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喜岡 せん

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ナツノヒ行き特急列車

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 バケツをひっくり返したような雨、とは一体誰が言い出したのだろうか。
 男が溜息を吐く。
 身体に力が入らないのをなんとか押して退勤をすれば、この有様だ。男は先の見えない暗闇を睨みつけて、またひとつ溜息を吐いた。先日クリーニングに出したばかりのスーツが雨水を吸ったせいで変色している。
 
 仕事に追われるのはいつものことだし、こうして夜中の終電で帰ることも、そのまま家に帰らないこともいつものことだ。珈琲を飲もうとしてパソコンのマウスを持ち上げることも、朦朧とする意識の中「死ぬのではないか」と思いながらそれでも生きていることに驚きを隠せないことも、男にとってはそれが日常である。
 男は右腕で稼働する腕時計に目をやった。零時四分。本来終電が来るはずの時間から既に十分以上分経過している。
 いい加減にタクシーでも呼んだほうが良いのだろうか。男は随分と前からそう思っていたが中々動けずにいた。最早鞄を漁って携帯電話を手に取る気力も無いのだ。

「おじさん、こんなところで何をしているんだい」
 不意に少年のような声がした。
「……おじさんってば、寝るなら帰ってから寝なよ、迷惑だよ」
「………………俺に言っているのか」
「そうだよ、おじさん以外にいないじゃないか」
 虚空を見つめていた顔を声の方に向ける。
 スーツを着ているから老けて見えるのか、単に自分の顔色が悪いせいなのかは分からないが自分が「おじさん」と呼ばれたことに苦笑せざるをえなかった。「俺はまだ二十六だ」と欠伸を零す。
「お前こそこんな夜遅くに何してるんだ。子供が出歩いて良い時間じゃないだろう」
 煩わしく感じてギロリと睨むと「子供じゃないよ、僕はもう十四さ」と生意気な言葉が返ってきた。まだ十四じゃないか。男は何度目かわからない溜息を吐いた。同時に目の奥がチカチカする。
「言っとくけど俺はお前を家に送るほどのお人好しじゃないぞ。当てにするなら他を探せ」
「当てになんかしてない。それより早くここを出たほうが良いよ、帰れなくなっちゃう」
 少年が駅の出口を指さした。でもなぁ、と男はぼやく。帰ろうにも帰れないのだ。
「家に帰る電車がこの大雨で来ないんだよ。電車が来なけりゃ俺は帰れない」
「そうじゃない」少年が男の手を引いた。「おじさんは此処にいちゃいけないんだ」
「……どういうことだ?」
 男は少年が言っている意味が理解できなかった。理解する気力も残っていないのかもしれない。
 やる気のない男の腕を強く引き、少年は逃げるように搭乗口を駆け出した。
「仕事終わりでクタクタのおじさんを走らせないでくれ、余計に死ぬ」
「それならおじさんは今直ぐその仕事を辞めたほうが良いね。いいかい、此処は狭間なんだ」
「狭間?」
「駅の名前だよ。まだ終点じゃないだけマシだ」
 少年に連れられて駅の階段を上る。
 四半時前に通った出入口まで戻ると不意に違和感を感じた。
「此処に扉なんかあったか?」
 取っ手は付いているものの、押しても引いてもびくともしない。引き戸かと思ったがそれもまた違うようだ。
「……しまった」少年が息を呑む。
「おい、どういうことだ、狭間ってどういう意味だ」
「シッ」
 少年は男の口元を押さえた。
「電車が来た」
「なんだ来たんじゃねぇか。なら俺は帰るぞ」
「黙って。……おじさん何も知らないから教えてあげる。此処はおじさんが知ってる駅じゃないんだ。死んだ人が降りてくる駅・・・・・・・・・・・なんだよ。おじさんみたいにどっちつかずな人は迷いなくあいつらに連れていかれちゃう」
「俺がどっちつかず?」
 少年は男の肩を叩いた。「だから僕言ったでしょ、おじさん仕事辞めなよ」
 瞬間、少年の後ろからユラリと人影が現れた。「わっ」と声を上げそうになったが少年の小さな手に遮られる。
 ひとり、ふたり、さんにん、よにん。
 皆が焦点の合わない、死んだ魚のような目をしていた。
「おじさん喋らないでね」少年が声を潜める。「身体が盗られちゃうから」
 来てはいけない駅。自分が居てはいけない駅。
 一時期ネットで話題騒然となった「例の駅」は存在したのかもしれない。男はそれでも冷静なことに自分自身で驚いていた。
 電車から降りてきた人々は各々で待合室に座っている。目が合いもすれば取って食われるのではと危惧していたがどうやらそうではないらしい。皆虚ろな目で虚空を見つめている。仕事終わりに虚無を愛でる自分を見ているようだった。 

 構内にアナウンスが流れる。
『間もなく列車が到着致します……零時四十八分発……終点……上り……ナツノヒ行き……特急……カゴメ……一番乗り場で……お待ちください……』
 ぽつりぽつりと、また搭乗口に向かう。
 全員がいなくなったのを確認して、男は恐る恐る声を出した。
「あいつらは何処に行くんだ」
「……行くべき場所だよ。その先は僕でも知らない。向こうは下りの電車が走ってないから」
 男は袖を捲って再度腕時計を確認した。零時五十分。時間が止まっているわけではないらしい。
「狭間にいる人たちの向かう先は二つある」少年が言った。「電車に乗るか、駅に残るか」
 男はふぅん、と頷いた。
「電車に乗ると死んじゃう。駅に残ると死んだことになっちゃう」
 男はへぇ、と感嘆を零した。そのくらいしか言えなかったからである。
「おじさんもしかして死にたがりの人だったりする? ……まあいいや、出口を探そう。そのうち本当に出られなくなる」
「出るって言ったって見たことないドアが閉まってたじゃないか」
「別の道を探すんだよ。きっと何処かに繋がってるはずだ」
 少年は何かを決心したように頷いた。その時だった。

「おや、おふたりさん。まだ居たのかい」

 女性の声。
 少年が「あっ」と呟く。男は声を探そうと辺りを見渡した。
 声の主は見つからなかった。
「駅長さん、ちょうど良かった。駅から出られないんだ」
「出られない? お前は随分と前からそうじゃないか」
「僕じゃなくてこの人だよ」
「……ちょっと待て、一体誰と話してるんだ」
 宙に向かって身振り手振りをする少年を訝しんで男が尋ねた。「なるほどそういうことか」と姿の見えない声が言う。
「きみは此方側の者ではないから俺の姿が見えないんだろう。まだ救いがあるとも云える」
「え……っと」
「この人は駅長さんだよ。暇だから駅の見回りとかずっとしてるんだよね」
「客人を眺めてるだけじゃつまらないからねぇ。お前たちがふらふらしているのもしばらく眺めていたんだけどこの人には見えなかったわけだ。……形代かたしろを使ってみたらどうだい」
 男がかたしろ、と慣れない単語を繰り返した。
「形にわるで形代。身代わりみたいな物さ。此処で働き出して最初は護身で持ってたけど俺には無意味でね」
「それ、どこにあるの?」
「それが偶然俺の手元に……冗談だよ、お前たちがうろうろしてる時に残りを探してきたんだ」
 少年が手を伸ばす。何かを掴む動作をすると手元から紙のようなものがジワジワと姿を現した。
「ソレに自分の名前を書いて息を三度吹きかける。そうすれば其奴がきみの身代わりになって此方に残る。きみは向こうに帰れるっていう寸法さ。あくまでも駅がきみを引き止めているならって話だけれど」
「だって」と少年が紙でできた人形を男に手渡した。
「なんにせよこれで帰れるんだな」
 男は仕事柄必要不可欠になったボールペンを取り出してノックした。人生で何百回と記してきた自分の名を間違うことなく書き連ねる。

山咲幸多やまさきこうた

 紙人形を口元まで近づけて、三度、息を吹いた。

 ひとつ。

 ふたつ。

 ──みっつ。

 閉じていたはずの駅の扉がガタリと大きな音を立てて開いた。

 ふわりと風が凪ぐ。
 懐かしい匂い。
 蝉の声と、入道雲。
 久しい、懐かしい、泣きたくなるような──言葉にならない、懐古。郷里。ラムネの瓶がカラリと鳴く音が聴こえる。
 自動車の音とか、携帯電話とかパソコンとか、そういうものが無い、あれは──……俺の思い出だ。
 幸多、と呼ぶ声がする。
 早く帰っておいで、日が暮れるよ。
 夕焼けの茜色に照らされて影ができる。
 兄さん、兄さんと後ろから楽しげに笑う弟の声がした。
 田んぼ道を夢中で走る。手元の空のラムネの瓶が音を立てて笑う。
 帰ろう。俺たちの──


「──帰り道はそっちじゃないよ、兄さん」


 少年の声にふと我に返った。
「そっちじゃないんだ。まだ、兄さんは来てはいけない」


 ◇ ◇ ◇


 目を開く。見慣れない白い天井だった。身体が怠い。
 幸多は目線だけをチラと動かして溜め息を吐いた。傍に見えた点滴のパックは、その管を辿ると自分の腕に繋がっている。
 いつかいつかとは思っていたが、どうやらとうとう身体が悲鳴を上げたらしい。来ない電車を待っていたことだけは覚えているが、後のことは身に覚えがない。
 ベッドの傍らで誰かが話し込んでいて、それが母さんだと気づくのにしばらくかかった。

「やぁ、目が覚めたかい」

 それほど遠くはない場所から、何処かで聞き覚えのある声がした。隣りのベッドの患者だった。
「……ははっ、どうも」
 乾いた笑いが口から漏れる。
 会社になんて説明をしようか、なんてことを考えながら彼はそのまま目を閉じた。
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