41 / 51
それから
25
しおりを挟む
けれど、本当に、元助はあやめ屋に戻るだろうか。あの頑なな男が、出戻ることを受け入れるだろうか。
見つけ出してもいないうちからそんな心配をしても始まらないのはわかっている。
それでも、不安はまったくないというわけにはいかない。元助が愛想を尽かしたということも、もしかすると起こり得るのかもしれない。
現に高弥にしても、平次とあのまま話していたらそうなった。愛想を尽かした。もう知るかという気になった。
だから、もしかするともう――という気持ちは拭えない。
高弥は、あやめ屋のことで元助以上に頼れる相手が思い浮かばないのだ。それをはね退けられたら、もうどうしていいのかわからない。
彦佐がいても、いなくても、せめて元助があやめ屋にいてくれさえすればいいと、そんなふうにも思う。元助がいない帳場が、高弥にとってはもうあやめ屋ではない。
はあ、はあ、と息を切らせて立ち止まると、目の前には行灯の灯りが列になってほの明るく見えた。高輪に辿り着いたのだ。ここを通りかかったのはいつも日の高いうちだけれど、それでも道に迷うようなところはなかった。
確か、高輪北丁の當光寺の門前を越え、横道を折れたところに飲み屋があると聞いた。提灯に書かれた名前も何も見ず、灯りの漏れる縄暖簾の中へ飛び込んだ。
そこは狭いところだった。他の飲み屋をよく知らないからそう思うだけだろうか。長屋のひと間よりは少しくらいましかという程度で、店主らしき老爺が角で酒樽の上につまみを載せて取り分けている。
「らっしゃい」
店主の声が高弥の耳を素通りした。それというのも、その狭い店内でうつむき、ぐい呑みみを握り締めている男に目が行ったからだ。他の客はいなかった。
「元助さんっ」
似ている。いや、本人だ、と高弥は思った。
しかし、高弥が呼びかけても男は顔を上げない。ぐい呑みを握ったまま動かなかった。
駆け寄ろうとした高弥に、店主の老爺が言う。
「お前さん、このお客の知り合いかい」
「へいっ」
力強く答えると、店主はなんとも複雑な様子で苦笑した。
「体を壊す前に連れて帰ってやんな」
「へっ」
高弥は恐る恐る、床几に座り込む男に近づいた。やはり、この木綿の着物は元助のものだ。高弥はその肩を軽く揺さぶった。
「元助さん、元助さんっ」
すると、元助の手からぐい呑みがボロリと落ちて剥き出しの土間に落ちた。幸い、割れなかったし、酒も入っていなかった。ぐい呑みはコロコロと転がり、店主が拾った。
高弥は、力なく垂れた首を持ち上げる気配もない男の、少し伸びている月代をペチリと叩いた。
「寝ているんでござんすか。起きてください」
すると、凶悪な人相がやっと首をもたげたのだ。高弥は久しぶりに肝が冷えた。
眼窩は落ちくぼみ、それでいてギラついている。顔はいつも以上に浅黒く、無精髭が散っていて、ごろつきにしか見えなかった。しかし、間違いなく元助である。
睨んでいるのかと思えば、高弥が目に入っているのかいないのか、それさえよくわからなかった。
店主が呆れたような声を上げる。
「ここ数日、店を開けるとふらっと来て、ずっとそんな具合だよ。少しばかり酒に強くても飲みすぎだ」
元助は酒よりも煙草が好きで、酒はたまにしか飲まないが、弱くはなかった。それがこんなふうになるのなら、それこそ浴びるように飲んだのではないのか。あやめ屋を去ってからずっと酒浸りだったということなのか。
ぐったりとした元助に、高弥は呆れた。
しかし、店主はいろんな客を見てきたのだろう、どこかあたたかみのある口調で言う。
「よぉっぽど嫌なことがあったんだろうさ。でもなぁ、酒に逃げちゃあいけねぇよ」
あやめ屋と共に生きてきた元助だ。だからこそ、そのあやめ屋から遠ざかってしまえば何もない。己の中の空虚に気づいてしまう。考えることをやめて、酒を飲んで、そうして毎日を送っていたのか。
高弥が元助を見つけるのが遅かったら、元助はどうなっていたのだろう。自力で立ち直ることはできただろうか。
大体、こんなふうになるのなら、無理をして出ていく必要などなかった。やはり、莫迦だと思う。
けれど、こんな元助を見てほっとしてしまったと言ったら怒るだろうか。
あやめ屋を離れて、少しも平気ではなかったのだと、それを知ることができてよかった。
そして、それを知った以上はどんなことをしても元助を元通りの場所へ連れていかねばと思う。
「本当に、困ったお人なんで」
高弥は感情に揺れる声でそうつぶやく。
そうして、元助を揺さぶりながら声をかけた。
「元助さん、高弥でござんす。お迎えにきやした。帰りやしょう」
すると、元助はようやく声を発した。
「うるせぇな。勝手に帰れ」
「またそういうことを言う」
こういう時、高弥はどう言えばいいのかをぼんやりと察した。
元助に何が響くのかをわかっている。人にはそれぞれ、突かれると弱い部分があるのだ。
「元助さんが出ていったせいで女将さんが寝込みやした」
やはり、そのひと言にやつれた顔を強張らせた。
「ほら、帰りやしょう」
「――俺は、あやめ屋を出た身だ」
「政吉さんに、あやめ屋を出たら恩返しが終わったなんて考えるな、なんてことを言ったのはどこのどなたでしたかねぇ」
黙った。そうして、手が出た。
ゴッ、と鈍い音がして、高弥の目の前に火花が散った。高弥は痛みに涙を滲ませ、月代を摩りながらもめげなかった。
「顔のひとつくらい見せてもいいでしょうに。大体、元助さんは高輪になんの用があるんですかい。用なんてないんじゃあ――」
口で勝てなくなると手が出る。酔っている分、それが露骨だ。
また来るとわかっている拳は高弥にも避けられた。元助は素面の時ほど素早くもなければ、力もない。
「とにかく、酒はもう飽きるほど飲んだでしょうに。この世の終わりみてぇな顔して飲んでるお客がいたんじゃあ、他のお客が寄りつけやしやせん。もう出やしょう」
「おめぇなぁ――」
ボソボソ、と何か毒づかれたが、聞き流した。高弥は店主に首を向ける。
「お代はまだでござんすか」
「いや、先にたんまりもらってるよ」
それを聞いて安心した。高弥も持ち合わせはあまりないのだ。
「そうでしたか。お世話様でございやす」
高弥は後ろに回り込んで元助の背を押した。
「さ、行きやしょう」
遠慮なく、ドンドン、と背を叩く。鬱陶しいのだろう。元助はサッと立ち上がって店を出ていった。案外しっかりとした足取りだと思った。
気をつけてな、という店主に頭を下げ、高弥も縄暖簾を潜った。
――しかし、その少し先を歩いたところで元助はすぐに塀にもたれかかって座り込んだ。平気そうだと思ったが、そうでもなかった。
「本当に、一体どれだけ飲んだらこうなるんで」
仕方なく、高弥も元助の隣に座り込んだ。
これから暗くなる。夜道は危ない。千鳥足の元助と海に落ちたのでは本当に何をしに来たのかわからない。ここは素直に日の出と共に急いで戻った方がいいだろう。
もし間に合わなかったとしても、飯を炊くだけなら平次だけでもできる。握り飯を握るのは、志津やていが手伝ってくれるだろうか。
ていや志津に断りなく飛び出してきて、どう思われているだろう。もしかすると、あの勢いのまま板橋まで帰ったのではないかと、もう戻ってこないと思われていたりするだろうか。
はぁ、と大きくため息をついて肩を落とすと、薄暗い中で元助が高弥に目を向けているのがわかった。
「元助さん、夜道は危ねぇから、日が昇り始めたら品川まで歩きやしょう」
そう言うと、元助は顔をしかめた。
「俺は彦佐さんに後を託した」
「彦佐さんは旅籠の番頭になんざ向いちゃおりやせん。いくら旦那さんの弟だからって、長年勤めた元助さんの代わりになんてなれやせん」
はっきり言ってやった。すると、元助は高弥から目をそらした。そして、黙り込む。
高弥はそんな元助に訊ねた。
「旦那さんにそっくりで、女将さんが嬉しそうに見えたから、あやめ屋にずっといてほしいと思ったんでしょうか。そのためにわざわざ居場所を空けたと、そういうことなんですかい」
それでも、しばらくは何も返答がなかった。どこかから酔客の賑やかな笑い声が響く。
どれくらいか経って、ボソボソと隣から籠った声がした。
「彦佐さんには行く当てがねぇんだよ」
「え――」
「実家との縁は切れてるんだとよ。僅かばかり貯めていた金もダチだと思ってたやつに盗られて、もう何もかもすっからかんだから、いっそ海に落ちてもいいかと思って海を見に東海道を歩いていた時に、兄貴のことを思い出して、それで最後の墓参りがてらあやめ屋に寄ったんだとよ」
そんな目に遭ったから、ああいう態度なのだろうか。
どこか人を信じていない、遠くから莫迦にした目を向けているような感じを受ける。――いや、その前にそんな話は作り話ではないのか。
一度は身投げまで考えた男が、軽薄に笑い、若い娘にちょっかいをかけるようなことをするだろうか。志津に馴れ馴れしいと浜が言っていたではないか。
「元助さんはそれを信じなすったんで」
高弥は信じない。何かが違うと思う。
しかし、元助は疑うことをしなかった。それはていや平次と同じ、あの顔に惑わされているのではないか。
元助は高弥の言葉に身じろぎした。まさか嘘だなどと考えたこともなかったのか。
「元助さんがいなくなって、彦佐さんには飯と寝床があるわけでございやす。でも、それが元助さんの旦那さんへの恩返しなんでござんすか。旦那さんに返しきれなかった恩を女将さんに返しているもんだとばかり思っておりやした。先に言いやしたが、女将さんは元助さんがいなくなってから、気落ちして寝込んでおりやす。これで恩返しでござんすか」
痛いところを突いたつもりだった。ただ、それは元助を責めるためではない。わかってほしかっただけだ。元助のしたことがかならずしもていのためにはならない、と。
元助は、うるせぇな、とだけ吐き捨てた。高弥の方を向かない。
「今日はここで明るくなるのを待つしかありやせん。でも、ここじゃあまともに寝れやしやせん。それからおれ、飯を食わずに飛び出して来たんで、腹が減りやした。でも、我慢しやす」
「知るか」
「元助さんに会えたんで、ひとまずほっとしておりやす」
腹も減ったが、それでも気持ちが随分と楽になった。だから素直なことが言えた。それが元助には据わりが悪かったりもしたのだろう。嫌そうに言う。
「――なんで俺が高輪にいるってわかった」
「元助さん行きつけの湯屋で、常連の兄さんたちに元助さんを見かけたら教えてほしいってお願いしておきやした」
すると、元助がチッと舌打ちした。そんな元助に高弥は笑って返す。
「元助さんよりおれの方が上手だったってことで」
それを言った途端、拳骨が降ってきた。痛いのに、妙な笑いが込み上げてくる。
「女将さんやあやめ屋にとって何が一番なのか、ちゃんと考えやしょう。ほら、もうすぐ二十六夜でござんす。忙しくなりやす」
「俺は戻らねぇと言っただろうが。何度も言わせるんじゃねぇ」
どうしてこう意固地なのだろう。それは齢を重ねたせいで、高弥もまたこれくらいの年になれば認められないことも多くなるのだろうか。元助と同じ年頃の高弥の父もある意味では頑固だから、そうなのかもしれない。
「でも、とりあえず夜が明けたら品川宿へは戻りやしょう。あ、そうだ、女将さんに顔を見せるにしても、今の元助さんはよれよれだから、なりを整えるついでに、つぐみ屋の利兵衛に頼んでしばらく厄介になるってぇのはどうですかい」
そうとでも言わないと、ここでこのまま夜通し元助と押し問答することになりそうだった。
「ふざけてんのか、おめぇはよ」
「大真面目でござんす。なんですか、元助さんは女将さんのことが気にならねぇってぇんですか」
結局のところ、それを言ったら元助は何も言えないのだ。
元助なりに悩んだ結論であっても、悪いけれどそれを否定する。ていに会って、そうしてもう一度ちゃんと話し合うべきなのだ。
多くを喋りたがらない元助だが、忌々しげに吐き捨てた。
「おめぇはどうしてそう図太ぇんだ。本当に、親の顔が見てみてぇ」
「板橋仲宿のつばくろ屋へ行けばいつでも見られやす。お泊りになってくだすっても結構でござんす。美味ぇ飯が出やす」
ハハ、と笑い飛ばした。
元助はそっぽを向いたが、高弥は眠気を吹き飛ばすために喋り続けた。元助は無視してやり過ごすのかと思えば、時折は返事をした。それが高弥には嬉しかった。
見つけ出してもいないうちからそんな心配をしても始まらないのはわかっている。
それでも、不安はまったくないというわけにはいかない。元助が愛想を尽かしたということも、もしかすると起こり得るのかもしれない。
現に高弥にしても、平次とあのまま話していたらそうなった。愛想を尽かした。もう知るかという気になった。
だから、もしかするともう――という気持ちは拭えない。
高弥は、あやめ屋のことで元助以上に頼れる相手が思い浮かばないのだ。それをはね退けられたら、もうどうしていいのかわからない。
彦佐がいても、いなくても、せめて元助があやめ屋にいてくれさえすればいいと、そんなふうにも思う。元助がいない帳場が、高弥にとってはもうあやめ屋ではない。
はあ、はあ、と息を切らせて立ち止まると、目の前には行灯の灯りが列になってほの明るく見えた。高輪に辿り着いたのだ。ここを通りかかったのはいつも日の高いうちだけれど、それでも道に迷うようなところはなかった。
確か、高輪北丁の當光寺の門前を越え、横道を折れたところに飲み屋があると聞いた。提灯に書かれた名前も何も見ず、灯りの漏れる縄暖簾の中へ飛び込んだ。
そこは狭いところだった。他の飲み屋をよく知らないからそう思うだけだろうか。長屋のひと間よりは少しくらいましかという程度で、店主らしき老爺が角で酒樽の上につまみを載せて取り分けている。
「らっしゃい」
店主の声が高弥の耳を素通りした。それというのも、その狭い店内でうつむき、ぐい呑みみを握り締めている男に目が行ったからだ。他の客はいなかった。
「元助さんっ」
似ている。いや、本人だ、と高弥は思った。
しかし、高弥が呼びかけても男は顔を上げない。ぐい呑みを握ったまま動かなかった。
駆け寄ろうとした高弥に、店主の老爺が言う。
「お前さん、このお客の知り合いかい」
「へいっ」
力強く答えると、店主はなんとも複雑な様子で苦笑した。
「体を壊す前に連れて帰ってやんな」
「へっ」
高弥は恐る恐る、床几に座り込む男に近づいた。やはり、この木綿の着物は元助のものだ。高弥はその肩を軽く揺さぶった。
「元助さん、元助さんっ」
すると、元助の手からぐい呑みがボロリと落ちて剥き出しの土間に落ちた。幸い、割れなかったし、酒も入っていなかった。ぐい呑みはコロコロと転がり、店主が拾った。
高弥は、力なく垂れた首を持ち上げる気配もない男の、少し伸びている月代をペチリと叩いた。
「寝ているんでござんすか。起きてください」
すると、凶悪な人相がやっと首をもたげたのだ。高弥は久しぶりに肝が冷えた。
眼窩は落ちくぼみ、それでいてギラついている。顔はいつも以上に浅黒く、無精髭が散っていて、ごろつきにしか見えなかった。しかし、間違いなく元助である。
睨んでいるのかと思えば、高弥が目に入っているのかいないのか、それさえよくわからなかった。
店主が呆れたような声を上げる。
「ここ数日、店を開けるとふらっと来て、ずっとそんな具合だよ。少しばかり酒に強くても飲みすぎだ」
元助は酒よりも煙草が好きで、酒はたまにしか飲まないが、弱くはなかった。それがこんなふうになるのなら、それこそ浴びるように飲んだのではないのか。あやめ屋を去ってからずっと酒浸りだったということなのか。
ぐったりとした元助に、高弥は呆れた。
しかし、店主はいろんな客を見てきたのだろう、どこかあたたかみのある口調で言う。
「よぉっぽど嫌なことがあったんだろうさ。でもなぁ、酒に逃げちゃあいけねぇよ」
あやめ屋と共に生きてきた元助だ。だからこそ、そのあやめ屋から遠ざかってしまえば何もない。己の中の空虚に気づいてしまう。考えることをやめて、酒を飲んで、そうして毎日を送っていたのか。
高弥が元助を見つけるのが遅かったら、元助はどうなっていたのだろう。自力で立ち直ることはできただろうか。
大体、こんなふうになるのなら、無理をして出ていく必要などなかった。やはり、莫迦だと思う。
けれど、こんな元助を見てほっとしてしまったと言ったら怒るだろうか。
あやめ屋を離れて、少しも平気ではなかったのだと、それを知ることができてよかった。
そして、それを知った以上はどんなことをしても元助を元通りの場所へ連れていかねばと思う。
「本当に、困ったお人なんで」
高弥は感情に揺れる声でそうつぶやく。
そうして、元助を揺さぶりながら声をかけた。
「元助さん、高弥でござんす。お迎えにきやした。帰りやしょう」
すると、元助はようやく声を発した。
「うるせぇな。勝手に帰れ」
「またそういうことを言う」
こういう時、高弥はどう言えばいいのかをぼんやりと察した。
元助に何が響くのかをわかっている。人にはそれぞれ、突かれると弱い部分があるのだ。
「元助さんが出ていったせいで女将さんが寝込みやした」
やはり、そのひと言にやつれた顔を強張らせた。
「ほら、帰りやしょう」
「――俺は、あやめ屋を出た身だ」
「政吉さんに、あやめ屋を出たら恩返しが終わったなんて考えるな、なんてことを言ったのはどこのどなたでしたかねぇ」
黙った。そうして、手が出た。
ゴッ、と鈍い音がして、高弥の目の前に火花が散った。高弥は痛みに涙を滲ませ、月代を摩りながらもめげなかった。
「顔のひとつくらい見せてもいいでしょうに。大体、元助さんは高輪になんの用があるんですかい。用なんてないんじゃあ――」
口で勝てなくなると手が出る。酔っている分、それが露骨だ。
また来るとわかっている拳は高弥にも避けられた。元助は素面の時ほど素早くもなければ、力もない。
「とにかく、酒はもう飽きるほど飲んだでしょうに。この世の終わりみてぇな顔して飲んでるお客がいたんじゃあ、他のお客が寄りつけやしやせん。もう出やしょう」
「おめぇなぁ――」
ボソボソ、と何か毒づかれたが、聞き流した。高弥は店主に首を向ける。
「お代はまだでござんすか」
「いや、先にたんまりもらってるよ」
それを聞いて安心した。高弥も持ち合わせはあまりないのだ。
「そうでしたか。お世話様でございやす」
高弥は後ろに回り込んで元助の背を押した。
「さ、行きやしょう」
遠慮なく、ドンドン、と背を叩く。鬱陶しいのだろう。元助はサッと立ち上がって店を出ていった。案外しっかりとした足取りだと思った。
気をつけてな、という店主に頭を下げ、高弥も縄暖簾を潜った。
――しかし、その少し先を歩いたところで元助はすぐに塀にもたれかかって座り込んだ。平気そうだと思ったが、そうでもなかった。
「本当に、一体どれだけ飲んだらこうなるんで」
仕方なく、高弥も元助の隣に座り込んだ。
これから暗くなる。夜道は危ない。千鳥足の元助と海に落ちたのでは本当に何をしに来たのかわからない。ここは素直に日の出と共に急いで戻った方がいいだろう。
もし間に合わなかったとしても、飯を炊くだけなら平次だけでもできる。握り飯を握るのは、志津やていが手伝ってくれるだろうか。
ていや志津に断りなく飛び出してきて、どう思われているだろう。もしかすると、あの勢いのまま板橋まで帰ったのではないかと、もう戻ってこないと思われていたりするだろうか。
はぁ、と大きくため息をついて肩を落とすと、薄暗い中で元助が高弥に目を向けているのがわかった。
「元助さん、夜道は危ねぇから、日が昇り始めたら品川まで歩きやしょう」
そう言うと、元助は顔をしかめた。
「俺は彦佐さんに後を託した」
「彦佐さんは旅籠の番頭になんざ向いちゃおりやせん。いくら旦那さんの弟だからって、長年勤めた元助さんの代わりになんてなれやせん」
はっきり言ってやった。すると、元助は高弥から目をそらした。そして、黙り込む。
高弥はそんな元助に訊ねた。
「旦那さんにそっくりで、女将さんが嬉しそうに見えたから、あやめ屋にずっといてほしいと思ったんでしょうか。そのためにわざわざ居場所を空けたと、そういうことなんですかい」
それでも、しばらくは何も返答がなかった。どこかから酔客の賑やかな笑い声が響く。
どれくらいか経って、ボソボソと隣から籠った声がした。
「彦佐さんには行く当てがねぇんだよ」
「え――」
「実家との縁は切れてるんだとよ。僅かばかり貯めていた金もダチだと思ってたやつに盗られて、もう何もかもすっからかんだから、いっそ海に落ちてもいいかと思って海を見に東海道を歩いていた時に、兄貴のことを思い出して、それで最後の墓参りがてらあやめ屋に寄ったんだとよ」
そんな目に遭ったから、ああいう態度なのだろうか。
どこか人を信じていない、遠くから莫迦にした目を向けているような感じを受ける。――いや、その前にそんな話は作り話ではないのか。
一度は身投げまで考えた男が、軽薄に笑い、若い娘にちょっかいをかけるようなことをするだろうか。志津に馴れ馴れしいと浜が言っていたではないか。
「元助さんはそれを信じなすったんで」
高弥は信じない。何かが違うと思う。
しかし、元助は疑うことをしなかった。それはていや平次と同じ、あの顔に惑わされているのではないか。
元助は高弥の言葉に身じろぎした。まさか嘘だなどと考えたこともなかったのか。
「元助さんがいなくなって、彦佐さんには飯と寝床があるわけでございやす。でも、それが元助さんの旦那さんへの恩返しなんでござんすか。旦那さんに返しきれなかった恩を女将さんに返しているもんだとばかり思っておりやした。先に言いやしたが、女将さんは元助さんがいなくなってから、気落ちして寝込んでおりやす。これで恩返しでござんすか」
痛いところを突いたつもりだった。ただ、それは元助を責めるためではない。わかってほしかっただけだ。元助のしたことがかならずしもていのためにはならない、と。
元助は、うるせぇな、とだけ吐き捨てた。高弥の方を向かない。
「今日はここで明るくなるのを待つしかありやせん。でも、ここじゃあまともに寝れやしやせん。それからおれ、飯を食わずに飛び出して来たんで、腹が減りやした。でも、我慢しやす」
「知るか」
「元助さんに会えたんで、ひとまずほっとしておりやす」
腹も減ったが、それでも気持ちが随分と楽になった。だから素直なことが言えた。それが元助には据わりが悪かったりもしたのだろう。嫌そうに言う。
「――なんで俺が高輪にいるってわかった」
「元助さん行きつけの湯屋で、常連の兄さんたちに元助さんを見かけたら教えてほしいってお願いしておきやした」
すると、元助がチッと舌打ちした。そんな元助に高弥は笑って返す。
「元助さんよりおれの方が上手だったってことで」
それを言った途端、拳骨が降ってきた。痛いのに、妙な笑いが込み上げてくる。
「女将さんやあやめ屋にとって何が一番なのか、ちゃんと考えやしょう。ほら、もうすぐ二十六夜でござんす。忙しくなりやす」
「俺は戻らねぇと言っただろうが。何度も言わせるんじゃねぇ」
どうしてこう意固地なのだろう。それは齢を重ねたせいで、高弥もまたこれくらいの年になれば認められないことも多くなるのだろうか。元助と同じ年頃の高弥の父もある意味では頑固だから、そうなのかもしれない。
「でも、とりあえず夜が明けたら品川宿へは戻りやしょう。あ、そうだ、女将さんに顔を見せるにしても、今の元助さんはよれよれだから、なりを整えるついでに、つぐみ屋の利兵衛に頼んでしばらく厄介になるってぇのはどうですかい」
そうとでも言わないと、ここでこのまま夜通し元助と押し問答することになりそうだった。
「ふざけてんのか、おめぇはよ」
「大真面目でござんす。なんですか、元助さんは女将さんのことが気にならねぇってぇんですか」
結局のところ、それを言ったら元助は何も言えないのだ。
元助なりに悩んだ結論であっても、悪いけれどそれを否定する。ていに会って、そうしてもう一度ちゃんと話し合うべきなのだ。
多くを喋りたがらない元助だが、忌々しげに吐き捨てた。
「おめぇはどうしてそう図太ぇんだ。本当に、親の顔が見てみてぇ」
「板橋仲宿のつばくろ屋へ行けばいつでも見られやす。お泊りになってくだすっても結構でござんす。美味ぇ飯が出やす」
ハハ、と笑い飛ばした。
元助はそっぽを向いたが、高弥は眠気を吹き飛ばすために喋り続けた。元助は無視してやり過ごすのかと思えば、時折は返事をした。それが高弥には嬉しかった。
0
あなたにおすすめの小説
本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います
こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。
※「小説家になろう」にも投稿しています
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
婚約者の幼馴染?それが何か?
仏白目
恋愛
タバサは学園で婚約者のリカルドと食堂で昼食をとっていた
「あ〜、リカルドここにいたの?もう、待っててっていったのにぃ〜」
目の前にいる私の事はガン無視である
「マリサ・・・これからはタバサと昼食は一緒にとるから、君は遠慮してくれないか?」
リカルドにそう言われたマリサは
「酷いわ!リカルド!私達あんなに愛し合っていたのに、私を捨てるの?」
ん?愛し合っていた?今聞き捨てならない言葉が・・・
「マリサ!誤解を招くような言い方はやめてくれ!僕たちは幼馴染ってだけだろう?」
「そんな!リカルド酷い!」
マリサはテーブルに突っ伏してワアワア泣き出した、およそ貴族令嬢とは思えない姿を晒している
この騒ぎ自体 とんだ恥晒しだわ
タバサは席を立ち 冷めた目でリカルドを見ると、「この事は父に相談します、お先に失礼しますわ」
「まってくれタバサ!誤解なんだ」
リカルドを置いて、タバサは席を立った
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
今さら「間違いだった」? ごめんなさい、私、もう王子妃なんですけど
有賀冬馬
恋愛
「貴族にふさわしくない」そう言って、私を蔑み婚約を破棄した騎士様。
私はただの商人の娘だから、仕方ないと諦めていたのに。
偶然出会った隣国の王子は、私をありのまま愛してくれた。
そして私は、彼の妃に――。
やがて戦争で窮地に陥り、助けを求めてきた騎士様の国。
外交の場に現れた私の姿に、彼は絶句する。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。