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*2*土砂降りの金曜日
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その日、僕は部活を終えて智哉と途中まで一緒に帰った。
僕は野球部――とはいっても、甲子園なんて夢のまた夢の弱小校。生徒数が少ないから、数少ない部活動の中から選んだのが野球部なだけだ。
二年生の僕はまだ補欠。智哉の方がレギュラーに近い。バッティングセンスは抜群だし、制球も上手いから。
悔しいけど、それは僕の頑張りが足りてないからなんだろう。そう、身長や体格が足りていないと思うよりは努力が足りないと思った方がマシだ。
よその家の晩御飯の匂いが漂ってきて、ぐぅ、と腹の虫が鳴いた。うちの晩御飯はなんだろうかと考えながら歩いた。
僕の家は海沿いにある。国道を挟んだ向こう側。僕の部屋からは海がよく見える。ちょっとゴミが目立つ砂浜と岩場がある海。潮騒が子守歌みたいにして、僕はこの家で育ったんだ。
「ただいま」
鍵はかかっていない。僕は夕陽に照らされながら玄関の戸を開いた。築十五年の我が家だ。
その途端、ワン、とひと声鳴いて僕を出迎えてくれたのは、ミニチュア・シュナウザーのテツだ。鉄色の長い毛をしているからテツ。白い顔の毛はおじいちゃんみたいで和む。
「ただいま、テツ」
カバンを肩にかけたまま、僕はテツの頭を撫でてやった。テツは僕の手の平に頭を擦りつける。そうしていると、奥から揚げ物の匂いが漂ってきた。今日は唐揚げなんじゃないかと期待する。
「母さん、オナカすいた」
キッチンでつまみ食いでもしてやろうかと思ったら、入るなり怒られた。
「ああ、もう! 砂だらけじゃないの! 着替えて手を洗ってきなさい!」
小柄で少しぽっちゃりした母さん。でも目がクリっとしていて実年齢より若く見える。二枚千五百円のTシャツにエプロンをしている姿は、どこにでもいる母親だ。
仕方なく、僕は風呂場の脱衣所で野球のユニフォームを脱いだ。乾いた砂でざらついている。それを丸めて洗濯カゴに放り、手と顔を洗ってから二階の自分の部屋にカバンを持って上がった。テツがフローリングの上で爪をカチカチ鳴らしながら、僕の後をついてくる。
ベッドと勉強机、本棚にクローゼットくらいしかない六畳間。僕はカバンをベッドのそばに置くと、ベッドの引き出し収納から母さんが買ってきた二枚千五百円の片割れとジーンズを取り出して着替えた。
少し部屋の空気を入れ替えようかと、なんとなく窓を開ける。
夕焼け空のオーシャンビュー、それはいつもと変わらない光景のはずだった。
確かに、その光景は変わらなかった。でも、余分な一点がその中に含まれていた。
岩場に膝を立てて座り込む背中が見えた。うちの高校の制服だ。
夕方の海は波がキラキラと輝いてすごく綺麗だから、見慣れない人が見とれていても不思議じゃない。
あの背中は多分、転校生の白澤だ。遠目で見ても他の生徒とはやっぱり何かが違う。
詳しいことは何も知らないけど、もしかしてうちの近所に越してきたんだろうか。
つっけんどんで取っつきにくい白澤。
でも、あの海の素晴らしさがわかるなら、そう悪いヤツじゃないのかもしれない。僕はほんのりとそんなことを考えながら階段を下りた。
晩御飯はやっぱり鶏の唐揚げだった。母さんがレジ打ちのパートをしているスーパーで買ってきた特売品の肉みたいだけど、揚げ方がいいのか柔らかくて美味い。
大皿に盛るとなくなるまで食べ尽くすからって、母さんはいつも取り分ける。二度と唐揚げなんて見たくないってほど、食べ続けてみたいっていうのが僕の本音ではあるんだけれど。
「父さんはまた遅くなるの?」
なんとなく訊ねてみた。答えはわかっている。
ただつけているだけでろくに見ていないテレビの音の中、母さんはうなずいた。
「うん。今日は金曜日だから」
小学校教諭の父さんは帰宅が遅いなんてこともざらにある。それはどこの家庭でも同じなんだろうけど。
僕の足元で、唐揚げの分け前をもらえないか一生懸命にじゃれつくテツを足でやり過ごし、僕は夕食を食べ終えた。ふぅ、と一服している間に、ト、ト、とトタン板に落ちる雨の音がした。
「え? 雨?」
「今日は夜から降るって天気予報で言ってたね」
母さんがのん気な声でそう教えてくれた。
「部屋の窓、開けっ放しだ」
僕は慌てて階段を駆け上った。その足音にテツも慌てた。
雨脚は瞬く間に強くなり、ザー、と水音を立てて降り注ぐ。空もすっかり暗くなっていた。急いで閉めようとして窓枠に手をかけた時、僕は白澤のことを思い出した。降り出す前に家に帰れたかな、と。
でも、薄暗い土砂降りの雨の中、夕方と同じ体勢で海を眺めている背中があった。
「まさか……」
日が沈んで、もう海なんかろくに見えない。ただ黒いだけ。それなのに、傘もささず、こんな滝みたいな雨から逃れようとしないでいるのは、どうして?
ずぶ濡れになって、それでどうするんだろう。幸い、明日は休みだから制服は乾くだろう。でも、風邪をひくかもしれない。
傘を持っていないとしても、雨脚が弱まるまで避難しようって気もないのか、動かない。雨宿りもしないであえて濡れる意味がわからない。
――白澤はやっぱりちょっと変わっている。変だ。
そうは思うけれど、見てしまった以上、放っておいていいものなのか、わからなくなった。僕はため息をつきつつ、玄関へ向かう。
散歩と勘違いして喜ぶテツを押し戻し、僕は傘を二本持って外に出た。この雨音じゃ、僕が外に出たことも母さんは気づかなかっただろうけど、遠くに行くわけじゃないから何も断らなかった。
ビニール傘を自分で差し、少し小マシな蝙蝠傘を手に持つ。雨脚が強いから傘が重たく感じられた。
トラックが雨水を跳ね上げる中、道路を横断してガードレールの切れ目の階段を下りる。それでも白澤は振り返らなかった。真剣に気づいてないのかもしれない。
溢れた雨水が滑り落ちる段を下りきると、岩場を踏み外さないように慎重に、でも急いで進んでいく。
傘をパンと開いた音で白澤はやっと振り向いた。その頭上に僕は傘を差し出す。
すでにずぶ濡れで、制服のまま海で泳いできたのと変わりない有様だ。今さら傘を差したところでなんにもならない。
でも、放っておいてもいけないような気になったから僕はここへ来た。
白澤はすごく驚いて目を見開いていたけれど、僕のことなんて多分知らない。自己紹介はしたけど、覚えているとは思えなかった。すっかり着替えて私服なのも余計にわかりづらい。
案の定、白澤は嫌な顔をした。
「気にしなくていいから、放っておいて」
そっぽを向かれた。天気のいい昼下がりなら放っておけるけど、この状態でそんなことを言われても、僕の方が困ってしまう。
「風邪ひくから、帰れば?」
そんなことしか言えなかった。なのに、白澤は薄暗い海を眺めながら膝を抱えた。
「風邪ひきたいからいいの。あんたこそ帰れば?」
意固地な物言い。雨の粒が傘の上で弾けて滴り落ちる。傘が傾いた方に溜まった雨がまとまって零れた。
「風邪ひきたいって、寝込んで学校休みたいのか?」
明日は休みなのに。呆れて言ってしまった。
すると、白澤は僕の方を見ないで苛立たしげに吐き捨てる。
「そう。学校にも行きたくない。あたしは転校なんてしたくなかったんだから」
だからクラスであの態度だったんだろうか。いくら転校したくないとは言っても、子供のうちは親の都合に付き合うしかない。白澤なりのささやかな抵抗は、家の中ではなくて学校の教室で行われたのか。
でも、クラスメイトにはそんなの八つ当たりでしかない。みんなの、受け入れよう、仲良くしようと思う善意が跳ねのけられただけなんだ。それでも、そんな気遣いは白澤にとって単なるおせっかいなんだろうか。
少し複雑な気持ちにはなったけれど、僕が今から転校しろって話になったら実際のところどうなんだろう。仲のいい智哉とも離れて、クラスメイトは知らない顔ばかり。近所を歩いても誰も僕を知らない。
……それは嫌かも。いや、かなり嫌だ。
そっか。僕たちは結局のところ、転校してきた白澤の気持ちには寄り添えていなかったのかもしれない。
僕は白澤の隣に傘を差したままでひょいと座り込んだ。尻が水を吸い上げて気持ち悪い。でも、白澤は驚いてやっと僕を見た。その顔に、僕はつぶやく。
「友達と別れて、知らない人だらけで、そりゃあ少しも楽しくないかもしれないけどさ、クラスの連中は結構気のいいヤツばっかりだから、そのうちに打ち解けられるんじゃないかな?」
僕の言葉もおせっかいだ。わかっているけれど、何かを言わないと白澤は家に帰らない。
白澤はすごく驚いた顔をして僕をじっと見た。そんなふうに人の顔を直視することがあるんだって思うくらいにまっすぐに顔を向けている。そうして、ぽつりと言った。
「あんた、中学生じゃなかったの?」
「はぁ?」
「小さいから中学生だと思った」
本当にびっくりした顔をしている。悪意がそこにあるのかどうかもわからない。でも、ここで僕は怒ってもいいのかもしれない。
「教室で自己紹介しただろ! 同じクラスの名塚って!」
ビニール傘の下、僕は情けないような気持ちで雨の音に負けないように叫んだ。それなのに、白崎は小首をかしげた。
「覚えてない」
そうなんだろう。覚える気がなかったのが手に取るようにわかったから。
白澤はそれが失礼なことだとは思っていないみたいだ。なんだろう、同じ年の同級生なのに、対等に扱われていない気がした。
ここで苛立って、僕も失礼な言葉を返せば、白澤は自分を顧みるんだろうか。
なんてことはなくて、ただ同じように苛立って返すだけって気もした。ここは僕が大人になるしかないみたいだ。
「じゃあ、覚えてよ」
ため息交じりにそれだけを言った。
そうしたら、白澤は一度口をへの字に曲げてから口を開いた。
「ナヅカ」
覚えたとばかりに白澤は言った。
本当に、女の子らしい外見だけど、中身は男勝りなのかも。
「……学校、嫌でも来なよ。そのうちに嫌じゃなくなるかもしれないから」
「イヤ。だって、女子バスないんだもん」
そう言って、白澤はまたそっぽを向いた。
「え?」
意味がわからなくて僕が困っていると、白澤は濡れた髪を振って僕を睨んだ。
「女子バスケットボール部。ないんでしょ!」
「な、ないなぁ……」
バスケ部は男子しかない。マネージャーにならなれるかもしれないけど――いや、すでに三人いるからもう要らないか。って、マネージャーになりたいんじゃなくて、白澤はプレイしたいんだろう。それじゃあ駄目だ。
「白澤はバスケしてたの?」
すると、白澤はこっくりとうなずいた。
「中学からずっとしてた。やっとレギュラー入りできるかもしれなかったのに……」
ああ、それは悔しいだろうな。ここにも女子バスがあれば、白澤はもうちょっと楽しく学校に通えていたのかな。
「それは……残念だったな」
スラリと手足の長い白澤がバスケのユニフォームを着てプレイする姿は、多分すごくカッコよかったんじゃないだろうか。そんなことをちょっとだけ思った。
ぼそ、と雨の音に紛れて白澤の声が漏れる。
「東京に帰りたい」
その願いは、僕にはどうしてあげることもできないものだった。
とにかく、今日はいい加減に帰れと散々諭して、なんとか白澤を立ち上がらせることができた。この場所は口うるさいクラスメイトが出没し、感傷に浸るには向かないとようやく気づいてくれたんだと思う。
こんな天気の中、変質者なんて出ないかもしれないけど、僕はそのまま白澤を送り届けることにした。このまま別れた後に何かあったら、僕の方だって寝覚めが悪いから。
本当にうっとうしそうに、それから白澤はブツブツ言いながら歩いた。
でも、まあいいんだ。口を利いてくれるようになっただけ、少しはマシなように思えたから。
白澤の家は僕の家から徒歩十分。割と新しいマンションだった。僕はその入り口の駐車場で濡れそぼった白澤の背中を見送った。ずぶ濡れで、帰りも遅くなって、家族にはなんて言うんだろう。僕は少しだけそれを心配した。
僕は野球部――とはいっても、甲子園なんて夢のまた夢の弱小校。生徒数が少ないから、数少ない部活動の中から選んだのが野球部なだけだ。
二年生の僕はまだ補欠。智哉の方がレギュラーに近い。バッティングセンスは抜群だし、制球も上手いから。
悔しいけど、それは僕の頑張りが足りてないからなんだろう。そう、身長や体格が足りていないと思うよりは努力が足りないと思った方がマシだ。
よその家の晩御飯の匂いが漂ってきて、ぐぅ、と腹の虫が鳴いた。うちの晩御飯はなんだろうかと考えながら歩いた。
僕の家は海沿いにある。国道を挟んだ向こう側。僕の部屋からは海がよく見える。ちょっとゴミが目立つ砂浜と岩場がある海。潮騒が子守歌みたいにして、僕はこの家で育ったんだ。
「ただいま」
鍵はかかっていない。僕は夕陽に照らされながら玄関の戸を開いた。築十五年の我が家だ。
その途端、ワン、とひと声鳴いて僕を出迎えてくれたのは、ミニチュア・シュナウザーのテツだ。鉄色の長い毛をしているからテツ。白い顔の毛はおじいちゃんみたいで和む。
「ただいま、テツ」
カバンを肩にかけたまま、僕はテツの頭を撫でてやった。テツは僕の手の平に頭を擦りつける。そうしていると、奥から揚げ物の匂いが漂ってきた。今日は唐揚げなんじゃないかと期待する。
「母さん、オナカすいた」
キッチンでつまみ食いでもしてやろうかと思ったら、入るなり怒られた。
「ああ、もう! 砂だらけじゃないの! 着替えて手を洗ってきなさい!」
小柄で少しぽっちゃりした母さん。でも目がクリっとしていて実年齢より若く見える。二枚千五百円のTシャツにエプロンをしている姿は、どこにでもいる母親だ。
仕方なく、僕は風呂場の脱衣所で野球のユニフォームを脱いだ。乾いた砂でざらついている。それを丸めて洗濯カゴに放り、手と顔を洗ってから二階の自分の部屋にカバンを持って上がった。テツがフローリングの上で爪をカチカチ鳴らしながら、僕の後をついてくる。
ベッドと勉強机、本棚にクローゼットくらいしかない六畳間。僕はカバンをベッドのそばに置くと、ベッドの引き出し収納から母さんが買ってきた二枚千五百円の片割れとジーンズを取り出して着替えた。
少し部屋の空気を入れ替えようかと、なんとなく窓を開ける。
夕焼け空のオーシャンビュー、それはいつもと変わらない光景のはずだった。
確かに、その光景は変わらなかった。でも、余分な一点がその中に含まれていた。
岩場に膝を立てて座り込む背中が見えた。うちの高校の制服だ。
夕方の海は波がキラキラと輝いてすごく綺麗だから、見慣れない人が見とれていても不思議じゃない。
あの背中は多分、転校生の白澤だ。遠目で見ても他の生徒とはやっぱり何かが違う。
詳しいことは何も知らないけど、もしかしてうちの近所に越してきたんだろうか。
つっけんどんで取っつきにくい白澤。
でも、あの海の素晴らしさがわかるなら、そう悪いヤツじゃないのかもしれない。僕はほんのりとそんなことを考えながら階段を下りた。
晩御飯はやっぱり鶏の唐揚げだった。母さんがレジ打ちのパートをしているスーパーで買ってきた特売品の肉みたいだけど、揚げ方がいいのか柔らかくて美味い。
大皿に盛るとなくなるまで食べ尽くすからって、母さんはいつも取り分ける。二度と唐揚げなんて見たくないってほど、食べ続けてみたいっていうのが僕の本音ではあるんだけれど。
「父さんはまた遅くなるの?」
なんとなく訊ねてみた。答えはわかっている。
ただつけているだけでろくに見ていないテレビの音の中、母さんはうなずいた。
「うん。今日は金曜日だから」
小学校教諭の父さんは帰宅が遅いなんてこともざらにある。それはどこの家庭でも同じなんだろうけど。
僕の足元で、唐揚げの分け前をもらえないか一生懸命にじゃれつくテツを足でやり過ごし、僕は夕食を食べ終えた。ふぅ、と一服している間に、ト、ト、とトタン板に落ちる雨の音がした。
「え? 雨?」
「今日は夜から降るって天気予報で言ってたね」
母さんがのん気な声でそう教えてくれた。
「部屋の窓、開けっ放しだ」
僕は慌てて階段を駆け上った。その足音にテツも慌てた。
雨脚は瞬く間に強くなり、ザー、と水音を立てて降り注ぐ。空もすっかり暗くなっていた。急いで閉めようとして窓枠に手をかけた時、僕は白澤のことを思い出した。降り出す前に家に帰れたかな、と。
でも、薄暗い土砂降りの雨の中、夕方と同じ体勢で海を眺めている背中があった。
「まさか……」
日が沈んで、もう海なんかろくに見えない。ただ黒いだけ。それなのに、傘もささず、こんな滝みたいな雨から逃れようとしないでいるのは、どうして?
ずぶ濡れになって、それでどうするんだろう。幸い、明日は休みだから制服は乾くだろう。でも、風邪をひくかもしれない。
傘を持っていないとしても、雨脚が弱まるまで避難しようって気もないのか、動かない。雨宿りもしないであえて濡れる意味がわからない。
――白澤はやっぱりちょっと変わっている。変だ。
そうは思うけれど、見てしまった以上、放っておいていいものなのか、わからなくなった。僕はため息をつきつつ、玄関へ向かう。
散歩と勘違いして喜ぶテツを押し戻し、僕は傘を二本持って外に出た。この雨音じゃ、僕が外に出たことも母さんは気づかなかっただろうけど、遠くに行くわけじゃないから何も断らなかった。
ビニール傘を自分で差し、少し小マシな蝙蝠傘を手に持つ。雨脚が強いから傘が重たく感じられた。
トラックが雨水を跳ね上げる中、道路を横断してガードレールの切れ目の階段を下りる。それでも白澤は振り返らなかった。真剣に気づいてないのかもしれない。
溢れた雨水が滑り落ちる段を下りきると、岩場を踏み外さないように慎重に、でも急いで進んでいく。
傘をパンと開いた音で白澤はやっと振り向いた。その頭上に僕は傘を差し出す。
すでにずぶ濡れで、制服のまま海で泳いできたのと変わりない有様だ。今さら傘を差したところでなんにもならない。
でも、放っておいてもいけないような気になったから僕はここへ来た。
白澤はすごく驚いて目を見開いていたけれど、僕のことなんて多分知らない。自己紹介はしたけど、覚えているとは思えなかった。すっかり着替えて私服なのも余計にわかりづらい。
案の定、白澤は嫌な顔をした。
「気にしなくていいから、放っておいて」
そっぽを向かれた。天気のいい昼下がりなら放っておけるけど、この状態でそんなことを言われても、僕の方が困ってしまう。
「風邪ひくから、帰れば?」
そんなことしか言えなかった。なのに、白澤は薄暗い海を眺めながら膝を抱えた。
「風邪ひきたいからいいの。あんたこそ帰れば?」
意固地な物言い。雨の粒が傘の上で弾けて滴り落ちる。傘が傾いた方に溜まった雨がまとまって零れた。
「風邪ひきたいって、寝込んで学校休みたいのか?」
明日は休みなのに。呆れて言ってしまった。
すると、白澤は僕の方を見ないで苛立たしげに吐き捨てる。
「そう。学校にも行きたくない。あたしは転校なんてしたくなかったんだから」
だからクラスであの態度だったんだろうか。いくら転校したくないとは言っても、子供のうちは親の都合に付き合うしかない。白澤なりのささやかな抵抗は、家の中ではなくて学校の教室で行われたのか。
でも、クラスメイトにはそんなの八つ当たりでしかない。みんなの、受け入れよう、仲良くしようと思う善意が跳ねのけられただけなんだ。それでも、そんな気遣いは白澤にとって単なるおせっかいなんだろうか。
少し複雑な気持ちにはなったけれど、僕が今から転校しろって話になったら実際のところどうなんだろう。仲のいい智哉とも離れて、クラスメイトは知らない顔ばかり。近所を歩いても誰も僕を知らない。
……それは嫌かも。いや、かなり嫌だ。
そっか。僕たちは結局のところ、転校してきた白澤の気持ちには寄り添えていなかったのかもしれない。
僕は白澤の隣に傘を差したままでひょいと座り込んだ。尻が水を吸い上げて気持ち悪い。でも、白澤は驚いてやっと僕を見た。その顔に、僕はつぶやく。
「友達と別れて、知らない人だらけで、そりゃあ少しも楽しくないかもしれないけどさ、クラスの連中は結構気のいいヤツばっかりだから、そのうちに打ち解けられるんじゃないかな?」
僕の言葉もおせっかいだ。わかっているけれど、何かを言わないと白澤は家に帰らない。
白澤はすごく驚いた顔をして僕をじっと見た。そんなふうに人の顔を直視することがあるんだって思うくらいにまっすぐに顔を向けている。そうして、ぽつりと言った。
「あんた、中学生じゃなかったの?」
「はぁ?」
「小さいから中学生だと思った」
本当にびっくりした顔をしている。悪意がそこにあるのかどうかもわからない。でも、ここで僕は怒ってもいいのかもしれない。
「教室で自己紹介しただろ! 同じクラスの名塚って!」
ビニール傘の下、僕は情けないような気持ちで雨の音に負けないように叫んだ。それなのに、白崎は小首をかしげた。
「覚えてない」
そうなんだろう。覚える気がなかったのが手に取るようにわかったから。
白澤はそれが失礼なことだとは思っていないみたいだ。なんだろう、同じ年の同級生なのに、対等に扱われていない気がした。
ここで苛立って、僕も失礼な言葉を返せば、白澤は自分を顧みるんだろうか。
なんてことはなくて、ただ同じように苛立って返すだけって気もした。ここは僕が大人になるしかないみたいだ。
「じゃあ、覚えてよ」
ため息交じりにそれだけを言った。
そうしたら、白澤は一度口をへの字に曲げてから口を開いた。
「ナヅカ」
覚えたとばかりに白澤は言った。
本当に、女の子らしい外見だけど、中身は男勝りなのかも。
「……学校、嫌でも来なよ。そのうちに嫌じゃなくなるかもしれないから」
「イヤ。だって、女子バスないんだもん」
そう言って、白澤はまたそっぽを向いた。
「え?」
意味がわからなくて僕が困っていると、白澤は濡れた髪を振って僕を睨んだ。
「女子バスケットボール部。ないんでしょ!」
「な、ないなぁ……」
バスケ部は男子しかない。マネージャーにならなれるかもしれないけど――いや、すでに三人いるからもう要らないか。って、マネージャーになりたいんじゃなくて、白澤はプレイしたいんだろう。それじゃあ駄目だ。
「白澤はバスケしてたの?」
すると、白澤はこっくりとうなずいた。
「中学からずっとしてた。やっとレギュラー入りできるかもしれなかったのに……」
ああ、それは悔しいだろうな。ここにも女子バスがあれば、白澤はもうちょっと楽しく学校に通えていたのかな。
「それは……残念だったな」
スラリと手足の長い白澤がバスケのユニフォームを着てプレイする姿は、多分すごくカッコよかったんじゃないだろうか。そんなことをちょっとだけ思った。
ぼそ、と雨の音に紛れて白澤の声が漏れる。
「東京に帰りたい」
その願いは、僕にはどうしてあげることもできないものだった。
とにかく、今日はいい加減に帰れと散々諭して、なんとか白澤を立ち上がらせることができた。この場所は口うるさいクラスメイトが出没し、感傷に浸るには向かないとようやく気づいてくれたんだと思う。
こんな天気の中、変質者なんて出ないかもしれないけど、僕はそのまま白澤を送り届けることにした。このまま別れた後に何かあったら、僕の方だって寝覚めが悪いから。
本当にうっとうしそうに、それから白澤はブツブツ言いながら歩いた。
でも、まあいいんだ。口を利いてくれるようになっただけ、少しはマシなように思えたから。
白澤の家は僕の家から徒歩十分。割と新しいマンションだった。僕はその入り口の駐車場で濡れそぼった白澤の背中を見送った。ずぶ濡れで、帰りも遅くなって、家族にはなんて言うんだろう。僕は少しだけそれを心配した。
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