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東両国
東両国 ―壱―
しおりを挟む 夏の力強く輝くお天道様の下、今日も両国広小路は人で賑わっていた。
西も東も雑多なものである。空から見下ろしている鳥たちは、そんな人間を嘲笑っていたかもしれない。
何せ、わざわざ木戸銭を払って莫迦なことばかりしているのだから。
この西両国広小路では、大人気の海獣が見られる見世物小屋の前が特に大賑わいである。
「さあさ、寄ってらっしゃい寄ってらっしゃい。世にも稀な海のばけもの。遠路はるばるやってきた海のばけもの、お江戸で見られるのはこの寅蔵座だけでございッ。さあさ、御覧じろ、御覧じろ」
呼び込みの口上が高らかに響き渡る。幟がはためくその界隈で、最早知らぬ者はいない『海怪』。
それは丸っこい体に尾ビレ、手ビレを持つ生き物である。愛くるしい碁石のような黒々とした眼で生け簀から見物人を見上げてくる。愛想を振り撒き、ヲォ、と変わった声で鳴く。
獣ではあるけれど、人の言葉がわかるのではないかと思えるほどに賢い。そんな獣が巷で評判となり、皆がこぞって見物に来るのだった。
その海怪の世話を一手に引き受けているのが、甚吉という齢十四の子供である。襤褸は着ていても、素朴で素直、不器用で要領が悪いながらにも日々懸命に働く。
そんな甚吉には人様に言えない秘め事があった。
それは、人ならざる者の声が聞けることである。どうしてそんなものが聞こえるのか、甚吉自身にもとんとわからない。ただ、物心ついた頃には聞こえていたのだ。
いつもはそれを、聞こえない振りをしてやり過ごしていたのだが、そうもいかなくなったのは、この世話をする海怪の声が聞こえてしまうからである。
「オイ、甚。なんか美味ぇモンはねぇのかよ」
これはこの海怪、ことマル公の口癖である。マル公は大層な食いしん坊で、その興味は魚に留まらない。天麩羅、牡丹餅、饅頭、稲荷寿司、と人の食べ物に興味津々である。
以前は変な獣だと思っていたが、少し前にその理由の欠片らしきものが見えた。どうやらこのマル公、以前は人間であったのだという。人としての天寿を全うした後、この海怪に生まれ変わったのだそうだ。そのせいで、熱海から来たはずがべらんめえの江戸っ子口調らしい。
しかし、そのことを当の本人ならぬ本獣は覚えていないのだが。
死の間際、ひもじい思いでもしたのかもしれない。食い物に対する執着が異常に強かったりする。
甚吉は、生け簀の前の板敷を拭きながらつぶやく。
「残念だけど、銭がねぇんだ」
甚吉のような暮らしをする者に給金は出ない。食わせてもらえるだけでありがたいことなのだ。たまにマル公の生け簀に小銭を落としていく客がいて、それを拾った時のみ甚吉の懐に入る。
マル公はそれを聞くなり、生け簀に潜った。貧乏な甚吉に用はないとでも言いたいのか。それとも、自分のおかげで稼いでいるくせに、この一座はケチだと拗ねたのか。
すると、マル公は程なくして水面から顔を出した。そうして、プゥッと水を吐き出す。――甚吉が拭き清めた板敷が水浸しである。
これは嫌がらせだろうか。そう思いたくなった時、マル公は口から水以外のものを吐き出した。
「いてッ」
それが甚吉の頬に直撃し、甚吉は思わず頬を押さえた。しかし、マル公は誇らしげである。
それもそのはず、マル公が吐き出したのは、四文銭であった。三枚もある。
「こいつがあれば美味ぇモンが買えらぁな」
マル公はニヤリ、と愛らしい顔に似合わぬ薄暗い微笑みを見せた。甚吉はまるで金蔵破りの片棒を担ぐような心持ちになった。ドキドキしながらその銭を拾う。
これは落とし物だ。こんな小銭、わざわざ探しに来る者はいない。拾った者がもらっても咎められることはないのだ。
「マ、マル先生、今度は何が食いてぇんだ?」
とりあえず訊いてみた。マル公は生け簀の中で勿体ぶって体を一回転させ、それから言った。
「それがよう、ひとつに絞るってぇのがこれまた難しくてよ」
そんなにもたくさんあるのか。マル公を満足させてやろうと思ったら、一体いくらあれば足りるのだろう。
甚吉が愕然としていると、マル公はふぃぃとため息らしきものをついた。
「おめぇの稼ぎに無茶なんて言わねぇから安心しな」
事実、無茶を言われてもどうにもならないのだが、それはそれで複雑である。甲斐性なしの甚吉は切ない。
今回はとりあえずこの銭でマル公の一番食べたいものを買いに走ってやることくらいしかできないのだ。
しかし、マル公は食べたいものを告げることなく、いかにも悪だくみをしているといった顔つきでクツクツと笑うのだった。
「なあ、甚。利口なオイラはいいことを考えついたんだぜ?」
――不吉である。
西も東も雑多なものである。空から見下ろしている鳥たちは、そんな人間を嘲笑っていたかもしれない。
何せ、わざわざ木戸銭を払って莫迦なことばかりしているのだから。
この西両国広小路では、大人気の海獣が見られる見世物小屋の前が特に大賑わいである。
「さあさ、寄ってらっしゃい寄ってらっしゃい。世にも稀な海のばけもの。遠路はるばるやってきた海のばけもの、お江戸で見られるのはこの寅蔵座だけでございッ。さあさ、御覧じろ、御覧じろ」
呼び込みの口上が高らかに響き渡る。幟がはためくその界隈で、最早知らぬ者はいない『海怪』。
それは丸っこい体に尾ビレ、手ビレを持つ生き物である。愛くるしい碁石のような黒々とした眼で生け簀から見物人を見上げてくる。愛想を振り撒き、ヲォ、と変わった声で鳴く。
獣ではあるけれど、人の言葉がわかるのではないかと思えるほどに賢い。そんな獣が巷で評判となり、皆がこぞって見物に来るのだった。
その海怪の世話を一手に引き受けているのが、甚吉という齢十四の子供である。襤褸は着ていても、素朴で素直、不器用で要領が悪いながらにも日々懸命に働く。
そんな甚吉には人様に言えない秘め事があった。
それは、人ならざる者の声が聞けることである。どうしてそんなものが聞こえるのか、甚吉自身にもとんとわからない。ただ、物心ついた頃には聞こえていたのだ。
いつもはそれを、聞こえない振りをしてやり過ごしていたのだが、そうもいかなくなったのは、この世話をする海怪の声が聞こえてしまうからである。
「オイ、甚。なんか美味ぇモンはねぇのかよ」
これはこの海怪、ことマル公の口癖である。マル公は大層な食いしん坊で、その興味は魚に留まらない。天麩羅、牡丹餅、饅頭、稲荷寿司、と人の食べ物に興味津々である。
以前は変な獣だと思っていたが、少し前にその理由の欠片らしきものが見えた。どうやらこのマル公、以前は人間であったのだという。人としての天寿を全うした後、この海怪に生まれ変わったのだそうだ。そのせいで、熱海から来たはずがべらんめえの江戸っ子口調らしい。
しかし、そのことを当の本人ならぬ本獣は覚えていないのだが。
死の間際、ひもじい思いでもしたのかもしれない。食い物に対する執着が異常に強かったりする。
甚吉は、生け簀の前の板敷を拭きながらつぶやく。
「残念だけど、銭がねぇんだ」
甚吉のような暮らしをする者に給金は出ない。食わせてもらえるだけでありがたいことなのだ。たまにマル公の生け簀に小銭を落としていく客がいて、それを拾った時のみ甚吉の懐に入る。
マル公はそれを聞くなり、生け簀に潜った。貧乏な甚吉に用はないとでも言いたいのか。それとも、自分のおかげで稼いでいるくせに、この一座はケチだと拗ねたのか。
すると、マル公は程なくして水面から顔を出した。そうして、プゥッと水を吐き出す。――甚吉が拭き清めた板敷が水浸しである。
これは嫌がらせだろうか。そう思いたくなった時、マル公は口から水以外のものを吐き出した。
「いてッ」
それが甚吉の頬に直撃し、甚吉は思わず頬を押さえた。しかし、マル公は誇らしげである。
それもそのはず、マル公が吐き出したのは、四文銭であった。三枚もある。
「こいつがあれば美味ぇモンが買えらぁな」
マル公はニヤリ、と愛らしい顔に似合わぬ薄暗い微笑みを見せた。甚吉はまるで金蔵破りの片棒を担ぐような心持ちになった。ドキドキしながらその銭を拾う。
これは落とし物だ。こんな小銭、わざわざ探しに来る者はいない。拾った者がもらっても咎められることはないのだ。
「マ、マル先生、今度は何が食いてぇんだ?」
とりあえず訊いてみた。マル公は生け簀の中で勿体ぶって体を一回転させ、それから言った。
「それがよう、ひとつに絞るってぇのがこれまた難しくてよ」
そんなにもたくさんあるのか。マル公を満足させてやろうと思ったら、一体いくらあれば足りるのだろう。
甚吉が愕然としていると、マル公はふぃぃとため息らしきものをついた。
「おめぇの稼ぎに無茶なんて言わねぇから安心しな」
事実、無茶を言われてもどうにもならないのだが、それはそれで複雑である。甲斐性なしの甚吉は切ない。
今回はとりあえずこの銭でマル公の一番食べたいものを買いに走ってやることくらいしかできないのだ。
しかし、マル公は食べたいものを告げることなく、いかにも悪だくみをしているといった顔つきでクツクツと笑うのだった。
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――不吉である。
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