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饅頭
饅頭 ―陸―
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翌日のこと。朝の掃除を終え、甚吉が小屋の外に出た時、それを見つけた真砂太夫が大声を張り上げた。
「甚吉ッ」
ただならぬ剣幕に、甚吉の方が驚いて立ち止まった。同じ見世物小屋の仲間たちも何事かと気にしているけれど、自分の仕事があるために渋々小屋へと戻っていく。
真砂太夫はいきなり甚吉の顔を両手で挟み、自分の美しい顔に向けた。
「甚吉、昨日あげたまんじゅうを食べちまったよね? 大丈夫だったかい?」
心底困ったように、真砂太夫はうろたえていた。いつもキリリとした真砂太夫にしては珍しいことである。
甚吉は呆けている場合ではないとようやく思い直し、なんとか声を絞り出す。
「へ、へい。すごく美味かったです。どこもなんともありやせん」
もしかして、真砂太夫が自分のためにもまんじゅうを買っていて、そこから針が出てきたのだろうか。それで、甚吉が針入りのまんじゅうを食べてしまったのではないかと慌てたのだろう。
甚吉の言葉を聞いて、真砂太夫はほっと力を抜いた。そうして、打って変わって怒り出した。
「そうかい。それならよかったけれど――。まったく、人様の口に入るものを作る職人が、食った相手のことを思い遣れないような仕事をするなんざ、職人の風上にもおけないね。あたしゃ、そういう野郎が大っ嫌いさ」
芸人として矜持を持ち、舞台に立ち続ける真砂太夫だからこそ、その怒りはもっともである。けれど、嘉助は悪い人ではない。あの針は嘉助が不注意で混ぜてしまったわけでも、仕込んだものではないはずなのだ。
だから甚吉は言わずにはいられなかった。
「あんな美味しいまんじゅうを作るお人が悪人のはずがねぇ。きっと、何か事情あってのこと。おれはそう思いやす」
嘉助は誰かに陥れられようとしている。そんな気がしてならない――いや、昨日、マル公がそう言ったのだ。マル公が言うのなら、甚吉もそうだと思う。甚吉も嘉助を信じたい。
真砂太夫は目を瞬かせると、いきなり甚吉をギュッと抱き締める。甚吉は突然の抱擁に歯の根が噛み合わないほど動揺した。
「甚吉はなんていい子なんだろうね。話していると心が洗われるよ」
「あ、ふ――」
言葉が言葉にならず、甚吉はあふあふと自分でもよくわからないことを言っていた。真砂太夫は甘く、なんともよい香りがする。
とろけてドロドロになりそうな甚吉だったけれど、ほどほどに真砂太夫は甚吉から体を離した。
「じゃあ、今日も頑張りなよ。またね」
真砂太夫はそう言って手を振りつつ帰っていく。甚吉は自分の両耳をくいくいと引っ張り、それから頬をつねってみたけれど、痛い。これは夢ではないらしい。
もう、これだけで今日一日頑張れる。
甚吉はさっそく小屋に戻ってマル公に聞いてもらいたくなった。
「マル先生ッ、聞いてくだせぇッ」
甚吉が大声をあげて生け簀のそばに駆け寄ると、マル公は仰向けに浮かびながらハァン、とつぶやいた。
「なんでぇ、騒々しい」
そこで甚吉は興奮冷めやらぬうちに先ほどの出来事をマル公に語る。身振り手振りを交え、うっとりする甚吉に、マル公の目はなんとも冷めていた。
「――で、なんだ?」
なんだと来た。
「いや、だから、真砂太夫が――」
「オイコラ、んなこたぁいいんだ。あのねぇちゃんがおめぇに、まんじゅうを食って大丈夫だったかって訊いたんならよ、おめぇが持って帰ったまんじゅう以外にも針が仕込まれてたんじゃねぇのかよ。そこんとこ詳しく訊いてこいや、このすっとこどっこい」
ぐうの音もでなかった。
マル公なりにまんじゅうに悪戯した犯人を探し出したいと思っているのだろうか。いつも以上にイラッとされた気がした。
「ごめんな、マル先生。おれも犯人は捕まえてぇ。知恵を貸してくれ」
素直に謝ると、マル公は水飛沫をバッシャンと上げて吠え猛った。
「ったりめぇだコン畜生めッ。仮にもおいらを模したまんじゅうに針なんぞ刺しやがった腐れ外道に、お天道様の下を歩かせてなるもんかッ。くっさい牢の飯を食わせてやるぜッ」
そうだった。あのまんじゅうはマル公の形だった。いくら形が気に入らないとはいえ、自分に似せたまんじゅうに針を刺されたら不愉快だろう。
「そもそも、食いモン粗末にしやがる野郎は地獄に落ちやがれってんだッ」
それからもしばらく怒りが治まらなかったけれど、これから見物客が来るので、そろそろ機嫌を直してほしかった。
「マル先生、おれ、客が引いたらもう一度嘉助さんのところに行ってみるよ」
すると、マル公は吠えるのをやめ、大きくうなずいた。
「おお、行ってこい。しっかりやれよ」
なんとかマル公の怒りを静める。
今日も見世物小屋は大賑わい。そう、そして――見世物小屋にやってくる江戸っ子たちは早耳ぞろい。針入り饅頭の噂をすでに知っていたのであった。
「甚吉ッ」
ただならぬ剣幕に、甚吉の方が驚いて立ち止まった。同じ見世物小屋の仲間たちも何事かと気にしているけれど、自分の仕事があるために渋々小屋へと戻っていく。
真砂太夫はいきなり甚吉の顔を両手で挟み、自分の美しい顔に向けた。
「甚吉、昨日あげたまんじゅうを食べちまったよね? 大丈夫だったかい?」
心底困ったように、真砂太夫はうろたえていた。いつもキリリとした真砂太夫にしては珍しいことである。
甚吉は呆けている場合ではないとようやく思い直し、なんとか声を絞り出す。
「へ、へい。すごく美味かったです。どこもなんともありやせん」
もしかして、真砂太夫が自分のためにもまんじゅうを買っていて、そこから針が出てきたのだろうか。それで、甚吉が針入りのまんじゅうを食べてしまったのではないかと慌てたのだろう。
甚吉の言葉を聞いて、真砂太夫はほっと力を抜いた。そうして、打って変わって怒り出した。
「そうかい。それならよかったけれど――。まったく、人様の口に入るものを作る職人が、食った相手のことを思い遣れないような仕事をするなんざ、職人の風上にもおけないね。あたしゃ、そういう野郎が大っ嫌いさ」
芸人として矜持を持ち、舞台に立ち続ける真砂太夫だからこそ、その怒りはもっともである。けれど、嘉助は悪い人ではない。あの針は嘉助が不注意で混ぜてしまったわけでも、仕込んだものではないはずなのだ。
だから甚吉は言わずにはいられなかった。
「あんな美味しいまんじゅうを作るお人が悪人のはずがねぇ。きっと、何か事情あってのこと。おれはそう思いやす」
嘉助は誰かに陥れられようとしている。そんな気がしてならない――いや、昨日、マル公がそう言ったのだ。マル公が言うのなら、甚吉もそうだと思う。甚吉も嘉助を信じたい。
真砂太夫は目を瞬かせると、いきなり甚吉をギュッと抱き締める。甚吉は突然の抱擁に歯の根が噛み合わないほど動揺した。
「甚吉はなんていい子なんだろうね。話していると心が洗われるよ」
「あ、ふ――」
言葉が言葉にならず、甚吉はあふあふと自分でもよくわからないことを言っていた。真砂太夫は甘く、なんともよい香りがする。
とろけてドロドロになりそうな甚吉だったけれど、ほどほどに真砂太夫は甚吉から体を離した。
「じゃあ、今日も頑張りなよ。またね」
真砂太夫はそう言って手を振りつつ帰っていく。甚吉は自分の両耳をくいくいと引っ張り、それから頬をつねってみたけれど、痛い。これは夢ではないらしい。
もう、これだけで今日一日頑張れる。
甚吉はさっそく小屋に戻ってマル公に聞いてもらいたくなった。
「マル先生ッ、聞いてくだせぇッ」
甚吉が大声をあげて生け簀のそばに駆け寄ると、マル公は仰向けに浮かびながらハァン、とつぶやいた。
「なんでぇ、騒々しい」
そこで甚吉は興奮冷めやらぬうちに先ほどの出来事をマル公に語る。身振り手振りを交え、うっとりする甚吉に、マル公の目はなんとも冷めていた。
「――で、なんだ?」
なんだと来た。
「いや、だから、真砂太夫が――」
「オイコラ、んなこたぁいいんだ。あのねぇちゃんがおめぇに、まんじゅうを食って大丈夫だったかって訊いたんならよ、おめぇが持って帰ったまんじゅう以外にも針が仕込まれてたんじゃねぇのかよ。そこんとこ詳しく訊いてこいや、このすっとこどっこい」
ぐうの音もでなかった。
マル公なりにまんじゅうに悪戯した犯人を探し出したいと思っているのだろうか。いつも以上にイラッとされた気がした。
「ごめんな、マル先生。おれも犯人は捕まえてぇ。知恵を貸してくれ」
素直に謝ると、マル公は水飛沫をバッシャンと上げて吠え猛った。
「ったりめぇだコン畜生めッ。仮にもおいらを模したまんじゅうに針なんぞ刺しやがった腐れ外道に、お天道様の下を歩かせてなるもんかッ。くっさい牢の飯を食わせてやるぜッ」
そうだった。あのまんじゅうはマル公の形だった。いくら形が気に入らないとはいえ、自分に似せたまんじゅうに針を刺されたら不愉快だろう。
「そもそも、食いモン粗末にしやがる野郎は地獄に落ちやがれってんだッ」
それからもしばらく怒りが治まらなかったけれど、これから見物客が来るので、そろそろ機嫌を直してほしかった。
「マル先生、おれ、客が引いたらもう一度嘉助さんのところに行ってみるよ」
すると、マル公は吠えるのをやめ、大きくうなずいた。
「おお、行ってこい。しっかりやれよ」
なんとかマル公の怒りを静める。
今日も見世物小屋は大賑わい。そう、そして――見世物小屋にやってくる江戸っ子たちは早耳ぞろい。針入り饅頭の噂をすでに知っていたのであった。
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