海怪

五十鈴りく

文字の大きさ
上 下
31 / 58
稲荷

稲荷 ―捌―

しおりを挟む
 その晩、甚吉は照の様子を見に行った。
 何せ甚吉の願いが届くまで、まだまだ時がかかりそうなのである。照の不調がそのせいで長引いてしまうのかと思うと、申し訳ない気持ちになったのだ。

 甚吉が小声で断ってから小屋のこもをぺらりとめくると、照は茣蓙ござの上に横になっていた。薄暗い中、顔色まではわからないけれど、眠っているのなら起こすまでもない。そっとしておこうかと思った甚吉に、照はどうやら起きていたらしくか細い声を上げた。

「甚吉」
「あ、お照さん、起こしちまったかい?」

 しょんぼりと薦の陰から言うと、照は体を起こさないままでつぶやいた。

「大丈夫だよ。少しずつよくなってるから。あんたもあんまり気にしないでいいからね」
「うん――」

 そうは言うけれど、祈願の甲斐がない状況なのだ。医者に診てもらうでもなく、神仏が力を貸してくれるでもない現状では照自身の体が頑張るよりない。
 照は甚吉が気にするから強がるのだろうか。
 それでも、照は柔らかな声音で言った。

「甚吉、あんたが心配してくれたことが本当は嬉しかったよ。ありがとう」

 何も力になれていない甚吉なのに、照はありがとうと言ってくれる。

「そんなこと――」

 ぽつりとつぶやいて、甚吉は自分の胸を押さえた。ギュッと締めつけられるように心の臓が疼いたのだ。

 ありがとう、と言ってもらえた。その言葉がほしかったわけではないけれど、甚吉の心配が迷惑ではないのだと、それを知れただけで甚吉は嬉しかった。
 じわりと目に涙が浮かぶ。

 やっぱり、照のために何かがしたい。力になりたい。
 今の甚吉にできるのは、あの猫狐が本来の姿に戻る手伝いをすることくらいだろう。

 考えようによっては、そうしたらあの萬助という番頭も悪だくみができなくなるはずだ。肝心の猫がいないのだから。


 甚吉は照のところから引くと、もう一度だけマル公に相談してから寝ようと思った。マル公は安眠妨害だと怒るだろうか。

 蒸し暑く息苦しさを感じるような日中とは違い、少し涼しい風も吹く晩、ふと、あるはずのないところに灯りがある。

「へ?」

 思わず甚吉が首を向けると、そこには屋号入りの提灯を手にした萬助がいた。灯りに下から照らされた顔は、それはもう幽霊のように恐ろしかった。

「ヒッ」

 大きな悲鳴は出なかった。むしろ、声が出ない。怨念の塊のような男が甚吉にじり寄る。

 何故ここがわかったのだろう。
 甚吉は全力で駆け抜けた。追いつかれた感じはなかったというのに。
 すると、萬助はフッと笑った。

「紙入れをスった子供が逃げたから、見失う前に逃げた方角を見たいと言って近くの茶屋の二階に上ったのだ。高みからはお前が消えた方角が見えた」

 腐っても大店の番頭。嫌な知恵が働く。

「あの後、猫はお嬢様のところへ戻ってこなかった。早く、あの猫を捕まえろ。そうしたら、お前にも褒美をやる。もし断ろうものならば――」

 萬助の下駄がジリジリと前に進む。甚吉は逃げなければという思いと、逃げたらどうなるのかという思いとの板挟みになった。背後の小屋にはマル公がいる。マル公に悪戯されたらどうしようかと考えると動けないのだ。

「あ、あ、あの、あの――ッ」

 時間稼ぎに何か言わなければと思うけれど、何も言葉が浮かんでこない。
 むしろ今大声を出せば仲間たちが起きてきて助けてくれるだろうか。しかし、萬助の悪だくみは猫狐が教えてくれただけで、これといった証拠もない。仲間が起きてきたところでとぼければそれで済む。

 この場をどう逃れたらいいのだ。
 甚吉が全身から汗を噴いていると、萬助の後ろに白い毛並みがぼんやりと浮かんだ。
 そこに、いる。

「しつこい男よな」

 そんなことを呆れた様子でつぶやくから、つい甚吉はそちらに目を向けてしまった。萬助は甚吉の目線の先を蛇のような目で素早く辿った。猫狐はさらに素早く隠れたけれど、どうやら近くにはまだいるようだ。

「さて、どうしたものやら――」

 猫狐の声がする。姿は見えない。

「おぬしがさっさとこの紐を切っておれば、このようなまどろっこしい事態にはならなかったというのに」

 今、そういう小言を言っている場合なのか。

「おい、どうなんだ? 猫を連れてこれるのか?」

 と、萬助は甚吉の方へまた踏み込む。萬助に猫の声は聞こえないから、甚吉が黙り込んでいるようにしか見えないのだ。痺れを切らしたような声であった。
 甚吉は何かを言わないとと考え、そうしてやっとのことで言った。

「おおおおお、おれより飼い主のお嬢様に懐いていなさるはずッ。猫ならそのうちお嬢様のもとに帰りやすッ」

 不自然な点はないはず。自分でもよく言えたと褒めてやりたいくらいだ。
 けれど、萬助は納得しなかった。薄暗い目を陰気に向けている。

「お嬢様にはそれほど懐いてはおらん」

 萬助は、案外猫の気持ちをよくわかっているようだ。そこが皮肉である。
 だから戻ってこない可能性を考えて探すのだ。しかし、お嬢様のために猫を探しているわけでもなんでもないのが厄介である。

 そこで甚吉はふと思いついた。――よし、それでいこう、と自分の考えを自分で褒めた。

「どうしてそんなに躍起になって猫を探すんで? まるでお前様がお嬢様以上に猫に用があるみてぇですよ」

 思いきって言ってやった。
 甚吉は萬助の悪事を知っている。萬助が悪事を見通され、疚しくなって逃げるのではないかと思ったのだ。
 ――ところが。

「この愚か者がッ。要らぬことを口走る出ないッ」

 と、猫狐が叱責する声が飛んだ。
 なんだろう、と思った。しかし、次の瞬間に萬助の顔色が変わったことに気づいたのである。

「お前のような小物が余計なことを考えるべきではない。協力せぬばかりかぐだぐだと――少しばかり懲らしめてやろうか」

 それは冷たい声であった。
 萬助がうろたえた甚吉に手を伸ばす。甚吉は恐ろしさに動けなかった。

 襟をつかまれ、継のあった部分がビッと音を立てて破れた。殴られる、と甚吉が覚悟を決めた時、振りかぶられた手が甚吉にめり込む前に白い塊が萬助の手に爪を立てて噛みついた。それは、猫狐である。
 フーッと毛を逆立て、爪と牙とを萬助に突き立てる。

「うわッ」

 萬助は驚いて提灯を持つ手を振るった。けれど、それでも猫狐は離れなかった。こうしていると、どこからどう見ても猫である――と、今はそんなことはいい。
 余計なことを考えているうちに、萬助が振るった提灯が手から離れ、薦掛けの小屋にぶつかった。それはそれは、燃えやすい。

 甚吉とて、この江戸に住む以上、火事なんぞ珍しくはない。けれど、こうも間近で自分の居場所が燃えたのは初めてのことである。あまりのことに呆然としてしまった。
 けれど、すぐにハッと気づいた。

「マ、マル公ッ」

 そう、この薦掛けの裏にはマル公の生け簀がある。甚吉は慌ててその中へと駆け込んだ。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

御庭番のくノ一ちゃん ~華のお江戸で花より団子~

裏耕記
歴史・時代
御庭番衆には有能なくノ一がいた。 彼女は気ままに江戸を探索。 なぜか甘味巡りをすると事件に巡り合う? 将軍を狙った陰謀を防ぎ、夫婦喧嘩を仲裁する。 忍術の無駄遣いで興味を満たすうちに事件が解決してしまう。 いつの間にやら江戸の闇を暴く捕物帳?が開幕する。 ※※ 将軍となった徳川吉宗と共に江戸へと出てきた御庭番衆の宮地家。 その長女 日向は女の子ながらに忍びの技術を修めていた。 日向は家事をそっちのけで江戸の街を探索する日々。 面白そうなことを見つけると本来の目的であるお団子屋さん巡りすら忘れて事件に首を突っ込んでしまう。 天真爛漫な彼女が首を突っ込むことで、事件はより複雑に? 周囲が思わず手を貸してしまいたくなる愛嬌を武器に事件を解決? 次第に吉宗の失脚を狙う陰謀に巻き込まれていく日向。 くノ一ちゃんは、恩人の吉宗を守る事が出来るのでしょうか。 そんなお話です。 一つ目のエピソード「風邪と豆腐」は12話で完結します。27,000字くらいです。 エピソードが終わるとネタバレ含む登場人物紹介を挟む予定です。 ミステリー成分は薄めにしております。   作品は、第9回歴史・時代小説大賞の参加作です。 投票やお気に入り追加をして頂けますと幸いです。

蒼穹(そら)に紅~天翔る無敵皇女の冒険~ 四の巻

初音幾生
歴史・時代
日本がイギリスの位置にある、そんな架空戦記的な小説です。 1940年10月、帝都空襲の報復に、連合艦隊はアイスランド攻略を目指す。 霧深き北海で戦艦や空母が激突する! 「寒いのは苦手だよ」 「小説家になろう」と同時公開。 第四巻全23話

鵺の哭く城

崎谷 和泉
歴史・時代
鵺に取り憑かれる竹田城主 赤松広秀は太刀 獅子王を継承し戦国の世に仁政を志していた。しかし時代は冷酷にその運命を翻弄していく。本作は竹田城下400年越しの悲願である赤松広秀公の名誉回復を目的に、その無二の友 儒学者 藤原惺窩の目を通して描く短編小説です。

小童、宮本武蔵

雨川 海(旧 つくね)
歴史・時代
兵法家の子供として生まれた弁助は、野山を活発に走る小童だった。ある日、庄屋の家へ客人として旅の武芸者、有馬喜兵衛が逗留している事を知り、見学に行く。庄屋の娘のお通と共に神社へ出向いた弁助は、境内で村人に稽古をつける喜兵衛に反感を覚える。実は、弁助の父の新免無二も武芸者なのだが、人気はさっぱりだった。つまり、弁助は喜兵衛に無意識の内に嫉妬していた。弁助が初仕合する顚末。 備考 井上雄彦氏の「バガボンド」や司馬遼太郎氏の「真説 宮本武蔵」では、武蔵の父を無二斎としていますが、無二の説もあるため、本作では無二としています。また、通説では、武蔵の父は幼少時に他界している事になっていますが、関ヶ原の合戦の時、黒田如水の元で九州での戦に親子で参戦した。との説もあります。また、佐々木小次郎との決闘の時にも記述があるそうです。 その他、諸説あり、作品をフィクションとして楽しんでいただけたら幸いです。物語を鵜呑みにしてはいけません。 宮本武蔵が弁助と呼ばれ、野山を駆け回る小僧だった頃、有馬喜兵衛と言う旅の武芸者を見物する。新当流の達人である喜兵衛は、派手な格好で神社の境内に現れ、門弟や村人に稽古をつけていた。弁助の父、新免無二も武芸者だった為、その盛況ぶりを比較し、弁助は嫉妬していた。とは言え、まだ子供の身、大人の武芸者に太刀打ちできる筈もなく、お通との掛け合いで憂さを晴らす。 だが、運命は弁助を有馬喜兵衛との対決へ導く。とある事情から仕合を受ける事になり、弁助は有馬喜兵衛を観察する。当然だが、心技体、全てに於いて喜兵衛が優っている。圧倒的に不利な中、弁助は幼馴染みのお通や又八に励まされながら仕合の準備を進めていた。果たして、弁助は勝利する事ができるのか? 宮本武蔵の初死闘を描く! 備考 宮本武蔵(幼名 弁助、弁之助) 父 新免無二(斎)、武蔵が幼い頃に他界説、親子で関ヶ原に参戦した説、巌流島の決闘まで存命説、など、諸説あり。 本作は歴史の検証を目的としたものではなく、脚色されたフィクションです。

桔梗一凛

幸田 蒼之助
歴史・時代
「でも、わたくしが心に決めた殿方はひとりだけ……」 華族女学校に勤務する舎監さん。実は幕末、六十余州にその武名を轟かせた名門武家の、お嬢様だった。 とある男の許嫁となるも、男はすぐに風雲の只中で壮絶な死を遂げる。しかしひたすら彼を愛し、慕い続け、そして自らの生の意義を問い続けつつ明治の世を生きた。 悦子はそんな舎監さんの生き様や苦悩に感銘を受け、涙する。 「あの女性」の哀しき後半生を描く、ガチ歴史小説。極力、縦書きでお読み下さい。 カクヨムとなろうにも同文を連載中です。

霧衣物語

水戸けい
歴史・時代
 竹井田晴信は、霧衣の国主であり父親の孝信の悪政を、民から訴えられた。家臣らからも勧められ、父を姉婿のいる茅野へと追放する。  父親が国内の里の郷士から人質を取っていたと知り、そこまでしなければ離反をされかねないほど、酷い事をしていたのかと胸を痛める。  人質は全て帰すと決めた晴信に、共に育った牟鍋克頼が、村杉の里の人質、栄は残せと進言する。村杉の里は、隣国の紀和と通じ、謀反を起こそうとしている気配があるからと。  国政に苦しむ民を助けるために逃がしているなら良いではないかと、晴信は思う、克頼が頑なに「帰してはならない」と言うので、晴信は栄と会う事にする。

南町奉行所お耳役貞永正太郎の捕物帳

勇内一人
歴史・時代
第9回歴史・時代小説大賞奨励賞受賞作品に2024年6月1日より新章「材木商桧木屋お七の訴え」を追加しています(続きではなく途中からなので、わかりづらいかもしれません) 南町奉行所吟味方与力の貞永平一郎の一人息子、正太郎はお多福風邪にかかり両耳の聴覚を失ってしまう。父の跡目を継げない彼は吟味方書物役見習いとして南町奉行所に勤めている。ある時から聞こえない正太郎の耳が死者の声を拾うようになる。それは犯人や証言に不服がある場合、殺された本人が異議を唱える声だった。声を頼りに事件を再捜査すると、思わぬ真実が発覚していく。やがて、平一郎が喧嘩の巻き添えで殺され、正太郎の耳に亡き父の声が届く。 表紙はパブリックドメインQ 著作権フリー絵画:小原古邨 「月と蝙蝠」を使用しております。 2024年10月17日〜エブリスタにも公開を始めました。

葉桜

たこ爺
歴史・時代
一九四二年一二月八日より開戦したアジア・太平洋戦争。 その戦争に人生を揺さぶられたとあるパイロットのお話。 この話を読んで、より戦争への理解を深めていただければ幸いです。 ※一部話を円滑に進めるために史実と異なる点があります。注意してください。 ※初投稿作品のため、拙い点も多いかと思いますがご指摘いただければ修正してまいりますので、どしどし、ご意見の程お待ちしております。 ※なろう、カクヨム、ノベルアップ+でも投稿中

処理中です...