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それから
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あやめ屋に近づくと、戸は外され、暖簾と看板が出ていた。それを見た時に高弥の心の臓がドクリ、ドクリ、といつも以上に大きく鳴った。もう泊り客は出立しただろうか。
そろそろと、少し間隔を取ってあやめ屋の前を通る。そこから覗き見たところ、帳場に彦佐はいないようだった。今は顔を合わせたくないので、ほっとして一気に通り過ぎる。こっそりと台所から戻ろうとした。
しかし――
そっと戸に隙間を開けた途端、土間に立っていた平次がすぐに高弥に気づいた。口の形が、あ、と大きく開く。炊き立ての飯のほかほかとした湯気と熱はいつもと変わりない。
それに安堵したのも束の間だった。平次を通り越し、戸口の高弥に詰め寄ったのは彦佐だった。帳場にいないからとほっとした己が愚かだった。帳場におらず、ここにいたのだから。
見下すような目を向け、彦佐はドン、と戸を叩いた。
「なんだ、あのまま出ていったのかと思えば、戻ってきやがったのか」
「――すいやせん」
彦佐に謝りたくはないが、そうしないと先へ進めない。渋々謝った。
その渋々具合は彦佐にも伝わったようだ。高弥を一歩も中へ入れず、彦佐の方が外へ出てきた。肩で高弥を押し戻すようにして。
仕方なく高弥が下がると、彦佐は台所の戸をピシャリと閉めた。平次とはひと言も口を利けていない。
説教かと、高弥は身構えた。すると、彦佐は虫けらでも見るような顔つきになった。
「出ていってくれてよかったんだぜ」
「は――」
「お前さん一人くれぇいなくても、どうとでもなる。嫌なら出ていけって言ってんだよ」
出ていけと、彦佐に言われる筋合いは、少なくとも高弥にはないつもりである。キッと彦佐を見上げると、彦佐は嫌そうにため息をついた。
「お前さんが出ていった間、平次はちゃあんと仕事をしていたんだ。平次もな、仕事を放りだすようなやつとは一緒に働きたくねぇってよ」
「それは――っ」
放り出したとは言っても、夕餉は作ってから出た。後片づけを一人でさせてしまったのは悪かったとは思っている。朝餉に関してもだ。
だから、それならそのことを謝らねばならない。それを彦佐を介して聞きたくはない。
大体、平次がそんなことを本当に言ったのだろうか。彦佐が言ったことに曖昧な返事をした程度のことではないのか。
「大好きな元助さんの後でも追っていきゃあいいだろ。ほら、もう戻ってくんじゃねぇ」
ドッ、と肩をどつかれた。腹立たしさよりも、わけがわからずに呆けてしまった。
しかし、気を取り直して彦佐と対峙する。高弥にその顔は効かない。
「女将さんに出ていけと言われたら、そりゃあ出ていくしかねぇと思いやす。けど、彦佐さんにそれを言われるのは納得がいきやせん」
冷静に返した。けれど、彦佐はそれを鼻で笑った。
「女将さんは具合が悪くて起きてこねぇよ。それなら、番頭の俺が宿を任されているってこった」
あやめ屋の番頭は元助だ。彦佐ではない。今でも高弥はそう思っている。だから、彦佐の言葉には従えない。
「それが宿のことを考えての決断でございやすか。彦佐さんの兄さんが始めた大事な旅籠なんでございやす。それを――」
その途端、彦佐は声を荒げた。
「うるせぇっ。ぐだぐだ言ってねぇでさっさと失せろっ」
うるせぇだの、失せろだの、そんなことは生憎と元助に言われ慣れている。彦佐には元助ほどの迫力もなく、高弥はただ、なんとも虚しい心持ちになるのだった。
なんでこんなことになっているのだろう、と。
皆であやめ屋を盛り立てていきたいと、そればかりを願ってきたはずなのに。
――とにかく、埒が明かない。いったんつぐみ屋まで戻ってから皆に相談しようかと思った。
高弥は無言できびすを返すと、ズンズン、と足音を立てて歩く。彦佐は途端に台所の中に戻って乱暴に戸を閉めた。
ていは起きられないほど具合が悪いのか。高弥まで出ていったと言われ、それが拍車をかけたのではないといいけれど。
そこも気になって二階を見上げた。しかし、そこから中を窺うことはできなかった。
それと、志津や浜もどうしているだろうか。昨日の夕方から顔を合わせていないままだ。高弥が飛び出したと知って、どう思っただろう。
志津の顔が見たい。
そうした思いが胸の奥から湧いた。すぐにまた会えると思っても、今すぐにという衝動が痛みに感じられるほどに強くなった。顔を見て、だからなんだと言うのだ。どうせ何も言えやしないくせに。
それでも――
その思いが通じたのか、表にいる高弥を見つけた志津が中から飛び出してきた。
「た、高弥さんっ」
ああ、よかった。いつもの志津だ、と高弥はほっとしたような、切ないような気持ちだった。
「どこへ行っていたの。板橋に帰ってしまったのかと思ってびっくりしたわ。でも、よかった、帰ってきてくれて」
志津が安堵したのか目に涙を浮かべるから、高弥はツキン、と胸に鋭い痛みを覚えた。
「すいやせん、ちょっと、ここを出ていくことになりやして――」
えっ、と志津は固まった。だらりと下げていた手が震えて見えた。その手が持ち上がると、口元に添えられる。その指の間からかすれた声が漏れた。
「そんな、元助さんもいなくて、高弥さんまで。あやめ屋はどうなってしまうの――」
高弥はとっさにかぶりを振った。
「いえ、決してあやめ屋を見捨てたりしやせん。おれも元助さんも必ず戻りやす。ほんの少しの辛抱で」
「本当に」
「へい」
力強くうなずいてみせる。
目に涙を浮かべる志津は綺麗だった。そうした姿を見ていると不安になる。
彦佐は高弥がいないと余計に、志津にちょっかいを出したりしないだろうか。ていは二階から降りてこない、平次は彦佐に逆らわない。浜が志津にまとわりついていても、ずっとというわけにはいかないのだ。
そう考えたら、志津をここへ残していっていいのかという気になる。耳元まで己の心音が響く。
口よりも先に手が動いた。とっさに、高弥は志津の細い手首をつかんでいた。
志津がハッとして目を瞬かせる。柔らかなぬくもりが、高弥の水仕事で荒れた手から伝わり、高弥は自分のしたことにようやく気づいた。
今さら後には引けない。高弥はなんとかして声を絞り出した。
「あの、お志津さんも一緒に行きやせんか。しばらくの間だけで、その、ここに残しておくのはよくねぇような気が、して――」
それを聞くと、志津はゆっくりと微笑んだ。
高弥の心配の一端くらいは伝わったらしい。
「もしかして、お浜ちゃんが何か言ったのかしら」
彦佐が志津にちょっかいをかけてくることを知って、高弥が心配していると思っている。それも誤りではない。けれど、そればかりでもない。
高弥は、相手が彦佐でなくとも、他の誰でも同じように嫌なのだから。
何も答えなかった高弥に、志津は言う。
「平気よ。ほら、こんなことは前にもあったんだから。高弥さんだって知っているでしょう」
志津を気に入った坊主が足繁く通ってきて困っていたことがある。しかし、あれは外からたまに来る客であって、彦佐は中にいるのだ。前よりもわけが悪い。
それでも、志津には出て行けない理由があった。
「わたしまで行ってしまったら、女将さんのお世話ができなくなってしまうでしょう。だから、わたしは残らなくちゃ」
忘れていたとは言わないけれど、それを言われて改めて己の身勝手を恥じた。指先が力を失って、高弥が手を放すと、志津はそれでも笑っていた。
「女将さんはいつでも優しくしてくれたから、わたしも女将さんのためにできることをするの。でもね、高弥さんも元助さんも戻ってきてくれるって、その言葉を信じさせてね。待っているから」
色白の頬がほんのりと染まっていて、本心から信じてくれているのだと思えた。そんな志津のことを絶対に裏切れない。
「へい。もうしばらくだけ待っていておくんなさい」
それだけ言うと、高弥は志津とあやめ屋に背を向けて走り出した。途中、八百晋にはまだ由宇の姿しかなく、高弥はこちらに気づいていない由宇に声をかけることをせず、そのまま駆け抜けた。
ろくに眠っていないせいで疲れている。そのくせ、妙に頭だけはすっきりとしていた。
北品川に着く。つぐみ屋の前まで来ると、元助以外の皆でそろって客を送り出しているところだった。その客が皆行ってしまうのを待って、宿の中へ戻ろうとした利兵衛を呼び止める。
「利兵衛っ」
あやめ屋に戻ったとばかり思っていた高弥がすぐにまたやってきて、皆がぎょっとしていた。
「高弥ぼっちゃん、元助さんなら湯屋に行かれただけで、すぐに戻ると仰っておいででしたよ」
と、壮助が宥めるように言った。
元助がまたいなくならないか心配で戻ってきたとでも思われたらしい。高弥はばつが悪くなって頬を掻いた。
「そ、そうなんだ。悪ぃんだけど、おれもしばらく厄介になっていいかなぁ」
皆がそろって、ええっと声を上げたのも無理はなかったかもしれない。
客のいなくなった座敷で高弥は利兵衛と壮助に事情を説明するのだった。
「その彦佐さん、本当に先代の弟さんなんでございますよねぇ」
と、利兵衛は困ったようにため息をついた。
「まあ、他人じゃあそこまでそっくりとは考えにくいし、そこは別に疑ってねぇけど」
「しかし、横暴ですね。女将さんが寝込んでいるからといっても、好き勝手しすぎでは」
壮助は高弥の代わりに怒ってくれているようだった。だからこそ、高弥は落ち着いて話せた。
「なんだろうなぁ、皆が旦那さんみたいにして扱うから、偉くなったような気になったのかな」
ボソ、とつぶやく。彦佐には何か思惑があるのか、ただ思いのままに、子供のようにして振る舞っているだけなのか、そのところが高弥にもよくわからない。
すると、利兵衛は言った。
「高弥坊ちゃんはそれで、どうなさいますか。しばらく様子を見て、つばくろ屋へお戻りになりますか」
揉め事に関わらせたくないと思うのだろうか。利兵衛はそうしてほしいとでも言うような口調だった。
しかし、高弥の答えは決まっている。
「その前に、元助さんをあやめ屋へ戻さねぇと」
まずはそれなのだ。元助なくして元通りとは言えない。
壮助はふと、高弥に笑いかけた。
「高弥坊ちゃんは本当に元助さんを買っておられるのですね。以前は痣だらけになってばかりで心配のし通しでしたが」
最初は、乱暴で不愛想で怠け者で、少しも好ましいとは思わなかった。それが何故、と自分に問いかけてみる。
そうすると、答えは案外容易く見つかったのである。
「元助さんは不愛想だけど、受けた恩は死ぬ気で返す。多分、そういうところを知ったからかな」
受けた恩を忘れず、感謝をし続ける人はいくらだっている。けれど、元助は、恩を受けたのがつい昨日のことのようにして胸に刻んでいる。少しも薄れていかず、強い気持ちで感謝を受け止めている。
そうしたことが己にできるだろうか、と考えた時、できるとは言えない。時と共に気持ちはどうしても薄れてしまうだろう。
だからこそ、それをする元助に少なからず尊敬もあるのだ。それを口に出したら、きっとひどく嫌な顔をされるだろうけれど。
そこで腹がぐぅ、と鳴った。そういえば、昨日の夕餉も、今日の朝餉も食べられなかったのだ。
「朝餉の支度を母に頼んできましょう」
すかさず壮助が立ち上がった。
「す、すまねぇ」
申し訳ないが、要らないとは言えなかった。かなり空腹である。
皆、朝餉はまだだった。元助の分も用意してくれてあったが、そこは待たずに食べた。帰ったら食べるだろう。
そして、高弥は腹が満たされたら疲れが出て、台所の畳の上で寝てしまったのである。
そろそろと、少し間隔を取ってあやめ屋の前を通る。そこから覗き見たところ、帳場に彦佐はいないようだった。今は顔を合わせたくないので、ほっとして一気に通り過ぎる。こっそりと台所から戻ろうとした。
しかし――
そっと戸に隙間を開けた途端、土間に立っていた平次がすぐに高弥に気づいた。口の形が、あ、と大きく開く。炊き立ての飯のほかほかとした湯気と熱はいつもと変わりない。
それに安堵したのも束の間だった。平次を通り越し、戸口の高弥に詰め寄ったのは彦佐だった。帳場にいないからとほっとした己が愚かだった。帳場におらず、ここにいたのだから。
見下すような目を向け、彦佐はドン、と戸を叩いた。
「なんだ、あのまま出ていったのかと思えば、戻ってきやがったのか」
「――すいやせん」
彦佐に謝りたくはないが、そうしないと先へ進めない。渋々謝った。
その渋々具合は彦佐にも伝わったようだ。高弥を一歩も中へ入れず、彦佐の方が外へ出てきた。肩で高弥を押し戻すようにして。
仕方なく高弥が下がると、彦佐は台所の戸をピシャリと閉めた。平次とはひと言も口を利けていない。
説教かと、高弥は身構えた。すると、彦佐は虫けらでも見るような顔つきになった。
「出ていってくれてよかったんだぜ」
「は――」
「お前さん一人くれぇいなくても、どうとでもなる。嫌なら出ていけって言ってんだよ」
出ていけと、彦佐に言われる筋合いは、少なくとも高弥にはないつもりである。キッと彦佐を見上げると、彦佐は嫌そうにため息をついた。
「お前さんが出ていった間、平次はちゃあんと仕事をしていたんだ。平次もな、仕事を放りだすようなやつとは一緒に働きたくねぇってよ」
「それは――っ」
放り出したとは言っても、夕餉は作ってから出た。後片づけを一人でさせてしまったのは悪かったとは思っている。朝餉に関してもだ。
だから、それならそのことを謝らねばならない。それを彦佐を介して聞きたくはない。
大体、平次がそんなことを本当に言ったのだろうか。彦佐が言ったことに曖昧な返事をした程度のことではないのか。
「大好きな元助さんの後でも追っていきゃあいいだろ。ほら、もう戻ってくんじゃねぇ」
ドッ、と肩をどつかれた。腹立たしさよりも、わけがわからずに呆けてしまった。
しかし、気を取り直して彦佐と対峙する。高弥にその顔は効かない。
「女将さんに出ていけと言われたら、そりゃあ出ていくしかねぇと思いやす。けど、彦佐さんにそれを言われるのは納得がいきやせん」
冷静に返した。けれど、彦佐はそれを鼻で笑った。
「女将さんは具合が悪くて起きてこねぇよ。それなら、番頭の俺が宿を任されているってこった」
あやめ屋の番頭は元助だ。彦佐ではない。今でも高弥はそう思っている。だから、彦佐の言葉には従えない。
「それが宿のことを考えての決断でございやすか。彦佐さんの兄さんが始めた大事な旅籠なんでございやす。それを――」
その途端、彦佐は声を荒げた。
「うるせぇっ。ぐだぐだ言ってねぇでさっさと失せろっ」
うるせぇだの、失せろだの、そんなことは生憎と元助に言われ慣れている。彦佐には元助ほどの迫力もなく、高弥はただ、なんとも虚しい心持ちになるのだった。
なんでこんなことになっているのだろう、と。
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――とにかく、埒が明かない。いったんつぐみ屋まで戻ってから皆に相談しようかと思った。
高弥は無言できびすを返すと、ズンズン、と足音を立てて歩く。彦佐は途端に台所の中に戻って乱暴に戸を閉めた。
ていは起きられないほど具合が悪いのか。高弥まで出ていったと言われ、それが拍車をかけたのではないといいけれど。
そこも気になって二階を見上げた。しかし、そこから中を窺うことはできなかった。
それと、志津や浜もどうしているだろうか。昨日の夕方から顔を合わせていないままだ。高弥が飛び出したと知って、どう思っただろう。
志津の顔が見たい。
そうした思いが胸の奥から湧いた。すぐにまた会えると思っても、今すぐにという衝動が痛みに感じられるほどに強くなった。顔を見て、だからなんだと言うのだ。どうせ何も言えやしないくせに。
それでも――
その思いが通じたのか、表にいる高弥を見つけた志津が中から飛び出してきた。
「た、高弥さんっ」
ああ、よかった。いつもの志津だ、と高弥はほっとしたような、切ないような気持ちだった。
「どこへ行っていたの。板橋に帰ってしまったのかと思ってびっくりしたわ。でも、よかった、帰ってきてくれて」
志津が安堵したのか目に涙を浮かべるから、高弥はツキン、と胸に鋭い痛みを覚えた。
「すいやせん、ちょっと、ここを出ていくことになりやして――」
えっ、と志津は固まった。だらりと下げていた手が震えて見えた。その手が持ち上がると、口元に添えられる。その指の間からかすれた声が漏れた。
「そんな、元助さんもいなくて、高弥さんまで。あやめ屋はどうなってしまうの――」
高弥はとっさにかぶりを振った。
「いえ、決してあやめ屋を見捨てたりしやせん。おれも元助さんも必ず戻りやす。ほんの少しの辛抱で」
「本当に」
「へい」
力強くうなずいてみせる。
目に涙を浮かべる志津は綺麗だった。そうした姿を見ていると不安になる。
彦佐は高弥がいないと余計に、志津にちょっかいを出したりしないだろうか。ていは二階から降りてこない、平次は彦佐に逆らわない。浜が志津にまとわりついていても、ずっとというわけにはいかないのだ。
そう考えたら、志津をここへ残していっていいのかという気になる。耳元まで己の心音が響く。
口よりも先に手が動いた。とっさに、高弥は志津の細い手首をつかんでいた。
志津がハッとして目を瞬かせる。柔らかなぬくもりが、高弥の水仕事で荒れた手から伝わり、高弥は自分のしたことにようやく気づいた。
今さら後には引けない。高弥はなんとかして声を絞り出した。
「あの、お志津さんも一緒に行きやせんか。しばらくの間だけで、その、ここに残しておくのはよくねぇような気が、して――」
それを聞くと、志津はゆっくりと微笑んだ。
高弥の心配の一端くらいは伝わったらしい。
「もしかして、お浜ちゃんが何か言ったのかしら」
彦佐が志津にちょっかいをかけてくることを知って、高弥が心配していると思っている。それも誤りではない。けれど、そればかりでもない。
高弥は、相手が彦佐でなくとも、他の誰でも同じように嫌なのだから。
何も答えなかった高弥に、志津は言う。
「平気よ。ほら、こんなことは前にもあったんだから。高弥さんだって知っているでしょう」
志津を気に入った坊主が足繁く通ってきて困っていたことがある。しかし、あれは外からたまに来る客であって、彦佐は中にいるのだ。前よりもわけが悪い。
それでも、志津には出て行けない理由があった。
「わたしまで行ってしまったら、女将さんのお世話ができなくなってしまうでしょう。だから、わたしは残らなくちゃ」
忘れていたとは言わないけれど、それを言われて改めて己の身勝手を恥じた。指先が力を失って、高弥が手を放すと、志津はそれでも笑っていた。
「女将さんはいつでも優しくしてくれたから、わたしも女将さんのためにできることをするの。でもね、高弥さんも元助さんも戻ってきてくれるって、その言葉を信じさせてね。待っているから」
色白の頬がほんのりと染まっていて、本心から信じてくれているのだと思えた。そんな志津のことを絶対に裏切れない。
「へい。もうしばらくだけ待っていておくんなさい」
それだけ言うと、高弥は志津とあやめ屋に背を向けて走り出した。途中、八百晋にはまだ由宇の姿しかなく、高弥はこちらに気づいていない由宇に声をかけることをせず、そのまま駆け抜けた。
ろくに眠っていないせいで疲れている。そのくせ、妙に頭だけはすっきりとしていた。
北品川に着く。つぐみ屋の前まで来ると、元助以外の皆でそろって客を送り出しているところだった。その客が皆行ってしまうのを待って、宿の中へ戻ろうとした利兵衛を呼び止める。
「利兵衛っ」
あやめ屋に戻ったとばかり思っていた高弥がすぐにまたやってきて、皆がぎょっとしていた。
「高弥ぼっちゃん、元助さんなら湯屋に行かれただけで、すぐに戻ると仰っておいででしたよ」
と、壮助が宥めるように言った。
元助がまたいなくならないか心配で戻ってきたとでも思われたらしい。高弥はばつが悪くなって頬を掻いた。
「そ、そうなんだ。悪ぃんだけど、おれもしばらく厄介になっていいかなぁ」
皆がそろって、ええっと声を上げたのも無理はなかったかもしれない。
客のいなくなった座敷で高弥は利兵衛と壮助に事情を説明するのだった。
「その彦佐さん、本当に先代の弟さんなんでございますよねぇ」
と、利兵衛は困ったようにため息をついた。
「まあ、他人じゃあそこまでそっくりとは考えにくいし、そこは別に疑ってねぇけど」
「しかし、横暴ですね。女将さんが寝込んでいるからといっても、好き勝手しすぎでは」
壮助は高弥の代わりに怒ってくれているようだった。だからこそ、高弥は落ち着いて話せた。
「なんだろうなぁ、皆が旦那さんみたいにして扱うから、偉くなったような気になったのかな」
ボソ、とつぶやく。彦佐には何か思惑があるのか、ただ思いのままに、子供のようにして振る舞っているだけなのか、そのところが高弥にもよくわからない。
すると、利兵衛は言った。
「高弥坊ちゃんはそれで、どうなさいますか。しばらく様子を見て、つばくろ屋へお戻りになりますか」
揉め事に関わらせたくないと思うのだろうか。利兵衛はそうしてほしいとでも言うような口調だった。
しかし、高弥の答えは決まっている。
「その前に、元助さんをあやめ屋へ戻さねぇと」
まずはそれなのだ。元助なくして元通りとは言えない。
壮助はふと、高弥に笑いかけた。
「高弥坊ちゃんは本当に元助さんを買っておられるのですね。以前は痣だらけになってばかりで心配のし通しでしたが」
最初は、乱暴で不愛想で怠け者で、少しも好ましいとは思わなかった。それが何故、と自分に問いかけてみる。
そうすると、答えは案外容易く見つかったのである。
「元助さんは不愛想だけど、受けた恩は死ぬ気で返す。多分、そういうところを知ったからかな」
受けた恩を忘れず、感謝をし続ける人はいくらだっている。けれど、元助は、恩を受けたのがつい昨日のことのようにして胸に刻んでいる。少しも薄れていかず、強い気持ちで感謝を受け止めている。
そうしたことが己にできるだろうか、と考えた時、できるとは言えない。時と共に気持ちはどうしても薄れてしまうだろう。
だからこそ、それをする元助に少なからず尊敬もあるのだ。それを口に出したら、きっとひどく嫌な顔をされるだろうけれど。
そこで腹がぐぅ、と鳴った。そういえば、昨日の夕餉も、今日の朝餉も食べられなかったのだ。
「朝餉の支度を母に頼んできましょう」
すかさず壮助が立ち上がった。
「す、すまねぇ」
申し訳ないが、要らないとは言えなかった。かなり空腹である。
皆、朝餉はまだだった。元助の分も用意してくれてあったが、そこは待たずに食べた。帰ったら食べるだろう。
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