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それから
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朝餉の場でも皆、口数は少なかった。話が弾むはずもない。
それなのに、彦佐だけがよく喋った。
「――でな、その時に俺は思ったんだよ」
どうでもいい話だった。高弥は、へぇ、と薄い返事をした。
皆が暗いから、場を盛り上げようと気を遣っていると受け取るべきか。不愛想で目つきの悪い番頭がいなくなって清々したと清々しく思っているのかはわからない。
彦佐は今日から客ではなくなる。仮番頭としてどの程度の仕事ができるのか、まずはそれを示して欲しいところだ。
高弥は朝餉の片づけを終えると、岡持桶と醤油入れの徳利とを抱えて出かけた。
人にぶつからないように気をつけながらも走り、八百晋まで駆けつける。いつもの高弥ならば旬の野菜のことばかり話すくせに、今日ばかりは野菜をそっちのけにして晋八に訊ねた。
「あのっ、あやめ屋の元助さんを見やせんでしたかっ」
「へっ」
晋八が驚いたのも無理はない。由宇も何事かと奥から出てきた。
「元助さんがいないみたいな言い方ね」
「いねぇんでござんす。暇乞いをして出ていきやした。で、連れ戻すために探しておりやす」
早口で言うと、八百晋親子は目を剥いた。
「元助さんがっ」
「なんだって、そんなことになったんでぇ」
あまり明け透けに言うのもどうなのかと思い、高弥はそこで息を吸って気持ちを落ち着かせた。そして、短く言う。
「ちっとした行き違いがあったんで。あの、政吉さんはどちらでござんすか」
政吉になら話を聴いてほしい。今日も天秤棒を担いであちこちしているのだろうけれど。
「あの人なら北本宿の方に行ったわ」
由宇が政吉を『あの人』と呼ぶのを冷やかしている場合でもなかった。
「北でございやすね。ありがとうございやすっ」
そのまま北へ向けて走ろうとした高弥であったが、岡持桶を晋八に手渡した。
「今日の分、何か見繕ってください。帰りに取りにきやすっ」
「お、おう。こっちも元助さんが通りかからねぇか気にしておくぜ」
「頼みやすっ」
徳利だけを抱え、高弥は北へ向けて急いだ。途中の味噌醤油問屋に徳利を渡し、ここでも帰りに取りに来ると言った。身軽になった高弥はさらに北へ向けて走る。
去年の暮れにこの辺りはひどい火事に見舞われ、立て直されたところが多いけれど、未だにその痕跡を残していた。立て直すための蓄えがなかったのか、家主もろとも焼けてしまったのかはわからない。それでも、瓦礫は取り除かれ、更地になっているのだ。しばらくすればまた歯抜けになった土地にも誰かが来るだろう。入れ替わり、立ち代わり、そうなっても品川宿という宿場町は変わらずに成り立っている。
だからもし、あやめ屋に何かあったとしても、品川宿にとっては些細なことである。あやめ屋がなくなっても、旅籠屋は溢れんばかりだ。ここで唯一無二とは行かない。
それでも、あやめ屋の皆にとっては掛け替えのない宿なのだ。絶対に守らなくてはならない。それを元助ははき違えているから困る。
早くそれに気づいてほしい。
余計なことばかり考えていると周りが見えなくなる。ここで政吉と入れ違いになってはいけない。街道を急ぎながらも高弥は棒手振の顔は見るようにしていた。政吉らしき男がいないまま、気づけば北馬場町に差しかかっている。
ここには利兵衛のつぐみ屋があるのだ。ここまで来たのだから、つぐみ屋の皆にも知らせておいた方がいいかもしれない。特に壮助は時折、東海寺へ行く。東海寺には想念がいるのだ。
想念は高弥にとっての切り札である。元助が高弥の言うことをまるで聞き入れてくれなかったとしても、悪友の想念の話ならば多少なりとも聞いてくれるかもしれない。
ただし、想念も難しい僧侶であり、最初から神頼みのようにして頼りにしては力を貸してくれぬような気がするのだ。だから、想念は切り札なのである。どうしようもなくなったら頼る。
ハッ、ハッと息を弾ませて北馬場町の角を折れる。久しぶりに見るつぐみ屋は、以前となんら変わりなく見えた。小ぢんまりとしているけれど、あたたかみが伝わる。
高弥は勢いそのままに暖簾を潜った。
「御免ください、高弥でござ――」
言いかけて、固まった。すぐそこの板敷の上には正座した壮助がおり、壮助の前には天秤棒を下した政吉がいたのだ。
「あぁっ」
と、高弥は大声を上げた。思わず政吉を指さしてしまったほどだ。
「な、なんでぇ」
政吉がぎょっとしたのも当然である。
「高弥坊ちゃん、政吉さんをお探しだったのでしょうか」
穏やかに言う壮助に、高弥は何度も何度もうなずいた。先ほどの高弥の叫び声を聞きつけた利兵衛とりょう、丁稚の梅吉が中から出てくる。
利兵衛は相変わらず目も鼻も口も大きく目立つ顔をしており、りょうは麗しかった。この夫婦、見た目はちぐはぐだが仲はいい。
「高弥坊ちゃんではございませんか。お久しぶりでございます。お元気そうで何よりですが――」
利兵衛は探るような目を高弥に向けた。また何かあったのかと心配してくれている。昨年は散々な姿ばかりを見せていたので余計にだ。
「丁度良かった、利兵衛も、皆に聴いてもらいてぇ話なんだ」
「はい、なんでしょうか。中にお上がりください」
「いや、急ぐからここでいいよ」
そう言うと、利兵衛たちも壮助と同じように板敷の上に座った。政吉も忙しい身なので長く引き留めていてはいけない。
月代の辺りを掻きつつ、政吉は問う。
「なあ、あやめ屋でなんかあったんだろ。それも、あの彦佐さん絡みのことじゃねぇか」
少々の事情を知る政吉は、話す前からそれを察していた。政吉なりに感じることはあったのだろう。
高弥はうなずく。
「へい。彦佐さんが代わりをしてくれるからって言って、元助さんが女将さんに暇乞いをして出ていきやした」
その途端に、はぁあっ、と皆の声が旅籠を揺らすほどに響いた。
当然、一番驚いたのは政吉である。握っていた天秤棒を放り出し、高弥の両肩をつかんでガクガクと揺さぶった。
「なんだそりゃあっ。あの元助さんがそんな、あやめ屋を出ていくなんて、そんな、そんなの――っ」
揺さぶられ過ぎて目が回ってきた。動揺する政吉を、壮助がやんわりと止めてくれた。
「政吉さん、落ち着いてください。それでは坊ちゃんが話せませんよ」
「あ、ああ」
高弥は気を取り直して語る。
「元助さんのことだから、旦那さんの弟の彦佐さんがあやめ屋にいられるように場所を空けたんじゃねぇかって思いやす。おれも止めやしたけど、力じゃ勝てねぇし、口で言っても駄目で――」
言いながら気落ちした。どうして昨日、あそこでもっと食らいつけなかったのかと。
せめて元助がどこへ行ったのかだけでも把握しておかなくてはならないのに。
「政吉さん、元助さんがあやめ屋以外で行くとしたらどこでしょう。おれ、ちっとも思いつきやせん」
元助が出かけるのは風呂と墓参り、この二つである。その他には見当もつかないのであった。
政吉もうぅんと唸る。
「元助さんが行く当てなんて、正直言ってねぇと思うぜ。仲がいいのも想念様くれぇじゃねぇのか」
「想念様を頼って東海寺へって、元助さんが出家したってことですかいっ」
似合わない。すごく似合わない。
想念以上にらしくない僧侶になってしまう。その前に、あのひねくれた男が御仏の教えに沿って生きられるかというと、まず無理だろう。ケッと吐き捨てては破門されそうだ。
皆、そう思い至ったのだろうか。
「それは――ないと思いますが」
控えめに壮助が言った。高弥もそう思う。
「でも、元助さんが行くところなんて、湯屋か寺しかねぇ」
高弥がぼやくと、利兵衛が何かに思い当たったようだ。
「長年同じ湯屋に通えば、嫌でも顔見知りができるものでございますよ。元助さんがよく行かれる湯屋に何か手がかりがあるかもしれません」
「旦那さんの墓にもしょっちゅう参ってたから、そこの住職のところにもなるべく顔を出して訊いてみるといいかもな。俺もあっちの方に行ったらなるべく顔を出してみる」
利兵衛と政吉の案に高弥は救われたような心持ちがした。手がかりはきっとある。ていの亭主の墓がこの品川にある以上、それほど遠くへは行かないのではないかと思いたい。
「おれも湯屋に行って訊ねてみやす」
元助は朝風呂が好きだった。元助が見つかるまで、なるべく早い頃合に行こう。
皆、それぞれにできることを出し合いながら別れた。政吉とは同じ方角に戻るのかと思ったけれど、まだ他にも回るところがあるとのことで、高弥だけが徒歩新宿に向かう。頭の中は元助をどうすべきか、そのことで頭がいっぱいであり、醤油を受け取るのを忘れて通り過ぎてしまい、慌てて戻るという失態をやらかした。
八百晋ではつぐみ屋でのことを晋八と由宇にも話した。
「そうかぁ。元助さんがいねぇあやめ屋なんて、大根を入れ忘れたおでんと一緒だからな。早く戻ってきてもらわねぇとな」
晋八の例えは、他の人からすればわかりにくいものかもしれないけれど、高弥には何が言いたいのかよくわかる。大事な、肝心なはずのものがないと言いたいのだ。
元助のいないあやめ屋も、大事なものが抜け落ちている。
「――うちの人もあやめ屋が心配でしょうし、きっと力になりたいはずよ」
由宇も政吉の気持ちを察し、そうしたことを言う。
「へい。なんとかして今を乗り越えて、元助さんにはあの仏頂面で帳場に座っていてもらいやす」
力いっぱい言うと、高弥は野菜の詰まった岡持桶を受け取った。醤油の徳利と併せ持つ。これくらい平気だ。
「じゃあ、またっ」
去りゆく高弥を、二人も心配そうに見送ってくれた。
道草をしてしまったから、急いで戻らねばならない。けれど、あやめ屋の看板が見えてくると、どうしても考えてしまう。いつもあの看板と暖簾を出すのが元助の仕事であった。ていの亭主が書いた看板を、元助はいつも大事に抱えて出した。それだけはいつでも人任せにはしなかった。
高弥は手前で立ち止まると、ふぅ、とひとつ息をつき、まぶたを閉じる。こうして一度頭を切り替え、あやめ屋の暖簾を潜った。
「只今戻りやした」
すると、すぐに目に入るのは、帳場に座っている彦佐である。懐手をしてふんぞり返っている。
「ああ、ご苦労さん」
鷹揚に笑ってみせる。渋み走った顔立ちで愛想が良い。元助よりはもしかすると客受けがいいかもしれないが、番頭の仕事は愛想を振り撒くだけではない。奉公人をまとめ上げ、宿を取り仕切ってこそだ。
ただ、それでもていは亭主によく似た弟がそこに座っていてくれたら嬉しいだろうか。そのせいで元助がいなくなったとしても。
そんなふうに考えると胃の腑が縮む。やめよう。
「へい」
低く答え、高弥は台所へ戻った。ここが一番落ち着くと改めて思う。
「おかえり」
平次が声をかけてきた。そうして、高弥の顔を色を窺うようにしてつぶやく。
「政きっつぁんには会ったのか」
八百晋に出かけたのだから、顔を合わせたと思ったのだろう。もちろん元助のことを話したはずだということも容易く予測できる。
高弥はうなずいた。
「へい、お会いしました。元助さんのことも伝えやした。どこにいるのかわかりやせんが、気にしておいてくれるそうで」
そっか、と平次は言った。高弥が思うほど、平次は苦しげではない。もしかすると、まだ軽く受け止めているのだろうか。元助はそのうち戻ってくると。
今はこの件を語り合っても仕方がない。高弥も心が磨滅するのは避けたかった。
平次はやはり、彦佐がずっとここにいることも嬉しいのだ。元助とどちらを選ぶのかという問いかけを平次にするのはひどく酷なことなのかと、高弥もどうしていいのかわからなくなる。
彦佐は彦佐であって、ていの亭主ではないと、そんなことはいい加減にわかっているはずなのに。そこに何を期待するのだ。
「――平次さん、今日は揚げ茄子にしやしょうか」
「うん、そうだな」
この話をしたくないのはきっとお互い様なのだ。
平次は、高弥にとっても仲間で、友である。共に過ごした時は少ないとしても、一年と少し、苦楽を共にしたと思っている。
だからこそ、ひとつの事柄に対し、別々の、それも真逆の捉え方をすることもあるのだと認めるのは悲しい。
まったく同じであるはずもない。最初から似たところもなかった二人であるのだ。むしろ、近頃は平次の方が高弥に引っ張られるようにしてこちら側に沿ってくれていた気がする。
時折こうしたずれもある。そんなことはわかっている。同じ家で育った兄妹の福久でさえも違うのだ。ただ、その違いが致命的なことであった時、高弥はそれでも平次と共にいられるだろうか。
今になってそんな不安を抱いてしまう。
当たり前であった場が崩れ、すべてのことが当たり前ではなくなるのだ。
これ以上失う前に、高弥はやるべきことをやり尽くさねばならない。
それなのに、彦佐だけがよく喋った。
「――でな、その時に俺は思ったんだよ」
どうでもいい話だった。高弥は、へぇ、と薄い返事をした。
皆が暗いから、場を盛り上げようと気を遣っていると受け取るべきか。不愛想で目つきの悪い番頭がいなくなって清々したと清々しく思っているのかはわからない。
彦佐は今日から客ではなくなる。仮番頭としてどの程度の仕事ができるのか、まずはそれを示して欲しいところだ。
高弥は朝餉の片づけを終えると、岡持桶と醤油入れの徳利とを抱えて出かけた。
人にぶつからないように気をつけながらも走り、八百晋まで駆けつける。いつもの高弥ならば旬の野菜のことばかり話すくせに、今日ばかりは野菜をそっちのけにして晋八に訊ねた。
「あのっ、あやめ屋の元助さんを見やせんでしたかっ」
「へっ」
晋八が驚いたのも無理はない。由宇も何事かと奥から出てきた。
「元助さんがいないみたいな言い方ね」
「いねぇんでござんす。暇乞いをして出ていきやした。で、連れ戻すために探しておりやす」
早口で言うと、八百晋親子は目を剥いた。
「元助さんがっ」
「なんだって、そんなことになったんでぇ」
あまり明け透けに言うのもどうなのかと思い、高弥はそこで息を吸って気持ちを落ち着かせた。そして、短く言う。
「ちっとした行き違いがあったんで。あの、政吉さんはどちらでござんすか」
政吉になら話を聴いてほしい。今日も天秤棒を担いであちこちしているのだろうけれど。
「あの人なら北本宿の方に行ったわ」
由宇が政吉を『あの人』と呼ぶのを冷やかしている場合でもなかった。
「北でございやすね。ありがとうございやすっ」
そのまま北へ向けて走ろうとした高弥であったが、岡持桶を晋八に手渡した。
「今日の分、何か見繕ってください。帰りに取りにきやすっ」
「お、おう。こっちも元助さんが通りかからねぇか気にしておくぜ」
「頼みやすっ」
徳利だけを抱え、高弥は北へ向けて急いだ。途中の味噌醤油問屋に徳利を渡し、ここでも帰りに取りに来ると言った。身軽になった高弥はさらに北へ向けて走る。
去年の暮れにこの辺りはひどい火事に見舞われ、立て直されたところが多いけれど、未だにその痕跡を残していた。立て直すための蓄えがなかったのか、家主もろとも焼けてしまったのかはわからない。それでも、瓦礫は取り除かれ、更地になっているのだ。しばらくすればまた歯抜けになった土地にも誰かが来るだろう。入れ替わり、立ち代わり、そうなっても品川宿という宿場町は変わらずに成り立っている。
だからもし、あやめ屋に何かあったとしても、品川宿にとっては些細なことである。あやめ屋がなくなっても、旅籠屋は溢れんばかりだ。ここで唯一無二とは行かない。
それでも、あやめ屋の皆にとっては掛け替えのない宿なのだ。絶対に守らなくてはならない。それを元助ははき違えているから困る。
早くそれに気づいてほしい。
余計なことばかり考えていると周りが見えなくなる。ここで政吉と入れ違いになってはいけない。街道を急ぎながらも高弥は棒手振の顔は見るようにしていた。政吉らしき男がいないまま、気づけば北馬場町に差しかかっている。
ここには利兵衛のつぐみ屋があるのだ。ここまで来たのだから、つぐみ屋の皆にも知らせておいた方がいいかもしれない。特に壮助は時折、東海寺へ行く。東海寺には想念がいるのだ。
想念は高弥にとっての切り札である。元助が高弥の言うことをまるで聞き入れてくれなかったとしても、悪友の想念の話ならば多少なりとも聞いてくれるかもしれない。
ただし、想念も難しい僧侶であり、最初から神頼みのようにして頼りにしては力を貸してくれぬような気がするのだ。だから、想念は切り札なのである。どうしようもなくなったら頼る。
ハッ、ハッと息を弾ませて北馬場町の角を折れる。久しぶりに見るつぐみ屋は、以前となんら変わりなく見えた。小ぢんまりとしているけれど、あたたかみが伝わる。
高弥は勢いそのままに暖簾を潜った。
「御免ください、高弥でござ――」
言いかけて、固まった。すぐそこの板敷の上には正座した壮助がおり、壮助の前には天秤棒を下した政吉がいたのだ。
「あぁっ」
と、高弥は大声を上げた。思わず政吉を指さしてしまったほどだ。
「な、なんでぇ」
政吉がぎょっとしたのも当然である。
「高弥坊ちゃん、政吉さんをお探しだったのでしょうか」
穏やかに言う壮助に、高弥は何度も何度もうなずいた。先ほどの高弥の叫び声を聞きつけた利兵衛とりょう、丁稚の梅吉が中から出てくる。
利兵衛は相変わらず目も鼻も口も大きく目立つ顔をしており、りょうは麗しかった。この夫婦、見た目はちぐはぐだが仲はいい。
「高弥坊ちゃんではございませんか。お久しぶりでございます。お元気そうで何よりですが――」
利兵衛は探るような目を高弥に向けた。また何かあったのかと心配してくれている。昨年は散々な姿ばかりを見せていたので余計にだ。
「丁度良かった、利兵衛も、皆に聴いてもらいてぇ話なんだ」
「はい、なんでしょうか。中にお上がりください」
「いや、急ぐからここでいいよ」
そう言うと、利兵衛たちも壮助と同じように板敷の上に座った。政吉も忙しい身なので長く引き留めていてはいけない。
月代の辺りを掻きつつ、政吉は問う。
「なあ、あやめ屋でなんかあったんだろ。それも、あの彦佐さん絡みのことじゃねぇか」
少々の事情を知る政吉は、話す前からそれを察していた。政吉なりに感じることはあったのだろう。
高弥はうなずく。
「へい。彦佐さんが代わりをしてくれるからって言って、元助さんが女将さんに暇乞いをして出ていきやした」
その途端に、はぁあっ、と皆の声が旅籠を揺らすほどに響いた。
当然、一番驚いたのは政吉である。握っていた天秤棒を放り出し、高弥の両肩をつかんでガクガクと揺さぶった。
「なんだそりゃあっ。あの元助さんがそんな、あやめ屋を出ていくなんて、そんな、そんなの――っ」
揺さぶられ過ぎて目が回ってきた。動揺する政吉を、壮助がやんわりと止めてくれた。
「政吉さん、落ち着いてください。それでは坊ちゃんが話せませんよ」
「あ、ああ」
高弥は気を取り直して語る。
「元助さんのことだから、旦那さんの弟の彦佐さんがあやめ屋にいられるように場所を空けたんじゃねぇかって思いやす。おれも止めやしたけど、力じゃ勝てねぇし、口で言っても駄目で――」
言いながら気落ちした。どうして昨日、あそこでもっと食らいつけなかったのかと。
せめて元助がどこへ行ったのかだけでも把握しておかなくてはならないのに。
「政吉さん、元助さんがあやめ屋以外で行くとしたらどこでしょう。おれ、ちっとも思いつきやせん」
元助が出かけるのは風呂と墓参り、この二つである。その他には見当もつかないのであった。
政吉もうぅんと唸る。
「元助さんが行く当てなんて、正直言ってねぇと思うぜ。仲がいいのも想念様くれぇじゃねぇのか」
「想念様を頼って東海寺へって、元助さんが出家したってことですかいっ」
似合わない。すごく似合わない。
想念以上にらしくない僧侶になってしまう。その前に、あのひねくれた男が御仏の教えに沿って生きられるかというと、まず無理だろう。ケッと吐き捨てては破門されそうだ。
皆、そう思い至ったのだろうか。
「それは――ないと思いますが」
控えめに壮助が言った。高弥もそう思う。
「でも、元助さんが行くところなんて、湯屋か寺しかねぇ」
高弥がぼやくと、利兵衛が何かに思い当たったようだ。
「長年同じ湯屋に通えば、嫌でも顔見知りができるものでございますよ。元助さんがよく行かれる湯屋に何か手がかりがあるかもしれません」
「旦那さんの墓にもしょっちゅう参ってたから、そこの住職のところにもなるべく顔を出して訊いてみるといいかもな。俺もあっちの方に行ったらなるべく顔を出してみる」
利兵衛と政吉の案に高弥は救われたような心持ちがした。手がかりはきっとある。ていの亭主の墓がこの品川にある以上、それほど遠くへは行かないのではないかと思いたい。
「おれも湯屋に行って訊ねてみやす」
元助は朝風呂が好きだった。元助が見つかるまで、なるべく早い頃合に行こう。
皆、それぞれにできることを出し合いながら別れた。政吉とは同じ方角に戻るのかと思ったけれど、まだ他にも回るところがあるとのことで、高弥だけが徒歩新宿に向かう。頭の中は元助をどうすべきか、そのことで頭がいっぱいであり、醤油を受け取るのを忘れて通り過ぎてしまい、慌てて戻るという失態をやらかした。
八百晋ではつぐみ屋でのことを晋八と由宇にも話した。
「そうかぁ。元助さんがいねぇあやめ屋なんて、大根を入れ忘れたおでんと一緒だからな。早く戻ってきてもらわねぇとな」
晋八の例えは、他の人からすればわかりにくいものかもしれないけれど、高弥には何が言いたいのかよくわかる。大事な、肝心なはずのものがないと言いたいのだ。
元助のいないあやめ屋も、大事なものが抜け落ちている。
「――うちの人もあやめ屋が心配でしょうし、きっと力になりたいはずよ」
由宇も政吉の気持ちを察し、そうしたことを言う。
「へい。なんとかして今を乗り越えて、元助さんにはあの仏頂面で帳場に座っていてもらいやす」
力いっぱい言うと、高弥は野菜の詰まった岡持桶を受け取った。醤油の徳利と併せ持つ。これくらい平気だ。
「じゃあ、またっ」
去りゆく高弥を、二人も心配そうに見送ってくれた。
道草をしてしまったから、急いで戻らねばならない。けれど、あやめ屋の看板が見えてくると、どうしても考えてしまう。いつもあの看板と暖簾を出すのが元助の仕事であった。ていの亭主が書いた看板を、元助はいつも大事に抱えて出した。それだけはいつでも人任せにはしなかった。
高弥は手前で立ち止まると、ふぅ、とひとつ息をつき、まぶたを閉じる。こうして一度頭を切り替え、あやめ屋の暖簾を潜った。
「只今戻りやした」
すると、すぐに目に入るのは、帳場に座っている彦佐である。懐手をしてふんぞり返っている。
「ああ、ご苦労さん」
鷹揚に笑ってみせる。渋み走った顔立ちで愛想が良い。元助よりはもしかすると客受けがいいかもしれないが、番頭の仕事は愛想を振り撒くだけではない。奉公人をまとめ上げ、宿を取り仕切ってこそだ。
ただ、それでもていは亭主によく似た弟がそこに座っていてくれたら嬉しいだろうか。そのせいで元助がいなくなったとしても。
そんなふうに考えると胃の腑が縮む。やめよう。
「へい」
低く答え、高弥は台所へ戻った。ここが一番落ち着くと改めて思う。
「おかえり」
平次が声をかけてきた。そうして、高弥の顔を色を窺うようにしてつぶやく。
「政きっつぁんには会ったのか」
八百晋に出かけたのだから、顔を合わせたと思ったのだろう。もちろん元助のことを話したはずだということも容易く予測できる。
高弥はうなずいた。
「へい、お会いしました。元助さんのことも伝えやした。どこにいるのかわかりやせんが、気にしておいてくれるそうで」
そっか、と平次は言った。高弥が思うほど、平次は苦しげではない。もしかすると、まだ軽く受け止めているのだろうか。元助はそのうち戻ってくると。
今はこの件を語り合っても仕方がない。高弥も心が磨滅するのは避けたかった。
平次はやはり、彦佐がずっとここにいることも嬉しいのだ。元助とどちらを選ぶのかという問いかけを平次にするのはひどく酷なことなのかと、高弥もどうしていいのかわからなくなる。
彦佐は彦佐であって、ていの亭主ではないと、そんなことはいい加減にわかっているはずなのに。そこに何を期待するのだ。
「――平次さん、今日は揚げ茄子にしやしょうか」
「うん、そうだな」
この話をしたくないのはきっとお互い様なのだ。
平次は、高弥にとっても仲間で、友である。共に過ごした時は少ないとしても、一年と少し、苦楽を共にしたと思っている。
だからこそ、ひとつの事柄に対し、別々の、それも真逆の捉え方をすることもあるのだと認めるのは悲しい。
まったく同じであるはずもない。最初から似たところもなかった二人であるのだ。むしろ、近頃は平次の方が高弥に引っ張られるようにしてこちら側に沿ってくれていた気がする。
時折こうしたずれもある。そんなことはわかっている。同じ家で育った兄妹の福久でさえも違うのだ。ただ、その違いが致命的なことであった時、高弥はそれでも平次と共にいられるだろうか。
今になってそんな不安を抱いてしまう。
当たり前であった場が崩れ、すべてのことが当たり前ではなくなるのだ。
これ以上失う前に、高弥はやるべきことをやり尽くさねばならない。
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