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判じ絵
判じ絵 ―拾―
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――聞き間違いで済ませるのは、やはり難しかった。
甚吉は早朝から眠たい目を擦り、そうして稲荷社まで走った。参拝客のいない社の前で神使を呼ぶ。
「穂武良様、穂武良様、出てきておくんなせぇッ」
しかし――
「ワタシはもう行灯にはならぬぞよ」
姿は見えず、ツーン、とすました声が返る。やはり、稲荷神の使いとしての矜持に傷がついたようだ。けれども、ここは機嫌を直してもらわねば話が進まない。
「どうもすいやせんでしたッ。あの、重ね重ね申し訳ねぇんですけど、その、ちょっと話を聞いちゃくれやせんか?」
他にマル公の話をできる相手などいないのだ。だから甚吉は穂武良に相談に来たのである。
すると、穂武良狐は渋々姿を現した。甚吉の後ろに。
「お願いしやすッ」
ただ、無言で立たれても気づかない。社に向けてペコペコと頭を下げていた甚吉に、背後から穂武良は面白くなさそうに言った。
「それで、話とはなんぞよ?」
わっ、と驚いて飛びのいた甚吉に、穂武良は細長い口でため息をついてみせる。
甚吉は照れ隠しにひとつ咳払いをしてから言った。
「あ、そ、その、穂武良様、あの、マル先生がちょっとおかしなことを言うようになったんで。やっぱり、人の食いもんは海の生き物の体に悪ぃもんなんでしょうか?」
それくらいしか原因が考えられなかった。腹を壊すくらいならばまだしも、やはり心配になる。
すると、穂武良は首を傾げた。
「おかしなこととな?」
「へい。前から本が好きで、貸本代のために飯を抜いてひもじいのを我慢したとかなんとか言うんで。熱海の海から来たマル先生が」
それを聞くなり、穂武良はハハァとよくわからない声を出した。甚吉はハラハラとしながらその先を待つ。
穂武良は大きな耳を何度か動かしながらうなずいた。
「それはヤツの思い出よな」
「え?」
「事実、飯を抜いてまで本を読もうとしたのであろうな」
「そ、そいつぁ一体――」
「この世の魂は、死すれば別の生き物となって甦る。あやつは今、海獣であるがな、その前は本を読むのが三度の飯よりも好きなヒトであったのだろうのぅ」
マル公が、マル公である前――
以前は人であったと。
そう考えたら、何かと落ち着くことが多かった。
熱海から来たくせに、どうしてべらんめえなのか。
産まれた時から利口だというのは、産まれた時から人であった時の知恵を持って生まれたからか。
「それをな、『前世』と呼ぶのだ」
エヘン、と穂武良は偉そうに教えてくれた。
そのおかげでよくわかった。
「マル先生の前世は、人――」
間違いない、江戸っ子だ。あちこち巡業したり、国訛りのある人と接したりして他所の言葉が入り混じっている甚吉よりもよほど江戸っ子である。
しかし、マル公はあの愛くるしさだから許される口の悪さだ。人である時はさぞ要らぬ喧嘩も買ったことだろう。
「マル先生が――」
ぼうっと繰り返す甚吉に、稲荷神の使いは箒ほどに豊かな尻尾を揺らした。
「まあ、あまり覚えてはおらんようだがな。そもそも、思い出すことなどないはずなのだ。おぬしとて己の前世など知りもしないであろうに」
言われてみればそうだ。甚吉が甚吉である前のことなど知らない。下手をすると人ではなかったのかもしれない。夏の夜にペチリと叩かれた憐れな蚊であったりするのだろうか。
「お、おれ、もう蚊を叩いたりしやせん」
涙目でそんなことを言うと、穂武良は目を細めた。
「道を行く蟻であったかもしれんぞ」
穂武良の言葉に、甚吉はヒッと声を漏らしてから呻いた。
「お、おれ、なんてことをしちまったんでしょう? 今まで蟻を踏まずに歩いてきたとは言い難くて――。なんて罪深い生き方をしてきちまったんでしょう――」
真面目に生きていたつもりが、人様の今生を踏み潰してしまっていたのか。そう思ったらいても立ってもいられないくらいに悲しい。
「――なんでも真に受けるなというに」
深々とため息をついた狐だった。どうやら冗談であったようで、甚吉はほっと胸を撫で下ろす。
「おぬしの前世が何かなどということまでは知らぬがな、前世は前世。今生と混ぜて考えることはない。おぬしたちは今を生きておる、ただそれだけのことだ」
マル公の前世がなんであろうと、マル公はマル公である。それに変わりはない。穂武良はそう言うのだろう。
それもそうだ。そうでなければ、甚吉は蟻んこ扱いされなくてはならない。
大事なのは、今。
それを改めて考えた。
「ありがとうごぜぇやす、穂武良様」
甚吉は深々と頭を下げると、マル公のもとへ走った。何か、無性にあの顔が見たくなった。
あの、まん丸い顔が。
甚吉は早朝から眠たい目を擦り、そうして稲荷社まで走った。参拝客のいない社の前で神使を呼ぶ。
「穂武良様、穂武良様、出てきておくんなせぇッ」
しかし――
「ワタシはもう行灯にはならぬぞよ」
姿は見えず、ツーン、とすました声が返る。やはり、稲荷神の使いとしての矜持に傷がついたようだ。けれども、ここは機嫌を直してもらわねば話が進まない。
「どうもすいやせんでしたッ。あの、重ね重ね申し訳ねぇんですけど、その、ちょっと話を聞いちゃくれやせんか?」
他にマル公の話をできる相手などいないのだ。だから甚吉は穂武良に相談に来たのである。
すると、穂武良狐は渋々姿を現した。甚吉の後ろに。
「お願いしやすッ」
ただ、無言で立たれても気づかない。社に向けてペコペコと頭を下げていた甚吉に、背後から穂武良は面白くなさそうに言った。
「それで、話とはなんぞよ?」
わっ、と驚いて飛びのいた甚吉に、穂武良は細長い口でため息をついてみせる。
甚吉は照れ隠しにひとつ咳払いをしてから言った。
「あ、そ、その、穂武良様、あの、マル先生がちょっとおかしなことを言うようになったんで。やっぱり、人の食いもんは海の生き物の体に悪ぃもんなんでしょうか?」
それくらいしか原因が考えられなかった。腹を壊すくらいならばまだしも、やはり心配になる。
すると、穂武良は首を傾げた。
「おかしなこととな?」
「へい。前から本が好きで、貸本代のために飯を抜いてひもじいのを我慢したとかなんとか言うんで。熱海の海から来たマル先生が」
それを聞くなり、穂武良はハハァとよくわからない声を出した。甚吉はハラハラとしながらその先を待つ。
穂武良は大きな耳を何度か動かしながらうなずいた。
「それはヤツの思い出よな」
「え?」
「事実、飯を抜いてまで本を読もうとしたのであろうな」
「そ、そいつぁ一体――」
「この世の魂は、死すれば別の生き物となって甦る。あやつは今、海獣であるがな、その前は本を読むのが三度の飯よりも好きなヒトであったのだろうのぅ」
マル公が、マル公である前――
以前は人であったと。
そう考えたら、何かと落ち着くことが多かった。
熱海から来たくせに、どうしてべらんめえなのか。
産まれた時から利口だというのは、産まれた時から人であった時の知恵を持って生まれたからか。
「それをな、『前世』と呼ぶのだ」
エヘン、と穂武良は偉そうに教えてくれた。
そのおかげでよくわかった。
「マル先生の前世は、人――」
間違いない、江戸っ子だ。あちこち巡業したり、国訛りのある人と接したりして他所の言葉が入り混じっている甚吉よりもよほど江戸っ子である。
しかし、マル公はあの愛くるしさだから許される口の悪さだ。人である時はさぞ要らぬ喧嘩も買ったことだろう。
「マル先生が――」
ぼうっと繰り返す甚吉に、稲荷神の使いは箒ほどに豊かな尻尾を揺らした。
「まあ、あまり覚えてはおらんようだがな。そもそも、思い出すことなどないはずなのだ。おぬしとて己の前世など知りもしないであろうに」
言われてみればそうだ。甚吉が甚吉である前のことなど知らない。下手をすると人ではなかったのかもしれない。夏の夜にペチリと叩かれた憐れな蚊であったりするのだろうか。
「お、おれ、もう蚊を叩いたりしやせん」
涙目でそんなことを言うと、穂武良は目を細めた。
「道を行く蟻であったかもしれんぞ」
穂武良の言葉に、甚吉はヒッと声を漏らしてから呻いた。
「お、おれ、なんてことをしちまったんでしょう? 今まで蟻を踏まずに歩いてきたとは言い難くて――。なんて罪深い生き方をしてきちまったんでしょう――」
真面目に生きていたつもりが、人様の今生を踏み潰してしまっていたのか。そう思ったらいても立ってもいられないくらいに悲しい。
「――なんでも真に受けるなというに」
深々とため息をついた狐だった。どうやら冗談であったようで、甚吉はほっと胸を撫で下ろす。
「おぬしの前世が何かなどということまでは知らぬがな、前世は前世。今生と混ぜて考えることはない。おぬしたちは今を生きておる、ただそれだけのことだ」
マル公の前世がなんであろうと、マル公はマル公である。それに変わりはない。穂武良はそう言うのだろう。
それもそうだ。そうでなければ、甚吉は蟻んこ扱いされなくてはならない。
大事なのは、今。
それを改めて考えた。
「ありがとうごぜぇやす、穂武良様」
甚吉は深々と頭を下げると、マル公のもとへ走った。何か、無性にあの顔が見たくなった。
あの、まん丸い顔が。
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