蛙の神様

五十鈴りく

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◇8

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 朝、起きてすぐに俺がしたことといえば、スマホのチェックだ。メールを開く。
 そこにはちゃんと『朱希』の文字。昨日のやり取りの文面もそのまま。
 新たなメールはないけれど、あれは夢じゃなかった。現実だ。

 そのことに俺はかなりほっとしていた。ベッドに座り込んだ体勢で息をつく。
 土曜日の約束は現実。土曜日に、またアキに会える。
 今日は木曜日。土曜日が待ち遠しい。

 もう、二度寝しようって気が起こらなかった。気持ちが高揚するから眠くない。
 どうしよう、眠くないなんて変だ。いつもはどれだけ寝ても眠たいのに、なんでだか寝起きがスッキリしている。

 頭の中が忙しいから、考えることがいっぱいあるから眠くない。なんて不思議な現象だろう。
 ベッドがまだ恋しい気がしないでもないけれど、俺は諦めて部屋を抜けた。

 大会が近くて朝練があるとか、そういう理由もなしに二日も続けて早起きをした俺に、母ちゃんは幽霊でも見たようなリアクションをした。危うく皿を落とすところだった。
 母ちゃんは落としかけた大皿を抱き締めながら言う。

「あ、危なかった! 何、カケル、本当にどこも悪くないの?」
「全然。なんとなく目が覚めた」
「昨日も早かったし、もしかして早起きのリズムができかかってる? ……いえ、そんなわけないわ。だってカケルだもの」
「……母ちゃん、ひでぇ」

 だからなんで、早起きしただけでこんなこと言われるんだって。

「まあいいや。せっかくだしちょっと走ってくる」

 早朝のランニングなんて、今までの人生でどれだけあったかな?
 まあ、やっても眠たくてダラダラ走っていただけで、全然身についてなかった気はするけれど。

「本当に、どうしちゃったのかしらねぇ」

 早起きした息子に、どうしてそんな正気を疑うようなことを言うのかね?
 日頃の行いだって兄貴たちは言うのかもしれないけれど。



 顔を洗って歯を磨いて、Tシャツに着替えて外に出た。朝日が煌めいている。
 清々しくって気持ちがいいとかいうより、眩しい。早朝の慣れない明るさ。
 今日も雨は降っていない。俺が早起きしたせい? ……そんなわけあるか。

 俺はなんとなく走り出した。どういうコースにしようかなって考えながら走る。そこまで遠くに行っている時間はさすがにない。
 そうだ、まずは橋の下へ行こう。あの蛙の神様に礼を言ってこよう。昨日の出来事は蛙の神様のおかげかもしれないから。

 弾む足取りで川を目指す。走ったらすぐそこだ。階段を軽く下りていくと、いつものごとく誰もいない。橋の下の影に足を踏み入れる。
 少し、ドキドキした。ちょっと浮かれてここまで来たけれど、思えば急に意識を失っていたり、あれ、怪奇現象だよな? 今日は大丈夫かな?

 俺は恐る恐る蛙の石像に近づいた。今日も変わらずそこにいる。
 俺はその前で手を合わせて祈った。昨日はありがとうございましたって、素直に感謝した。もちろん、蛙の神様からの返答はない。
 そぅっとまぶたを開いても、今日は何もなかった。拍子抜けするくらい普通だ。

 あれは……俺の体調の問題だったのかな?
 わからないけれど、これなら土曜日も大丈夫だろう。ほっとして、俺はその場を後にした。

 でも、朝食までまだ時間がある。もう少し走ってこよう。
 じいちゃんは神社かな。毎朝通っているから、いるかもしれない。神社までの距離なら丁度いいかも。

 そう決めて足を動かした。杉の木が並ぶ林を横手に、舗装されていない道を行く。民家が続くところとは逆の、ちょっと奥まった場所に神社はある。
 じいちゃんはもう何十年も早朝のお参りを欠かしていない。毎日同じことを続けるって、結構大変なことだ。

 汗だくになるほど全力で走ったりしない。ゆるい足取りで向かった。
 玉砂利の境内、やっぱりじいちゃんはいた。お参りは済んだのか、鳥居のそばを歩いている。俺は走りながら手を振った。

「じいちゃん、おはよ!」

 その途端、じいちゃんは目を瞬かせた。あれはまさしく、目を疑っているというヤツだ。

「カケル……。シノブじゃあない。カケルだな」
「見たまんまじゃないか」
「目で見たものが信じられんこともこの世にはある」

 だから、なんで早起きしただけでこんな扱いなんだって。

「早起きしたからちょっと走ってるだけだろ。俺だってそういう日もあるんだ」

 ちょっとむくれると、じいちゃんは不意に優しく笑った。

「そうかそうか、それはすまなんだな」

 皺が、笑うと特に増える。でもその顔にはいろんな経験が与えた深みがある。園田のばあちゃんが言う『渋さ』ってヤツがそれか。
 俺はなんとなくじいちゃんに問う。

「なあ、じいちゃん、神様の食べ物って何?」
「うん? 急にどうした?」

 俺の質問が突拍子もなかったのか、じいちゃんはびっくりしたみたいだった。

「あ、や、神様へのお供えって何かなってふと思っただけで」

 蛙の神様だからってハエじゃ喜ばないだろう。じゃあ何がいいのかって考えても、普通の神様に何をお供えしているのかをそもそも俺はよくわかっていなかった。お稲荷さんには油揚げ、だよな?
 すると、じいちゃんは不思議そうに答えた。

「まあ、それだけってわけじゃあないが、まずお神酒みきだな」
「酒?」
「そうだ。日本酒だな」

 俺は気のないふうにふぅんとつぶやいた。酒かぁ。
 そういえば、トノもそんなことを言っていたような? 酒を供えて祀ると色が変わるとか、妙なことを……
 供えてみたいけれど、未成年の俺に酒は買えないからなぁ。

「さあ、か」

 じいちゃんの一言に、俺はビクッと跳ね上がった。

「カ、カエル?」

 俺の頭の中を読んだ? いくら長年生きているからって、じいちゃん凄すぎる!
 ドギマギしていた俺に、じいちゃんは不思議そうだった。

「朝飯の時間だから戻らないと。それがどうした?」

 蛙……じゃない、帰る、ね。紛らわしいな。
 いや、俺の耳と頭のせいか。

「う、うん。帰ろう」
「おかしなヤツだな」

 なんて言われてしまった。挙動不審なのは、蛙の神様がどうのっていうより、アキと仲良くすることを後ろめたく思う気持ちが俺のどこかにあるからなんだろうか。
 ……嫌だな、そんなの。



 軽く運動をした後の朝飯は美味かった。
 あおさの味噌汁、あじの干物、チーズ入りスクランブルエッグ、ウインナー、ピーマンの肉詰め、キャベツのマリネ、野沢菜漬け――いつものことながらの和洋折衷。三世代も一緒に食事したら大変。

 母ちゃん、レトルトとかインスタントの力を借りていいと思うんだけれど、それは奥の手。最後の手段だって言う。
 こんな飯ばっかり食っていると、レトルトが美味しくないのは知っているから、母ちゃんの飯が食卓に並ぶのは嬉しいけれど。

「じゃ、いってきます!」
「いってきまーす!」

 先に姉貴とアツムが家を出た。俺はその後だ。今日はちゃんとゆとりを持って外へ出る。

「いってきます!」
「いってらっしゃい。気をつけてね」

 そう言って母ちゃんは送り出してくれた。じいちゃんと親父はまだゆっくり食べている。
 いつも、俺が出ていった後に親父が出かけるんだ。




 雨が降る日が減った。今年は梅雨明けが早いのか、空梅雨なのか、どっちだろう。それとも、これからまだ降るのかもしれない。
 靴が濡れることなく土手を歩けるのは助かるけれど。

 珍しく走らずに歩いてバス停へ辿り着いた。バス停でバスを待つ。これだ、これ。
 いつもはバス停でバスが俺を待っている、みたいな状況になっていたから、なんとも言えない達成感がある。

 バス停で立っていると、向こう岸をアキが歩いていた。俺は飛び上って手を振りたい衝動に駆られた。でも、それをする前に、そんな俺に気づいたアキの口が一瞬開きかけたけれど、とっさに目をそらしたように見えた。
 あれ? これじゃ前と変わりない? ……避けられたように見えたけれど。

 いや、土曜日に約束しているから。そんなわけない。
 モヤモヤとした俺の背中に、いつの間にか近づいていた園田のばあちゃんが声をかけてくる。

「おはよう。カケルちゃんがあたしよりも早いだなんて、長生きはするものだねぇ」

 穏やかなふうを装っているけれど、絶対おちょくられている。園田のばあちゃんはいい性格をしていると思う。

「俺だってたまには早く起きるんだよ!」
「たまにはねぇ」
「ぐ……」

 なんか、勝てる気がしない。
 そんな時、バスが向こうから走ってきた。エンジンの音が響いて、足元から振動が伝わる。排気ガスの熱気を足に感じていると、スマホがぺろりん、と鳴った。メールの音だ。

 レディファーストということで園田のばあちゃんに順番を譲り、ばあちゃんがバスに乗り込む間に俺は素早くスマホをチェックした。やっぱり、アキだった。

『おはよう、カケルちゃん』

 対岸では遠くて声が届かないから……
 いや、多分、そんなんじゃない。

 お互い、仲良くしているところを村の人たちに見られてもややこしいだけなんだ。アキは自分が叱られるからっていうよりも、俺の立場を考えてくれたのかも。
 俺はバスに乗り込み、シートの上に座るとすぐに返信を打った。

『おはよう、アキ
 学校がんばれよ
 あの変質者のこともあるから
 気をつけてな』

『うん、ありがとう
 カケルちゃんも
 学校がんばってね』

 あ、どうしよう、朝からメールとか、顔がゆるむ。
 向こうのシートから、園田のばあちゃんがそんな俺のにやけ面をじぃっと見ていた。

「おやまあ、カノジョかしらねぇ。カケルちゃんもお年頃だものねぇ。ウフフ」
「その笑いヤメテ」

 それに、彼女じゃないし。彼女……
 ちょっとそこまで思考が飛躍できない。今はこのささやかな喜びに浸らせて。

 園田のばあちゃんはニヤニヤ訳知り顔で自分の若かりし頃の武勇伝を語った。女心を学ばせてくれるつもりらしいが、あんまり参考にならなかった。求婚者が後を絶たなかったとか、絶対脚色していると思う。



 そうして学校へ。
 今日もトノは本を読んでいた。今日読んでいる本は文庫本じゃなかった。ハードカバーは比較的珍しい。

「おはよう、トノ」
「おはよう。来たな」

 と、トノは本から顔を上げた。そうして、その本を閉じて机の上に置く。トノは立ったままの俺を見据え、そうしてポツリと言った。

「カケルが気にしていた青蛙せいあのこと、少しだけ調べてみたんだけど」

 ギクリ、と俺が表情を強張らせても、トノはその意味なんか知らない。軽く首をかしげた。

「知りたいか?」
「う、うん」

 俺はすかさず答えると、トノの前の椅子を後ろ向きに跨いだ。ここは卓球部の寺腰てらごしの席だけど、まだ来てないからいい。
 そこから、寝る前に絵本を読んでもらう子供みたいにドキドキしながら待った。その俺の期待度の高さに、トノは若干引いていた。

「いや……そんなに有名な神様でもないし、そこまで詳細なことはわからないけどな。ただ、この間言っていた岡本綺堂先生の『青蛙堂鬼談』の一編『青蛙神せいあじん』に出ている青蛙をざっくり言うと――」

 無言で相槌を打ち、その先を促す。トノがクラスメイトじゃなく、先生みたいに感じられる瞬間だった。

「昔、とある中国の武人――まあ、名前は興味ないだろ。その武人の奥さんが、何か問題が起こると不思議と先を予見するようなことを口にした。それも武人にとっていい結果ばかりの予言だ。それで、常にその奥さんの言う通りのことが起こった。その奥さんは密かに三本足の蛙の神、青蛙神を祀っていたんだとさ」

 蛙の神様はいい神様。その夫婦に幸運をもたらしてくれる神様だったってことか。

「中国では青蛙神は月にいるとか、庭に出るとその家は金運上がるとか、幸運が訪れるとか言われる福の神らしい。天候を予知するとも言う」

 それを聞けて安心した。昨日のことはやっぱり、俺にとっても幸運だったから。
 俺は目に見えてほっとしていたと思う。

「そっか。いい神様なんだ。おとぎ話とかにもよくあるもんな。信心深い正直者を助けてくれる神様って!」

 すると、トノは高校生には似つかわしくない、ニヒルな顔をした。その顔、怖いから……

「いい神様か。神様はないがしろにしたら祟るからな。ネタバレになるから顛末てんまつまでは言わないけど」

 へ? 何その含みのある言い方。
 その話のオチが気になるんですが…… 

「いや、ネタバレとか気にしないでいいから言って!」

 そこで切られると、すんごい怖い。でも、トノは眼鏡を押し上げただけだった。

「駄目だ。知りたきゃ読め。貸してやるから」
「無茶言うなよ! 三行以上読めねぇよ!」

 絶対寝る。三行を毎日行ったり来たりの無限ループだ。その自信がある。
 トノもそれが多分わかるんだろう。ため息をついた。

「まあ、カケルだしな」

 何も言い返せない。ぐぐ、と唸っている俺に、それでもトノは話のオチを教えてはくれなかった。
 でも、蛙の神様は大事にした方がいい。それだけはわかった。
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