海怪

五十鈴りく

文字の大きさ
上 下
48 / 58
東両国

東両国 ―壱―

しおりを挟む
 夏の力強く輝くお天道様の下、今日も両国広小路は人で賑わっていた。
 西も東も雑多なものである。空から見下ろしている鳥たちは、そんな人間を嘲笑っていたかもしれない。
 何せ、わざわざ木戸銭を払って莫迦ばかなことばかりしているのだから。
 この西両国広小路では、大人気の海獣が見られる見世物小屋の前が特に大賑わいである。

「さあさ、寄ってらっしゃい寄ってらっしゃい。世にも稀な海のばけもの。遠路はるばるやってきた海のばけもの、お江戸で見られるのはこの寅蔵座だけでございッ。さあさ、御覧じろ、御覧じろ」

 呼び込みの口上が高らかに響き渡る。のぼりがはためくその界隈で、最早知らぬ者はいない『海怪うみのばけもの』。

 それは丸っこい体に尾ビレ、手ビレを持つ生き物である。愛くるしい碁石のような黒々としたまなこで生け簀から見物人を見上げてくる。愛想を振り撒き、ヲォ、と変わった声で鳴く。
 獣ではあるけれど、人の言葉がわかるのではないかと思えるほどに賢い。そんな獣が巷で評判となり、皆がこぞって見物に来るのだった。

 その海怪の世話を一手に引き受けているのが、甚吉という齢十四の子供である。襤褸ぼろは着ていても、素朴で素直、不器用で要領が悪いながらにも日々懸命に働く。
 そんな甚吉には人様に言えない秘め事があった。

 それは、人ならざる者の声が聞けることである。どうしてそんなものが聞こえるのか、甚吉自身にもとんとわからない。ただ、物心ついた頃には聞こえていたのだ。
 いつもはそれを、聞こえない振りをしてやり過ごしていたのだが、そうもいかなくなったのは、この世話をする海怪の声が聞こえてしまうからである。

「オイ、甚。なんか美味ぇモンはねぇのかよ」

 これはこの海怪、ことマル公の口癖である。マル公は大層な食いしん坊で、その興味は魚に留まらない。天麩羅、牡丹餅、饅頭、稲荷寿司、と人の食べ物に興味津々である。

 以前は変な獣だと思っていたが、少し前にその理由の欠片らしきものが見えた。どうやらこのマル公、以前は人間であったのだという。人としての天寿を全うしたのち、この海怪に生まれ変わったのだそうだ。そのせいで、熱海から来たはずがべらんめえの江戸っ子口調らしい。

 しかし、そのことを当の本人ならぬ本獣は覚えていないのだが。
 死の間際、ひもじい思いでもしたのかもしれない。食い物に対する執着が異常に強かったりする。
 甚吉は、生け簀の前の板敷を拭きながらつぶやく。

「残念だけど、銭がねぇんだ」

 甚吉のような暮らしをする者に給金は出ない。食わせてもらえるだけでありがたいことなのだ。たまにマル公の生け簀に小銭を落としていく客がいて、それを拾った時のみ甚吉の懐に入る。

 マル公はそれを聞くなり、生け簀に潜った。貧乏な甚吉に用はないとでも言いたいのか。それとも、自分のおかげで稼いでいるくせに、この一座はケチだと拗ねたのか。

 すると、マル公は程なくして水面から顔を出した。そうして、プゥッと水を吐き出す。――甚吉が拭き清めた板敷が水浸しである。
 これは嫌がらせだろうか。そう思いたくなった時、マル公は口から水以外のものを吐き出した。

「いてッ」

 それが甚吉の頬に直撃し、甚吉は思わず頬を押さえた。しかし、マル公は誇らしげである。
 それもそのはず、マル公が吐き出したのは、四文銭であった。三枚もある。

「こいつがあれば美味ぇモンが買えらぁな」

 マル公はニヤリ、と愛らしい顔に似合わぬ薄暗い微笑みを見せた。甚吉はまるで金蔵破りの片棒を担ぐような心持ちになった。ドキドキしながらその銭を拾う。
 これは落とし物だ。こんな小銭、わざわざ探しに来る者はいない。拾った者がもらっても咎められることはないのだ。

「マ、マル先生、今度は何が食いてぇんだ?」

 とりあえず訊いてみた。マル公は生け簀の中で勿体ぶって体を一回転させ、それから言った。

「それがよう、ひとつに絞るってぇのがこれまた難しくてよ」

 そんなにもたくさんあるのか。マル公を満足させてやろうと思ったら、一体いくらあれば足りるのだろう。
 甚吉が愕然としていると、マル公はふぃぃとため息らしきものをついた。

「おめぇの稼ぎに無茶なんて言わねぇから安心しな」

 事実、無茶を言われてもどうにもならないのだが、それはそれで複雑である。甲斐性なしの甚吉は切ない。
 今回はとりあえずこの銭でマル公の一番食べたいものを買いに走ってやることくらいしかできないのだ。
 しかし、マル公は食べたいものを告げることなく、いかにも悪だくみをしているといった顔つきでクツクツと笑うのだった。

「なあ、甚。利口なオイラはいいことを考えついたんだぜ?」

 ――不吉である。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

御庭番のくノ一ちゃん ~華のお江戸で花より団子~

裏耕記
歴史・時代
御庭番衆には有能なくノ一がいた。 彼女は気ままに江戸を探索。 なぜか甘味巡りをすると事件に巡り合う? 将軍を狙った陰謀を防ぎ、夫婦喧嘩を仲裁する。 忍術の無駄遣いで興味を満たすうちに事件が解決してしまう。 いつの間にやら江戸の闇を暴く捕物帳?が開幕する。 ※※ 将軍となった徳川吉宗と共に江戸へと出てきた御庭番衆の宮地家。 その長女 日向は女の子ながらに忍びの技術を修めていた。 日向は家事をそっちのけで江戸の街を探索する日々。 面白そうなことを見つけると本来の目的であるお団子屋さん巡りすら忘れて事件に首を突っ込んでしまう。 天真爛漫な彼女が首を突っ込むことで、事件はより複雑に? 周囲が思わず手を貸してしまいたくなる愛嬌を武器に事件を解決? 次第に吉宗の失脚を狙う陰謀に巻き込まれていく日向。 くノ一ちゃんは、恩人の吉宗を守る事が出来るのでしょうか。 そんなお話です。 一つ目のエピソード「風邪と豆腐」は12話で完結します。27,000字くらいです。 エピソードが終わるとネタバレ含む登場人物紹介を挟む予定です。 ミステリー成分は薄めにしております。   作品は、第9回歴史・時代小説大賞の参加作です。 投票やお気に入り追加をして頂けますと幸いです。

藤と涙の後宮 〜愛しの女御様〜

蒼キるり
歴史・時代
藤は帝からの覚えが悪い女御に仕えている。長い間外を眺めている自分の主人の女御に勇気を出して声をかけると、女御は自分が帝に好かれていないことを嘆き始めて──

小童、宮本武蔵

雨川 海(旧 つくね)
歴史・時代
兵法家の子供として生まれた弁助は、野山を活発に走る小童だった。ある日、庄屋の家へ客人として旅の武芸者、有馬喜兵衛が逗留している事を知り、見学に行く。庄屋の娘のお通と共に神社へ出向いた弁助は、境内で村人に稽古をつける喜兵衛に反感を覚える。実は、弁助の父の新免無二も武芸者なのだが、人気はさっぱりだった。つまり、弁助は喜兵衛に無意識の内に嫉妬していた。弁助が初仕合する顚末。 備考 井上雄彦氏の「バガボンド」や司馬遼太郎氏の「真説 宮本武蔵」では、武蔵の父を無二斎としていますが、無二の説もあるため、本作では無二としています。また、通説では、武蔵の父は幼少時に他界している事になっていますが、関ヶ原の合戦の時、黒田如水の元で九州での戦に親子で参戦した。との説もあります。また、佐々木小次郎との決闘の時にも記述があるそうです。 その他、諸説あり、作品をフィクションとして楽しんでいただけたら幸いです。物語を鵜呑みにしてはいけません。 宮本武蔵が弁助と呼ばれ、野山を駆け回る小僧だった頃、有馬喜兵衛と言う旅の武芸者を見物する。新当流の達人である喜兵衛は、派手な格好で神社の境内に現れ、門弟や村人に稽古をつけていた。弁助の父、新免無二も武芸者だった為、その盛況ぶりを比較し、弁助は嫉妬していた。とは言え、まだ子供の身、大人の武芸者に太刀打ちできる筈もなく、お通との掛け合いで憂さを晴らす。 だが、運命は弁助を有馬喜兵衛との対決へ導く。とある事情から仕合を受ける事になり、弁助は有馬喜兵衛を観察する。当然だが、心技体、全てに於いて喜兵衛が優っている。圧倒的に不利な中、弁助は幼馴染みのお通や又八に励まされながら仕合の準備を進めていた。果たして、弁助は勝利する事ができるのか? 宮本武蔵の初死闘を描く! 備考 宮本武蔵(幼名 弁助、弁之助) 父 新免無二(斎)、武蔵が幼い頃に他界説、親子で関ヶ原に参戦した説、巌流島の決闘まで存命説、など、諸説あり。 本作は歴史の検証を目的としたものではなく、脚色されたフィクションです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

中山道板橋宿つばくろ屋

五十鈴りく
歴史・時代
時は天保十四年。中山道の板橋宿に「つばくろ屋」という旅籠があった。病床の主にかわり宿を守り立てるのは、看板娘の佐久と個性豊かな奉公人たち。他の旅籠とは一味違う、美味しい料理と真心尽くしのもてなしで、疲れた旅人たちを癒やしている。けれど、時には困った事件も舞い込んで――? 旅籠の四季と人の絆が鮮やかに描かれた、心温まる時代小説。

春分の神事

銀霧の森
歴史・時代
 九野鹿という村に、春が嫌いな子供が二人いた。それぞれ理由は違ったが、皆が祝う春分も好きではなかった。自分にしか感じられない、「なにか」のせいで……  二人の主人公の視点で、江戸時代の神事を描く物語。

16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽
歴史・時代
【第12章を週1回程度更新します】世界の海が人と船で結ばれていく16世紀の遥かな旅の物語です。 12章では16世紀後半のヨーロッパが舞台になります。 ※このお話は史実を参考にしたフィクションです。

処理中です...