蛙の神様

五十鈴りく

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◇4

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 それから、アキに再会したのは一年後。ランドセルを背負った姿を遠目に見た。でも、アキは俺を見ても笑わない。無表情で通り過ぎるだけだ。
 それからも川の向こう岸で何度か見かけた。その成長を知る程度には――

 アキにとって俺はもう他人で、友達じゃない。
 淡い初恋は今日に至ってもなお、消化不良のまま胸にくすぶっている。

 吊るしたてるてる坊主の効力も虚しく、七夕の日に雨が降って俺が大泣きしてしまったのも、アキのせいだ。
 川の彼岸と此岸とにいて、晴れた七夕の日にだけ会える彦星と乙姫に自分を重ねたなんて言ったら、兄貴はもっと腹を抱えて笑っただろう。

 アキに会いたい、もう一度友達として一緒に楽しい時間を過ごしたい。
 そんな俺のささやかな願いは未だに叶う気配すらない。

 嫌なヤツだって嫌いになれればいいのに、思い出の中のアキはいつも優しくて、とてもそんなふうに思えない。その優しいアキが棚田村を嫌うほど、小さな頃から疋田村では棚田村が敵だって教わるのかな。

 それは洗脳ってヤツで、子供だったアキが抗えるものじゃない。だから俺に対する態度が急変したのも、アキのせいばかりじゃない。アキは――悪くない。

 なんて、単に俺自身が悪くて嫌われたと思うのが怖いから、そんなふうに考えてしまうっていうのもあるんだ。
 なんだかな……
 おんなじ人類で日本人なんだから、いつまでもいがみ合ってないで仲良くすればいいのに。

「おい」

 一体いつの時代の話だって、トノに話しても笑われそう。それくらい時代錯誤だ。

「起きろよ」

 そこで俺の頭を誰かが硬い手でペシリと叩いた。
 ふぁ? っと変な声を上げてしまった俺は、この状況が呑み込めなかった。
 ここはどこだ? 俺はどうしてここに――

 そう考えて、自分がバス停のベンチでうたた寝していたことに気づいた。
 ちなみに、辺りは暗い。いつの間にかまた雨が降っていた。
 バスは――ない。乗り過ごした。

 最終が十九時って早すぎる!
 親父か姉貴に頼んで迎えに来てもらわないとと思った俺に呆れた表情を向けていたのは、俺を起こした人物。それは、うちの兄貴だった。

「あれ?」

 細身で長身、弟の俺が言うのもなんだけど、まあまあ整った顔。笑っていると爽やかに見えるけれど、実際はちょっと腹黒いんじゃないかと思う瞬間がある。田舎者のくせに、大学生になったら急に垢抜けた。

「兄貴、なんで?」

 すると、兄貴は腰に手を当ててため息をついた。

「家に必要な参考書を取りに戻っただけだ。明日の朝には戻る」

 毎週じゃないけれど、土日なんかもたまにこうして急に帰ってくる。兄貴が帰ってくると母ちゃんと姉貴は喜ぶ。
 そして、俺とアツムは隅っこに追いやられる感じがする。さすが田舎の長男は扱いが違う。

「バスの時間になっても帰ってこないから、多分乗り過ごしたんだろうなと思って迎えに来てやったんだ」

 事実乗り過ごした身としては何も言えない。

「アリガトウゴザイマス」

 兄貴は姉貴のアップルグリーンの軽自動車を借りてきた。顎で脇に停めた車体を指し、兄貴は俺に乗るように促す。俺は荷物を抱えて助手席に乗った。
 ドアを開けた時に少しの雨粒が車内にかかる。俺はそれをなんとなく手で拭ってからシートベルトを締めた。そうして車は走り出す。

「親父はもう帰ってるのか?」

 俺が運転する兄貴の横顔に訊ねると、兄貴は前を向いたまま答えた。

「ああ。後はお前だけだ」
「う……」

 うちの家は極力、夕食をそろって食べようとする。それぞれ事情があって一緒に食べられない日も増えたけれど、それでもなるべくって。
 皆そろって眠りこけていた俺を待っていたのかと思うと、さすがにいたたまれない。帰ったらまず素直に謝ろう。

 雨の中を車が走る。タイヤが音を立てながら泥水を跳ね上げた。
 ところどころしか舗装されていない道を通る中、俺は村と村とを分ける井鳥川をぼんやりと見た。
 水位は少しだけ上がっている。夏の盛りになれば砂利の岸辺ももっとむき出しになる。
 アキとはそこで遊んだ。俺にとって思い出の場所だ。

 その時ふと、そこに何かがあったような、そんな気がした。アキと遊んだ時、何か印象深いものがあったような……

 何かの生き物だっただろうか。はっきりと思い出せない。
 思い出せないなら、たいしたことじゃないのかもしれない。俺はスッキリしないながらにそう思った。

 そうして、車は家の敷地に着いた。

「さ、メシだ。メシ」

 そう言って、兄貴はたまにしか乗らない割に、姉貴より華麗なハンドルさばきで駐車した。
 うちは古いけれど、先祖代々は庄屋だったらしいから、敷地は無駄に広い。でも、その敷地の中でさえ姉貴の駐車はいつも曲がっている。まだまだ経験不足ということか。

 それに比べたら、やっぱり兄貴の方が上手い。安心して乗っていられる。
 姉貴は気が強くても兄貴にはしおらしいから、兄貴に負けているのなら文句もない。俺が口を挟むとすぐ怒るけれど。

「ん、ありがと」
「イイエ」

 俺たちがそろって車から降りた時、雨は小康状態だった。水溜まりを引っかけないようにして、古い木造建築の我が家に帰る。

「ただいま」

 兄貴が後ろで玄関の鍵をかけている中、俺は帰宅を告げる。そうすると、軽い足音が板の間から聞こえた。

「おかえり、シノブにいちゃん、カケルにいちゃん」

 小学一年生のアツムが白い靴下を履いた足で駆けてきた。冬でも長ズボンを履かないお年頃だ。俺とよく似た硬めの髪質。でも顔は俺より姉貴と似ているかも。母親似でちょっとつり目だ。

「ただいま、アツム」

 こう、出迎えてくれる可愛い弟――と言いたいところだけれど、アツムは末っ子らしく甘え上手だ。素直にしておいた方が自分にとって得だってわかっている時はそうするけれど、嫌な時は絶対に従わない。
 アツムはにぃっと笑った。

「カケルにいちゃん、何してたの?」
「う、ん? まあ、ちょっと……」
「ちょっとの居眠りだよな」

 と、兄貴がすかさずバラしたからひどい。俺にだって兄としての立場があるんだから。

「ええっ、寝過ごしたのぉ?」

 アツムもわざとらしく大声で言って、姉貴と母ちゃんまで来た。

「あんた、あんなにいつも朝ギリギリなのに、まだ寝足りないの?」

 一応美人の部類なんだけど、パーマをかけたみたいな癖毛で、それがコンプレックスな姉貴。雨の日は癖がひどくなるっていつも機嫌が悪い。
 本人が思うほど変じゃないって言うのに、姉貴はとにかくそれが嫌みたいだ。かといって、ストレートパーマをかけるのも髪が痛むからとか言う。

 ちなみに、それは母ちゃんからの遺伝だ。母ちゃんは髪の毛をいつもくくってまとめているけれど、風呂上りとか下ろしていると姉貴と一緒だ。顔も似ているから、姉貴は母ちゃんの若い頃にそっくりらしい。

「困った子ね。カケル、皆あんたを待っていたんだから、早く手を洗ってきなさい。ご飯よ」
「スイマセン……」

 しょんぼりと縮こまりながら俺は荷物を抱えて自分の部屋へ向かう。殺風景な八畳間にカバンを放ると、手洗い場で手を洗い、うがいをした。そうして食卓へ向かうと、じいちゃんと親父が食前酒をチビチビやっていた。

「ただいま」

 恐る恐る言う。料理の並んだ食卓で向かい合って座っていた二人が、二人して同時に俺を見た。そんな仕草まで似ている。じいちゃんの髪は真っ白、そしていつも和装。ただし、さすがにフンドシではない。
 親父は会社帰りのワイシャツの襟元を寛がせている。四十八歳、働き盛りの公務員だ。

「なんだ、カケル、今帰ったのか?」

 じいちゃんが老眼鏡を押し上げながらそんなことを言った。……俺のこと待っていたんじゃないのか。

「まあいい、さっさと座りなさい」

 まあいいのか、親父。俺の扱いが雑だな!
 これも今に始まったことじゃないけれど。旧家の長男な兄貴、四人兄弟唯一の女の姉貴、末っ子のアツム。俺の影は……薄い。
 いや、だから気楽でもあるんだけれど。

 ばあちゃんは俺が物心ついた頃には亡くなって、今ではこの七人家族。まあ、今時にしては多い方だ。
 そのうち男が五人。しかも食べ盛りが混じっているんだから、そりゃエンゲル係数も高い。食卓の大皿には肉料理、魚料理、必ずどちらも並ぶ。品数が多い。

 今日は煮込みハンバーグ、さばの竜田揚げ、シーザーサラダ、キュウリとタコの酢の物、ひじきの煮物、卵スープ――
 スープと白飯以外、それらがほぼ大皿に盛られている。家族がその食卓を囲み、畳の上に正座した。

「いただきます」

 じいちゃんが静かにそう言うと、皆がいっせいにいただきますと唱える。これは昔から変わらない。

 厳しいようでいて、ここを過ぎるとそうでもない。アツムなんか手が届かないからって立ち上がって、親父と兄貴の間に割って入って料理を取っている。
 賑やかなのが実は嫌いじゃないじいちゃんは、子供のやることにはうるさくない。かといって、調子に乗ると怒られるんだけれど。

 俺も肉にしか目が行ってなかった。どれだけ多く食べられるかだけを考えていた。専業主婦の母ちゃんでも、これだけの料理をしようと思ったら、一日の大半は台所だ。
 それなのに、あんたたちはすぐに食べ散らかすって怒られるけど、美味しいから食べるんだし、食いっぷりを見てそこは満足してほしい。

「肉、肉、肉」
「カケル、心の声が漏れてる。あんたは野菜も食べなさい」

 と、ハンバーグを狙っている隙に、隣にいた姉貴が俺の皿にサラダをこんもりと盛った。……食べるけれど、サラダばっかりじゃ晩飯を食ったって気になれない。心が寒い感じがする。

 うちの食卓ルールは、一度皿に載ったものは絶対に残さない、である。つまり、サラダも食べなくちゃいけない。食べたくないなら、皿に載せられる前に防がなくちゃいけないんだ。今日は俺の負けだから食べるしかない。

 もりもり。
 野菜ばっかり食っていると体が青くなりそう。そのうち雨に打たれてゲコゲコ鳴き出したりして。

 同じようにこうして育ったのに、なんとなく兄貴の食事しているところは静かで上品に見える。なんでだろう? 絶対心の中では俺やアツムと変わりなく、肉、肉とか唱えているはずなのに。
 なんて俺が思っていると、兄貴がふと言った。

「そういえば、道添家の次女がたまたま行ったコンビニで働いてて、すごく愛想が悪かった」

 道添家――
 そのワードに俺の心臓はドキリと跳ねた。
 道添家の次女ってことは、アキの姉ちゃんだ。あの怖い長女じゃなくて、次女。確か、っていった。あの家はさ、上から順にキツイんだ。

 長女が一番怖いし、次女は少しだけそれよりはマシ、アキは……そんなことなくて、末っ子の弟のことはよく知らないけれど。まあ、まだ幼稚園だし。

 あそこもうちと同じく四人兄弟。うちに対抗したんだろうってことになっているけど、事実はどうだろう。まあ実際、年齢は近いんだけれど。性別は比率が逆ってのがまた皮肉だ。

「コンビニね。大学生だし、小遣い稼ぎでしょ。そんなことしなくたって仕送りしてもらってると思うけど。まあ、暇つぶしじゃない? そんなに真剣に働くタイプじゃないでしょ」

 なんて、姉貴が言う。
 自分で見てきたわけでもないのに、適当に働いているかどうかって決めつけはよくないと思う。
 そんなタイプじゃないとか言うほど、よく知りもしないんじゃないのか。俺たちの情報なんて尾ひれのついた噂の端っこなんだから。

 兄貴だって、顔に『ケッ』って書いてレジに商品を持っていったんじゃないのか?
 そんなの、誰だっていい気しないし。

 ……なんて、俺もアキのことがなければ一緒になって言っていた。そうだよな、そういう店員いると店の雰囲気悪いよな、とか。

「ああ、あの子、色は白いけれど、印象がきついものね。ヒカルの方が可愛いわよ」

 なんて、母ちゃんまで親バカなことを言う。やだ、当たり前じゃない、と返す姉貴もどうなんだ。家族だし、皆大事だし、好きだけど、こういう瞬間は俺の中でどこか冷めた目がある。

 アキの姉ちゃんというか、道端家は美人ぞろい。うちの姉貴だって一応は美人の部類だけど、どっちが上かなんて見る人によって違うだけの話だ。

 はぁ、と俺が思わずため息をついたことなんて誰も知らない。
 じいちゃんと親父は無言で食べているし、アツムもハンバーグに夢中で聞いていない。

 俺はこの話題が嫌いだ。飯が不味くなる。せっかく美味しい料理なのに、喉が狭まるみたいに感じる。

 このまま……ずっとこのままなのかな。なんにも変わらないまま世代だけが変わっていくのかな。俺がじいちゃんになってもなお、この食卓ではこんな会話が繰り広げられているのかな。
 そう思ったら切ない。

 たまに家族の誰かの口から飛び出す疋田村の話題。これがない日が、俺は好きなのにな――
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