俺が、恋人だから

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『曇天、のち』

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人生で一度だけ、良い予感が当たったことがある。
初めて綾野とキスをした時だ。
あの日のことを、平和はきっと一生忘れない。
アスファルトに降りそそぐ春の雨は激しく、住宅街に申し訳程度に生息する植物の青臭さがむせかえるほどに香っていた。

「なんか、溺れそうだ」

平和はほんとうになんとなく、そう言った。
豪雨の中。
初めて一緒に帰るクラスメイトとひとつの傘の下におさまっている状況はあまりにも非現実的で、なんだか自分が自分ではないような、映画の登場人物にでもなったような感覚だったからそんなポエティックな言葉がこぼれたのかもしれない。
発した瞬間から羞恥で後悔していた平和に、綾野は。

「溺れたら、俺が助けてあげるよ」

静かな声なのに、豪雨のなかでもよく聞こえた。
傘の下にふたりでいるという近い距離感だったからだろうか。
平和は驚いて綾野を見て、綾野も多分、自分の言ったことに驚いて平和を見た。
そうしてまた、なんとなく。
平和よりも背が高いからと傘を持ってくれていた綾野が身をかがめて。
平和は呼吸をとめて。
唇がふれるだけの、キスをした。
その瞬間は雨音も、近くの大通りを行き交う車のエンジン音も、とんでもない拍動を刻む自らの心臓の音ですら聞こえなかった。
キスは3秒間ほどだったと思う。
唇を離した直後、明らかに自分の行為に戸惑いの表情を浮かべつつも決して平和から視線を逸らさなかった誠実な綾野椿という少年は、衝動的なキスの贖罪のように言ったのだ。
恋人になってくれますか──、と。

◆ ◆ ◆

「んっ、……ふ、ぅ……」

カーテンを閉めきった綾野の部屋で、ベッドに向かい合って座りキスをする。
いつもと同じセックスの始まりだ。
部活後の綾野の身体はシャンプーとボディソープの香り。控えめなシトラス。平和は以前さりげなく製品の詳細を聞いて、ドラッグストアで買えるものだったので購入した。けれど、使っていない。同じものをわざわざ使用したとバレたら綾野を戸惑わせるかもしれないし、自分がその香りをまとってしまうと、なんだかひどく、価値が下がってしまうような気がしたから。

「へーわ、舌、べーってして」

おずおずと舌先を出した平和の間抜けであろう顔を、綾野はいつも嬉しそうに数秒の間、見つめる。眺めるといったほうが正しいかもしれない。

「かあわいい顔」

そう言った声はとろけるように優しかった。けれど瞳にはギラついた欲望が宿り、拒絶をして彼を幻滅させたり萎えさせてしまいたくないと思わせる巧みな威圧感がある。

「へーわって、素直でエロいよね」

それは誉め言葉なんだろうかと考えつつも舌を出したまま。やがてふるえる吐息がこぼれた刹那、伸びてきた綾野の指に顎先を優しい力で掴まれた。後頭部にも手のひらの感覚が。どれだけ深いキスでも抗えない体勢で、やっと唇が重なった。

「ふっ、ぅ……っ」

すぐに綾野の舌が口のなかに入ってきて、ねっとりと絡まる。
平和は綾野がしてくれることなら何だって好きだ。舌を出した間抜けな顔を眺められることも、自由がほぼなくて息が苦しくなるくらいのディープキスも、どれだけ長い時間だってしていられる。
……でも、今日は。
蘇る記憶が。
呼吸を邪魔して、意識に雑音が混ざった。
柔らかな舌がとろけるような心地よさはいつまで経っても訪れず、綾野と、身体的にはこの世界に存在する誰よりも深く近付いているのに正気を手放すことができない。
そんな状態を悟られないようにとただ必死に頭のなかで自分自身に言い聞かせる。

(今、キスしているのは綾野だ)

(綾野は俺の、恋人だ)

これは好きな人とのキスだ。

(……──唯司さんに、無理やりされたキスじゃない)

「……、へーわ?」
「え……?」

世界一近くにあった綾野の気配が急に離れた。じっと見つめられていることに気付き慌てて表情を取り繕う。頬に無理やり力をいれてへらりと笑った。

「どうしたの?」

少しだけ吐息が多くなるように意識して声を出した。
なんでもない声だとキスに集中していなかったのがバレると思って、小狡い誤魔化しだ。
対して平和の唾液で濡れた綾野の唇は、キスの余韻なんて少しもないとわかる平坦な声をだす。

「んー……へーわさ、なんか今日、集中できない?」

ドキッでもギクッでもなく、ゾッとした。
怖い。頭の中に猛烈な勢いで蘇った記憶を一欠けらたりとも綾野に悟られてはいけない。嫌われたくない。汚いと思われたくない。
綾野は温度の高い手のひらで平和の頬にふれながらやんわりと小首をかしげる仕草をみせた。

「あんまりエッチする気分じゃない?」
「そんなことない。したい」

まずい、声が少しふるえた。
でもここで黙るのはもっとまずい気がして言葉を重ねてしまう。

「しよう。ごめん。ちょっとぼーっとしちゃってただけだからさ」

キスの続きを、とねだるように綾野の手に自分の手を重ねた。
けれど。
全部の指を絡めるようにぎゅっと握られて、膝上へと戻される。
綾野はいよいよ真剣な表情だ。

「なんでぼーっとしちゃった? 悩みとかあるなら、聞かせて」
「ないよ」

即座に否定する。
悩みなんて。
綾野に話せることはなにもない。
ああでも、もう顔を見ていられなくて。
呼吸を詰まらせながら視線を伏せた、その時。

「あ──……っ」

少し強く、荒々しい力で抱き寄せられて躰が強張る。

「あ、綾野……?」
「今日はこのまま、くっつきながら話そっか」
「え……?」

大きくてあたたかい手のひらを背中に感じた。
制服のシャツの上から肩甲骨の形をたどるように、綾野は平和を撫でる。

「やっぱ、へーわ痩せたでしょ」

そうだろうか。
自分ではわからなかった。
体重計は家にないし、あまり鏡も見ない。
けれど、ああ、ここ最近まともな食事をしていないのは確かだった。
何も答えられずにいると綾野は少しだけ躰を離して、平和の顔を正面から見つめてくる。

「今週、ずっと元気なかった。授業中も放課もぼーっとしてた」

眉を下げた、心配のにじむ表情で言われて心がそわそわした。
心配をかけていることを申し訳なく思うべきだ。やましいことがある自分を恥じるべきなのに、浅ましく嬉しさを感じている。
ほとんど会話をしない教室で、綾野が自分を気にしてくれていたことに。

「なんかあったんなら、ちゃんと教えて。俺、へーわの彼氏でしょ」

彼氏……。
……駄目だ。
泣いちゃ駄目だ。
目頭がじわりと熱くなるのをごまかすように目を細めて笑う。

「ちょっと、夏バテだと思う。最近湿度すごいし」
「……ほんとうに?」
「ほんとに。……ごめん」
「謝ることじゃないよ」

ふたたび綾野の胸の奥に抱きしめられる。
鍛えられた躰。力が入っていないときはふわふわで心地よい胸板に、心から安堵を感じつつ頬をあずけた。
ほうっと吐息をつく。

(ごめん、綾野)

「エッチできなくても、へーわと一緒にいるだけで嬉しいし。エネルギー回復するから」

(優しいな。……ごめん)

平和が、唯司の車に乗ったのは3日前。
その選択が間違っていたとは思わない。
けれどそれ以来はじめて綾野とふたりで会った今日、平和は、自分が汚物の塊のように思えてならなかった。

◆ ◆ ◆

名古屋の夏は湿度がえげつなく、気温も容赦なく高い。
その片鱗をすでに感じる6月初旬。
夜8時の住宅街の空気はむわっと重く、不快だった。
空は黒に近いほど深い青色で、灰色の雲がただよっている。

「やっばい。暑いなー」
「梅雨の前に、もう夏だね」

そんな会話をしながら平和と綾野は、いつもおやすみを言う踏み切りに向かって歩き出す。
今日、綾野は県大会の決勝で大活躍して華高バスケットボール部を東海大会出場へと導いた。
平和は試合を見に行かなかった。
……行けなかった。
ほとんど眠れず迎えた早朝に、『綾野と嵐くんなら、絶対に勝てる』とメッセージを送信して、その後はずっと家にこもっていた。
『勝ったよ』と連絡があったのは夕方5時頃。
その1時間後に『今から会いたい』と連絡を受け、死ぬほどホッとしながらせっせと準備をして綾野の家に駆けつけた。
眩しいほどの光をまとってコートの中で嵐と活躍する綾野を見る勇気はなかったのに、カーテンを閉め切った部屋でのセックスならできると、したいと思っていたのだ。
結局は平和が綾野の人生に関わるために必要な唯一の役割を果たせなかったわけだけれど。

「綾野、言うの遅くなったけど、東海大会進出決定おめでとう」
「ありがと。メッセージ、嬉しかった。今日、昼間用事あるって言ってたのに、俺にあれ送るために早起きしてくれたんでしょ」
「……うん」

用事なんかなかったのだ。
ただ、自分が会場に行けばとんでもない不運が綾野を襲い、負けてしまうんじゃないかと怖かった。
それだけならまだいい。
嵐を見たら。
何も知らないでキラキラと綾野のそばで青春を謳歌する彼を見たら、あまりにも醜悪なことを願ってしまいそうで逃げたのだ。

「東海大会は再来週でさ。静岡なんだけど。学校が応援のバス出すって。へーわ、来られそう?」

踏み切りが見えてきた。
歩きながらの会話でよかったと思う。
綾野の顔を見られなくても不自然じゃないから。

「再来週は……ごめん。用事があって」
「そっか。仕方ないね」

あっさりとした返事に思えた。ちらりとうかがった表情にも険しさや不機嫌はない。

「ごめん」

だからこの謝罪は完全な自己満足だ。
ほんとうは用事なんてないことへの。
恋人になる前から綾野に言えないことを抱え、さらに今、重たくて悍ましい秘密が増えたことへの。

「用事でしょ。謝る必要ないよ」

視線の先で遮断機が下り、警報音がはっきりと聞こえてくる。
もう別れないといけないのだと思うと寂しい。
綾野と一緒にいると苦しいのにどんなときも傍にいたい。
ふと、生まれたときから当たり前のように綾野のそばにいた嵐と自分を比べてしまう。
平和が綾野の恋人になってから今日まで、たった一瞬でも心が幸せだけ、明るい気持ちだけで埋まったことがあっただろうかと。
常に申し訳ない気持ちや、嵐への嫉妬、ほんとうに自分のような人間で綾野を満足させられるのかという疑い、細やかな瞬間にいちいち心をよぎる『嫌われたかもしれない』という不安。
……ない。
綾野の隣でただひたすらに幸せだけだった時が、平和にはないのだ。
幸福の裏側には常にマイナスの感情がぴったりと張り付いていた。
今はもっと酷い状態だ。
踏み切りの前で立ち止まる。
赤い列車が轟音と共に目の前を通りすぎていく
平和から「おやすみ」を言うことはできず、通り過ぎていく電車をぼんやりと見つめた。
別れる前に、もう一度東海大会の応援に行けないことを謝ろうか。
そんなことを考えているうちに電車の気配が完全に遠ざかって。
遮断機が上がった。

「綾野、その、東海大会だけど──」
「コンビニ行きたい」
「え?」
「今日は、もうちょい一緒にいたい。……ダメ?」

綾野の背後に見える夜の曇天が、一瞬にして快晴になったかのような幻覚が見えた。

「ダメじゃない。……嬉しい」

かわいげの欠片もない真顔になってしまっていたと思う。
綾野は目が糸みたいになるくらい細くして笑う。

「ん。じゃ、へーわの家の近くのほうのコンビニね」

うなずいて、歩き出す。……綾野と並んで。
いつもは寂しい気持ちしかない踏切りの向こう側へ、ふたり一緒に。
付き合いだしてから初めてだった。
すごいな、と思う。
たったこれだけのことで舞い上がりそうだ。
わずかな時間の延長がたまらなく嬉しい。
曇天の隙間に、月が見えた。
でも。
抱えている隠し事が消えるわけではない。
例えば自分が嵐のように。
綾野と共有する全部の瞬間をなんの不純物もなく楽しめる人間だったらどれほどいいだろうか。
考えても仕方がないことを考えているうちにコンビニについた。入店し、平和はなんとなく綾野についていく。向かったのはアイスクリームのコーナーだった。
背が高い綾野は猫背になってボックスの中を覗きこむ。

「へーわ、アイス何が好き?」
「なんでも好きだけど、綾野は?」
「俺はね、んー、じゃあこれかこれ」

綾野が長い指で示したのは、チューブ型氷菓(チョコレートコーヒー味)と、昔ながらのアイスキャンディー(ソーダ味)だった。
どちらもふたつに割って他者とわけあえる仕様だ。彼の甘い意図を感じとり、嬉しくなる。アイスクリームを食べる時間の分だけまだ一緒にいられることにも。

「どっちがいい? へーわの好きなほうにしよ」

どっちでもよかった。
好きな人と、アイスをはんぶんこして食べられる幸せはどちらも同じだから。
でも、そういえば教室で何度も見かけたことがある。綾野がカフェオレやコーヒー牛乳を飲んでいるところを。
だから平和はチューブ型氷菓のほうを指さした。

「じゃあ、こっちで」
「やった。俺もどっちかと言えばそっちがいいなって思ってた。はは」

ほんとうに嬉しそうに綾野が笑う。
眩しくてちゃんと見つめることができない太陽みたいだ。
好きだな。
いつだって幸せでいてほしい。
コンビニを出ると空の色はほとんど雲に覆い隠され、空気にはかすかな雨の気配があった。
降りだしそうだと思ったけれど今夜の綾野にはまだ帰宅という選択肢はないらしく、コンビニ近くの公園のベンチに並んで座る。平和が雲の向こう側で薄ぼんやりと光る月を見つけたところで、綾野の大きな手が氷菓をはんぶんに割った。

「どーぞ」
「ありがと」
「へーわ、ここもあげる」

切りはずしたチューブの先端を口元に差し出されたので、中のアイスをややぎこちない所作でちゅっと吸い出す。人によってはそのまま捨ててしまいそうな、おまけみたいな部分だ。平和は少しだけ考えたすえ、自分のアイスの先端部分も綾野に差し出す。

「ありがと」

まつ毛を伏せた綾野が、氷菓を吸い出す。
まるで指先にキスをしてくれるような光景だ。
夜、眠る前。
思い出すのはこういう瞬間だろう。
ささやかで、優しくて、愛しい。
こんな時間だけが、自分の人生だったらいいのになと願ってしまう。綾野と会っていない時にも彼に相応しい存在であれたらいい。
もっと言えば、綾野が自分の人生に登場していない時代ですら、彼に相応しい人間でありたかった。
でもそんなことは叶わない。
だから、せめて。

「アイス、おいしい。……久しぶりに食べた。ありがと、綾野」

一緒にいる時は、綾野が与えてくれる優しさを素直に受けとろう。自分がそれに相応しい人間じゃなくても。
綾野は静かな笑みを浮かべ「うん」とだけ答えて、続けて言葉を発したいような雰囲気をにじませた沈黙の中にいたが、結局それ以上はもう何も言わなかった。
チョコレートコーヒー味の氷菓はおいしくて大切に食べていてもすぐになくなってしまった。
曇天の夜。小さな公園に平和と綾野以外の人はおらず、一瞬だけキスをして揃ってはにかんだ。
幸せな時間だった。
けれど公園を出る時、「今日は家まで送らせて」という綾野に浮かれていた気持ちが一瞬で地に落ちて、平和は必死で固辞した。
家は、唯司に知られている。
鉢合わせたりしたら今の不安定な状態では何もかもを取り繕えない。
わかりやすく動揺する平和に何も聞かないでいてくれた綾野と公園を出たところで別れ、自宅に近付くにつれて胃がキリキリしてきた。
幸いなことに唯司の車はなく、それでも息をひそめて階段をあがり、開錠し、部屋に入ってまずカーテンと窓をあけた。
室内と室外のむわりとした空気が混ざる窓際に立ちすくみ網戸越しに空を見上げる。
雲はさっきより厚く、月は完全に隠されてしまった。
舌に残ったチョコレートコーヒー味は、甘くて苦い。



その日の深夜2時、綾野からメッセージが届いた。

『明日話したいことがある』

こんな深夜に。
絵文字のないメッセージは珍しい。
平和は『わかった』とだけ返信をした。
既読は瞬時についたけれど返事はなかった。
スマホを枕元に投げ出して、タオルケットのなかで丸くなる。
また、胃がキリキリした。
窓の外では雷が鳴っている。
──嫌な予感が心を埋め尽くす。
平和の経験上、嫌な予感はほぼ当たる。
良い予感は一度しか感じたことがない人生なのに。
綾野の話とはなんだろうか。
考え出すと、もうとても眠れない。
こんな夜は、辛さが根強い。
自分という人間で生きていかなければならないことが、どうしようもなく苦しい。


翌日。
メッセージを受け取ってから一睡もできずふらふらで登校した平和を、綾野は「ちょっと、」と教室の外へ連れ出した。
廊下にでる直前にこちらを見ている嵐と目が合う。
彼は平和を静かに睨みつけていた。
いつも明るい彼の表情に、隠すつもりゼロで滲んでいたのは軽蔑と、嫌悪と、激怒だった。

人のいない最上階の渡り廊下まで来ると、綾野はポケットから出したスマホを操作しはじめる。
今日、一度もまともに目を合わせてくれない。
教室から連れ出した時も、階段をのぼっている間も、今も。
深夜から降りだした雨が続いているが、雷鳴をともなう激しさは収まり正しく傘を差せば濡れない程度の小雨に変わっていた。
でも、いつかのようにふたりでひとつの傘におさまれば、どちらかは濡れるだろうか。
目の前の綾野が剣呑な雰囲気を隠さないため、現実逃避したくて思考があちこちに飛ぶ。
昨晩からの空模様の変化を、自分の心みたいだと平和は思った。
綾野からメッセージを受け取った時は不安にさいなまれ、焦り、考え込み、動揺し──…けれどやがて気付いたのだ。
何があったとしても、自分にはどうにもできないことがほとんどなのだと。
雨はやまない。
豪雨か、小雨か。
晴れの日はこない。
だから覚悟していた。
今から『別れたい』と言われることを。
昨日は平和のせいでセックスをできなかったし。
東海大会にも曖昧な理由で応援に行かない。
家に送られることすら拒絶して。
綾野が平和と付き合うメリットが何もないと確定させる1日だったのではないだろうか。

「へーわ、これ見て。説明できるならしてほしい」
「……?」

差し出された綾野のスマホにふれることなく、画面をのぞき込む。
次の瞬間、息が止まった。
脳みそを刺すように鋭い耳鳴りがキィンと響く。
綾野の大きな手が持て余す小さなスマホの画面の中に、自分がいる。

『好きって言って?』
『……っ……好き、です』
『うん。俺も平和くんのこと、好きだよ。かわいいね。もっと気持ちよくしてあげる』
『ッ、あ……っ』

画面の中で、浅ましい自分が性器をしごかれて射精する。
あの日。
唯司の車に乗った日。
彼は平和にすることをずっと撮影していた。
おぞましい映像が終わる。
綾野はスマホの画面を暗くしたかと思うと平和の二の腕をぐっと掴む。

「浮気したの?」

違う。
ふるえる吐息をこぼしながら、平和はゆっくりと視線を持ち上げて綾野を見た。刹那、ふたたび息を詰める。
さっき、教室で見た嵐のような表情をしてくれていればよかった。
平和を嫌悪し、軽蔑し、憤怒に瞳を燃やしていてくれたらよかった。
でも、目の前に立つ綾野は。

「へーわ、答えて」

ひどく傷ついた瞳に平和だけを映して、声には知っている優しさがあって。
目の前が真っ暗になる。
うまく生きられなくて、いつも正しいことに気付くのが遅い。
あの日。
唯司の車に乗ってはいけなかったのだ。
だって自分は、綾野の恋人だったのだから──……。


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