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18、「吐き気する」

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朝、訓練に向かうルイと別れたあと。
ニコスは教会からの連絡でローラン家へと向かい、近衛騎士団長に神聖力での治療をほどこした。セルジオスとルイの父親だ。疲労でダウンしたベッドの上でもなお精悍な雰囲気をまとう生命力には感心する。
天気の話から始まった雑談を隙のない笑みで進めながら、昨晩、彼が溺愛する息子に何をしたのかを詳細まで思い返す自分の悪趣味な一面にニコスは眩暈がした。昨日の今日で、たくさんの思い込みを手放した。変化は急激であるほどに衝撃を伴う。おそらく自分は今、冷静ではない。
治療を終えてからは教会に向かい、日々の雑務を処理しつつも頭の中には昨晩のことばかりが浮かんでルイのことを考える。彼は今日、午前中の訓練のみで午後は非番だと言っていた。帰宅するのかと問えば苦笑して首を横に振り、訓練所に残って自主トレーニングをするのだと教えてくれた。
会話にあらわれた苦さの理由に、ニコスは心当たりがある。何度か聞いたことがあった。
『ローラン家の泥棒庶民は抜け目がない。自主トレーニングなら家に帰ってすればいいのにわざわざ訓練所でやるのは、団長へのアピールのためだ』
『家にも居場所がないんじゃないか?まあ当然だけど。使用人たちにも図々しいと思われてるだろうしさ』と、口さがない連中は嫌な笑みを浮かべながら言うのをなかなかの頻度で聞いた。
だが今のニコスにはそれが無責任に悪意を混ぜ込んだ虚偽の噂話だとわかる。
ルイの身体を見て、この手でふれた。
あのしなやかな筋肉はアピールのためのトレーニングなどではとてもつかない。キープにも相当の努力が必要なはずだ。
食生活や睡眠にも気を配り、常日頃から真摯に己を鍛える意志がある者でなければルイの充実した胸筋は完成しないだろう。

(にしても、力んでいない時のルイの胸はとても柔らかかった。力んでいた時の硬さも唯一無二の感触で……しかもあの、乳輪)

自動的に頭の中で繰り返される記憶には新鮮さと甘さ、そして自分の愚かさに対するほろ苦さがあった。ニコスは憂い顔で吐息をこぼし、頬杖をついた。滅多にないことだがそうせずにはいられない。仕事中に他事へ気が散っていることは明らかだったが、傍で書類整理をしている神官たちは無視してくれる。
世界に残る古い書物には、『神のみに使え清い身ですべてを捧げよ』という教義を唱える宗教があったとの記述もあるが、ローズ・アントス国の神官はできるだけ本能に忠実に、人間らしくあることを推奨される。
その身に神聖力を宿して生まれてきた特別な存在だからこそ、だ。
女神ローズは人間と恋に落ち、交わり、子を成すことでこの世界を創った。つまり恋愛は生きとし生ける者の多くが生涯をかけて向き合う本能であり、神にとっても例外ではない。神と人には共通点があり、交わることができ、力を合わせて国と歴史を豊かに創ることだってできるのだ。よって恋愛感情に連なる性欲、葛藤、戸惑いや嫉妬心、上の空ですら多いに経験しろと推奨される。
他者との心身の交わりこそが“己の世界の創世”になるという考え方だ。

(とはいえ私のルイへの今の気持ちは恋ではなく…──興味、性欲といったところだろうな)

もうひとつ。
贖罪だ。
セルジオスの友人でありデュラン家の嫡男である自分がルイを公然と批判してきたことは、世間の彼への当たりの強さと決して無関係ではないとわかっている。
過ぎた時間は、どうやっても取り戻せない。
たとえこの身に生まれながら神の力を有していても。
だから今より先の未来のルイを思うのなら、考え、答えを出し、行動していくしかない。
今、自分ができることは──…何よりもまずルイの『くっ殺』からのメス堕ちの、回避。
できる。
やろう。
気持ちを定めたニコスは頬杖の姿勢をとき、背筋を伸ばして時計に視線をやった。

(ルイを、迎えにいこう)

どんな顔をするのか想像すると楽しくて、少しだけ笑った。

◆ ◆ ◆

ひくりと、頬が引きつる。
セルジオスが俺に向かって発する怒気と疑念、強い嫌悪感。一切の言葉がなくとも表情と眼差しだけで嫌というほど伝わってくる。
ここは近衛騎士団専用の食堂で。
突然やってきたのは貴族神官のニコス。
彼はセルジオスの長年の友人だ。
にも拘わらず俺を、嫌われ者の庶民騎士を迎えにきたのだと柔らかな表情で言い放った。
野次馬たちは目を丸くして絶句状態。人って本当に驚いた時は声がでないものなんだなぁなんて考えてみるけれど……駄目だ。現実逃避をするには状況が難しすぎる。
背筋を冷や汗がつたう感覚。
俺はニコスの行動の意図を考えるよりもまずセルジオスへの説明の言葉を探す。けれど笑ってしまいそうなくらい何もでてこない。
昨日までセルジオスよりもよほどあからさまに俺を嫌っていたニコスが、今日、迎えにきた。そうなった道筋をどう話せば上手な嘘になるのかがわからず、視線が泳ぐ。
いっそニコスの手をとってこの場から逃走するしか──と思ったその時、

「どういうことだ」

地を這うような低い声をだしたセルジオスの視線は、目の前の俺を通り越してニコスに向かっていた。焦げ茶色の、セルの瞳。数多の生命をはぐくむ大地の色に冷たさを感じるのは俺を見る時だけだと思っていたが、今、それは氷柱のような鋭さで長年の友人に突き刺さる。
対してニコスの表情はどこまでも平静だ。
俺に向けていた情を感じる笑みをそのままセルにも向けた。

「セルジオス、あなたの困惑は理解できます。けれどルイは、あなたと団長を思いやる善良な青年だと、昨日わかったのです」

セルジオスの目が一瞬見開かれ、口元がわずかに動いた。声はなく、こぼれたのは吐息だけ。けれど「ルイ」と俺の名を復唱したのがわかった。
ニコスが。
自分の友人が。
毛嫌いする異母兄の名をきちんと呼ぶ声を始めて聞いて声もでないほど動揺しながらの、復唱だろう。
できれば今すぐ頭を抱えてしゃがみこみたい。だってニコスが何を考えているのか本当にわからない。生まれた時からの友人だと聞いている。セルジオスの困惑を予想できないわけがない。今日この時間、団員が共通で使う食堂に異母兄弟が揃う可能性もわかっていただろう。
それなのにどうしてわざわざ、こんな。

「……はっ。ニコス、ふざけてるのか?」

セルは眉間にしわを寄せながら短い吐息を言葉に混ぜるみたいにして笑った。「そうですふざけていますよ」と返してほしくて聞いたのだろう。
でも、ニコスは。

「ふざけてなどいません。セルジオス、あなたには後日きちんと話をさせてもらいます。今日はルイと約束があるので。さあルイ、行きましょう」

促すために俺の背中にふれたニコスの手は冷や汗に気付いただろうが、気にしていられない。セルジオスの視線がふたたび戻ってきたから。食い入るように俺を見ている。信じられないものを見るような、目で。さっきまであった怒りや嫌悪感よりも困惑の度合いが強くなった今の弟の表情には憶えがあった。
あれは母が死に、父に連れられてローラン家に初めて来た日だ。
セルジオスとの初対面の時、俺が言ったことに対して一瞬だけみせた幼い彼と同じ表情を、どうして今、しているのだろう。

(──セルジオス、)

弟を呼ぶ声が喉元までこみあげたけれど、背中にあるニコスの手に力がこもってハッとなる。
今はともかく、他人の好奇心を意図せず満たしてしまうショーのステージから降りたい。ふらりと足が前にでた。ニコスはそんな俺を見てゆったりと目を細める。それでいいのですよ、と聞こえた気がした。

「さあ、行きましょうルイ。馬車で来たんです。正面口へ」

ニコスの言葉に目を合わせないまま小さくうなずき、廊下に出る。
酷い日だ。さらに最悪の事態が待っていた。

「あれー? 不思議なふたりだ」

歌うように話す男。

「っ、スピロ……」

濡れて蒼よりも少し濃くなった髪をタオルで拭いながら、スピロは普段通りの飄々とした笑顔で進行方向に立っている。
逆にニコスはその顔からふっと笑みを消して足を止めた。髭の痕跡すら見えない白い頬に、そっけなさを感じとる。昨日までルイに向けられていたのとはまた違う、距離を感じさせるニコスの表情だった。

(そういえば……)

セルとニコス、セルとスピロがふたりでいるところはしょっちゅう見かけたが、スピロとニコスがふたりでいるところは見たことがない。
セルはニコスに俺を迎えに来たことの意味を聞いた。けれどスピロは、ニコスなど視界に入っていないかのように俺だけを見て言葉を重ねる。

「ルイくんの今夜の予定って、ニコくんとデート?」
「そんなわけない」

咄嗟に否定した声が真剣すぎたと焦り、へらりと笑みを付け足す。失敗した。スピロはいつもの調子で尋ねてきたのだから、俺も冗談で返すべきだったのに。
黙っているニコスの視線を感じながら、間違いを上書きするようにもう一度、今度は軽い口調で否定する。

「どうやったら俺とニコスが、デートなんて発想になるんだよ。はは」

笑い声がむなしく宙を舞うような感じがした。
スピロは微笑んだまま、ほんの少しだけ首を傾げる。

「でもふたり、昨日、エッチなことしてたんでしょ?」
「ぅえ!? ………………ぇ、」

反射的なリアクションの直後、脳が理解したことを拒んで思考が停止した。
今、スピロはなんと言った。
俺とニコスを見てなにを言ったのか。
フリーズした俺を見つめたままスピロもそれ以上何も言わず、沈黙が数秒。見かねたのかニコスが一歩前にでる。

「なぜあなたが、昨日の私たちのことを知っているのですか」

攻撃的な声だと、それだけを感じた。
スピロの顔からも笑みが消えたのがただの光景として俺の目に映る。

「ニコくんさあ、僕がルイくんにずっと手を伸ばしてたの、知ってるよね? なんで横からさらおうとするの?」
「言っておきますが、私とルイは恋愛関係なわけではありません」
「……カラダだけってこと?」
「まあ、端的に言えばそうですね」
「ふ──、何それ。ほんと」

スピロがまた、笑って。

「吐き気する」

俺をまっすぐに見て言った。
鮮やかな蒼色にとらわれて息が詰まって、目を逸らすことができない。

「ルイくん。エッチしたいなら、僕に言ってほしかったな」

その言葉を聞いた瞬間、長い片想いの苦しみのなかにあった自分のみじめな状況が、まるで芝居でも見ているかのように客観的な映像として脳内を駆け巡った。ここまでの混乱はたちどころに大きな波に呑みこまれる。俺は一時的に感情が凪ぐような心地で声を吐きだす。絶対的な意志を。

「スピロだけとは、できないよ」
「──、どうして?」

ふたたびスピロの顔から笑みが消えた。俺は自分がどういう顔をしているのかわからなかった。静観していたニコスが上手に空気を読む。

「もういいでしょう。私とルイがそうなった経緯の説明は、明日にでもします。それまでは他言無用でお願いします」

スピロは何も答えない。
ニコスを見ることすらしないでずっと俺から視線を外さない。

「行きましょう、ルイ」
「ルイくん、行かないで」

ニコスの語尾に被せるみたいに言ったスピロの声に、
目に、
表情に、
全部に心が揺れる。
自分にゾッとした。何もいらないふりをしてきたくせに今、スピロの動揺に浅ましい期待を確かに懐いてしまっている。
でも、だからこそ。

(スピロとだけは、できない)

噛みしめていた奥歯のこわばりをほどいて、スピロに伝える。

「明日、説明させてくれ。今日はニコスと──ぉわっ?!」

急に視界と全身が大きく揺れた。
浮遊感の直後、腰元と太ももに強い拘束の力が。
自分が誰かの肩に担がれたのだという信じられない状況を理解してすぐ、目に入った焦げ茶色の髪に息を詰める。

「セルジオス……っ」

驚愕の声はニコスのものだ。俺は驚きすぎて声がでない。

「スピロだけじゃなくニコスまで。あんたにはオレの友人をたぶらかす、いやしくていやらしい趣味まであるのか」

怒りしか感じない声は当然セルジオスのもので。
俺を荷物みたいに持ち上げて拘束している異母弟の力は、痛みをはっきりと感じるほどに強い。さっきまでとは別の意味で冷や汗が全身ににじむ。

「落ち着きなさい、セルジオス。ルイをこちらに──」
「近寄るな!」

耳がキィンとなるほどの怒声をニコスとスピロに投げつけたセルジオスは大股で歩き出し、もはや何も言えない俺を、馬車の座席に容赦ない力で放り投げたのだった。
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