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判じ絵
判じ絵 ―壱―
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天保九年、夏。
江戸、大川を跨ぐ両国橋の袂の広小路。火避け地であるはずの開けた土地も、みすみす遊ばせておくのは勿体ない。気づけば雑多な見世物小屋が立ち並び、見物人に溢れた騒がしさが、ここ両国広小路の常である。
そんな数多くの見世物小屋の中でも特に人気を集める寅蔵座。ここには将軍も閲覧した、それは物珍しい海の生き物がいる。
丸い頭に愛くるしいつぶらな眼、猫のような髭、ぽってりとまん丸い胴、櫓べらのような手。
ヲォ、と珍妙な声で鳴き、それはそれは人懐っこい。通り名は、海怪。この生き物見たさに高い見料を払って、見物人たちは寅蔵座に押しかけるのであった。
その海怪は客の手から餌を食うも、その手を噛んだことなど一度もない。上手に餌だけを食べるのだ。
愛玩動物として飼われている犬や猫も、時折人の言葉がわかるように見える。この海怪もまた、犬や猫ほどには利口に感じられた。それが人気の理由であるのだけれど。
しかし、実際のところ、この海怪は犬や猫よりも賢い。そう――本当に利口なのである。利口すぎて減らず口が止まらない。
「ハハン、今日もシケた間抜け面の客ばっかしで面白くねぇなぁオイ。たまにゃぁこう面白れぇの連れてこいや」
などと海怪がぼやいていた――なんてことを見物客たちは知る由もない。この海怪、人の観察が趣味なのである。生け簀から愛想を振り撒き、自分を眺めては楽しんでいる客たちを逆に観察している。そう、見物客は見料を払って海怪に見物されているのである。
それを知っているのは、この寅蔵座で海怪の世話をする小僧、甚吉ただ一人。
ある日突然、このマル公は口を利き出した。ただし、その声が聞けるのは今のところ甚吉だけ。
親の顔すら知らない薄幸の甚吉には、人外の声を聞けるという、いいのか悪いのかよくわからない特技があったのだ。
声を聞くまでは愛くるしいと思っていたマル公は、実はとんでもなく口が悪かった。郷里は熱海のはずが、まるで江戸っ子のべらんめえ口調である。
その愛嬌のある姿に騙されていたと言うべきか。
ただし、このマル公、甚吉の危機を救ってくれた恩人ならぬ恩怪でもあるのだ。一人と一匹の間にはそれなりの絆が生まれていた。
「マル先生、そのお客たちがいるからおれたちはお飯を食わせてもらえるんだ。そう邪険にしちゃいけねぇよ」
甚吉は素直な性分の小僧である。世間で粗略に扱われようとも、ひねたところもなく生きている。相変わらず痩せた身体に目だけが大きい風貌で、まだまだ子供じみているけれど。
「オウオウオウ、おめぇはいつからオイラに説教垂れるほど偉くなりやがったコン畜生め」
などと悪態をつきながらヒレで水をピピッとかけてくる。その飛沫から顔を庇うと、甚吉は腕の陰からぼやいた。
「別に説教なんかじゃ――」
「フン、この怒りはなんかうめぇもん食わねぇと治まらねぇぞ」
とかなんとか言い出した。これは怒っているのではない。単に何か食べたいだけなのだ。マル公は食いしん坊である。
ちなみに、その何かは魚ばかりではない。天麩羅であったり、饅頭であったり、稲荷寿司であったり――マル公は人の食べ物に異常なまでの興味がある。まさかこの海怪が魚以外のものを好むとは誰も思わないだろうに。
しかし、悲しいかな。甚吉には給金がない。日々飯を食わせてもらっているのがその代わり。見世物小屋の働き手など皆そんなものなのだ。
甚吉の得られる銭はせいぜいが見物客の落とし物であった。掃除をしていて見つけたものはとりあえず拾う。もし落とし主が現れたら素直に返すが、現れなければそのままもらっておく。小銭など探しに来る者はほぼいないのだけれど。
大金が落ちていることはまずないが、塵も積もればなんとやら。四文銭一枚落ちていればそれで十分マル公に何か買ってやれるのだ。
また明日にでも生け簀の掃除をしてみたら、穴あき銭の一枚くらい落ちているかもしれない。地面には何も落ちていない――そう思っていたら、小屋の隅に畳まれた紙が落ちていた。残念ながら金目のものではない。
何かの証文だとか、そんなご大層なものではないだろうけれど。
甚吉が小屋の隅で四つ折りにされたその紙を拾い上げると、マル公も気づいて生け簀の縁に身を乗り出した。
「おお、なんだぁ? 今、なんか拾っただろ」
「うん――」
返事をしつつ、その紙を広げてみる。ただ、甚吉はろくに字が読めない。読めるのは平仮名までであり、難しい漢字は読めないのだ。
ただ、文字は一種類のみ。そこには大きく絵が描かれていたのだ。
それはおかしな絵であった。
書かれているただ一種類の文字は『萬』。
甚吉は首をひねった。
江戸、大川を跨ぐ両国橋の袂の広小路。火避け地であるはずの開けた土地も、みすみす遊ばせておくのは勿体ない。気づけば雑多な見世物小屋が立ち並び、見物人に溢れた騒がしさが、ここ両国広小路の常である。
そんな数多くの見世物小屋の中でも特に人気を集める寅蔵座。ここには将軍も閲覧した、それは物珍しい海の生き物がいる。
丸い頭に愛くるしいつぶらな眼、猫のような髭、ぽってりとまん丸い胴、櫓べらのような手。
ヲォ、と珍妙な声で鳴き、それはそれは人懐っこい。通り名は、海怪。この生き物見たさに高い見料を払って、見物人たちは寅蔵座に押しかけるのであった。
その海怪は客の手から餌を食うも、その手を噛んだことなど一度もない。上手に餌だけを食べるのだ。
愛玩動物として飼われている犬や猫も、時折人の言葉がわかるように見える。この海怪もまた、犬や猫ほどには利口に感じられた。それが人気の理由であるのだけれど。
しかし、実際のところ、この海怪は犬や猫よりも賢い。そう――本当に利口なのである。利口すぎて減らず口が止まらない。
「ハハン、今日もシケた間抜け面の客ばっかしで面白くねぇなぁオイ。たまにゃぁこう面白れぇの連れてこいや」
などと海怪がぼやいていた――なんてことを見物客たちは知る由もない。この海怪、人の観察が趣味なのである。生け簀から愛想を振り撒き、自分を眺めては楽しんでいる客たちを逆に観察している。そう、見物客は見料を払って海怪に見物されているのである。
それを知っているのは、この寅蔵座で海怪の世話をする小僧、甚吉ただ一人。
ある日突然、このマル公は口を利き出した。ただし、その声が聞けるのは今のところ甚吉だけ。
親の顔すら知らない薄幸の甚吉には、人外の声を聞けるという、いいのか悪いのかよくわからない特技があったのだ。
声を聞くまでは愛くるしいと思っていたマル公は、実はとんでもなく口が悪かった。郷里は熱海のはずが、まるで江戸っ子のべらんめえ口調である。
その愛嬌のある姿に騙されていたと言うべきか。
ただし、このマル公、甚吉の危機を救ってくれた恩人ならぬ恩怪でもあるのだ。一人と一匹の間にはそれなりの絆が生まれていた。
「マル先生、そのお客たちがいるからおれたちはお飯を食わせてもらえるんだ。そう邪険にしちゃいけねぇよ」
甚吉は素直な性分の小僧である。世間で粗略に扱われようとも、ひねたところもなく生きている。相変わらず痩せた身体に目だけが大きい風貌で、まだまだ子供じみているけれど。
「オウオウオウ、おめぇはいつからオイラに説教垂れるほど偉くなりやがったコン畜生め」
などと悪態をつきながらヒレで水をピピッとかけてくる。その飛沫から顔を庇うと、甚吉は腕の陰からぼやいた。
「別に説教なんかじゃ――」
「フン、この怒りはなんかうめぇもん食わねぇと治まらねぇぞ」
とかなんとか言い出した。これは怒っているのではない。単に何か食べたいだけなのだ。マル公は食いしん坊である。
ちなみに、その何かは魚ばかりではない。天麩羅であったり、饅頭であったり、稲荷寿司であったり――マル公は人の食べ物に異常なまでの興味がある。まさかこの海怪が魚以外のものを好むとは誰も思わないだろうに。
しかし、悲しいかな。甚吉には給金がない。日々飯を食わせてもらっているのがその代わり。見世物小屋の働き手など皆そんなものなのだ。
甚吉の得られる銭はせいぜいが見物客の落とし物であった。掃除をしていて見つけたものはとりあえず拾う。もし落とし主が現れたら素直に返すが、現れなければそのままもらっておく。小銭など探しに来る者はほぼいないのだけれど。
大金が落ちていることはまずないが、塵も積もればなんとやら。四文銭一枚落ちていればそれで十分マル公に何か買ってやれるのだ。
また明日にでも生け簀の掃除をしてみたら、穴あき銭の一枚くらい落ちているかもしれない。地面には何も落ちていない――そう思っていたら、小屋の隅に畳まれた紙が落ちていた。残念ながら金目のものではない。
何かの証文だとか、そんなご大層なものではないだろうけれど。
甚吉が小屋の隅で四つ折りにされたその紙を拾い上げると、マル公も気づいて生け簀の縁に身を乗り出した。
「おお、なんだぁ? 今、なんか拾っただろ」
「うん――」
返事をしつつ、その紙を広げてみる。ただ、甚吉はろくに字が読めない。読めるのは平仮名までであり、難しい漢字は読めないのだ。
ただ、文字は一種類のみ。そこには大きく絵が描かれていたのだ。
それはおかしな絵であった。
書かれているただ一種類の文字は『萬』。
甚吉は首をひねった。
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