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それから
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夕餉は、泊り客もいないことだから、いつもほど凝ったものを作るつもりはなかった。
それなのに、平次がやたらと張りきるから、高弥もそれに引きずられて料理することになった。
鯵の塩焼き、茄子の味噌汁、蛸と胡瓜の酢の物、豆腐田楽、沢庵漬け。
それに続いて、晩酌のための酒を徳利いっぱい買い求め、肴に塩辛を買ってある。そればかりか、納豆としらすを混ぜ、揉んだ焼き海苔を散らした磯納豆や海胆など、肴に打ってつけの珍味も用意した。
食事よりもそちらに力が入っているように思うのは、ていの亭主がそれなりに飲兵衛であったのではないかという気がした。
浜はまだ戻らず、膳を並べるのはいつもと人数こそ同じであるが、正直なところ高弥はちっとも楽しくなかった。どうしてもいつもより無口になる。
そんな高弥の気持ちをわかってくれているのは、この場では志津だけであった。
「へぇ、こいつぁ美味ぇな。二人ともまだ若ぇのに大した腕だ」
彦佐は上機嫌で飯を食べた。その食べっぷりを、ていがニコニコといつも以上に晴れやかな笑顔で見守っている。平次も彦佐に褒められて心底嬉しそうだった。
「ありがとうございやすっ」
高弥はペコリと頭を下げただけである。彦佐はよく口が回るたちらしく、この場で一番よく喋っていた。小さい頃の兄との思い出もそこには含まれており、それを面白おかしく語るのだ。ていは珍しく声を立てて笑い、平次も細い目を輝かせていた。口を開かずとも、元助までもが彦佐の話に耳を傾けているのがわかる。
皆が楽しいのなら、そこに水を差したいとは思わない。ただ、どうしても呑み込めないものがある。志津もほとんど口を利かない。けれど、時折彦佐が志津にも話を振り、それに答える程度であった。
楽しい人ではある。明るく、華があり、人を惹きつける。
そうした人には二通りあって、一方は、それを自然と、息をするようにして行う人であり、もう一方はそう見えるように考えた言動を心がけて演じる人だ。どうにも、彦佐は後者であるような気がしてしまうのは、高弥が彦佐になんの思い入れもないせいだろうか。
むしろ、彦佐がいることでていたちの様子がおかしくなるのだから、それが厭わしく、彦佐をよく思えないだけなのかもしれない。想念ならばまだしも、己はそんなにもすぐに人の本質が見抜けるような目は持ち合わせていない若造だと、高弥はあえて考えることをやめた。
翌朝、いつもならば送り出すはずの泊り客はいない。いるのは彦佐だけだ。その彦座は早朝に旅立つ素振りを見せなかった。
そうこうしているうちに明け六つ半(午前七時)。
皆で朝餉に茶漬けを啜って、しばらくしてから起きてきた。平次が甲斐甲斐しく朝餉を用意し始めたので、高弥は今日ここを訪れてくれるだろう客のために買い出しにでようとした。
その前にようやく浜が戻ってきたのである。彦佐のおかげで皆、浜がまだ戻ってきていないことにきづいていなかった。
「すみません、寝坊しちまいました」
とのことである。しかし、顔には照れ笑いが浮かんでいるだけで、反省しているのかどうかはわからない。いつもならば怒られたはずが、皆の反応は淡白である。
大雑把な浜だが、皆の様子が少し違うことに気づいただろうか。きょとんと首を傾げている。
するとそこへ彦佐を連れたていがやってきた。並ぶ二人を帳場から元助が眩しいものでも見るかのようにして眺めた。
「あら、お浜」
「女将さん、遅れてあいすみません」
おっとりと頭を下げる浜に、ていは穏やかに言った。
「いいのよ、まだお客様もいないことだし。じゃあ、またよろしくね」
彦佐はヒュウ、と軽く口笛を鳴らした。
「おていさんは優しいねぇ。奉公人たちにとっちゃあ、ここは働きやすいところだな」
そこは『義姉さん』が適当だろうに。馴れ馴れしいと思うのは、高弥だけだっただろうか。ていはそれが嫌ではないようなので、気に障るのは高弥だけなのかもしれない。
「そんなことないよ。皆よく働いてくれているからね」
と、ていは謙遜する。それから、高弥に顔を向けた。
「高弥、彦佐さんに朝餉を用意してくれるかい」
「――台所で平次さんが拵えて待っておりやす」
本当に、他の客が来るかどうかということよりも彦佐のことばかり考えて待ちわびている。
答えた高弥の顔は不機嫌に見えただろうか。彦佐がフッとかすかに笑った。
「じゃあ、ありがたく頂くぜ」
彦佐が台所へ行くと、ていは元助に言った。
「元助、後で彦佐さんを連れてあの人のお墓参りに行ってくるよ」
「ああ、旦那さんもお喜びでしょう」
元助は本気かどうかよくわからないことを口にした。力も元助にしては妙に抜けていて、覇気がない。こんなのは初めてだ。
そうだね、と笑顔でうなずいてていも台所へ続いた。中から平次の嬉しそうな声がした。それを聞いていると、胸の奥がムカムカとするような気になったので、高弥は急いで外へ出た。岡持桶を握る手に力がこもる。
顔が似ている、血が繋がっている、それはそんなにも重要なことなのだろうか。
いつもなら余所者に厳しい元助でさえ、噛みつくことをしない。凪いだ海のように穏やかだ。穏やかというよりも腑抜けていると言いたいくらいだ。
高弥はていの亭主を直接知らないから目を曇らせたりしない。彦佐はどこか油断ならないと、高弥の目にはそう映るのだ。
それは、蚊帳の外に押しやられたような寂しさから僻んでいるせいだろうか。そうとも考えたけれど、そればかりではない。口で上手く言える気はしないのだが、落ち着かない気分になるのだ。
気のせいであってくれたらいい。このままあっさりと去ったのなら、高弥の勘違いだ。そうであってほしいと思う。
じりじりと照りつける日差しの中、高弥は小難しい顔をして歩いていたことだろう。危うく八百晋の前を通り過ぎるところであった。
「高弥坊ちゃんじゃあありませんか。どちらまで行かれるのですか」
丁寧な口調にハッと顔を上げて振り返った。すると、そこにはつぐみ屋の壮助がいた。
すらりと伸びた背筋。立ち姿がなんとも様になる。小銀杏がよく似合うが、壮助ならばどんな髷でもきっと似合うのだろう。
「壮助、なんで八百晋に――」
すると、壮助は柔和な笑みを浮かべた。高弥が娘であったらときめいたかもしれない。
「政吉さんが前に振り売りに来てくだすったのですよ。そうしたら、母も大層気に入りまして。まあ、いつも贔屓にしていた店の手前もありますので、すべてというわけには参りませんが、時折は掘り出し物がないかと見に来ることはございます」
つぐみ屋の料理人は壮助の母であるりょうだ。壮助の母だけあって美人である。
「そうかぁ。政吉さんが」
その政吉は天秤棒を担いであちこちしているのかもしれない。いなかった。
店先にいるのは、晋八と由宇である。由宇は新妻であり、慣れないお歯黒が初々しい。
「今まではおれとお由宇だけだったからな。あんまり手広くはできなかったんだが、政吉が得意先を増やしてくれてら」
晋八がにこやかに言った。政吉もきっと晋八に認められたくて気張っているのだろう。
つぐみ屋は高弥との繋がりがあったから、そんな伝手でも使わない手はない。実際、八百晋の野菜はいいものだから、政吉がつぐみ屋へ行ったのはいいことだと思う。
「近いうちに高弥坊ちゃんのお顔を見に伺おうと思っていたので、ここでお会いできて丁度良かったです」
高弥よりも五つほど年上であるのに、それでも壮助はいつも丁寧だ。上辺だけでこうはいかない。
だから高弥も、壮助と話すと落ち着く。苛立っていたことを忘れ、高弥も笑顔になった。
「八百晋の野菜は美味ぇから、おりょうさんも腕の振るい甲斐があるだろうさ」
しかし、高弥は笑顔を向けたというのに、壮助はふと目を瞬かせて口元から笑みを消した。
「坊ちゃん、あやめ屋さんまでの帰り道はご一緒致しましょう」
「つぐみ屋は真逆じゃねぇか。いいよ、壮助だって暇じゃねぇんだから」
「いいんですよ。さ、今日は何にされるのですか」
と、先ほど見せた表情が嘘のようににこやかになる。高弥は晋八から艶やかな茄子と胡瓜を受け取った。茄子はこっぽりと丸みのある寺島茄子だ。
「ありがとうございやす。じゃあ、また」
岡持桶を受け取って頭を下げると、そんな高弥の手から壮助が岡持桶をもぎ取った。
「私が持ちます」
「壮助の荷物もあるだろ」
「帰りはどうせここを通るのですから、それまで八百晋さんに預かっていてもらいます。お気遣いなく」
さ、参りましょう、と壮助は高弥を急かして歩き出した。もともと歩幅が違うのだから、高弥の方が急がなくては並べない。しかし、壮助はそこも考えて歩いてくれるのだった。人に合わせるのが上手い男なのだ。
そうして、些細なことにもよく気がつく。
壮助は柔らかな口調で高弥に問うのだった。
「それで、坊ちゃん。如何なさいましたか」
「え、と――」
やはりお見通しということらしい。口ごもった高弥を、それでも壮助は優しく待っていてくれる。あやめ屋まではそう遠くはないから、二人は自然とゆっくり歩む。高弥は彦佐のことを壮助に話した。
大事な人が亡くなったら、その人にそっくりな身内が出てきたら嬉しいものなのかと。
すると、壮助はほんの少し目を細め、それからつぶやいた。
「それは人によるというところでしょうか。きっと、高弥坊ちゃんでしたら、顔が似ている別人では嬉しくもないでしょう」
「そ、そうかな」
高弥が壮助を見上げると、壮助は微笑んでうなずいた。
「坊ちゃんはお心の強いお人ですから。悲しくてもちゃんとそのお人を見送れましょう。見てくれが似ていても、他の人が代わりにならないこともよくわかっておられます。ただ――」
と、壮助は言葉を切った。それから、言いにくそうに続ける。
「皆がそうではありません。亡くした人を頼りにしていて、もう戻らないことを認められない、そんな弱さも人にはあるのだと思います」
十年も経って、まだ認めないと、認められないというのか。そんなことがあるのだろうか。
高弥は腑に落ちなかった。
「あやめ屋のご主人は、文字通り大黒柱で、皆さんを支えていらしたわけです。女将さんはご自分で物事を決めたり、人を叱るのが苦手だと前にお窺いしましたが、そうした方でしたら余計に、幻だとしてもすがりつきたくなる弱さも持ち合わせておいでなのかもしれません」
それから、ていの亭主が好きだったという塩辛を、彦佐も好きなはずだとなんの疑いも差し挟まずに思い込む平次。もともと、平次は自分を見失っては拗ねていたようなところもある。
近頃はずっと高弥といて、高弥と調子を合わせて仕事をしてきたから、平次が生まれ変わったように思えていた。けれど、人はそう根本から変わることはない。じっくりと時をかけ、磨き上げてやっと変わるのだとするのなら、平次の中にはまだ弱い心が拭い去れていないのだ。
未だに、ていの亭主のような頼りがいのある相手が導いてくれることをどこかで期待している。そんなところがまだあるということか。
どうしたらいいのかと、高弥が頭を抱えそうになった時、壮助が小さく息をついてから言った。
「私も若造に過ぎませんから、そう偉そうなことを言えたものでもございませんが、ただ、そうしたお心を抱えておられることをいけないとは思いません。人の心は千差万別。ひとつの考え方が正しいというわけではございませんから。ただ弱い心には時折、道の途中で休むことも必要なのでしょう。女将さんには今がそのお休みの時なのですよ、きっと」
ほんの一時でも、亭主が戻ってきたかのような錯覚を起こすことで、ていの抱えていた悲しみが薄らぐのなら――
平次もそうだ。親代わりだった人なのだから、高弥が思う以上の喪失感であった。
今は寄り道の途中。骨休めの時。
そのうちに彦佐は別の人で、代わりにはなり得ないということもわかるだろう。今だけ、少しだけ夢を見させてやれと、壮助はやんわりと高弥に伝えてくれたのだ。
苛々としていた心の棘が抜け、ようやくほっと息がつけた気がした。
「ありがとう、壮助。すごく気が楽になった」
本当に、今日ここで壮助に会えてよかった。壮助は苦笑いと共にかぶりを振る。
「いえ、私がこんなことを言うのも、本来はおこがましいのですが」
「いいや、壮助が言うから素直に受け取れるんだ」
ありがとうございます、と言う壮助はやはり高弥から見ても好ましい。志津が高弥以外の誰かのところに嫁に行くとするなら、まったく知らない誰かよりは壮助の方が幾分納得もできるかと思えた。敗北感しかない。
高弥は岡持桶を壮助から受け取る。
「じゃ、ここまででいいよ。利兵衛たちにもよろしくな」
「わかりました。またいつでもおいでください」
颯爽ときびすを返す壮助を、茶屋の小女たちでさえも見つめてきゃあきゃあと騒いでいた。見てくれだけではなく、あのゆとりが高弥には足りていない。男としてはまだまだだと気を引き締め直し、高弥はあやめ屋へと戻るのだった。
ていや平次の心が定まらないのは仕方のないこと。あの二人はそうした弱さも持つのは以前からわかっている。それを己の考えに沿うように嵌めるのは、二人のためではなく己のためにすることかもしれない。そうではなく、二人が気づくように見守りながら導くことが今の高弥が二人のためにできることと考えるべきなのだ。
心を穏やかに、広く。優しさを持って接していけばきっとわかってくれる。
俤にすがらずとも、思い出は大事にあたためていればなくなったりしないのだから。
それなのに、平次がやたらと張りきるから、高弥もそれに引きずられて料理することになった。
鯵の塩焼き、茄子の味噌汁、蛸と胡瓜の酢の物、豆腐田楽、沢庵漬け。
それに続いて、晩酌のための酒を徳利いっぱい買い求め、肴に塩辛を買ってある。そればかりか、納豆としらすを混ぜ、揉んだ焼き海苔を散らした磯納豆や海胆など、肴に打ってつけの珍味も用意した。
食事よりもそちらに力が入っているように思うのは、ていの亭主がそれなりに飲兵衛であったのではないかという気がした。
浜はまだ戻らず、膳を並べるのはいつもと人数こそ同じであるが、正直なところ高弥はちっとも楽しくなかった。どうしてもいつもより無口になる。
そんな高弥の気持ちをわかってくれているのは、この場では志津だけであった。
「へぇ、こいつぁ美味ぇな。二人ともまだ若ぇのに大した腕だ」
彦佐は上機嫌で飯を食べた。その食べっぷりを、ていがニコニコといつも以上に晴れやかな笑顔で見守っている。平次も彦佐に褒められて心底嬉しそうだった。
「ありがとうございやすっ」
高弥はペコリと頭を下げただけである。彦佐はよく口が回るたちらしく、この場で一番よく喋っていた。小さい頃の兄との思い出もそこには含まれており、それを面白おかしく語るのだ。ていは珍しく声を立てて笑い、平次も細い目を輝かせていた。口を開かずとも、元助までもが彦佐の話に耳を傾けているのがわかる。
皆が楽しいのなら、そこに水を差したいとは思わない。ただ、どうしても呑み込めないものがある。志津もほとんど口を利かない。けれど、時折彦佐が志津にも話を振り、それに答える程度であった。
楽しい人ではある。明るく、華があり、人を惹きつける。
そうした人には二通りあって、一方は、それを自然と、息をするようにして行う人であり、もう一方はそう見えるように考えた言動を心がけて演じる人だ。どうにも、彦佐は後者であるような気がしてしまうのは、高弥が彦佐になんの思い入れもないせいだろうか。
むしろ、彦佐がいることでていたちの様子がおかしくなるのだから、それが厭わしく、彦佐をよく思えないだけなのかもしれない。想念ならばまだしも、己はそんなにもすぐに人の本質が見抜けるような目は持ち合わせていない若造だと、高弥はあえて考えることをやめた。
翌朝、いつもならば送り出すはずの泊り客はいない。いるのは彦佐だけだ。その彦座は早朝に旅立つ素振りを見せなかった。
そうこうしているうちに明け六つ半(午前七時)。
皆で朝餉に茶漬けを啜って、しばらくしてから起きてきた。平次が甲斐甲斐しく朝餉を用意し始めたので、高弥は今日ここを訪れてくれるだろう客のために買い出しにでようとした。
その前にようやく浜が戻ってきたのである。彦佐のおかげで皆、浜がまだ戻ってきていないことにきづいていなかった。
「すみません、寝坊しちまいました」
とのことである。しかし、顔には照れ笑いが浮かんでいるだけで、反省しているのかどうかはわからない。いつもならば怒られたはずが、皆の反応は淡白である。
大雑把な浜だが、皆の様子が少し違うことに気づいただろうか。きょとんと首を傾げている。
するとそこへ彦佐を連れたていがやってきた。並ぶ二人を帳場から元助が眩しいものでも見るかのようにして眺めた。
「あら、お浜」
「女将さん、遅れてあいすみません」
おっとりと頭を下げる浜に、ていは穏やかに言った。
「いいのよ、まだお客様もいないことだし。じゃあ、またよろしくね」
彦佐はヒュウ、と軽く口笛を鳴らした。
「おていさんは優しいねぇ。奉公人たちにとっちゃあ、ここは働きやすいところだな」
そこは『義姉さん』が適当だろうに。馴れ馴れしいと思うのは、高弥だけだっただろうか。ていはそれが嫌ではないようなので、気に障るのは高弥だけなのかもしれない。
「そんなことないよ。皆よく働いてくれているからね」
と、ていは謙遜する。それから、高弥に顔を向けた。
「高弥、彦佐さんに朝餉を用意してくれるかい」
「――台所で平次さんが拵えて待っておりやす」
本当に、他の客が来るかどうかということよりも彦佐のことばかり考えて待ちわびている。
答えた高弥の顔は不機嫌に見えただろうか。彦佐がフッとかすかに笑った。
「じゃあ、ありがたく頂くぜ」
彦佐が台所へ行くと、ていは元助に言った。
「元助、後で彦佐さんを連れてあの人のお墓参りに行ってくるよ」
「ああ、旦那さんもお喜びでしょう」
元助は本気かどうかよくわからないことを口にした。力も元助にしては妙に抜けていて、覇気がない。こんなのは初めてだ。
そうだね、と笑顔でうなずいてていも台所へ続いた。中から平次の嬉しそうな声がした。それを聞いていると、胸の奥がムカムカとするような気になったので、高弥は急いで外へ出た。岡持桶を握る手に力がこもる。
顔が似ている、血が繋がっている、それはそんなにも重要なことなのだろうか。
いつもなら余所者に厳しい元助でさえ、噛みつくことをしない。凪いだ海のように穏やかだ。穏やかというよりも腑抜けていると言いたいくらいだ。
高弥はていの亭主を直接知らないから目を曇らせたりしない。彦佐はどこか油断ならないと、高弥の目にはそう映るのだ。
それは、蚊帳の外に押しやられたような寂しさから僻んでいるせいだろうか。そうとも考えたけれど、そればかりではない。口で上手く言える気はしないのだが、落ち着かない気分になるのだ。
気のせいであってくれたらいい。このままあっさりと去ったのなら、高弥の勘違いだ。そうであってほしいと思う。
じりじりと照りつける日差しの中、高弥は小難しい顔をして歩いていたことだろう。危うく八百晋の前を通り過ぎるところであった。
「高弥坊ちゃんじゃあありませんか。どちらまで行かれるのですか」
丁寧な口調にハッと顔を上げて振り返った。すると、そこにはつぐみ屋の壮助がいた。
すらりと伸びた背筋。立ち姿がなんとも様になる。小銀杏がよく似合うが、壮助ならばどんな髷でもきっと似合うのだろう。
「壮助、なんで八百晋に――」
すると、壮助は柔和な笑みを浮かべた。高弥が娘であったらときめいたかもしれない。
「政吉さんが前に振り売りに来てくだすったのですよ。そうしたら、母も大層気に入りまして。まあ、いつも贔屓にしていた店の手前もありますので、すべてというわけには参りませんが、時折は掘り出し物がないかと見に来ることはございます」
つぐみ屋の料理人は壮助の母であるりょうだ。壮助の母だけあって美人である。
「そうかぁ。政吉さんが」
その政吉は天秤棒を担いであちこちしているのかもしれない。いなかった。
店先にいるのは、晋八と由宇である。由宇は新妻であり、慣れないお歯黒が初々しい。
「今まではおれとお由宇だけだったからな。あんまり手広くはできなかったんだが、政吉が得意先を増やしてくれてら」
晋八がにこやかに言った。政吉もきっと晋八に認められたくて気張っているのだろう。
つぐみ屋は高弥との繋がりがあったから、そんな伝手でも使わない手はない。実際、八百晋の野菜はいいものだから、政吉がつぐみ屋へ行ったのはいいことだと思う。
「近いうちに高弥坊ちゃんのお顔を見に伺おうと思っていたので、ここでお会いできて丁度良かったです」
高弥よりも五つほど年上であるのに、それでも壮助はいつも丁寧だ。上辺だけでこうはいかない。
だから高弥も、壮助と話すと落ち着く。苛立っていたことを忘れ、高弥も笑顔になった。
「八百晋の野菜は美味ぇから、おりょうさんも腕の振るい甲斐があるだろうさ」
しかし、高弥は笑顔を向けたというのに、壮助はふと目を瞬かせて口元から笑みを消した。
「坊ちゃん、あやめ屋さんまでの帰り道はご一緒致しましょう」
「つぐみ屋は真逆じゃねぇか。いいよ、壮助だって暇じゃねぇんだから」
「いいんですよ。さ、今日は何にされるのですか」
と、先ほど見せた表情が嘘のようににこやかになる。高弥は晋八から艶やかな茄子と胡瓜を受け取った。茄子はこっぽりと丸みのある寺島茄子だ。
「ありがとうございやす。じゃあ、また」
岡持桶を受け取って頭を下げると、そんな高弥の手から壮助が岡持桶をもぎ取った。
「私が持ちます」
「壮助の荷物もあるだろ」
「帰りはどうせここを通るのですから、それまで八百晋さんに預かっていてもらいます。お気遣いなく」
さ、参りましょう、と壮助は高弥を急かして歩き出した。もともと歩幅が違うのだから、高弥の方が急がなくては並べない。しかし、壮助はそこも考えて歩いてくれるのだった。人に合わせるのが上手い男なのだ。
そうして、些細なことにもよく気がつく。
壮助は柔らかな口調で高弥に問うのだった。
「それで、坊ちゃん。如何なさいましたか」
「え、と――」
やはりお見通しということらしい。口ごもった高弥を、それでも壮助は優しく待っていてくれる。あやめ屋まではそう遠くはないから、二人は自然とゆっくり歩む。高弥は彦佐のことを壮助に話した。
大事な人が亡くなったら、その人にそっくりな身内が出てきたら嬉しいものなのかと。
すると、壮助はほんの少し目を細め、それからつぶやいた。
「それは人によるというところでしょうか。きっと、高弥坊ちゃんでしたら、顔が似ている別人では嬉しくもないでしょう」
「そ、そうかな」
高弥が壮助を見上げると、壮助は微笑んでうなずいた。
「坊ちゃんはお心の強いお人ですから。悲しくてもちゃんとそのお人を見送れましょう。見てくれが似ていても、他の人が代わりにならないこともよくわかっておられます。ただ――」
と、壮助は言葉を切った。それから、言いにくそうに続ける。
「皆がそうではありません。亡くした人を頼りにしていて、もう戻らないことを認められない、そんな弱さも人にはあるのだと思います」
十年も経って、まだ認めないと、認められないというのか。そんなことがあるのだろうか。
高弥は腑に落ちなかった。
「あやめ屋のご主人は、文字通り大黒柱で、皆さんを支えていらしたわけです。女将さんはご自分で物事を決めたり、人を叱るのが苦手だと前にお窺いしましたが、そうした方でしたら余計に、幻だとしてもすがりつきたくなる弱さも持ち合わせておいでなのかもしれません」
それから、ていの亭主が好きだったという塩辛を、彦佐も好きなはずだとなんの疑いも差し挟まずに思い込む平次。もともと、平次は自分を見失っては拗ねていたようなところもある。
近頃はずっと高弥といて、高弥と調子を合わせて仕事をしてきたから、平次が生まれ変わったように思えていた。けれど、人はそう根本から変わることはない。じっくりと時をかけ、磨き上げてやっと変わるのだとするのなら、平次の中にはまだ弱い心が拭い去れていないのだ。
未だに、ていの亭主のような頼りがいのある相手が導いてくれることをどこかで期待している。そんなところがまだあるということか。
どうしたらいいのかと、高弥が頭を抱えそうになった時、壮助が小さく息をついてから言った。
「私も若造に過ぎませんから、そう偉そうなことを言えたものでもございませんが、ただ、そうしたお心を抱えておられることをいけないとは思いません。人の心は千差万別。ひとつの考え方が正しいというわけではございませんから。ただ弱い心には時折、道の途中で休むことも必要なのでしょう。女将さんには今がそのお休みの時なのですよ、きっと」
ほんの一時でも、亭主が戻ってきたかのような錯覚を起こすことで、ていの抱えていた悲しみが薄らぐのなら――
平次もそうだ。親代わりだった人なのだから、高弥が思う以上の喪失感であった。
今は寄り道の途中。骨休めの時。
そのうちに彦佐は別の人で、代わりにはなり得ないということもわかるだろう。今だけ、少しだけ夢を見させてやれと、壮助はやんわりと高弥に伝えてくれたのだ。
苛々としていた心の棘が抜け、ようやくほっと息がつけた気がした。
「ありがとう、壮助。すごく気が楽になった」
本当に、今日ここで壮助に会えてよかった。壮助は苦笑いと共にかぶりを振る。
「いえ、私がこんなことを言うのも、本来はおこがましいのですが」
「いいや、壮助が言うから素直に受け取れるんだ」
ありがとうございます、と言う壮助はやはり高弥から見ても好ましい。志津が高弥以外の誰かのところに嫁に行くとするなら、まったく知らない誰かよりは壮助の方が幾分納得もできるかと思えた。敗北感しかない。
高弥は岡持桶を壮助から受け取る。
「じゃ、ここまででいいよ。利兵衛たちにもよろしくな」
「わかりました。またいつでもおいでください」
颯爽ときびすを返す壮助を、茶屋の小女たちでさえも見つめてきゃあきゃあと騒いでいた。見てくれだけではなく、あのゆとりが高弥には足りていない。男としてはまだまだだと気を引き締め直し、高弥はあやめ屋へと戻るのだった。
ていや平次の心が定まらないのは仕方のないこと。あの二人はそうした弱さも持つのは以前からわかっている。それを己の考えに沿うように嵌めるのは、二人のためではなく己のためにすることかもしれない。そうではなく、二人が気づくように見守りながら導くことが今の高弥が二人のためにできることと考えるべきなのだ。
心を穏やかに、広く。優しさを持って接していけばきっとわかってくれる。
俤にすがらずとも、思い出は大事にあたためていればなくなったりしないのだから。
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しんの(C.Clarté)
歴史・時代
15世紀、狂王と淫妃の間に生まれた10番目の子が王位を継ぐとは誰も予想しなかった。兄王子の連続死で、不遇な王子は14歳で王太子となり、没落する王国を背負って死と血にまみれた運命をたどる。「恩人ジャンヌ・ダルクを見捨てた暗愚」と貶される一方で、「建国以来、戦乱の絶えなかった王国にはじめて平和と正義と秩序をもたらした名君」と評価されるフランス王シャルル七世の少年時代の物語。
歴史に残された記述と、筆者が受け継いだ記憶をもとに脚色したフィクションです。
【カクヨムコン7中間選考通過】【アルファポリス第7回歴史・時代小説大賞、読者投票4位】【講談社レジェンド賞最終選考作】
※表紙絵は離雨RIU(@re_hirame)様からいただいたファンアートを使わせていただいてます。
※重複投稿しています。
カクヨム:https://kakuyomu.jp/works/16816927859447599614
小説家になろう:https://ncode.syosetu.com/n9199ey/
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