐに答えることはできなかった。思い浮かばないのだ。
椿と平和が出会ってまだ1ヵ月ほど。
ふたりの日常に、心の距離がぐんと近付く劇的なエピソードなどは特にない。
高校2年に進級するタイミングで同じクラスになって、成績順に振り分けられた座席で前後になった。名前のことで短い会話を交わしたのがきっかけで「おはよう」と「ばいばい」の挨拶をする距離感の友人となり、時々はたわいない会話を交わし数種類の表情を見せあった。
お互いが机に置いている紙パックのジュースの味の感想を聞いたり。
椿が宿題を忘れた時は平和が写させてくれたり。
平和の制服のシャツにクリーニング店のタグがついており、椿が指摘したこともあった。
その時の平和はみるみるうちに真っ赤になってしまい、「ごめん」となぜか椿に謝ったかと思うと急いでシャツを脱いだ。ふわりと甘い香りが鼻先をかすめ、白いタンクトップ姿になったクラスメイトの、シャツよりも青白い肌になんとなく一瞬、息をとめた。そんな椿の様子をどう思ったのか平和はますます赤くなって、目を泳がせながら「ごめん。ひとり暮らしで、こういうの、誰も指摘してくれないから助かった」と小さな声で言った。
ひとり暮らし──。
自分のことなど自室の適度な掃除くらいしかしない椿は驚き、意外さにワクワクし、その日以降は雑談の話題に平和の生活への質問が混ざるようになった。

「洗濯って、毎日するの?」
「うううん。土日の、どっちか。晴れたら。洗濯機、無駄に大きいから一気にやる」
「へえ、土日だけなんだ」
「……あっ、」
「うん?」
「シャツとかは、6枚あって」
「えっ」
「洗濯しないだろうからって、入学の時に大量に……はは。だから、ちゃんと毎日、換えてるから」

自分は清潔だと主張する平和の顔は苦笑いで、頬が少し赤らんでいた。

「へーわって、自炊できるってこと?」
「うん。よっぽどのもの作ろうとしなければ、ネットのレシピでできるから」
「すごいね。得意料理とか、ある?」
「えー…………なんだろ。焼きそばかな」
「お、好き。焼きそばって家庭によって具とか違うよね。へーわの焼きそばの具は?」
「家庭っていうか、ネットで見た……ウスターソースとめんつゆで作るやつ。具は、豚ひき肉と、ピーマンと、しいたけと、キャベツ。目玉焼きものせると、おいしくてびっくりする」
「ねえ、最高。聞いてるだけで腹鳴る。今度食べさせてよ」
「綾野にふるまえるような料理じゃないよ。俺の作ったやつとか」

自分を卑下する言葉のあと、一瞬だけ胸が痛むような表情になったのを見逃さなかった。

「母さんがさ、新しい掃除機欲しいって言ってて。でも種類ありすぎて、いろんなレビュー読みすぎて疲れたらしい。へーわ、掃除機って何使ってる? コードレス?」
「うん。バナゾニックの」
「あ。まじで」
「うん……?」
「それ母さんが一番気になってるって言ってたやつ。でも高いって愚痴ってた。使い心地どう? 値段に見合ってる感じ?」
「……とくに不便はない、かな」

そう答えた平和の目は椿ではなくテーブルの上のアロエドリンクを見ていた。
あとから考えて気付いたのだけれど、おそらく平和は、掃除機の値段を知らないのだろう。高価な最新家電を、自分で選んで買ったわけではないのだ。
他にも平和との会話で、経済的な不自由はないのだろうなと感じることは多々あった。けれど親の話題がでてくることはなかった。父、母、どちらも。
そもそも椿が聞かない限り、平和は決して自分のことを話さない。
椿としては、自分と同じ高校生という立場でひとり暮らしをしている平和は尊敬に値する存在だったが、踏み込んだ質問をしたくなる瞬間を何度も我慢していた。
現在の生活に至った道筋が気楽に話せることなら平和から話しているだろうと思ったし、「昨日ひさびさにハンバーグ焦がして、煙がすごくて、焦って家中の窓を開けた」と教室で語った平和の顔は真剣に青ざめていて、ひとりぼっちの家であたふたしている彼を想像すると心臓をぎゅっと握りつぶされるような感覚になったりしていたから。
守山平和という友達に複雑な事情があるのは明確で、想像もできない彼の背景に同情している自分の傲慢さが嫌だった。
でも、平和と話すのは好きだった。
平和も椿の部活の話や週末にあった練習試合の話などを聞いている時、とても楽しそうに笑ってくれていた。
普段は表情の乏しい平和が、自分の日常を共有するだけで笑顔になるのは良い気分だった。
彼がひとりの家で寂しい気持ちでいるのなら、せめて教室で、自分と話している時は幸せだったらいいなと願っていた。
そんな日々で芽生えた興味や同情や友情に、恋心が混じったきっかけはわからない。
平和のぽってりとした赤い唇が細いストローでアセロラジュースを飲むのをぼんやりと見ながら、こくりと唾を飲んだりした瞬間はあった。けれどそれは恋心というよりかは性欲だろう。前日の夜、ひとりで処理する際に見た動画の女優と口周りが似ていたのだ。
椿が思うに人の気持ちとは、グラデーションなのではないだろうか。
昨日まで大嫌いだった他人を突然大好きになるとかでない限り、ただ積み重ねる日常でぼんやりと恋心は育まれ、それをお互いに知った時に鮮やかな色が定まって輪郭がくっきりする。そんな解釈がしっくりくるのが、椿の人生に存在する恋愛だった。
──と、いうようなことを考えながら黙っていると、さすが嵐はほしい言葉をくれる。

「もしかして椿と守山くんて、『好きになるのに理由なんていらない』ってやつ?」
「そうかも。なんか、いつの間にかって感じだから」
「なーんだ。オレの知らないところで運命的な出来事とかあったのかと思ったのに。椿が守山くんを大ピンチから救ったり。その逆だったりさ」
「漫画じゃないからねえ」
「まあでも、どっちかと言えば運命的なことなんかないほうが、恋かもな。同じクラスになっただけで、1ヵ月くらいで恋人になってるわけだし。漫画みたいなことが何もなくてもさ、ただお互いがお互いなだけで、よっぽど好みってことだろ」

納得した様子の嵐の言葉に、椿も「なるほど」と思う。
明確な理由やエピソードがなくても恋に落ちるほうが確かに恋の強度……のようなものが、頑丈な気がする。
「いいなあ、恋人」とつぶやきながら隣を歩く親友から外した視線を、椿は頭上の青空へと向けた。
昨日は真っ暗だった空。
平和と偶然一緒に下校することになった、大雨の帰り道。
「溺れそうだ」と言った平和に胸が締め付けられて、彼の幸せを切に願った。
俺が、この子が息つぎできる場所になってあげたいと強く思った。
そう思うのと同時に身体と心が勝手に動いて──。
ひどく衝動的なキスをした自分自身に驚いたけれど、まったく後悔していない。
恋人になろうという告白も正しかったはずだ。

「椿いいなあ。守山くん、かわいいもんなー」
「は?」
「うん?」
「え……、また?」

渋面になった椿とは対照的に、嵐はにんまりと悪戯めいた笑みを浮かべる。

「オレらが好み似てるの笑うけど、オレは女子しか好きになったことないから安心して」
「嘘だろ。男とか女とか関係なく好きになったら好きって前に話した。しかも今、へーわをかわいいって言ったでしょ」
「顔はかわいいって事実言ってるだけじゃん。守山くん、地味だけど目に入る。椿もだから絡んでるんだなーって思ってたし」

ただでさえ隠し事ができない相棒は、同じクラスなのだ。
完全に見透かされていて椿は閉口するしかない。

「あのぶあつくて真っ赤な唇とかさ~。あと、オレ的には目の色がいいと思う。昔さ、一緒に行った冬のキャンプ場、憶えてる? あの時、朝に見た森みたいな茶色。霧がただよってて、葉が落ちた木の群れが、うすぼんやりしてたあったかい茶色」

ああ確かにと思いながら、懐かしい思い出を心のなかでそっと撫でる。
嵐との思い出は一緒に経験したことが多いぶんハプニングもあるが、結果的にすべて楽しい記憶だ。

「話ずれたけどさ、おめでと椿!」
「うん。ありがと、嵐」

心からの祝福を感じた。これまでと同じ。
嵐とは好みが被りまくっているけれど、恋愛で争うことは一度もなかった。
嵐はまだ、誰のことも本気で好きになったことがないという。
椿は、もし嵐と同じ人を好きになって、「譲ってくれ」と言われたらどうするだろうかとたまに真剣に考えている。
……でも、答えはでない。
嵐はそんなことを絶対に言わない気もした。

「あーあ。オレも早く初恋したいな」
「嵐の恋人はバスケットボールでしょ」
「バスケより好きになれる人、世界に存在してなかったらどうしよ~」

これまで何度もかわした会話で、お互いに笑う。
嵐が早く恋を知ればいいと思う。
その時は心から祝福しよう。
嵐と、嵐が好きになった子の幸せを真剣に願おう。

「正直守山くん、毎日なんかしょんぼりした雰囲気だったから、恋とかできる子だったの嬉しい」

言いながら嵐は青空に向かって両手を伸ばし、うーんと伸びをした。
昨日の豪雨が嘘みたいだ。
雨上がりの、よく晴れた早朝。
初夏の風は爽やかで、唯一無二の相棒に恋人ができたことを報告するにはぴったりの日で。
嵐が嬉しそうにしてくれたから、椿もなんだか安堵した。
自分と平和の恋はきっとうまくいくだろうと思えた。
実際に順調だったのだ。
平和は素直で可愛く、椿がしたいことは何でもさせてくれた。濃密な時間を共有すればするほどに椿も平和に何でもしてあげたいと思えた。
……けれど。
SNSアプリのDMに、『きみの恋人の本性』という文章と共に送られてきた動画を見て、恋心は大きく揺らいだ。

「は? ちょっと椿、何その目……っ。真っ赤じゃん。寝てないの?」
「……へーわが、」
「守山くんが?」
「っ……これ」

何もかもを言葉にしたくなくて、椿は嵐に自分のスマホを差しだした。
動画が流れる。
とても遠いところで聞き慣れた平和の性的な声がひびく。
嵐は一瞬目を瞠ったが、すぐに怖いほどの真顔になって動画を最後まで見るとスマホの画面を暗く落として返してきた。

「椿、どうしたい?」

この世界の何よりも信頼する相手に落ちついた声でそう問われて、椿は。

「平和と、……とりあえず話す」
「わかった」

嵐の表情が、ふっと崩れる。
恋人の浮気を同じくらい悲しんでくれているとわかる、思いやりのにじむ笑みを前にして。
動画を見た瞬間からずっと胸につかえていた酷い感情の塊が少し小さくなり、やっと、椿は落ちついて深い息を吐いた。
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