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それから
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ていは二階にいて、あまり下へ降りてこない。梯子段を使うにはどうしても帳場にいる彦佐の目に入ってしまうので、高弥は台所の戸に隙間を空け、彦佐が厠に立った時を見計らっていくことにした。
とはいえ、料理もこなさねばならず、あちこち気にせねばならぬこともあり、高弥はいっぱいいっぱいであった。
「――高弥、なあ、聞いてんのか」
平次に声をかけられ、ハッとしてまな板から顔を上げる。すると、平次が呆れ顔を向けていた。
「お前、ちっと変だぞ」
この状況でいつも通りなわけがないだろう。そんなことくらい、誰にだってわかるはずだ。あえてそんなことを言わなくたっていいものを、と高弥は内心で腐った。
「そりゃあ、女将さんのことだって気がかりで、色々と考えちまいやす」
「まあ、そりゃあそうだけど――」
元助を捜している。けれど、平次に手伝ってくれとは言っていない。平次には高弥がこそこそしているように思えるだろうか。
その時、カタリと帳場で音がした。彦佐が立ち上がったのだ。ひとつ伸びをすると、そのまま離れていく。
「平次さん、おれ、女将さんの具合を訊いてきやす。飯の量も加減しねぇと全部食べられねぇんじゃねぇかと」
平次の返事も待たず、平次は一気に二階へと駆け上がった。
普段は踏み入ることのない女部屋だ。前に入ったのは、火事場のどさくさだっただろうか。
高弥は襖を前にして声をかける。
「女将さん、高弥でござんす。お加減は如何でしょう」
すると、中から衣擦れの音がして、ていの声が返る。
「うん、そんなに悪くはないんだよ。気にしなくていいからね」
襖を隔てているせいもあり、ていの声はいつも以上に弱々しく、遠く感じられる。
これで悪くないなどと言われても、強がりにすらならない。
「あの――」
どう言おうか考えた。
ていに元助を捜していると、連れ戻すつもりだと告げたら、少しは気が楽になるだろうか。そもそも、ていは元助がいない不安から塞いでいるのか、元助がいなくなったのは己のせいだと、己の不甲斐なさを責めているのか、どちらなのだろう。
言葉に詰まった高弥だったけれど、その気配が襖の裏から消えなかったので、ていは渋々だとしても襖を開けて顔を見せてくれた。
顔色は白く、唇は色を失って荒れていた。目の下に隈も浮いている。
「女将さん、その、夕餉は召し上がれそうですか」
すると、ていは目元に皺を寄せ、なんとかして笑った。
「軽くでいいよ。すまないねぇ」
やはり、こんな姿は見ていて悲しい。高弥は恐る恐る訊ねた。
「女将さん、おれ、元助さんを連れ戻してぇと思いやす。構いやせんか」
すると、ていはハッと目を見開き、それから見る見るうちにしおれた。
「元助には愛想を尽かされたんだよ。ずぅっと頼りっぱなしで、本当におんぶに抱っこだったね。あたしはいつもそうさ。肝心な時に思うことが言えなくて、迷ってばかりいて――」
わかっていないのは元助も、ていも同じ。傍目にはそれが容易くわかるのに、互いには見えないものなのか。
高弥は軽く息をついた。そうして、なるべくていを傷つけないように言葉を選びながら言った。
「女将さん、あの火事の時、元助さんはここから逃げやせんでした」
ていは、実った稲穂のように項垂れるばかりだ。それでも、高弥はゆっくりと語った。
「すぐそこまで火が迫っていても逃げなかったお人が、急に愛想を尽かすなんて、そんなのあるわけねぇと思いやす」
むしろ、元助はていに頼られていたかったのではないだろうか。ていの役に立って、このあやめ屋を支えていけることが元助にとっての喜びであったと、高弥は思っている。
「元助さんはあの通り不器用なお人なんで、女将さんのためを思ってしたことが裏目に出ちまうこともあるんでしょうけど、でも、頼られて嫌だったなんてこたぁないはずでござんす」
「そうだといいけど、それなら、なんで――」
ていの目にじんわりと涙が浮かぶ。高弥はそれを力強く笑顔で受け止めた。
「元助さんの心をおれが語っちゃあいけやせん。そこは本人から聞きやしょう。おれ、元助さんを捜して女将さんの前に引っ張ってきやす」
「高弥――」
元助がいなくなっても彦佐がいればいい、と平気な顔をしていたら、高弥もこのあやめ屋を出ていった。けれど、ていはこれまで支えてくれた元助に感謝している。必要としている。
それを感じて、高弥は心底ほっとしたのだった。
――この時、高弥が梯子段を下りる前に物音がした。もしかすると、誰かがそこにいたのだろうか。
しかし、聞かれて困ることはない。そう思い直して高弥は堂々と下りた。帳場格子の中の彦佐は高弥の方を向かなかった。高弥のことがいちいち気に入らないようだ。
これは、本格的に衝突することになるかもしれない。
その日の夕餉にはていも下りてきて皆と一緒に食べた。
ただ、彦佐の機嫌が悪かった。元助はいつも仏頂面で愛想を振り撒かずに黙々と食べていただけでも、いつもそうであったから気にならない。陽気に振る舞う彦佐が急に無口になると、ていや平次がハラハラしているのがわかった。
機嫌を損ねたのは多分、高弥の行いなのだが、皆にはそれがわからない。彦佐も高弥が自分を追い出して元助を戻そうとしているとは言いたくないのだろう。だからただ黙って食べていた。
せっかくの膳が、これではちっとも美味くなかった。
とはいえ、料理もこなさねばならず、あちこち気にせねばならぬこともあり、高弥はいっぱいいっぱいであった。
「――高弥、なあ、聞いてんのか」
平次に声をかけられ、ハッとしてまな板から顔を上げる。すると、平次が呆れ顔を向けていた。
「お前、ちっと変だぞ」
この状況でいつも通りなわけがないだろう。そんなことくらい、誰にだってわかるはずだ。あえてそんなことを言わなくたっていいものを、と高弥は内心で腐った。
「そりゃあ、女将さんのことだって気がかりで、色々と考えちまいやす」
「まあ、そりゃあそうだけど――」
元助を捜している。けれど、平次に手伝ってくれとは言っていない。平次には高弥がこそこそしているように思えるだろうか。
その時、カタリと帳場で音がした。彦佐が立ち上がったのだ。ひとつ伸びをすると、そのまま離れていく。
「平次さん、おれ、女将さんの具合を訊いてきやす。飯の量も加減しねぇと全部食べられねぇんじゃねぇかと」
平次の返事も待たず、平次は一気に二階へと駆け上がった。
普段は踏み入ることのない女部屋だ。前に入ったのは、火事場のどさくさだっただろうか。
高弥は襖を前にして声をかける。
「女将さん、高弥でござんす。お加減は如何でしょう」
すると、中から衣擦れの音がして、ていの声が返る。
「うん、そんなに悪くはないんだよ。気にしなくていいからね」
襖を隔てているせいもあり、ていの声はいつも以上に弱々しく、遠く感じられる。
これで悪くないなどと言われても、強がりにすらならない。
「あの――」
どう言おうか考えた。
ていに元助を捜していると、連れ戻すつもりだと告げたら、少しは気が楽になるだろうか。そもそも、ていは元助がいない不安から塞いでいるのか、元助がいなくなったのは己のせいだと、己の不甲斐なさを責めているのか、どちらなのだろう。
言葉に詰まった高弥だったけれど、その気配が襖の裏から消えなかったので、ていは渋々だとしても襖を開けて顔を見せてくれた。
顔色は白く、唇は色を失って荒れていた。目の下に隈も浮いている。
「女将さん、その、夕餉は召し上がれそうですか」
すると、ていは目元に皺を寄せ、なんとかして笑った。
「軽くでいいよ。すまないねぇ」
やはり、こんな姿は見ていて悲しい。高弥は恐る恐る訊ねた。
「女将さん、おれ、元助さんを連れ戻してぇと思いやす。構いやせんか」
すると、ていはハッと目を見開き、それから見る見るうちにしおれた。
「元助には愛想を尽かされたんだよ。ずぅっと頼りっぱなしで、本当におんぶに抱っこだったね。あたしはいつもそうさ。肝心な時に思うことが言えなくて、迷ってばかりいて――」
わかっていないのは元助も、ていも同じ。傍目にはそれが容易くわかるのに、互いには見えないものなのか。
高弥は軽く息をついた。そうして、なるべくていを傷つけないように言葉を選びながら言った。
「女将さん、あの火事の時、元助さんはここから逃げやせんでした」
ていは、実った稲穂のように項垂れるばかりだ。それでも、高弥はゆっくりと語った。
「すぐそこまで火が迫っていても逃げなかったお人が、急に愛想を尽かすなんて、そんなのあるわけねぇと思いやす」
むしろ、元助はていに頼られていたかったのではないだろうか。ていの役に立って、このあやめ屋を支えていけることが元助にとっての喜びであったと、高弥は思っている。
「元助さんはあの通り不器用なお人なんで、女将さんのためを思ってしたことが裏目に出ちまうこともあるんでしょうけど、でも、頼られて嫌だったなんてこたぁないはずでござんす」
「そうだといいけど、それなら、なんで――」
ていの目にじんわりと涙が浮かぶ。高弥はそれを力強く笑顔で受け止めた。
「元助さんの心をおれが語っちゃあいけやせん。そこは本人から聞きやしょう。おれ、元助さんを捜して女将さんの前に引っ張ってきやす」
「高弥――」
元助がいなくなっても彦佐がいればいい、と平気な顔をしていたら、高弥もこのあやめ屋を出ていった。けれど、ていはこれまで支えてくれた元助に感謝している。必要としている。
それを感じて、高弥は心底ほっとしたのだった。
――この時、高弥が梯子段を下りる前に物音がした。もしかすると、誰かがそこにいたのだろうか。
しかし、聞かれて困ることはない。そう思い直して高弥は堂々と下りた。帳場格子の中の彦佐は高弥の方を向かなかった。高弥のことがいちいち気に入らないようだ。
これは、本格的に衝突することになるかもしれない。
その日の夕餉にはていも下りてきて皆と一緒に食べた。
ただ、彦佐の機嫌が悪かった。元助はいつも仏頂面で愛想を振り撒かずに黙々と食べていただけでも、いつもそうであったから気にならない。陽気に振る舞う彦佐が急に無口になると、ていや平次がハラハラしているのがわかった。
機嫌を損ねたのは多分、高弥の行いなのだが、皆にはそれがわからない。彦佐も高弥が自分を追い出して元助を戻そうとしているとは言いたくないのだろう。だからただ黙って食べていた。
せっかくの膳が、これではちっとも美味くなかった。
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