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第5.5膜 帰郷──遺された者達の子守唄編
百五十六射目「おかえりなさいの日常」
しおりを挟むしばらくして、私の涙が落ち着いた頃、行宗くんは私に水を淹れてくれた。
行宗くんが「アクア」と呟くと、残された左手から水が溢れて、コップを満たしていった。
水の魔法だ。いつ覚えたのだろう。
「……いったん水飲んで、落ち着こう、和奈……」
優しく差し出されたコップに、私はすがるように口をつけた。
しかし、人の手のひらから出てきた水なんて、衛生上大丈夫なのだろうか?
そんな一抹の疑問が浮かびつつも、私はその水で喉を潤した。
……おいしい。ちゃんと水だった。
全身に染み渡るような冷たさだった。
「……誤解するような言い方をしてごめん。直穂は死んだ訳じゃないんだ。
きっとまだこの世界のどこかで生きてる。……直穂は俺に手紙だけ残して、きっと自分の決断で、俺達の元から姿を消したんだ」
え……?
どういう、こと?
「直穂が残した手紙には、こう書いてる。
『万波行宗へ、私のことは忘れてください。私のことは探さないでください。あなたが大嫌いです。さようなら。二度と会うことはないでしょう。浅尾和奈を幸せにしてあげてください。新崎直穂より』
……ふふ、もう何度も読みすぎて、覚えちゃったみたいだ」
行宗くんはいつもの自虐するような切ない顔でそう言った。
え? え? 何を言ってるの……?
文章も状況も意味も分からなかった。
大嫌い? 私を幸せにって、どういうつもり……
「……なんで? 喧嘩でもしたの? ふたりとも、あんなに仲が良かったのに……」
私は深刻にならないよう明るい声を意識して尋ねた。
でも、私の作った笑顔はぎこちなかった。
「……仲はずっと良かったよ。
この一週間の冒険で、たくさんキスやハグをして、イチャイチャしてた。
一緒の布団で寝たり、一緒にお風呂に入ったり、結婚の約束だってした。
一昨日の夜は、同意の上でのセッ◯スもした。……直穂が俺を嫌いだなんて、絶対にあり得ない……」
「……ふーん。そっか。……でも、ならどうして……?」
平然を装って相槌をうったが、私の心臓はドクンドクンと暴れまわっていた。
セッ◯ス!? したの!?
直穂と行宗くんがっ!? 嘘でしょう……!?
生々しい想像をしてしまって、身体中が熱くなっていった。
そりゃ私も、キスまでくらいは経験があるけれど、まだ処女だ。
半年前まで中学生だったのだ。今までの彼氏とは健全なお付き合いをしてきたけれど……
まさかまさかのお突き合いだなんてっ!? 高校生の恋愛ってそうなの!?
「俺にも正解は分からない。……ここから話すのは俺の推測と勘なんだが……
直穂は誰かに脅されて、ついていくしか無かったんじゃないかと思う。
おそらく直穂を連れ去った組織は、マナ騎士団だと思ってる。
一昨日の夜、マナ騎士団のギルアって男に、俺達は襲撃されたんだ。
その戦いで誠也さんが命を落として、俺も右腕を失った。
ギルアの目的は、あの時は見当もつかなかった。
でも一つだけ違和感があったのが、直穂だけが大きな怪我をしていなかった所だ。
俺に対しては刀を使い、殺す気で斬りかかってきたのに、直穂に対する攻撃はほとんどが素手だった気がする。
もしかしたら、直穂を殺したくない理由があったからなのかもしれない。
俺は、ギルア含むマナ騎士団の目的は、直穂の誘拐だったんじゃないかと推理してる」
マナ騎士団って、なんだっけ?
行宗くんから前に聞いた気がする。私たちを地獄のボス戦に送り込んだ存在……
「マナ騎士団って、私達を異世界に召喚した、あの赤白装束の名前だよね? 名前は確か、ギャベルとシルヴァだっけ?」
「うん。あのラスボス【スイーツ阿修羅】を倒すために俺達が現実世界から召喚されたみたいに、奴らは戦う駒を求めているんじゃないかと思うんだ。
直穂の【自慰】スキルは強いからな。
近接攻撃のみステータス上昇三倍の"賢者"に対し、直穂の"天使"は広範囲の閃光攻撃。ステータスも四倍上昇……
オ◯二ーしないと戦えないデメリットを差し置いても、ぶっ壊れのチートスキルだ。 直穂が狙われるのも納得がいく」
なるほどね。
しかし……そもそもなんで?
私は、ふと思いうかんだ疑問を口にした。
「あのさ。少し話がそれちゃうんだけど、どうして【自慰】スキルは一つのスキル名に対して、天使と賢者の2種類があるんだろ? 男女差とか?」
「……うーん、どうなんだろ? ステータスウィンドウを開いても、表記はどっちも【自慰】らしいからな。男女差ってのもあり得る話だ……」
「それにまだ疑問も残ってる。直穂の【自慰】スキルは、ギャベルやシルヴァには見られていないんだ。
この推測が本当だとして、奴らが一体どこで直穂のスキルを把握したのか疑問が残る。
それに俺達はマグダーラ山脈からの帰り道で、王国軍に見つからないように道なき道を歩いてきた。見つけるのは至難なはずだ。……ギルアが俺達を狙っていたとして、どうやって俺達の居場所まで辿り着いたんだ……?」
……………
行宗くんはうーんと頭を考え込んで、病室には沈黙が生まれた。
外で鳥の鳴く声がして、私は視線を車窓へ向けた。
「行宗くん……私なんかに構ってていいの?
本当は今すぐにでも、直穂を探しに行きたいんじゃないの?」
私は行宗くんに尋ねた。
私の命を助けてくれたのは心の底から嬉しいけれど、私の存在が行宗くんの足を止めているなら、それはすごく申し訳ない。
胸の奥が苦しくてたまらなくなる。
「……助けに、行きたいよ。今すぐ直穂に会いたい、寂しいよ……
きっと本音で話したほうが、和奈も自分を責めなくてすむだろうから、正直に言うよ。
いま俺の隣にいるのが、和奈じゃなくて直穂だったら良かったのにって、俺は思ってしまっている……
俺も最初は、和奈をフィリアたちに任せて、直穂を助けに行く選択を選ぶつもりだったんだ……」
………うん。
「本音が聞けて、私は嬉しいよ……」
え……?
どうして私は、また、泣いているのだろう?
「……なら、どうして……そうしなかったの……
どうして直穂じゃなくてっ、この私を選んだの……?」
自分の涙の意味が分からなくって、私はひどく混乱していた。
胸が張り裂けそうになりながら、私は声を絞り出した。
「なんでだろうな……?
直穂の手紙の最後の一文か、嫌な予感がしたからか……
……直穂の居場所は分からないけど、和奈の居場所は分かっていたから?
何となくだったのかもしれない。
あの時の正解なんて今でも分からない、ただ……
……俺はいま、和奈の方を選んで良かったと思ってるよ……」
「え……? それは……どうして」
私はぱっと行宗くんのほうを見た。
「直穂が居なくなって、心の中にぽっかりと穴が開いたみたいに何かが欠けて。俺は正気を失いかけてた。
あそこで直穂を探す選択をしていれば、きっと俺は直穂以外のことを考えられなくなって、自暴自棄の視野狭窄になっていたと思う……
いまこうして、ひさしぶりに和奈と話したお陰で、俺は正気を取り戻した気がする。
少しだけ日常に帰ってこれた気がするんだ。
俺の話を聞いてくれてありがとう。お陰でずいぶん気持ちが楽になったよ。
和奈だけでも、俺を待っててくれて……一人きりにしないでくれて、俺は本当に嬉しいんだ……」
突然、そんな言葉を向けられて、
心傷気味の私が、泣かないはずがない。
「……っ、ばかっ、ばか行宗っ……わざとだろっ、わざと泣かせにきてるだろっ……!」
私は表情が見られないように、顔を窓のほうに振り向いた。
くっそ、嬉しい……嬉しい。
この一週間、ずっと苦しかったのが嘘みたいだった。
楽しい、嬉しい……
生きてて良かった。
そんな時……
「……ん、あ……!」
私はとんでもないことに気がついた。
嘘……嘘でしょう? こんな時にっ!!
不味い……尿意が、一気に……
ちょろちょろちょろちょろ……
決壊した。
私は目からは涙を流しながら、布団のなかで、股からおしっこを漏らしてしてしまっていた
(あぁ………あーー……あぁぁ……)
身体が動かせない私は、この一週間、おむつみたいなものを履かせてもらっているけれど。
けど、それが問題なんじゃなくって……
(あぁ、恥ずかしい……
私、行宗くんと話しながら、見られながら……
嬉ションしちゃってる……)
穴があったら入りたい。
もう顔中が真っ赤だった。顔から火が出そうなくらい恥ずかしかった。
「……これからの予定だけど、和奈が元気になるまではここに住んで、この世界のことを勉強したりして過ごそうと思う。
直穂の事とか、クラスメイトのことは、焦っても仕方ないから。和奈はしばらく自分のことだけ考えれば良いよ」
「うん、分かった…… ありがとね。行宗くん」
ちょろちょろちょろちょろ、
布団の下で漏らしながら、平然とした声で返事をする。
微かな水音が行宗くんに聞こえてないかどうかヒヤヒヤして……背筋がぞくぞくと鳥肌がたつ。
太ももの根本までが湿ってきて生暖かいのが気持ち悪い……
まったく、私が特殊性癖に目覚めたらどうすんだ。
「……ふ、ふぁあぁあっ。 ひと安心したら一気に眠くなったわ。……悪いけど、俺、いったん寝ていいか?
敷布団は持ってきて貰ってて、この部屋で寝るから、何かあれば遠慮なく声で起こしてくれていいから」
行宗くんはそう言って、腰掛けていたイスから立ち上がった。
フラフラと歩く行宗くんは、確かに凄く疲れて眠そうだった。
あれ? まさか、もしかして、
私の目が覚めるまで、起きてずっと待っていてくれてたの?
「う、うん、もちろんだよっ。
ずっも私の手を握ってくれててありがと……行宗くん。
お疲れ様、おやすみなさい」
「うん、おやすみなさい」
私は布団にもぐる行宗くんに、おやすみの挨拶をした。
そしてふと肝心なことを思い出し、付け加えるように彼に尋ねた。
「ねぇ、ジュリアさんやジルクくんは家に居ないの? 今日はやけに一階が静かだけど……」
普段の診療所なら、バタバタと足音がしたり、患者さんの話し声が常に耳に入ってきていた。
「……うん。
フィリアの父さんの小桑原啓介さんが、ついさっき亡くなったんだ。
この家のみんなは今、啓介さんの身体を焼きに行ってるんだ」
「……そ、そうだったんだ。そっか……
……フィリアちゃんは結局、好きな人もお父さんも失うことになったんだね……」
あまりにも救われない結末。
全てを救おうとあがいたのに、フィリアちゃんは全てを失ってしまった。
「……今朝あった時、死んだ目をしてたよ。
……かける言葉が見つからなかった……
簡単に立ち直れるはずはないけど……フィリアがまた前を向いて笑えるように、俺もできるかぎりのことをするつもりだ……」
「私も……もちろん手伝うよ。フィリアちゃんは私の命の恩人だしね……」
静かな病室で、はぁと息をついた。
困ったなぁ。
しばらくおむつを変えて貰えない。
このぐしょぐしょのまま、我慢しつづけなければいけないのか?
行宗くんにオムツの交換をしてくれなんて頼めるはずもなく……私は何も言えなかった。
しばらくして、行宗くんはすやすやと寝息をかきはじめた。
その寝顔は、まだ子供っぽくてあなどけない。
「……ふーー」
窓に目を向け、青空を見上げた。
もう日は高く、初夏の暑さに、私の背中はじんわりと汗をかいていた。
天井を見上げながら、いろんなことを考える。
これからどうするのか?
私たちはどうなるのか?
いろんな不安が頭の中に浮かんできては消えていくなかで、不思議と私の心は穏やかだった。
風の匂いが気持ちいい。この世界の全てが気持ちいい。
一週間ぶりに取り戻した視界と嗅覚と聴覚で、私は世界の美しさを存分に堪能した。
私は……生きてる……
寝たきりで身動きの取れない私でも、おっぱいの真ん中ではとくとくと、心臓の鼓動が、確かに時を刻んでいた。
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